87 権謀
「川口大介を殺したのは、我々ではない」
吉田重国の声が重く響いた。
「……信じろってか」
「事実だよ、玄野君。君も耳にしているだろう、犯人はその場で自決した」
横から眼鏡の男が淡々とした口調のまま続ける。
「我々も調べた。けど――その男には戸籍も記録もなかった。指紋は焼き潰され、照合すらできなかった。まるで最初から、この世に存在しなかったかのようだった」」
楓の表情がわずかに動く。
「……何?」
「もちろん、これは極秘の情報だ。川口大介の件以来、我々と極道社会との関係は急速に悪化した。
バブル崩壊後、関西では川口組が分裂し、今もなお内乱が続いている。
その混乱に乗じて、外国勢力も次々と流れ込んでいる……。
――だからこそ、君の協力が必要だ」
「回りくどいのは嫌いだ。――要するに、俺に何をさせたい?」
楓は淡々と切り捨てるように言った。
短い沈黙ののち、老人の声が部屋に落ちた。
低く、それでいて空気を切り裂くほど澄み切った声。
「……まずは、ロス・ティエンブロスの国内勢力を潰してもらう」
――!!
その名を聞いた瞬間、楓の瞳が大きく揺れた。
その名は、楓にとって――正しく言えば、黒楓会にとって、極めて重大な意味を持っていた。
ロス・ティエンブロス。
スペイン語で Los Tiempos と綴り、直訳すれば「時代」。裏社会では、その頭文字を取って LT と呼ばれている。
黒楓会がここまで勢力を拡大できた理由の一つ――。
それは、間違いなくこのLTと手を組んでいたからだ。
武器、原料、情報……裏で供給されてきたものの数々が、黒楓会を地方組織から一気に「四大勢力」へと押し上げた。
「……その件、俺じゃなく、三代目斎藤会の斎藤浩一に頼めばいい。きっと大喜びで動くだろう」
「探り合いはここまで、と言ったのは君の方だ、私も回りくどいのは嫌いでね。
教えてやっても構わん――斎藤浩一はすでにLTと対立している。奴らの拠点を暴くのは不可能だ。」
一瞬の沈黙が落ちる。
「それに……君を推薦する者がいる」
――推薦?
楓の瞳がわずかに細まる。
「さて、この場で決めてもらおう――我々の条件を飲み込むか、この世から消えるか」
吉田重国の声は、静かにして絶対だった。
楓は鋭い視線を返した。
黒楓会を立ち上げて以来、誰かに脅されることなど一度もなかった。だが今、この場では選択肢など存在しない。
――上等だ。利用したいなら利用すればいい。その代わり、俺もあんたらを徹底的に利用させてもらう。黒楓会が十分に成長したその時こそ――。
考え抜いた末に、楓は静かに口を開いた。
「……いいだろう、応じてやる。ただし、LTの件には時間が必要だ。今は先に片付けねばならぬことがある」
――そう、まずは三河会を仕留めなければならない。
「ふん、素直で結構だ。……あれを」
吉田が視線だけで合図を送ると、眼鏡の男がポケットに手を入れ、黒い革の小物を取り出して楓に差し出した。
楓は受け取り、表紙に刻まれた文字を読み上げる。
「……これは、"特務監理局証"?」
渡されたのは、掌にすっぽり収まる黒革張りの手帳だった。
表紙には金箔で「内閣直轄特務監理局」と刻まれ、その下には菊花紋を思わせながらも、微妙に意匠を変えた独自の紋章が鈍く光っている。
ページを開くと、左側には局章を象った銀色のプレート。
右側には楓の顔写真入りの身分証がすでに収められ、所属コードと認証番号が整然と刻まれていた。
その上から赤字で押された大きな「極秘」の判が、全体を覆うように重くのしかかっている。
――ただの身分証のはずなのに。そこから滲む異様な権威と、言葉では説明できない「力」を、楓は直感で悟った。
「……こんなものまで用意したとは」
楓は口元にわずかな嘲笑を浮かべた。
――さすがは"国家の連中"ってところか。何から何まで計算づくとはな。
眼鏡の男が、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべながら言う。
「これさえあれば、警察は君を逮捕できなくなる。それどころか――いざという時、君自身が警察へ直接要請する権限すら持てる」
「……!」
楓は一瞬だけ驚きに目を細め、そして小さく笑みを漏らした。
「――これは……いい」
――これほどの権限を目の前に突きつけられて、心の奥がざわつかぬはずがない。
今まで敵としてしか立ちはだからなかった警察が、自分の思うままに動かせるのなら――たとえLTを犠牲にしたとしても、お釣りが来るほどの価値がある。
もちろん、完全に警察を操れるわけではない。必ず何らかの制約はあるはずだ。
しかし、使い方次第では、これほど強力な"武器"は他にない。
「これが我々の誠意だよ、玄野君。……どうやら気に入ってもらえたようだね」
眼鏡の男は続いた。
「そう言えば、自己紹介が遅れたね。僕は理事の海老原一。今後、報告や局からの指示は、すべて僕を通して伝えることになる。よろしく頼むよ」
続いて海老原は、特務監理局の権限の行使条件や細かな規定について語り始めた。
説明は淡々と、だが終わりが見えないほど長く続く。
楓は椅子に身を預けたまま、黙って耳を傾けていた。
傷はまだ完全には癒えていなかった。二時間も経たぬうちに、額に滲む汗がその証だった。
その様子を見て取った海老原は、すぐに迷彩服の隊員を呼び、楓を医療室へ移させる。
それから三日間――。
楓は治療を受けながらも休む間を与えられず、海老原から特務監理局について、徹底的に叩き込まれた。知識という名の枷を、ひとつずつ頭へ刻まれるように。
四日目の朝。
楓は再び迷彩服の者たちに付き添われ、軍用車に乗せられた。
やがて辿り着いた先――。
軍用車が砂利道に停まり、迷彩服の男たちが無言で車椅子を降ろす。
冷たい風が吹き抜け、周囲は人気のない郊外の一角――ただの空き地に見えた。
「……楓さん!」
先にそこへ待っていた佐竹が、楓の姿を見つけるなり、咥えたばかりのタバコを地面に叩き落とし、駆け寄った。
足元にはすでにいくつもの吸い殻が散らばり、彼がどれだけ落ち着きを失って待ち続けていたかを物語っていた。
佐竹は車椅子の前にひざをつき、深々と頭を下げた。
「大変申し訳ありやせん……! 会長を守れなかった俺は、子分として失格でございやす……!」
「顔を上げろ。……ここは話をする場所じゃない」
背後で控えていた迷彩服の男は、無言で軽く一礼すると、再び車へ乗り込み、エンジン音を残してその場を去っていった。
楓は佐竹の手を借りて後部座席へ乗り込み、座り直すと窓の外に目をやった。
直後、佐竹も運転席へ滑り込み、重くドアを閉じる音が静寂を断ち切った。
「佐竹、あんたが無事で良かった」
「楓さん……」
普段はハードボイルドそのものの佐竹が、今にも涙をこぼしそうに顔を歪めていた。
「俺は大丈夫だ。それより……あの時、俺が気絶した後のことを教えろ」
佐竹は深く息を吸い込み、あの日の出来事を一つひとつ噛み締めるように語り始めた。
車が静かに進む。
「……思わぬ人物が事務所に来て、そいつが四日後、ここで俺を迎えに行くように言われた――そういうことか?」
楓は眉をひそめ、低く問いかけた。
「はっ。その人は、楓さんもご存じでさ」
楓は目を細め、ふっと笑った。
「……当ててみよう。――鈴木三四郎、違わないか?」
「なっ……! なぜそれを!?」
「やはりな」
楓は口を開き、特務監理局について語れる範囲だけを伝えた。
「……そういう機関がある」
佐竹は深く息を吐く。
「そんな得体の知れねぇ組織が……ちっ、やっぱり世の裏には暗部が実在しやがる」
「そうだ。それも警察すら動かせる。――実に都合がいい」
「しかし……推薦ってのは、まさか――」
佐竹は眉間に皺を寄せ、声を落とした。
「そのまさかだ。」
「やはり……あの木下龍の仕業か」
「ああ、簡単な推理だ。俺の知る人間の中で、最も地位が高く、そして俺を買っている者――あの人以外に考えられん。
それに、事務所に来たのが鈴木三四郎だったこと……それが何よりの証拠だ」
「しかし楓さん……油断は禁物でさ。俺ぁどうにも、政府の人間を信用できやせん。黒楓会が用済みになっちまえば、連中は容赦なく楓さんに牙を剥くかもしれやせん」
「そうだな、そうならぬよう、早めに手を打たねば……」
――俺は、第二の川口大介になるものか。
神奈川県のとある高層ビル。
重厚な扉を抜けた先の会議室には、二十名を超える男たちが集っていた。
紫煙と緊張が入り混じる空気の中、その中央に座る男の存在感が際立つ。
彫りの深い顔立ちに引き締まった輪郭。
長身――約一八〇センチの身体には無駄のない筋肉が張りつき、目立つ金髪のロン毛が揺れる。
湘北連合総番長――獅子倉英司。
彼の左右には、錚々たる幹部たちが並んでいた。
顧問・長谷川宗一郎。
総参謀長・猿飛隼人。
エース・熊谷隆志。
特攻隊隊長・亀和田豪。
そして、古参・丸川クロスと他の幹部の姿もある。
獅子倉は周囲をぐるりと見渡し、低く響く声を発した。
「諸君、こうして全員が顔を合わせるのは久しいな。早速本題に入ろう――近々、黒楓会が三河会に攻撃を仕掛けるという見込み。そしてもう一つ……黒楓会会長・玄野楓が警察に捕まったという噂について、だ」
会議室は重苦しい沈黙に包まれていた。
獅子倉の言葉に、険しい視線が交錯し、誰もが沈黙の中で思案を巡らせる。
「これから、我々はどう動くか――湘北連合の最大利益に繋がる一手を、ここで議論したい」
獅子倉が静かに言葉を締めくくった瞬間、全員の目が再び中央へ集まった。
「……黒楓会が三河会に手を出す? だったら好都合じゃねぇか」
亀和田がニヤリと笑い、太い体を椅子にふんぞり返らせた。
「奴ら同士で潰し合ってくれりゃ、こっちは漁夫の利ってやつだ」
「そう単純じゃねぇ。黒楓会が勝てば勢力は膨れ上がる。三河会が勝てば雅の野郎に千葉を握られる。どちらに転んでも、我々にとっては脅威だ」
熊谷が低い声で口を挟む。
幹部たちの間に再びざわめきが広がる。
そこで丸川クロスが、机に身を乗り出しながら提案した。
「いっそ……黒楓会が三河会に仕掛けるその瞬間を利用するのはどうでしょう。双方が削り合って弱った隙を――俺たち湘北連合が一気に制する」
「問題は……玄野楓が警察に捕まったという話だ。本当なら、黒楓会は一時的に首を失ったようなものだぞ。今は三河会と組んで、一気に黒楓会を潰すのが最優先だ」
長谷川が腕を組み、低く唸った。
「ありゃ狸だ。死にかけてようが、裏で必ず動いてやがる」
亀和田が吐き捨てるように言い放った。
「"千変"の情報が外れるはずがねぇ。しかも奴は瀕死の重傷を負ってるって話だ。
それに……最近の黒楓会の動き、どうにも腑に落ちねぇ。幹部の誰かに無理やり押さえ込まれてるとしか思えねぇんだ」
ざわめきの中、獅子倉は静かに一同を見渡し、いままで沈黙し続けた総参謀長・猿飛隼人に声をかける。
「猿、お前はどう思う」
その名を呼ばれた瞬間、場の空気が一変した。
総参謀長・猿飛隼人――湘北連合随一の頭脳。
彼が何を口にするのか、幹部たちは一斉に息を呑み、視線を集中させた。
猿飛はしばし沈黙した。
「……もし近日中に玄野楓が再び姿を現したら」
低い声が落ちる。
「その時点で、黒楓会はすでに政府と手を組んでいると見て間違いない」
――!!