86 謁見
「このままじゃ、会長がどこに連れていかれるか分からねぇ! 最悪――秘密処刑だってあり得る!」
「時間がねぇ! 今すぐ助けに行かなきゃ、ておくれになっちまう!」
「佐竹さん! ご判断を!」
佐竹も焦りを隠しきれず、額に汗が滲んでいた。
誰よりも、楓が捕らわれたことに悔しさを抱いているのは自分だ。
――あの日。
暗殺者が撤退した直後、黒楓会よりも先に警察が駆けつけた。
楓はすでに重傷を負って意識を失っており、一刻も早く治療を受けさせなければ命が危うい。
抱えて逃げ切るのは不可能で、もし治療が遅れれば確実に死んでしまう。
そのとき――。
「玄野楓は任せてください! 絶対に死なせません、必ず助けます!」
涙を滲ませた上野の声が、鋭く場に響いた。
佐竹は迷った。だが、この女の目には偽りがない。
それに――もし自分まで警察に捕まれば、黒楓会は完全に終わる。
そう判断した佐竹は、影の二人と共にやむを得ず撤退した。
――すべては自分のせいだ。
「佐竹さん!」
周囲の声が現実へと引き戻す。
佐竹の顔が険しくなる。
苦渋の末、歯を食いしばり、絞り出した言葉は――。
「……ダメだ」
「くそっ……このままじゃ会長が……!」
「佐竹さん!命なんざ惜しくねぇ!会長が戻らなきゃ、黒楓会は瓦解するッス!」
憤りと絶望が入り混じり、幹部たちは声を荒げる。
その喧騒を、佐竹の拳が机を叩く轟音が一瞬で押し潰した。
荒れ狂っていた声は途絶え、張り詰めた沈黙が広がる。
「……俺だって楓さんを助けてぇ。命を懸けろってんなら、迷いもせん。だがな――」
佐竹は歯を食いしばり、声を震わせながら続けた。
「ここで無闇に手を出しゃ、たとえ楓さんを奪い返したとしても……この国に黒楓会の居場所はなくなるんだ!」
その時――
「ホッホッホ……さすがは黒楓会本部長・佐竹重義様。落ち着いたご判断、まことに立派でございますな」
突如、ドアの外から朗らかな笑い声が響いた。
場の空気が一瞬にして凍りつく。
幹部たちは一斉に鋭い視線をドアへと突き刺した。
「……何者だ。ここは黒楓会の本部だぞ」
幹部の一人が低く唸る。
ギィ……と静かにドアが開き、姿を現したのは黒いスーツに身を包み、紳士風の帽子を被った老人だった。
その顔には柔らかな笑みが浮かび、眼差しには年輪を重ねた穏やかさが宿っている。
老人はゆっくりと帽子を取り、礼儀正しく深く一礼した。
「ご無沙汰しております、佐竹様」
佐竹の目が見開かれ、思わず立ち上がる。
「あ、あんたは……!」
楓を乗せた軍用トラックは、およそ二時間にわたって走り続けた。
やがて停車すると、迷彩服の男たちが車椅子ごと楓を荷台から降ろす。
冷たい外気に頬を打たれ、楓はかすむ視界をめぐらせた。
眼前にそびえているのは、三階建ての無骨なビル。その周囲には広大な敷地が広がり、鉄柵と監視塔が点々と立っている。
さらに遠方には、薄い影のように山の稜線が霞んで見えた。
高層ビルは一つとしてなく、周囲に民家や商業施設の影もない。
東京でも、千葉でもあり得ない。――ここは明らかに隔絶された場所だ。
眼鏡の男がトラックの助手席から降り立つ。
砂利を踏む音も穏やかで、彼はゆっくりと楓の前に歩み寄った。
「まだ本調子ではなかろうに、こんな長旅はさぞ疲れただろう」
口元には、妙に場違いなほど柔らかな笑みが浮かんでいる。
「……もう少しだけ、我慢してもらおうか」
言葉を終えると、男は視線を横に流すだけで合図を送った。
迷彩服の一人がすぐ車椅子を押しながら進む。
車椅子に座らされた楓は、金属の感触が残る両手を膝の上に置き、黙って前を見据えていた。
建物へ入ったのは、眼鏡の男と、車椅子を押す迷彩服の者、そして楓の三人だけ。
残りの部隊は無言のままトラックに戻り、間もなく敷地を離れていった。
エンジン音が遠ざかると、周囲は異様なほどの静寂に包まれる。
やがて一行は、ビルの奥にある一室の前で足を止めた。
眼鏡の男が軽くノックすると、中から落ち着いた声が返ってくる。
「……入れ」
男は静かにドアを開け、自ら先に部屋へ入った。
続いて迷彩服の男が車椅子を押し、楓を中へ運び込む。
彼は深く一礼すると、無言のまま背を向け、扉を閉ざして去っていった。
部屋は広くはなく、だが無駄のない調度で整えられていた。
中央に置かれた机と椅子。その机の上には、当時まだ珍しかったノートパソコンが一台鎮座している。
青白いモニターの光が、空気に淡い陰影を落としていた。
その椅子に腰かけていたのは――一人の老人。
痩せた体を黒いスーツで包み、両の手を杖の上に重ねている。
目元には深い皺が刻まれ、年齢を感じさせるはずなのに、その眼光は鋭く澄み切っていた。
その姿は弱々しさではなく、むしろ玉座に座する者のごとき威厳を放っており、老人はただそこに在るだけで場を制していた。
老人は、無言のまま楓を見据えた。
楓も怯むことなく、眼差しを真っ直ぐに返す。
歴戦の権威と、若き反逆者――対極のはずの二人は、その瞬間だけ、同じ高さで睨み合っていた。
部屋の空気は異様なほど重く、時の流れさえ凍りついたかのようだった。
その沈黙を最初に破ったのは、眼鏡の男だった。
「……局長」
恭しく呼びかける声。
だが、老人は一切反応せず、視線をまっすぐ楓へと向けた。
「良い目をしておる……若者よ」
老人の声は低く、しかし響き渡るような力を帯びていた。
楓は答えず、ただ真っ直ぐに老人を見据えた。
老人は視線を机に落とし、眼鏡の男が脇に積まれていた厚い資料を手に取り、楓へ差し出した。
楓は困惑を隠しつつも、無言でそれを受け取る。ページを繰った瞬間――
「……っ!」
楓は内心で衝撃を覚えた。だが、その色は決して表情に浮かばせない。
視線は淡々と資料を追い、わざと無感情にページをめくる。
資料には、玄野楓の全てが記されていた。
黒楓会が成立した経緯、古川組の壊滅、"アイス"の製造と流通、犬飼との決戦に至るまで――裏社会の出来事が、克明に、冷徹な文字で並んでいる。
そしてさらに、事故死とされてきた最初の殺し――手塚と井上の件まで。だがそこには赤字で「証拠不十分」と冷たく記されていた。
ページをめくる手が止まる。次には鬼塚、佐竹、矢崎、龍崎、佐藤、稲村……幹部たち一人ひとりの詳細な経歴や本名が、まるで戸籍をめくるかのように記されている。
……鬼塚大地、本名は……田中大地?
思わず口の端がわずかに動いた。
――意外に、地味な名だな。
老人の鋭い眼光が、資料を覗き込む楓の顔に突き刺さる。
「君が背負った罪は、本来ならば死を免れぬ」
重い言葉が部屋の空気をさらに沈ませた。
それを受けながらも、楓はわざと淡々とした態度を貫いていた。
「俺の知る限り、未成年に死刑はないはずだ」
「世間の法律ではそうだな」
吉田の声は低く、しかし一切の揺らぎを許さない。
「だが――ここは世間の法では裁かれぬ。
私の一声で、君は闇に沈む。名を残さず、存在すら消えるのだ」
一瞬の沈黙。
やがて資料を閉じ、顔を上げた。
低く落ち着いた声で告げる。
「――探り合いはここまでにしよう。
あんたが、ただ脅しをするためだけに俺をここへ呼んだわけじゃないはずだ。
そろそろ本題に入ろうか……"局長"どの」
「ほぅ……やはり胆の据わり方が違うな。なるほど、これが黒楓会の会長か」
言葉は淡々としていたが、わずかな称賛すら刃のように冷たい。
楓は微笑んで受け取った。それ以上は何も言わず、向こうの出方を待つ。
少し間を置き、老人は重々しく言葉を紡いだ。
「もし私が望めば、君の罪は帳消しとなる」
楓はわずかに目を細める。
「……できるかどうかは別として、見返りはただではないはずだ。それに、俺に断る選択肢は残されていないようだが?」
老人は初めて口元を緩め、わずかに笑みを浮かべた。
「察しが良い。
――ここは内閣直轄特務監理局。そして私が、その局長・吉田重国だ」
聞いたことのない名前だ。だが、楓の推理と一致している。
楓はここへ運ばれる途中、行き先について五つの可能性を思い描いていた。
そのうちの一つは、国家の暗部を担う者との対面である。
吉田は杖に重ねた手をわずかに動かし、低く響く声を落とした。
「……特務監理局は、表の法と警察では裁けぬ事案――国家の根幹を揺るがす"闇"を扱う機関だ」
その声音は淡々としているのに、一言ごとに空気を押し潰すような重みがあった。
「犯罪組織、裏社会の抗争、国外勢力との密約……表に出せぬ事案を、裏で処理するのが我々の役目。
必要とあれば、自衛隊を要請し、警察を凌駕する指揮を執る。
司法の手続きも議会の承認も不要――この国の最奥で裁きを下す」
楓は表情を崩さず、ただ視線だけで受け止めていた。
吉田の言葉はさらに続く。
「存在自体が秘匿されているゆえ、世間はもちろん、警察官ですら知らぬ者が大半だ。
だが一度関わった者は悟る。ここが――"法を越えた法"であると。
直言しよう――黒楓会会長・玄野楓よ。
今後、黒楓会は特務監理局の指示に従って動いてもらう」
「……」
――やはりそう来たか。いずれは来ると思っていたが、こうも早いとは。
楓の沈黙を見て、眼鏡の男が横から口を挟んだ。
「玄野君、これは悪い話ではない。我々に協力すれば――君も、君の黒楓会も、色々"合法的"になれるよ」
楓は小さく鼻で笑った。
「フッ……ハハハ。口先は立派だな。どうせ利用するだけ利用して、用済みになれば――ボロ雑巾のように捨てるつもりだろう。……あの川口大介のようにな」
眼鏡の奥で光が鋭く反射する。
「……よく知っているね、君」
メキシコのLT、イタリア・マフィア、ロシアのスコートファミリー、中国の洪門と並び称された、日本裏社会の真の頂点――関西を本拠とする川口組。
その初代組長・川口大介は、噂では戦後混迷を極めた関西極道社会を、政府の後ろ盾を受けて一気に統一したと伝えられている。
しかし栄光は長くは続かなかった。統一直後に逮捕され、獄中に送られる。
だが、鉄格子に閉ざされてもなお、川口の支配は終わらない。
外へ放たれるわずかな指示だけで反乱分子は鎮圧され、抗争すらも収束した。
獄中にありながらも外を動かし続けるその姿は、もはや一介の極道を超え、国家すら手玉に取る「裏社会の怪物」として語り継がれるようになった。
――しかし、その結末はあまりにも無惨だった。
服役を終え、出所した当日。
門の外で待ち構えていた子分たちの目前で、正体不明の襲撃者に銃撃され、川口大介は地に伏した。
「王」と呼ばれた男の最期は、皮肉にも鉄格子を出た直後に訪れたのである。
楓は、決してそんな末を望んではいなかった。