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85 収監

 何日が過ぎたのか、楓には分からない。

ただ、時折ぼんやりとした意識の端で、医者がベッドの隣に立ち、誰かと話している気配だけが伝わってくる。

 昏睡の闇の中、楓はこれまでの人生を振り返るように、想いの欠片を次々と思い出していた。

 孤独といじめに耐え、周囲はただ無関心。誰一人として、自分を助けようとも、共に立とうともしてくれなかった。

 無力な自分は暗闇の中で膝を抱え、孤独と絶望に全身を覆われていた。

 ――その時。

 「楓さん」

 暗闇を切り裂くように、一つの光が射した。佐竹の声だ。

 「会長、また派手にやらかしたか?」

 続いて、鬼塚の豪快な笑い声が響く。

 「……無茶をするな」

 龍崎の低い叱責が、温かさを含んで胸に響く。

 矢崎、佐藤……次々に灯る光のように仲間の声が浮かぶ。

 そして、不意に混じった柔らかな響き。

 「楓くん、また今度会おうね」

 それは、円香の声だった。

 光は次々と重なり、やがて無数の輝きとなって楓の暗闇を照らしていく。

 孤独と絶望を覆っていた闇が少しずつ退き、胸の奥に熱が広がった。

 「このまま死んだら――絶対に許しませんから!」

 ……あの時の声が甦る。

 普段は強気で冷ややかな眼差しの上野だったが、あの瞬間だけは違った。

 涙をこらえきれずに滲ませ、自分を見つめるその顔には、切なさと必死の願いが宿っていた。

 「あっ、動いた!」

 ――この声……上野? なぜ彼女の声が聞こえる。

 楓は重い瞼を押し上げた。

 視界に映るのは、前と変わらぬ真っ白な天井と部屋の風景。

 だが今回は、すぐ隣に人影があった。

 「……やっと目を覚ましましたか」

 そこにいたのは上野だった。

 その目には強い叱責と、どこか心配そうな色が浮かんでいる。

 「ほんとに……もう少しで命を落とすところだったんですよ」

 楓は口を開こうとしたが、結局声を発する力すらなく、そのまま黙っていた。

 上野は気づいたように、しばし複雑な目で彼を見つめ、やがて小さくため息をついた。

 「……命は救われたけれど、自由を失った今のあなたには、それが一番の重荷なのかもしれません」

 まるで独り言のように洩らすと、言葉を区切り、静かに続けた。

 「ひとつだけ……聞いてもいいですか。

どうして、あの時――私を救ったんです?」

 上野が知っていた玄野楓は、麻薬も、暗殺も、縄張り争いも――裏社会の穢れをすべて背負い、狡猾さと残忍さを象徴する存在。

 ――そんな男が、なぜ、身を挺してまで警察である自分を守ったのか。

 ほんの一瞬、上野の中で感情が揺らいだ。

 楓は答えることはできず、ただ真っ直ぐに上野の目を見つめていた。

 自分ですら分からない。なぜ意識朦朧の中で、あんな行動を取ったのか。

 確かに警察は嫌いだ。だが――憎むほどではない。

 多分、自分の中にまだ残っているのだ。

いじめられていたあの頃、誰も味方になってくれなかった日々。

 それでもどこかで、警察という「正義の味方」に、わずかな期待を抱いていた。

 その残滓が、あの瞬間に動かしたのかもしれない。

 しかし――。

 上野はその動揺を噛み殺すように瞼を閉じ、深く息を吐いた。

 再び目を開いたときには、いつもの凜とした警察官の眼差しが戻っていた。

 「……残念なお知らせがあります」

 わずかに硬い声で、上野は告げる。

 「玄野楓。あなたは銃刀法違反、麻薬所持、そして殺人の容疑で逮捕されています。取り調べは――傷が癒えてから行います」


 一週間が経ち、楓はようやく上体を起こせるようになった。

 まだ体力は戻らず、歩くことなど到底できないが、枕元に凭れながら、多少の会話なら交わせるまでになっていた。

 ふと視線を向けると、廊下の奥――ドアの隙間越しに、警察服を着た警備員の姿が見えた。交代で二十四時間立ち続け、決してその場を離れることはない。

 静養の日々は、異様なほど単調だった。顔を見せるのは医者と看護師、そして上野だけ。彼らですらドアを開ける前に厳しい検査を受けており、楓の病室はまるで要塞のように守られている。

 窓には鉄格子がはめ込まれ、防盗ガラスが重ねられていた。外の光は届くが、自由は断たれている。

 思考がようやく澄みはじめ、楓は「あれから」を順にたぐった。今ごろ黒楓会はきっと大混乱だ。

 ――脱出しなきゃ。だが、この状況で独りは無理だ。仲間を増やすとしたら誰だ……上野? いや、あり得ない。医者、看護師、それとも――。

 そんなことを巡らせている最中、ノックもなく、ドアがふっと開いた。

 入ってきたのは、警察官の制服を着た中年男と、白いシャツに眼鏡を掛けた、いかにも公務員然とした中年男だった。

 前者は威圧を帯びた厳つい面構え、後者は対照的に、どこか柔らかな笑みを浮かべている。

 二人は、起き上がっている楓のベッド脇まで真っ直ぐ歩み寄った。

 制服の中年警官が、隣の眼鏡の男へ簡潔に告げる。

 「この者が黒楓会会長――玄野楓だ」

 眼鏡の中年男は穏やかに微笑み、楓へと視線を向けた。

 「はじめまして、若い会長君。……具合はどうかな?」

 楓は二人を素早く見定める。

 ――この警察官も位は高いが、主導は眼鏡の男か。

 楓は手錠のかかった手首をわずかに持ち上げ、乾いた笑みを見せる。

 「この格好じゃ動きもままならんな。……俺は玄野楓だ。で、そっちは何者だ」

 「君は自分の状況を理解しているのか?」

 警察服の男が厳しく声を投げたが、隣の眼鏡の男が軽く手を上げて制した。

 「そう急くな。玄野君も、いきなりこんな場所で目を覚ませば、不安に思うのは当然でしょう」

 眼鏡の男は柔らかな笑みを浮かべ、楓へ向き直る。

 「こちらは上野安則、千葉県警の警視監を務めている。そして――私については、この後説明するよ」

 ――上野安則?! 小野議員が"要

注意"と言っていた新任の千葉県警警視監か。

 「上野警視監、玄野君はこのままこちらに引き渡してもらう。書類はすでにそちらへ送ってあるはずだ」

 警察服の上野が短く頷く。

 「分かった」

 上野が短く合図を送ると、廊下で待機していた警察官たちが静かに撤収していった。

 入れ替わるように、迷彩服を纏った男が二人入室する。

 そのうちの一人が無言で車椅子を押し込み、もう一人は片手の手錠を外すと、容赦なく楓の腕を掴んで引き起こした。

 まだ力の入らぬ身体は、抗うことすらできない。

 楓は無言のまま車椅子へ座らされ、今度は両手首を冷たい金属で繋がれた。

 動かぬ手錠の感触だけが、否応なく現実を刻んでいた。

 車椅子がギシギシと軋みながら押し出されていく。

 楓が横を過ぎる瞬間、上野安則はわずかに口を開き、重く小さな声を落とした。

 「……娘のことは、感謝している」

 ――やはり、上野夏実は上野安則の娘だった。

 あの真っ直ぐな性格も、幼い頃から警察官である父親の影響を受けて育った結果なのだろう。


 楓は車椅子ごと廊下へ押し出され、目に映ったのは、廊下の両脇に整然と並ぶ警察官と迷彩服の男たち。

 ただのヤクザの会長に過ぎない自分に、ここまでの厳重な警備――さすがに異様としか思えない。

 そのままエレベーターへと運ばれ、病院の裏庭に降ろされる。

 そこには軍用のトラックが二台待機していた。

 迷彩服の男たちは手際よく、車椅子のまま楓を荷台へと乗せ、固定する。

 一連の動作に無駄はなく、ただ任務をこなす機械のようだった。

 やがて低く重いエンジン音が唸り、トラックは街へと走り出した。

 

 車内、迷彩服の男たちは、誰一人として言葉を発さず、背筋を伸ばして真っ直ぐ座っている。

 その様子は、まるで国家級の犯罪者を護送しているかのようだった。

 車椅子に座った楓は、目を閉じて静かに頭を巡らせる。

 ――自分は確かに警察の手に落ちた。

 だが今こうして、警察ではなく、迷彩服の部隊へと引き渡されている。

 両者は明らかに別の組織に属している。

それでも、どちらも国の権力機構であることに変わりはない。

 これは単なる逮捕や取り調べでは済まない――。

 国家レベルの犯罪者となれば、表に晒されることはない。

 時に、司法の枠を超え、特殊な機関が直接手を下すこともある。

 その結末には、秘密裏の収監もあれば……存在ごと抹消される"処刑"すら考えられる。

 しかし――自分はそこまでの罪を犯してはいない。

 殺人も麻薬も確かにある。だが、それは極道同士の争いの中での話だ。

 黒楓会は一度として、民間人を狙ったことはない。あくまでも裏社会の論理の中で動いているにすぎない。

 ――となれば、考えられるのは五つの可能性。

 思考を整理した楓は、逆に冷静さを取り戻していた。

 真実は、この先で明らかになる。



 一方その頃、黒楓会の本部事務所。

 会議室には幹部たちが集まり、空気は張り詰め、煙草の煙が立ちこめていた。

 「だからよ、警察から会長を奪い返すのが一番先だろうが!」

 「……だが、下手を打てば全員檻の中だぞ」

 「じゃあどうしろってんだ!」

 「だから今、それを議論してるんだろうが!」

 怒号と罵声が飛び交い、机を叩く音が絶えない。

 誰もが焦りを隠せず、しかし一歩間違えば自分たちの組織そのものが瓦解しかねない――その危機感が、場を混乱へと煽っていた。

 「やめんか――!」

 その一声が雷鳴のように響き、荒れ狂っていた会議室が一瞬にして静まり返った。

 場を制したのは佐竹だった。

 楓がいない今、組織を束ねる最高管理者は本部長である佐竹に他ならない。

 重々しい眼差しが一同を射抜き、ざわめきはぴたりと止んだ。

 「まずは状況を整理しろ。……佐藤、報告を頼む」

 「はっ」

 佐藤が即座に立ち上がり、冷静に言葉を紡いだ。

 「現在、楓会長は警察病院に収監されております。治療を受けつつも、すでに意識を取り戻したとの情報があります。ただし……

 会長が収監されている十五階病室には、二十四時間態勢の厳重な警備が張られており、そのフロア全体が一般人立入禁止になっています」

 佐藤の報告を受け、さきほどまで声を荒げていた者たちも口を閉ざし、場には重苦しい沈黙が落ちた。

 そんな時、佐藤の携帯が短く震えた。

 彼は無言で応じ、わずかなやり取りを交わす。

 しかし、いつも冷静沈着な佐藤の顔に険しさが走った。

 受話器を閉じると、事務所に集まる全員へ向き直り、低い声で告げる。

 「……たった今、会長が"迷彩服を着た正体不明の部隊"に引き渡されました。矢崎副隊長が会長を乗せた車両を付けておりましたが、直後に警察に車を止められ、厳しい検問を受けております」

 ――?!

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