84 昏迷
楓と佐竹は慌てて店内に飛び込み、すぐにドアを閉ざした。
防音仕様のため、外の銃声は中には届かない。だが二人の険しい顔つきが、ただならぬ事態を物語っていた。
立ち尽くしていた上野が目を丸くし、声を荒げる。
「いったい何をしてるんですか……?まさか、また何か仕組んだんじゃないでしょうね?」
「危ねぇところでした。一歩遅れてりゃ、蜂の巣でしたぜ」
佐竹はそう言いながら、腰から拳銃をすっと抜き取った。
「妙だと思ったが……やはりか」
楓が低く呟く。二人は完全に上野を無視して、淡々と状況を確かめ合っていた。
その瞬間、近くの客が銃に気づき、甲高い悲鳴を上げる。
「ひ、ひいいッ!」
「ご、強盗か!? 警察を呼べ!」
店内がざわめきに包まれる中、上野の表情から休日の気安さが消え、鋭い光が宿った。
「……銃を下ろしなさい!」
上野は腰のホルスターから素早く拳銃を抜き、両手で構えた。
鋭い声が場を裂く。
「あなたたち、銃刀法違反で現行犯逮捕する!」
楓の顔が険しくなった。
よりによって、こんな時に――。
短く息を吐き、低く告げる。
「外には殺し屋がいる。巻き込まれたくなければ、一般人を避難させろ」
「……一体何の世迷い言を――」
上野は言いかけて、楓と佐竹の張り詰めた表情に息を呑んだ。
その目に芝居の色はない。背筋が粟立つ。
「……分かりました。今は市民の命を優先します。
ただし――後でちゃんと説明してもらいますからね」
「好きにしろ」
上野は驚きにざわめく客へ向き直り、ポケットから警察手帳を抜き放った。
「落ち着いてください、自分は警察です! 今から避難を誘導します!」
そんな時、客の中から二人の影が素早く抜け出し、楓の背後を取った。
反射的に楓の袖が揺れる。次の瞬間、掌には銀色の小型拳銃が現れ、
その銃口が、無言のまま二人の頭部を捉える。
「ま、待ってください!」
一人が慌てて両手を挙げ、必死に声を張る。
「自分たちは"影"です! 佐藤さんのご指示で、会長の周囲を護衛しておりました!」
楓は一瞬、二人の顔を見定めた。――確かに、見覚えのある顔だ。
小型拳銃を静かに収め、低く問いかける。
「……二人だけか?」
「はい。本来は四人体制ですが、この店は狭くて……それに佐竹さんもいらっしゃるので、今夜は自分たち二人だけです」
「そうか。――銃は?」
二人は即座に懐から拳銃を取り出し、軽く掲げて見せた。
「はい、持ってます」
楓はわずかに頷き、冷たく言い放った。
「なら、十分だ。」
「本部にはもう連絡済みでさ。すぐに援軍が駆けつけやす」
佐竹が携帯を閉じて報告した。
「分かった……そこまで持ちこたえれば、なんとかなる」
楓は振り返り、ソムリエである店主に声をかけた。
「マスター、この建物に他の扉はあるか?」
楓の低い声に呼ばれ、店主はようやく驚愕から我に返った。
「は、はい……裏に非常通路が……」
「そうか」
楓は影の二人へと視線を移す。
「あんたらは非常口を押さえろ。敵がそこから入ってくるかもしれん」
「はい!」
二人が裏手へと散っていったあと、上野は残った四人の客と店主を控え室へと誘導した。
その瞬間――。
分厚いはずの防音仕様のドアに、無数の穴が穿たれた。
乾いた破裂音が連続し、弾丸が店内に雪崩れ込む。
次の瞬間――ガシャァンッ!
棚に並んだ瓶が弾け飛び、色とりどりの液体が飛散する。グラスも次々に砕け散り、甲高い破砕音が重なった。
飾られていた絵画は木枠ごと裂け、壁の漆喰が粉のように崩れ落ちる。
硝煙と酒の匂いが入り混じり、静寂だったバーは一気に地獄の音に包まれた。
ドア脇の壁に身を潜めた佐竹は、無言のままマガジンを叩き込み、スライドを引いた。
楓はすでにカウンターの影に身体を沈め、わずかな隙間からドアを狙っている。
――射撃音が止む。
直後、ドンッと重い音を立ててドアが蹴り破られた。
最初に飛び込んできたのは、警備服に身を包み、機関銃を構えた男。
――パァーンッ!
乾いた銃声が室内に響く。楓の弾丸が男の額を撃ち抜き、警備服の影は前のめりに崩れ落ちた。
だが、ほんの一拍の間もなく――
ダダダダダッ!
背後から雪崩れ込んだ仲間たちの機関銃が一斉に火を噴いた。
銃弾がカウンターを叩き砕き、木片と酒瓶の破片が四散した。
琥珀色の液体が飛沫となって宙を舞い、火薬の匂いと混じり合う。
楓は頭を抱えて床に沈み込み、視線だけで状況を見極める。
バァーン! バァーン!
側面からの銃声が轟き、飛び込んできた二人のこめかみを正確に撃ち抜いた。
血飛沫が壁に散り、二つの影は糸が切れたように崩れ落ちる。
撃ったのは、壁際の影に潜んでいた佐竹だった。
いきなり三人が沈められ、敵は無闇に店へ踏み込まなくなった。
一瞬の静寂――。
その刹那、金属音がカランと響く。
何かが店内へ転がり込んできた。
「――楓さん!!」
佐竹の叫びが爆ぜるように響く。
次の瞬間、
ドガァァァンッ――!!
轟圧が空気を叩き、カウンター越しに楓の身体を床へ押しつける。
グラスと瓶が一斉に破裂し、木片と琥珀色の飛沫が宙に散った。
焦げた煙の匂いが、瞬く間に空気を満たしていった。
「楓さんッ!」
佐竹が壁際から飛び出し、崩れ落ちたカウンターや棚を必死にかき分ける。
木片とガラス片の中から楓の身体を掘り出し、肩を掴んで大声で叫んだ。
ピ――――。
世界が耳鳴りに支配される。楓の耳には佐竹の声は遠い残響にしか届かない。
視界も霞み、揺れる光と影が断片的に映るだけだった。
幸い中の幸い、分厚いカウンターと倒れ込んだ棚が盾となり、楓を死から守った。
しかし、致命傷こそ免れたものの、爆発の衝撃と倒れ込んだ棚の直撃で、全身は切り傷と打撲に覆われていた。
頬を伝う血の感触にさえ、楓の意識はかすかに反応するだけだった。
そんな時、警備服の二人が突入してきた。
一人が銃口を楓と佐竹へ向け、引き金に掛けた指がわずかに沈む――
煙の幕の向こうから、
バァンッ、バァンッ、バァンッ!
連続する発砲。男の拳銃が弾かれ、床に跳ねた。
射撃したのは、控え室から飛び出した上野警察官だ。
銃撃に驚いた敵は、即座に部屋を飛び出し、ドア前の階段の影へと身を潜める。
上野は警察用拳銃を両腕でしっかりと構え、楓と佐竹を庇うように前へ一歩踏み出した。
「彼を中の部屋に!」
叫びながら、ためらいなく引き金を絞り続ける。
反動で腕はわずかに跳ねるが、瞳に迷いはない。
「かたじけねぇ!」
佐竹は即座に楓の腕を肩へ担ぎ上げ、倒れかける身体をぐっと引き寄せる。
銃声と硝煙の渦を切り裂き、二人は奥へと駆け抜けた。
楓が引きずられながら、朦朧とした視界の端に、煙の中でわずかに揺れる人影が映った。
――警備服の男が、ひとり、まだ店内に残っている。
棚の残骸に身を潜め、拳銃を握りしめ、こっそりと上野に照準を合わせている。
――こいつに借りなんざ、作りたくない。
楓は心の奥でそう吐き捨て、残された力を絞った。
佐竹の肩を強く押し離し、その勢いで横合いから上野を突き倒す。
「あなた、なにを――っ!」
上野の叫びと同時に――。
パァーンッ!
乾いた銃声が響き、弾丸が楓の背を貫いた。
鮮血が噴き出し、楓の身体が力なく崩れ落ちる。
「楓さん!!」
怒号とともに、佐竹が振り返り、即座に引き金を引いた。
バァンッ!――警備服の男の頭が弾け飛び、壁へ叩きつけられる。
楓は上野の上に倒れ込む形になった。
その背から溢れる血が、彼女の両手を真っ赤に染めていく。
「そ、そんな……なぜ私を……?」
上野は震える声で呟きながら、必死に楓を抱きとめる。
「玄野楓、しっかりして……! すぐ救急が来るから……意識を保って……!」
外の警備服の男が再び突入を図る。
だが、その瞬間――奥の非常口側から"影"の二人が戻り、銃を構えて援護射撃を浴びせた。
「チッ……!」
敵は足を止めざるを得ない。
銃火の応酬が続き、店内は硝煙に包まれた。
しかし、互いに決定打を欠いたまま、時間だけが過ぎていく。
佐竹たちも突破できず、敵も店に踏み込めない――完全な膠着状態。
やがて外の車両から怒声が響いた。
「もう時間がねぇ、引き上げるぞ!」
号令と同時に、銃撃が止んだ。
警備服の男たちは素早く態勢を切り替え、店前に停めてあったワンボックスに一斉に乗り込む。
エンジン音が唸りを上げ、車は黒煙を吐いて夜の街へと消え去った。
残されたのは硝煙と弾痕、そして張りつめた静寂だけだった。
その様子を見て、影の一人がドアの前に立ち、銃を構えて警戒する。
佐竹ともう一人が急ぎ楓のもとへ駆け寄った。
「楓さん! 楓さんッ!」
佐竹の叫びが震える。
隣で上野は血に染まる背を押さえ、必死に応急処置を施していた。
「……しっかりしてください!まだ聞きたいことが山ほどあるんです。
このまま死んだら――絶対に許しませんから!」
楓の瞼がわずかに震えた。
返事をしたのか、それともただ息を吐いただけなのか――判然としない。
やがて、力が抜けるように目を閉じ、意識は暗闇に沈んでいった。
「楓さん!!」
「玄野楓!寝ちゃダメ……!」
楓が再び目を開けたとき、視界に映ったのは真っ白な天井だった。
身体は鉛のように重く、思うように動かない。意識は戻っているが、力は入らない。
傍らの手には点滴の針が刺さり、腕には心電図を測るパッドが貼りつけられ、鼻にも細い酸素チューブが差し込まれており、呼吸のたびに微かな空気の流れが伝わる。
機械のモニターが一定のリズムで音を鳴らし、静まり返った部屋にやけに響いていた。
そして――片手首には冷たい金属の感触。手錠がベッドの枠に掛けられていた。
首をわずかに傾け、周囲を見渡す。ベッドと小さなサイドテーブルだけ。椅子すらなく、無機質な空間が広がっている。
窓は一つ。だが鉄格子と厚いガラスに覆われ、防盗仕様とひと目で分かった。
――病院か。それとも監禁か。
楓はここがどこなのか、判断できなかった。
しかし、ひとつだけ確かなことがあった。
――自分をここへ運んだのは、決して仲間ではない。
仲間ならば、手錠など掛けはしない。
となれば、あの暗殺者の手か……あるいは、警察に捕らえられたか。
楓はそう考えた。だが、全身に力は入らず、体力は戻っていない。
瞼は再び重くなり、思考も霧に沈む。
結論を出すこともできぬまま、楓は再び深い眠りへと落ちていった。