83 遭遇
――この女、警察だと?!
楓も思わず振り向いた。
女性はポケットから何かを探している。
「学生さんですね、ありがとうございます。ですが、このような者であっても、暴力は――」
女性は警察手帳を取り出した。だが楓を見た瞬間、その手帳が手から滑り落ちた。
「あっ、あなた……?!」
「……」
楓は女性の顔を見て、眉をひそめた。
大きすぎない切れ長の目は長い睫毛に縁取られ、黒曜石のような艶を湛える。眉は細すぎず端正に整い、結い上げた髪に引かれて額が清らかにのぞく。鼻筋はすっと通り、唇は薄紅に艶めいて形がいい――笑えば華やぐだろうが、今は驚きに口を開いていた。
この女性を楓は知っていた。
初めて会ったのは、松本警部と若い男性警察官と共に黒楓会の事務所を訪れた時。その後も何度か顔を合わせている。
会うたびに「正義」「秩序」「市民のため」と口にしてくる、楓にとっては耳障りな女警察官――。
女性は目を細め、楓を射抜くように睨んだ。
「ここで何をしているんですか、黒楓会会長・玄野楓?」
楓は困ったように額を軽く叩いた。
――この女……俺が仕組んだ茶番だと思っていやがる。
「こ、こ、黒楓会……会長――?!」
チンピラの顎ががくりと落ち、言葉を失った。
黒楓会の会長はまだ学生――そんな話は噂で聞いたことがある。しかも、その名を告げたのは警察官。状況は悪夢としか思えなかった。
店の客たちが一斉にこちらへ視線を向ける。
チンピラはその場に膝をつき、震えながら頭を下げた。
「す、すみませんでした!! おれ……いや、僕は、黒楓会の名を勝手に使っていただけで……本当の組員じゃないんです!
まさか、まさか会長ご本人に見られるなんて……! どうか、どうか命だけは――!」
女性警察官は、嘲るような視線で楓とチンピラを見やった。まるで「一体どこまで白を切るつもりだ」と言っているかのように。
楓の顔色がさらに陰を帯びる。
もちろん、最初からこのチンピラが偽物であることは分かっていた。黒楓会は規律が厳しく、勝手に名を使ってこんな真似をすれば、内部の掟によって制裁を受け、場合によっては東京湾に沈められる。
しかし、名が高まれば、影も伸びる。こういう黒楓会を騙る輩は、必ず湧いてくる。
――迂闊だったな。あの女が余裕ありげにチンピラどもを無視した時点で、疑って然るべきだった。
「黒楓会の会長様が、こんなベタなナンパをするんですね。……しかし運が悪かったですね、相手が私で」
「違うと言ったら?」
「ふん。あなたなら周りの女性はいくらでも寄ってくるでしょう。……わざわざこんなところで一般人を巻き込む必要なんてないはずです」
楓は口を開きかけたが、結局言葉を飲み込んだ。
この場で何を言っても、どうせ誤解される。ならば沈黙こそ最善だ。
代わりに、鋭い視線をチンピラへ突き刺す。――すべてはこいつのせい。
この借りは、必ず返してもらう。
そんな時、二組の人影が喫茶店のドアを押し開けた。
ひと組は"影"――闇に潜み、楓を護衛していた者たちだ。異変を察し、すぐさま駆けつけた。
もうひと組は警察。その先頭に立っていたのは、かつて黒楓会の事務所に現れた、あの若い警察官だった。
警察官は店内を一瞥し、楓の姿を認めると、わずかに目を見開いた。
だがすぐに女性の前へ歩み出て、声を掛ける。
「大丈夫か、夏実?」
心配そうな声音が、張り詰めた空気に重なった。
影の者たちは静かに楓へ一礼した。
「会長、ご無事ですか」
「ああ」
楓は短く応じる。
女性警察官の簡単な説明を聞くと、若い警察官は一歩前に出て、楓を鋭く睨みつけた。
「玄野楓……会長だかなんだか知らねぇが、こんな子供じみた芝居に走るとはな。よほど鬱憤が溜まってるらしい。とりあえず"人前で暴力を振るった"ということで、署に戻って、じっくり話を聞かせてもらうぞ」
「……どいつもこいつも、人の話を聞かねぇのか……警察ってのは」
楓がぼそりと吐き捨てる。
若い警察官は眉をつり上げ、挑発するように言い返した。
「返事は"はい"か"イエス"だけだ。拒めば公務執行妨害で即逮捕だぞ」
若い警察官の言葉に反応するように、影の者たちが一歩前へ進み出る。無言の壁となり、楓を背に守るその姿に、場の空気がさらに張り詰めた。
「ちょっと石川さん。上からは、まだこの人に手を出せって命令は出てませんよ」
女性警察官が不満げに声を上げる。
「心配すんな。ただの事情聴取だ」
石川は鼻で笑い、楓へと向き直った。
「さあ、どうする。警察に逆らう気か?」
挑発的な視線。――ただ楓が気に食わない、その一心で、ここで恥をかかせようとしているのは明らかだった。
双方が対峙し、店内の空気が一層重くなった。
楓はチンピラを見下ろし、チンピラはすでに状況についていけず、半ば呆然としていた。
「おい。俺が暴力をふるったか?」
「えっ……?!」
チンピラは楓の目を見た瞬間、背筋に悪寒が走った。
その漆黒の瞳は、まるで凍りつくような冷たさを宿している。――答えを一つでも誤れば、自分の人生はそこで終わる。
「あ、あっ、ない、ないです! 全然!」
「じゃあ、こいつらの傷はなんだ?」
「ひっ……じ、自分で勝手に転んだだけで……!」
「……だってさ。ここに暴力なんざ存在しないよ、警察君?」
やはりそう来るか――石川は思わず視線をチンピラに投げた。
「ここに警察がいるんだ。事実を話せ。大丈夫だ、奴は何もできない」
しかしチンピラは怯えきった様子で、誰とも目を合わせようとしない。
「い、いえ……事実です。暴力なんて、ありませんでした」
石川の顔がみるみる青ざめていく。
――所詮、同じクズだ。
店内を見渡せば、客たちも次々に顔を伏せた。
無理もない。ヤクザは恐ろしい――たとえこの場で何もしなくても、後から報復されるかもしれないのだから。
更に、楓のどうでもよさげな態度に、石川は怒りで拳を握りしめた。
隣の女性警察官が、小さくささやく。
「……ここは一旦引きましょう」
石川は返事もせず、ただ楓を睨みつける。
本来ならこの場で恥をかかせるつもりだった。だが――逆に自分が追い詰められた格好になってしまった。
「……覚えてろ。いつか必ず逮捕してやる」
警察たちが去ったあと、影の者が楓に問いかけた。
「会長、この三人……どうなさいますか?」
楓はチンピラを見下ろし、冷ややかに言い放つ。
「連れて帰れ。黒楓会の名を汚した以上――掟どおりに処理しろ」
「はっ!」
勉強の気分をすっかり削がれた楓は、珍しく気分転換を望んだ。
携帯を取り出し、佐竹に連絡を入れる。――「どこか飲みに連れていけ」
程なくして、二人は栄町のとあるバーへ足を運んだ。
店内はカウンター席が中心で、奥には小さなテーブル席が数卓並ぶ程度。広さは控えめだが、その分落ち着いた雰囲気が漂っている。
カウンターの向こうには正装に身を包んだソムリエが立ち、グラスを磨きながら静かに客を迎えていた。
二人はカウンターの奥の席に並んで腰を下ろした。
「マスター、この方にはヴァージンカクテルを。それと、俺にはいつものを頼む」
佐竹の口ぶりは慣れたもので、どうやらこの店の常連らしい。
「かしこまりました」
正装のソムリエが静かに会釈すると、無駄のない動きでシェイカーを手に取った。氷を掴む仕草ひとつ取っても流れるようで、音も立てない。やがてカウンターの上に置かれたグラスへと注がれた液体は、鮮やかな琥珀色に柑橘のオレンジが差し込むような明るさを帯びていた。
グラスの縁から立ち上がる香りは、フルーツの甘さとミントの清涼感が混じり合い、軽やかな風を思わせる。
佐竹が楓のためにさりげなく頼んだヴァージンカクテル――見た目は華やかだが、アルコールを含まないその一杯は、楓にとってちょうどよい選択だった。
「鬼塚はあれから知り合いの道場に行って技を磨くとか言い出して、すっかり姿を消しやしたね」
「……あのリーゼントに負けたこと、よっぽど悔しかったんだろうな。まあ鬼塚にとっては、いい薬だ」
他にも、数組の客がいたが、外のざわめきと切り離されたバーの奥、氷の解ける音とグラスを揺らす小さな響きが、静かな間を埋めている。
そんな雑談の最中、不意に楓の背中に軽い衝撃が走った。
「――あっ、ごめんなさい!」
女性の声が慌てて謝る。
「大丈夫……って、その声……」
楓はゆっくりと振り向き、呆れを滲ませた目を向ける。
「……またあんたかよ。付けてきてんのか?」
「あなたっ!? そっちこそ、なんでこんなところに!?」
驚きと困惑を隠せない夏実の声が、バーの静けさに鋭く響いた。
「ああもう最悪……せっかくの休日なのに。なんで行く先々であなたに出くわすんですか!」
夏実が思わず声を荒げる。
楓は珍しく呆れ顔を見せた。
「そりゃこっちの台詞だ。喫茶店の次はバー……偶然にしては出来すぎだろ、"夏実"警察官」
「……下の名前で呼ばないでください。別に知り合いでもなんでもありません。私には"上野"というちゃんとした苗字があるんです!」
夏実――いや、上野が苛立ちを隠さず言い放つ。
――上野、か。
確か……前にあの松本が呼んでいたな、"上野警察官"と。
「どっちでもいい、せっかくのカクテルも……サツが横にいりゃ、まずくなる」
楓はグラスを傾けて、ため息交じりに言う。
「分かった分かりました、今日は大人しく帰ればいいでしょう。……帰れば」
楓はグラスを置き、淡々と席を立った。
「……いや、いい。興が冷めた。帰るぞ」
そう言い残し、真っ直ぐ店を出ていく。佐竹も黙ってその背を追った。
取り残された上野は、複雑な顔で立ち尽くす。
――今すぐ出れば、楓を追いかけたように見える。
かといって「帰る」と言った以上、このまま店に残るのも妙に居心地が悪い。
「ああもう!なんなんの――」
思わず声を漏らした上野は、すぐに口を噤んだ。
周囲の客がちらりと振り返る。彼女は慌てて目を逸らた。
――ほんとに、最悪。なんでどこに行っても、あの人と鉢合わせするのよ……。
ドアを出て、小さな階段を上がると、楓は店の前に立ち止まり、夜の街を見渡した。
佐竹も後に続き、煙草に火を点ける。
「まさか、あの女警察と出くわすとは……。このあと、別の場所に移りやすか?」
紫煙が夜気に溶ける。だが、しばらく待っても、楓からは何の返事もない。
「……楓さん?」
不審に思い顔を向けた瞬間――楓の手が鋭く佐竹の腕を掴んだ。
次の刹那、二人は背後へ倒れ込む。
直後、パパパパパパッ――!
耳を裂く連射音。さっきまで二人が立っていた場所の壁や柱に、無数の弾痕が刻まれた。
「なっ……!?!」
佐竹が目を見開く。
「店に戻れ!」
楓の低い声が飛ぶ。
「こ、これは――」
「ああ……間違いない。これは暗殺だ――この俺への」