82 勉強
鴨川から戻ってきた翌日。
机の上に、新聞が無造作に置かれていた。
楓が紙面を広げると、いくつもの見出しが目に飛び込んでくる。
『違法薬"アイス"急拡大――発祥は日本か』
『千葉県警新任・上野安則警視監、麻薬取締りに全力』
『新興暴力団か? 千葉県ヤクザの実態――記者が追った"24時間"』
記事の文面から、世間の視線が着実にこちらへ向きつつあるのが伝わってくる。無理もない。犬飼の仕業で、関東一円に大量の"アイス"が一気にばら撒かれたのだ。
楓の視線は、ある一つの名に留まった。
――上野安則。千葉県警の新任警視監。
以前、小野議員からも耳にしたことがある。金や権力では容易に動かぬ、厄介な存在だと。
楓は新聞を机に戻し、しばし無言のまま思案を続けた。
「佐藤」
「はっ」
「上野安則――この男についての情報を徹底的に洗え」
「承知しました」
「佐竹、鴨川衆の引っ越しの段取りは?」
「はっ、すでに手配済みです。新たな鴨川拠点の人員配置も含めて、二週間ほど掛かりやす」
「二週間か……」
楓は短く思案した。
その間に茨城遠征の準備を済ませなければならない。
「分かった。それと――例の件、急ぎ進めておけ。もう猶予はない」
「はっ!」
必要な指示をすべて終えると、楓は椅子から静かに立ち上がった。
先日の騒ぎの後始末に追われていたが、ようやく一区切りがついた。――いま会っておくべき人物がいる。
矢崎が車を回し、楓を乗せて八街市のとある屋敷へ向かう。
門をくぐると、庭先に澄んだ音が響いていた。
パシン、バシン――パンッ。
縁側沿いに庭を抜け、屋敷の裏手へ回る。そこには一棟の道場。
開け放たれた戸口の先で、竹刀の音が鋭く響いていた。
「もう一度じゃ、龍崎」
「……はいッ!」
パシンッ、パシンッ。
二人の竹刀が交錯するたび、乾いた音が道場に反響する。
九条は微動だにせず、余裕をもって受け流す。対する龍崎は額に汗を浮かべ、必死に食らいついている。
「腕に力を入れすぎるな。肘を緩めろ」
九条の竹刀が鋭く弾き、龍崎はよろめきながらも踏みとどまった。
すぐに構えを戻し、中段から竹刀を振り下ろす。
「……てりゃッ!」
パンッ。
九条は受け止めながら低く告げる。
「重心は安定してきたのう。――じゃが、まだ甘い」
言葉と同時に、容赦なく一撃が叩き込まれる。
パァンッと大きな音が道場を震わせ、龍崎の腕が痺れる。
「考えるでない。感じよ。相手の呼吸を読むのじゃ」
龍崎は歯を食いしばり、必死に竹刀を構え直す。
その姿を、九条は厳しい目で見据えつつ――内心では確かな成長を喜んでいる。
楓と矢崎は道場の端に腰を下ろし、しばらく二人の稽古を見守っていた。
時が流れ、ひと区切りついたところで、龍崎は竹刀を納め、深く頭を下げた。
「……ご指導、ありがとうございました」
「ふむ。少々、休憩としようか」
九条も軽く礼を返し、二人して楓たちの方へ視線を向ける。
「お待たせしたのう、玄野楓会長」
「……お疲れさまです」
龍崎は改めて一礼した。
楓が軽く頷き、九条に声を掛ける。
「怪我はもう治ったのか」
「うぬ……礼を言う。もう支障はない」
九条は手を払うように言った。
「そろそろ喉も渇いたであろう。茶を淹れようぞ」
「……お手伝いします」
龍崎も自然と立ち上がり、九条に付き従う。
程なくして、九条と龍崎が湯気の立つ湯呑を載せた盆を持って帰ってきた。
畳の隅には小さな卓が置かれ、茶道具が整えられている。
庭から入り込む風がわずかに香りを運び、竹の葉擦れの音が微かに耳に届いた。
楓は湯呑を口に運び、ひと口啜る。鼻に柔らかな香りが抜けた。
「……いい香りだ」
九条は珍しく誇らしげに微笑む。
「宇治の玉露じゃ。豊かな旨味と甘みが身上よ。客人に振る舞うには申し分ない」
楓はもう一口、喉を通る余韻を確かめた。
しばらく落ち着いた時間が流れ、やがて九条が低く口を開いた。
「……ワシが拘束もされず、自宅におることは、すでに三河会に知られておる」
「それは心配無用だ。白川が手を打っている」
「ほう……」
九条の細められた眼が、畳の上で楓を刺すように探る。
「で、お主は、どう動くつもりじゃ?」
「それを伝えに来た。――九条師範代、あと一週間。時が来たら、そのまま白川のもとへ」
「……何?」
九条の眉間に皺が寄り、疑念の影が濃くなる。
室内に小さな沈黙が落ちる。湯気だけが、ふっと揺れる。
やがて、楓は静かに湯呑を置いた。
そして、白川と交わした段取りと、迫る茨城遠征の骨子だけを手短に告げる。
「……っ!」
龍崎が思わず息を呑み、矢崎は驚愕に眉を跳ね上げた。
「まさか……そこまで」
九条は沈黙ののち、目を閉じて、低く呟いた。
「――とうとう、この時が来たか」
帰り際、楓はふと振り返り、九条に真顔で一礼した。
「九条師範代、どうか白川のことを、よろしくお願いします」
楓と矢崎が道場を去ったあと、静寂が戻った。
九条はしばし両腕を組み、縁側から夕空を仰ぐ。
その瞳には、長き年月の重みと、決断の影が宿っていた。
やがて龍崎へと向き直る。
「……龍崎」
「……はい」
「お主に――天道理心流の奥義を伝授しよう」
龍崎の胸が大きく震える。息が詰まり、思わず拳を握りしめる。
「……はい!」
八街市から戻ると、楓は珍しく事務所へは足を向けず、そのまま解散を告げた。
今日は楓にとって、珍しい静穏の日である。
会長を務める以上、休日は概念としてすでに失われている。決裁印と署名が毎日、雪のように積もる。どれも楓の目を通さねば動かない。同時に、ヤクザ間の揉め事にも対応しなければならない。
ゆえに、今日のように"自分だけの時間"が確保できる日は少ない。
夕刻、楓は千葉市内の一軒の喫茶店に腰を下ろし、教科書をめくっていた。
関東最強の極道――四大勢力、その中でも上位の黒楓会の会長という立場を背負いながらも、その実、高校一年生の少年である。机に向かい黙々と勉学に励む姿は、周囲の目にはただの優等生にしか見えない。
極道になったからといって、勉強を捨てる理由にはならない。むしろ、極道だからこそ学ぶ必要がある。
LTのような外国勢力との交渉、戦略眼を養うこと、組織を回すための数学・会計・統計。どれも欠かせない。これからは裏にとどまらず、表の商売への進出も視野に入れる。だから、学びを捨てる理由はない。
当然、楓が学ぶ内容は、とっくに高校生の範疇を超えている。
もともと学年トップだった頭脳に、現在はファイナンス、統計、ロジスティクス、商取引法まで射程に入れている。紙の上で失敗する回数が、現場での失敗を減らすと楓は知っている。
しばらく机に向かい続け、楓は完全に勉強の世界に没頭していた。
そんなとき、耳に騒がしい声が飛び込んできた。
「ちょっと付き合えよ、な?」
「ヒューッ、兄貴サイコー!」
「てめぇ、兄貴が気に入ってんだぞ。返事しろよ!」
三人のチンピラが、一人の女性に絡んでいた。
一人は髪を派手に染め、残りの二人は取り巻きのように後ろに控えている。
楓の席からは女性の顔までは見えない。ただ、まとめたポニーテールと引き締まった体つきが目に入る。
彼女はチンピラたちを完全に無視し、静かにコーヒーを口へ運んでいた。
楓は一瞥しただけで、すぐに視線を戻した。
自分は世間で言う"良い人"ではない。むしろ極悪の部類に入る。
もし、この場に斎藤浩一――あの"平成の任侠"がいたなら、きっと迷わず首を突っ込んだだろう。そんなことを思いながら、楓は席を立ち、別の場所で勉強しようとした。
「おい、気をつけろ。うちの兄貴は黒楓会の人間だぞ。」
……ん?
楓は思わず目を細めた。
他の客や店員たちは、本来なら助けに入ろうとしたのだろう。だが「黒楓会」の名が出た途端、皆いっせいに視線をそらす。
チンピラどもはその反応に満足げな顔を浮かべる。
しかし、女性だけは相変わらず。まるで別世界の人間のように、席に座ったまま動じる気配を見せない。
「こらぁ、聞いてんのか!」
一人がテーブルの脚を乱暴に蹴りつけた。
楓は無言のまま、チンピラたちへと歩み寄った。
一人が楓に気づいたが、そのあまりにも学生然とした姿に、興味すら示さず、すぐに視線を女性へ戻す。
「なあ、兄貴と遊んだら、次は俺らとも――プハッ!」
ガツン――パリン!
チンピラの後頭部にグラスが叩きつけられた。
男はよろめき、思わず頭を押さえる。掌に触れたのは、生ぬるい液体だった。遅れてしゃがみ込み、叫び声を上げる。
「あああああっ、いってぇええええっ!」
楓は静かに、手に残った割れたグラスを捨て、呻くチンピラを見下ろした。
「てめぇ……! 何しやがる!?」
もう一人のチンピラが、勢いよく拳を振り抜いた。
楓はわずかに頭を傾けるだけでかわす。拳は耳をかすめ、空を切った。
すぐさま楓の拳が下から突き上がる。狙いは顎の斜め横。
――佐竹に叩き込まれた格闘術の一つだ。ここに直撃すれば、大抵の人間は体勢を崩す。
チンピラも例外ではなかった。顎を撃たれた瞬間、目を見開き、そのままよろめきながら膝を折った。
楓は間髪入れず、膝を突き上げた。
「ガッ! プハッ!」
鈍い衝撃と同時に、チンピラの口から息が漏れる。次の瞬間、男は仰向けに床へ倒れ込み、鼻から血が噴き出した。
二人は瞬く間に沈んだ。
楓は鬼塚や龍崎のように腕力に優れるわけではない。だが、佐竹に鍛え込まれた技術の前では、街のチンピラ四、五人など、もはや取るに足らなかった。
カウンターの中で店長が慌てて電話を取り、通報の声が漏れた。
最後の一人は、震えながら眼前の学生風の少年を見つめた。
「な、なんだよ……お前」
楓が静かに口を開く。
「もう一度言ってみろ。あんたが黒楓会の者か?」
漆黒の瞳から放たれるのは、冷たい殺意だった。
その圧に呑まれ、男は思わず一歩後ずさる。
なぜか男は、自分が生か死かの答えを迫られているような気分だった。
ひと言でも間違えれば殺される――そう直感する。
「お、お前には関係――」
そのとき、女性がついに口を開いた。
「そこまで。援護には感謝します。ですが、これ以上の暴力行為は許容できません。現行犯で逮捕します。」