79 鴨川
「葉山会ってのは、武藤組と同じく桐原一家と深ぇ繋がりを持つ東京の地元勢力でさ。本部は新宿三丁目、総勢二十二名。数は多くねぇですが、会長を含め全員が筋金入りの武闘派。どいつもこいつも喧嘩上等の連中でさ
……そんな連中に、鴨川拠点どころか、うちの中核拠点である船場拠点ですら勝てるはずがねぇ」
高速道路を走る車内、助手席の佐竹が低い声で説明する。
「それに、鴨川はただの仮設拠点でさ。特に重要なシマでもありやせんし、そもそも地元に他勢力がいるわけでもありやせん。
柏たちも、ただの地元のチンピラの寄せ集め……今まで大した問題も起こさず、黒楓会の看板を掲げて地元でみかじめ料を取っては、その一部を本部に納めてきただけでさ」
楓は話を聞くほどに、ますます柏弘大という人物への興味を深めていった。
鴨川市は房総半島の南東端、太平洋に面した臨海の町である。
観光地として名を馳せる一方、漁港や古い町並みが並び、都会の喧騒から遠く離れたその土地には、極道の抗争とは無縁に思える静けさが漂っていた。
黒楓会の鴨川拠点は、駅前にひっそり建つ小さな平屋の一室にすぎなかった。
いま、その臨海の風景に溶け込む拠点の中では、数人の若い衆がソファに腰をかけ、煙草の煙をくゆらせていた。
落ち着きなく足を揺らしたり、互いに小声で囁き合ったり――その様子は、どこか考えを巡らせているようで、しかし不安を隠しきれていなかった。
「やべぇっスよ、弘大さん……マジでやべぇ」
一人のアイパー頭の青年が、田舎ヤンキーらしい訛りで怯えたように呟いた。
「まさか黒楓会の会長が、いきなりこんな田舎まで来るなんて……。あいつぁ残忍で有名だろ?マジやべぇっス」
弘大と呼ばれた茶髪の青年は、椅子の上にしゃがみ込み、困惑した表情で答えた。
「……やっぱ先日、ちっとやり過ぎたかもな。うっかり敵の大将をブッ倒しちまったんだからよ」
「きっとあれッスよ……敵を倒したあと、なんで他の拠点を助けに行かなかったのか、その罪を問いに来たんじゃねぇッスか」
「しゃーねぇだろ。あの日は二日酔いで頭ガンガンでよ……長距離なんざ無理に決まってんだ」
「そりゃそうっスけど、その後また飲みに行ってたじゃねぇスか」
「そ、そりゃ……あれだよ、あれ……。……クソ、何言い訳しても、あのお方にはぜってぇバレるな」
柏は焦燥を隠すように、その茶髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
柏弘大とその仲間たちは、出世や野心など持ち合わせてはいなかった。仲間とつるみ、毎日をダラダラと過ごせればそれでいい。
黒楓会に入ったのも、いずれ千葉全域が黒楓会の縄張りになると踏み、先んじて恭順したに過ぎない。黒楓会の名を借り、鴨川の片隅で田舎大将を気取れれば十分――柏はそう考える男だった。
鴨川は千葉の奥に位置する臨海の町。よほどのことがない限り、敵がわざわざここまで攻め込むことなどあり得ない。
……そう思われていた。
しかし、犬飼はそれを実際にやってのけた。
「と、とにかく、落ち着け、先ず一杯飲みに行ったらどうだ?」
「おめぇが落ち着けよ!」
そんな時、ドアの外でタイヤの砂利を踏む音がキィッと止まった。
続いて、車のドアが二度、三度と開閉する音。
部屋の空気が固まる。柏は椅子から腰を上げきれず、仲間たちは思わず煙草を揉み消した。
ノック――ではなく、無造作にノブが回る。
扉がわずかに開き、廊下の薄明かりが線を引いた。
続いて、三つの足音。
扉が開き、三人が入ってくる。
先頭の少年は黒いシャツに、楓色のネクタイ。真っ黒な瞳は底が見えず、見返すたびに内側を覗かれているような錯覚を与える。
後ろには渋い中年と若い男が一人。中年の方に、柏は覚えがあった――黒楓会に入った折にも対面している。佐竹重義、黒楓会本部長。
飾り気はないのに、三人が踏み入った瞬間、部屋の空気がひとつ重く沈んだ。
言うまでもなく、立ち位置が物語っていた。中央の少年こそ、黒楓会会長・玄野楓だ。
柏たちは思わず背筋を伸ばし、揃って深く頭を下げた。
――若い……若すぎる。十八……いや、もっと下かもしれねぇ。
噂では聞いていたが、まさか黒楓会の会長が本当に高校生だったとは……。
「お、お目にかかれて光栄っス――いえ、光栄です。鴨川拠点の若中、柏弘大と申します。わざわざこちらまでお運びいただいて……さ、さぁ、どうぞこちらへお掛けください!」
柏は張り切って隣の椅子を引いた――が、座面にはさっき自分がしゃがんだ靴跡がくっきり。
テーブルの上にも、食いかけの弁当箱、山になった灰皿、グラビア雑誌、空き瓶が雑然と残っている。
柏の表情が固まった。次の瞬間、引いた椅子をそっと戻し、顔だけ笑って声だけ大きい。
「ちょ、ちょい待ってください! 片しますんで! おい、お前ら動け動け!」
部下たちが慌てて弁当箱をかき集め、灰皿を隅へ、雑誌は背中に隠し、空き瓶は転がして――カラン、と一本が床で鳴った。
後ろで矢崎が短く咳払いし、佐竹は無言のまま視線だけで場を締める。
楓は座らず、散らかった痕跡と動きだけを静かに眺めていた。
鴨川拠点の面々が慌てて片づけ、十分ほどしてようやく部屋は人を迎えられる体裁になった。
今度、楓がためらいなく椅子に腰を下ろす。
「話はいろいろ聞いているが、こうして会うのは初めてだ。俺が玄野楓。――鴨川拠点での働き、ご苦労だったな」
「き、恐縮です……もったいないお言葉です」
楓は薄く微笑み、柏と背後の面々へゆっくりと視線を巡らせる。
「――俺が、なぜここに来たか。分かるな?」
その問いに、柏たちは揃って腰を折り、九十度の礼。
「申し訳ありませんでした!」
――やっぱ、その件か。
柏は顔を上げ、悔いを噛みしめるように言葉を継いだ。
「本部や他の拠点への援護に出られなかった件は、弁解の余地がありません。
――処分は覚悟してます。ただ……こいつらは関係ねぇッス。責任は、全部オレ一人にあります」
その様子を見た楓は、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。
だが次の瞬間、堪えきれぬように笑い声を漏らす。
背後に控えていた佐竹と矢崎も、思わず苦笑を浮かべた。
どうやらこの拠点の者たちは、楓が自分たちを処罰しに来たと、勘違いしているらしい。
楓たちの笑い声を聞き、柏はおそるおそる顔を上げ、困惑の色を浮かべたまま三人を見つめる。
「顔を上げろ。……一体、どんな愉快な誤解をしているんだ?」
楓は微笑を浮かべながら告げた。
「俺はただ単に――十人で三十人を退けた、優秀な部下に会いに来ただけだ」
柏たちは互いに顔を見合わせ、ますます混乱していた。
――えっ……処分じゃなくて?
噂に聞く黒楓会会長・玄野楓といえば、狡猾で残忍な冷血漢――そう信じて疑わなかった。
だが目の前にいる少年は、微笑みすら浮かべ、冗談めいた調子で言葉を投げかけてくる。
楓が単刀直入に促した。
「先日の状況、詳しく教えてくれないか?」
柏は一瞬だけ逡巡したが、すぐに背筋を正して答えた。
「はい!」
――黒楓会対討伐連盟の夜。
事前に佐竹からは、各拠点に情報と指示が回っていた。
――今夜、敵が来る。状況次第では、拠点を捨てても構わん。
「こんな田舎拠点をわざわざ攻めに来るやつなんていねぇっしょ」
柏の幼馴染であり部下でもある、アイパー頭の清水がタバコをふかしながら気怠そうに言った。
「そうとも限らねぇよ。……だが、本部長様も言ってたじゃねぇか。拠点を捨てていいって」
柏は両足をテーブルに乗せ、椅子にもたれかかっている。
「じゃあ……やるッスか?」
「黒楓会討伐連盟、か……。……よーし、飲みに行こうぜ」
「なんでそうなんだよ! まあ、俺はいいけどさ」
「喧嘩したいやつは勝手にやってろ。俺は毎日酒飲んで、気楽にチンピラやってられりゃ十分だ」
「弘大さん、やっぱそういう性格ッスね」
柏と部下たちは拠点を出て、駅前の東通りへと繰り出した。
そこは鴨川でいちばん人通りの多い通りだ。真っすぐ進めば、裏道には場末の風俗店や、田舎っぽいキャバクラが肩を並べている。道路沿いには、いまだ昭和の香りを残す居酒屋がいくつも残っていた。
黒楓会の看板を背負い、この町の"用心棒"を務めている以上、店の者とは顔なじみだ。どこへ入っても、軽い挨拶と気安い冗談が飛んでくる。
柏たちはそのうちの一軒へと足を踏み入れ、適当に腰を下ろすと、迷うことなく酒を頼んだ。
一方その頃、黒楓会討伐連盟の一員――葉山会と桐原一家の残党たちは、鴨川拠点へと向かっていた。
「葉山会長、そろそろ到着します」
若衆の声に、葉山は鼻で笑った。
「ふん……こんなど田舎の拠点を叩く必要があるのか? 犬飼の小僧め、俺を誰だと思っている」
作戦会議のあとから、葉山の機嫌は悪化する一方だった。
東京・新宿でも指折り数えられる武闘派集団――その長が、自ら鴨川などという僻地に回されるとは。
葉山は最低でも黒楓会の中核拠点を任されると踏んでいたのだ。
「向こうは何人だ?」
「情報では、若中を含め十一名とのことです」
「着いたら――全員ぶっ殺せ」
「ですが犬飼さんの指示は牽制で……」
「ええい、俺の言うことが聞けんのか!」
犬飼の名を口にした若衆を、葉山は鋭い眼光で射抜いた。
「牽制だと? 馬鹿馬鹿しい……葉山会を舐めるにも程があるわ!」
車列が駅前に滑り込み、エンジン音が止むと同時に、葉山会と桐原一家の残党が一斉に飛び出した。
「突っ込め!」
号令とともに、黒楓会の鴨川拠点へとなだれ込む。
ガンッ――!
ドアが蹴破られ、勢いよく開いた。
だが、眼前に広がっていたのは、荒れたままの部屋だけ。
誰一人としていない。散乱した灰皿や空の酒瓶が転がり、人気の気配は完全に消えていた。
葉山会の者たちは顔を見合わせ、困惑の色を浮かべる。
そんな空気の中、葉山は一歩踏み込み、鼻で嗤った。
「……逃げやがったか。腰抜けどもが」
低く吐き捨てると、鋭い視線を周囲に走らせる。
「探せ。この近くに潜んでるはずだ」
「「はっ!」」
若衆たちは即座に散開し、駅前の路地裏へ駆けていった。
とある居酒屋で、程よく酒が回り始めた頃、店主のおじさんがハイボールを運んできた。
「なぁ、柏さん……今夜、外が妙に騒がしいんだが、大丈夫か?」
皿を置く手がわずかに震えている。普段なら冗談混じりで話しかけてくる気さくな男だが、今はどこか落ち着かない。
柏は手にした酒を一気にあおった。
「かぁ――……たまんねぇ。大丈夫だ、オヤジ。もう少し飲ませてくれ」
「そうだそうだ、酒の席に水を差すな」
清水がニヤニヤしながら相槌を打つ。
「しかし……」
店主が心配そうに声を漏らした時、柏は空になったグラスを押し出し、再びハイボールを手に取った。
「大丈夫、大丈夫。まだ時間じゃねぇ」
普段なら、ただの軽口に聞こえる言葉。
だが――その瞬間、誰にも気づかれぬように、柏の瞳が獣じみた光を帯びた。
「……あとで、必ずきっちり片付けてやるさ」




