76 裏切
犬飼には理解できなかった。数ヶ月もかけて仕込んだ盤が、なぜ土壇場で崩れる。
牧野一派の籠絡、武藤組と桐原一家の残党を束ね、黒楓会の"アイス"実験室を襲わせる。流した"アイス"は黒楓会名義で叩き売りし、関東一帯に"黒楓会=敵"の図を描く。最後は仁義を旗に諸勢力を糾合し、極悪の黒楓会を叩き落とす――完璧な筋書きのはずだった。
なのに、玄野楓を捕える直前でLTが割って入り、青龍幇までが寝返った。どこで計算を誤った? 誰の手が、この盤面に触れた?
「犬飼さん、指示を……」
誰かが小さな声で犬飼に尋ねた。
――指示だと? いちいち聞くな、どう動くか自分で考えろ……と言いたいところだが、今この場で苛立ちを露わにすれば隊列が乱れる。それは自滅に直結する。犬飼は無理やり呼吸を整え、冷静を装いながら戦況を頭の中で並べ直した。
青龍幇が裏切ったとはいえ、市原からここへ戻るには最短でも三十分はかかる。その間に玄野楓を人質に取れば、まだ盤面はひっくり返せる。
だが東側では稲村たちが動いている。稲村たちがこちらに戻ってきた場合、挟み撃ちになれば持久戦になる。さらに市原からの援軍が重なれば、そこで完全に終わる。
犬飼は唇を噛んだ。――残された手は一つしかない。
ここで最善の一手は、撤退だ。
「……っち、悔しいが、これしかねぇ」
「せっかく来たんだ。少しだけ昔話でもどうだ」
楓は、犬飼の腹の内を射抜くように言った。
「てめぇと話す昔話なんざ一つもねぇ」
「そう言うな。これが最後だ。――もう二度と、あんたと口を利く機会はないだろう」
「てめぇの勝ちだとでも? まだ勝負は決まっちゃいねぇ」
犬飼は周囲を警戒しつつ、歯を食いしばって吐き捨てる。
楓は応えず、遠くを眺めたまま静かに言った。
「犬飼武文。あんたは面白い男だ。認めてやるよ――俺がこの世界に出て以来、俺を楽しませたのはあんただけだ」
一拍置き、楓は続けた。
「なぁ、俺の下で働かないか?」
――!!
黒楓会の面々も含め、その場の誰もが息を呑んだ。
犬飼も目を見開き、まっすぐ楓を射抜く。やがて鼻で嗤い、低く吐き捨てる。
「俺を侮辱する気か? 俺が"てめぇの下"だと? ふざけるのも大概にしろ」
くるりと踵を返し、背にいる若衆へ怒鳴る。
「全員、撤退だ!」
楓は阻もうとはせず、ただどこか寂しげにその背中を見送った。
――長年のライバルが、自ら幕を引いて舞台を降りるのを見届ける者の眼で。
三河会の者たちは楓らの追撃を警戒しつつ、湘北連合と三代目斎藤会を置き去りにして、悔しさを噛み殺して撤退した。
「……よろしいんですか」
佐藤が問う。
楓は戦場から視線を外し、長く息を吐いた。何も答えず、踵を返して事務所へ戻った。
ほんの十数分前。
「楓会長の予測通り、現在、船橋、八街市、君津拠点が攻撃を受けています……あっ、南房総からも連絡が入りました」
佐藤が楓の隣で淡々と報告する。
「市原、茂原、鴨川は?」
「確認します、少々お待ちください」
「うん」
楓は短く返し、再び手元の資料に目を落とした。
佐藤は通話を切るなり、簡潔に報告した。
「茂原、鴨川も敵襲を受けています」
「となると――残りは市原か。運がいいな」
「運がいい、とは?」
「距離が近い。慎吾に連絡を」
「はっ」
楓は今回の一件の経緯を説明し、LTと青龍幇に"スピード"のサンプルを送った。食いつきは上々――いや、予想以上だ。
見返りは明快だ。今夜の救援と、今後いざという時の協力。その代わりに、黒楓会は両組織へ定期・定量・優先の供給を約束する。両者はためらいなく応じた。
そのため、犬飼に嗅ぎつかせないための布陣も整えてある。LTは露骨に黒楓会へ肩入れして"表"で動く。青龍幇は表向き犬飼の誘いに乗りつつ、裏で楓と連携して動く。
もし青龍幇が本部包囲に組み込まれれば、その場で裏返して背後を突き、犬飼を挟撃する。拠点牽制に回された場合は、犬飼が十分に踏み込んだところで反転し、退路を断つ。
いずれにせよ、事態は楓の掌握下にある。現在は後者のパターンだ。
東側。熊谷とリーは一騎打ちの真っ最中だ。
パン、パン――拳と拳がぶつかる乾いた音が夜気に散る。
熊谷は一撃交わしてから、すっと間合いを切る。遠目に三河会の撤退を確認し、眉をひそめた。
「……ここまで読みどおりとはな、猿のやつ。――野郎ども、撤収だ。三河会の作は潰れた。ここに残る意味はねぇ」
「なにっ!?」
「失敗……だと?」
若衆がざわつく。だが熊谷は短く切り捨てる。
「黒楓会はあえて本丸を開けておびき寄せた。援軍も動いた。ここで消耗しても犬飼のケツは拭けねぇ。下がるぞ」
即座に指示が飛ぶ。
「二列で下がれ! 怪我人優先、遅れるな!」
リーは追わない。静かに構えを解き、熊谷と一瞬だけ視線を交わす。
もとよりリーの役目は、この場で湘北連合を退けること。向こうが自ら退く以上、追撃は不要だ。加えて、湘北連合のエース・熊谷は、そう容易く倒せる相手ではない。
熊谷はリーを睨み据え、低く言い放った。
「今日はここまでだ。勝負は預ける――金鱗十三支第九位、"鋼"の李戦」
「次は手加減なしだ、熊谷隆志」
リーは無表情のまま、静かに応じる。
「……フンッ、生意気な奴だ」
熊谷は鼻を鳴らした。
西側。
龍崎と藤原が激しく斬り結んでいた。藤原の攻めは苛烈だが、龍崎はすべてを受け流し、ときに型で切り返す。
キィーンッ――。
刃が噛み合い、火花とともに二人は後ずさって間合いを取る。
そのとき、藤原の携帯が鳴った。
藤原は視線を外さず、携帯を耳に当てて牽制の刃を揺らす。
『三河会が撤退した。お前も下がれ』
「よりによってこのタイミングかい」
『連盟の中にやはり裏切り者がいた。黒楓会の援軍がそっちへ向かってる』
藤原は短く息を吐いた。
「……最悪や。斎藤さんの勘、当たっとったわ」
藤原は携帯をしまい、残念そうに龍崎を見やる。
「こうしてやり合うてみて、斎藤さんがおんどれ気にする理由が分かったわ。――やっぱり向こうより、うちのほうがおんどれには合う」
「……余計なお世話だ」
藤原は苦笑し、部下へ短く命じる。
「引けや」
そう言い残して背を向けた。
三代目斎藤会は、最初から街に"アイス"をばら撒いたのが黒楓会ではないと掴んでいた。
群馬の薬は斎藤会の縄張りで厳しく締め付けている。そんな場所で急に"アイス"が出回れば目立たぬはずがない。実際、最初のロットを流した連中はすぐに押さえられ、締め上げられてすべてを吐いた。
犬飼の誘いに乗ったのも、黒楓会を公然と排除できる好機だったからに過ぎない。
――せやけど、あの玄野のボンはやっぱり危ない。斎藤さんは頭も腕も一流やが、人が良すぎる。全部計算づくで、使えるもんは使い潰すあいつにゃ、斎藤さんは勝てへん。無論、能力が足りんわけやない。相性が悪すぎるんや……機会さえあれば、いつか必ず玄野楓を仕留めたる。
一方、撤退中の犬飼は怒りに震えていた。あと少し――あと一歩だったというのに。
「青龍幇め……所詮は外道、裏切りなんざ朝飯前の連中だ」
「ええ……玄野が相当な見返りを提示したのかもしれませんね」
「間違いねぇ、"アイス"の供給だろう……ちっ、こうなると分かってりゃ、あの科学者――前田とか言ったか――あの時に消しておくべきだった」
その時、先頭の男が急に足を止め、続いていた犬飼はぶつかる寸前で踏みとどまった。
「ちっ、何があった?」
返事を待つまでもない。犬飼は視線の先を捉え、状況を悟る。
「そ、それが――」
「もういい。見えてる」
犬飼の表情が険しくなる。そこに現れたのは、紙のように蒼白な青年――赤く燐る瞳に、隠しきれない血の匂いをまとっていた。
「噂をすれば――」
白川が目を細める。
「てめぇ、青龍幇の……白夜って言ったか。よくもこんな真似をしてくれやがって」
「……ん? こやつは」
白川の背に控える九条憲孝が、険しい面持ちで低く呟いた。
犬飼は周囲を一瞥し、正面の青年に視線を据える。
「一人か。都合がいい――今夜の所業、あの世で懺悔してもらおうか」
白夜と呼ばれた青年は何も答えず、代わりに袖口からすっと二本の双剣を抜き放つ。
次の瞬間、白夜の影がふっと掻き消えた。
気配が跳ね、犬飼の目前――一メートルもない距離で、双剣が交差して斬り落ちる。四柱の犬飼ですら追い切れぬ速さ。だが、その刹那、着物の袖が翻る。
キィン――!
甲高い金属音が夜気を裂く。一直線に伸びた直刀が、双剣の軌道を噛んで止めていた。
その着物姿の男は、ほかならぬ天道理心流師範代・九条憲孝である。
犬飼は目を見開き、その光景を凝視した。
――早ぇ……まったく見えねぇ。このガキ、ただ者じゃねぇ。
空中の白夜は退かない。身を軸にひとひねり、双剣が円を描いて薙ぎ払われる。
ギリリリ……ッ!
直刀に苛烈な連撃が叩きつけられ、金属音が立て続けに弾けた。
最後に白夜は双剣を重ね、打ち槌のごとき重撃を落とす。
九条は直刀を水平に寝かせて受けへ転じ、低く息を沈める。
――天道理心流・抜き技「不動心」。
ガキィンッ!
双剣と直刀が噛み合い、目に見えぬ圧が波紋となって四方へ走る。
次の瞬間、九条は重さに押されるように石畳をきしませて数歩退き、白夜は反動を軽々と借りて、バク転で舞うように着地した。
犬飼を含め、全員がその一瞬の攻防に息を呑んだ。
「な、なんてこった……」
「あの青年、強ぇ……」
九条は直刀を鞘に納めるや、即座に抜き打ちの間合いへ身を落とす。
「先に行け。こやつはワシが受ける」
「九条先生……勝算は?」
白川が低く問う。
「五分五分――いや、もっと低いか」
「……承知しました。お気をつけて」
九条は退く仲間の前へ半歩出て、白夜の刃を遮る位置で構えを崩さない。
「天道理心流師範代、九条憲孝じゃ。――名は?」
白夜は撤退する犬飼らに目もくれず、赤い瞳で九条だけを射抜く。
「白夜」
「白夜か。良い名じゃ。その若さでその身ごなし……上には上がおるのう。久々に本気でいかせてもらうぞ」
白夜の口元に、初めて熱が灯る。
「望むところだ――」
先頭を走る白川が、険しい顔で言った。
「犬飼さん、このままじゃまずい。あの白夜が出た以上、援軍はもう着いてる可能性が高い」
「分かってる、クソ……玄野め、どこまで人を侮辱すりゃ気が済む」
「近道を知ってます。ついてきてください」
白川は返事も待たず、急に進路を変える。
「おい——」
白川の声は妙に落ち着いていた。犬飼はその背中を追いながら、わずかな違和感を覚えた――だが、戦況下で立ち止まる余裕はない。
「ちっ、間違ってたらあとでぶっ殺すぞ」
路地裏をくぐり、五分ほど走る。
「おい、方角が違うんじゃねぇのか? こっちは確か——」
「もう少しです」
さらに三分。小さな公園を抜け、アパート群を縫うように走り、やがて無機質な雑居ビルの前で白川が止まった。
「ここです」
「ここって何だ……てめぇ、何か企んでねぇだろうな」
白川は答えず、無造作にドアを押し開ける。
「ここなら目は届かない」
犬飼には見えなかった――白川の口元に浮かんだ冷笑を。
「……おい」
犬飼の直感が、危険の鐘を鳴らした。
その瞬間だった。
背後にいた三河会——いや、極刀会の若衆たちが、拳銃を一斉に抜き、犬飼の背と頭へ突きつける。
「抵抗すんな。中へ入れ」
「貴様ら——!」




