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69 断片

 ――稲村組、だと?

 その名を聞いた瞬間、冴えない男の胸にざらついた違和感が広がった。

 黒楓会の抗争に、彼自身が直接関わることはほとんどなかった、それでも黒楓会の一員として、黒楓会の構造や傘下の組織については、ある程度把握している。

 稲村組は確かに、黒楓会の傘下の一つ――表向きは、楓に忠誠を誓っていたはずだ。

 だが、いま目の前にいる彼らは、まるで別の顔をしていた。

 さえない男――前田拓也は、ようやく頭の中で状況を整理した。

 これは間違いなく、組織に牙を剥く、明確な反乱だ。


 やがて、前田拓也はバーの一室に閉じ込められた。

 どうやら奴らには、まだ先に片づけなければならない用事があるらしい。

 外から漏れ聞こえてくる話し声に、前田は耳を傾けた。

 断片的だが――「玄野楓を暗殺」「黒楓会を乗っ取る」……

 不穏な言葉が、空気のように漂っていた。

 その会話から、玄野には、まだ知られていないようだ。

 奴らの目的は、自分の命ではなく、知識である。となれば、当面は殺されることはないはず。

 問題は――この状況を、どうやって玄野に伝えるか。


 さらに一時間が経過し、外の騒ぎがようやく静まりかけた頃――

 突然、重たい破裂音が建物全体を揺らした。

 ドンッ――!

 続いて、連射音が耳をつんざく。

 パパパパパッ! ドゥドゥドゥッ!

 「うわぁぁっ!」

 「敵襲! 敵襲だーーーっ!」

 「なんで場所がバレたんだ!? ちくしょう、応戦しろ!」

 パリンッ、パリンッ――

 部屋の外で何かが倒れ、ガラス瓶が次々と砕ける音が重なる。

 耳障りな銃声が断続的に続き、壁越しにも緊迫した怒号が響き渡った。

 前田拓也は、閉じ込められた薄暗い部屋の隅で身を縮めたまま、耳を澄ます。

 扉の外からは、逃げ惑う者の叫びと、怒鳴る声、そして断末魔が交錯している。

 その中に、明らかに訓練された短く鋭い指示の声も混ざっていた。

 やがて銃声は徐々に遠のき、代わりに床を踏みしめる複数の足音が、こちらに近づいてくる。

 前田拓也は息を殺した。

 足音が扉の前で止まり、静寂が訪れる――ほんの数秒。しかし、その一瞬が永遠にも思えた。

 ガチャリ。

 ドアノブが静かに回される音。

 前田拓也は反射的に身をすくめた。

 ――ギイィ。

 ゆっくりと扉が開いた。逆光に照らされた男が、無言でそこに立っていた。

 黒い作業服に身を包み、銃を下げたまま部屋の中を見渡す。

 「……無事か?」

 短く、低い声。

 前田拓也は驚いて顔を上げる。

 その声には、脅しも怒りもなかった。ただ、確認するような冷静さがあった。

 「……き、君たちは……」

 男は返答せず、後ろに合図を送った。すぐに二人の隊員が入ってきて、部屋の中を素早く確認する。

 「ターゲット、確認。損傷なし」

 「了解、保護する。」

 前田拓也は、部屋の外で次々と指示を飛ばしている少年に目をやった。

 ――一生、忘れられない顔だ。

 記憶が、音もなくよみがえる。

 入学式のあの日、大勢の前で堂々と発言し、そして――大暴れしていた。

 生徒会との対峙では、何度も上級生たちを退けてみせた。

 さらに、自分の策を、あっさりと見破り、退路すら封じてきた。

 ――そして何より、自分の娘、遥を救ってくれた男。

 黒楓会会長、玄野楓。

 目の前にいるのは、あのときと同じ、いや、それ以上の存在感を放つ少年だった。

 その後ろには佐藤守、龍崎勝、矢崎俊介の姿があった。

 前田拓也は、ようやく理解した。

 この黒い作業服の男たちは――黒楓会の"影"だ。

 つい先ほどまで野望を語り、勝ち誇ったように笑っていたアロハの男と数人は、いまや"影"の者たちに拘束され、バーの隅に無様に転がっていた。

 「き、貴様ら……一体どうやってここを――」

 アロハの男が顔を引きつらせて叫ぶが、楓は何も答えず、ただ冷ややかに睨むだけだった。

 代わりに、背後から矢崎ともう一人の若者が前に出た。

 矢崎が、倒れているスーツ姿の男を見下ろしながら、挑発的に笑った。

 「おっさんよ。さっきはずいぶん威勢が良かったじゃねぇか」

 その言葉に、スーツ姿の男の顔が怒りで歪んだ。

 「てめぇら……あの時の……コンビニのガキか……!」

 男は地面に手をつきながら、悔しげに唸った。

 「チクショウ……付けられてたのか……舐めた真似を……!」

 すると矢崎は鼻で笑った。

 「付けてねぇよ。あんたの車に、ちっと細工しただけさ」

 まさか、コンビニの前にいた、ただの田舎の若者にしか見えなかった二人――その正体が、黒楓会の精鋭部隊、"影"のものとは誰も思わなかった。


 数時間前。市原拠点から引き上げる際、楓は矢崎に直接命じていた。

 ――「実験室を中心に、半径10キロ圏内のコンビニと公衆電話を監視しろ。前田先生が現れる可能性がある」

 実際、実験室は山深く、人里から離れた場所にあったため、半径10キロ以内に存在するコンビニはわずか三軒、公衆電話に至っては一基もなかった。

 そして、その三軒のうちの一つが――まさに、先ほど前田拓也が訪れた、あのコンビニだった。


 楓はまっすぐ前田拓也のもとへと歩み寄った。

 「前田先生……無事だったか。心配してたんだぞ。」

 「ああ、玄野さん。自分は大丈夫です。それより――」

 「心配するな。あの子はちゃんと保護しているさ」

 楓のその言葉を聞き、前田拓也は胸のつかえが下りたかのように、深く息を吐いた。

 ――なぜだろう。ただ、目の前にこの少年がいるだけで、信じられないほど、心が静まった。

 前田拓也は、ふっとその場にへたり込むように床に座り込んだ。

 ずっと張り詰めていた心がようやく解け、堰を切ったように全身の疲れが押し寄せてくる。

 「先生!」

 楓がすぐさま駆け寄り、両手で前田拓也の体を支えた。

 「早く、病院に!」

 「はっ!」

 "影"の三人が即座に動き、両脇から前田拓也の体を支えた。

 突っ張っていた足が限界を迎えたのか、前田は自分でも驚くほど力が抜け、思わず"影"の者たちに体重を預ける。

 「す、すみません……」

 "影"の者たちが周囲を警戒しながら道を開ける中、前田拓也は静かに、その場を後にした。

 「……さてと、これが一体、どういうことか――じっくり話し合おうじゃないか」

 先ほどまで浮かべていた心配の表情は、まるで仮面だったかのように跡形もなく消え去っていた。

 漆黒の瞳には凛とした威圧が宿り、その声は冷たく、奥底にはぞくりとするような寒気が潜んでいた。

 「あんたは……たしか、稲村の舎弟、牧野充だったな。――事情を、話してもらおう。」

 楓はアロハシャツの男を見下ろし、静かに口を開いた。

 これは牧野と楓が顔を合わせるのは二度目だった。最初は、稲村組が黒楓会の傘下に入り、盃を交わしたあの日。

 牧野は血で赤く染まったズボンのまま、必死に身体を起こす。どうやら先ほどの銃撃で負傷したようだ。

 「……クッ、玄野会長……てめぇは、やっぱり化け物だな……」

 牧野は苦笑しながら、唇の端から血を垂らした。

 「数カ月練った計画が……一晩だけで、粉々にしやがって……俺の完敗だ。もういい、殺せ。」

 その時だった。

 まるでタイミングを見計らったかのように、どこから情報を得たのか――

 稲村哲夫が、この南房総市にある稲村組の拠点のひとつ、ハワイ風のバーへと駆け込んできた。

 「牧野ッ! てめぇ、なんてことをしやがった……!このバカ野郎が!」

 稲村は一直線に牧野のもとへ駆け寄り、その襟元を乱暴に掴み、怒鳴り声を上げた。

 その手は怒りというより、動揺と焦りに震えていた。

 「玄野会長……本当に、申し訳ございません!」

 稲村は声を張り上げると、牧野の頭を無理やり地面に押さえつけ、土下座の姿勢を取らせる。

 そのまま自らも膝をつき、顔を地面すれすれまで下げた。

 「あっしも……ほんの今、知ったところです。こいつがバカなことをして……すべては、あっしの教育不足でございやす! どうか……どうかこいつの命だけは、ご勘弁を……!」

 随分といいタイミングに出てくるな。

 楓は何も言わず、ただその場に立ち尽くし、目を細めながら稲村と牧野を見下ろしていた。

 ――指導不足だと? よく言うよな、それで、自分は無関係ってか。

 命だけは勘弁を――などと殊勝な言葉を並べてはいるが、それこそが、それこそが、稲村が一枚も二枚も上手な所以だ。

 どの組でも、組織を裏切った者には死以外の選択肢はない。それが、この世界の黙示である。

 稲村はそれを百も承知で、今ここで"部下を庇う上司"を演じている。すべての矛先を楓に向けるために。

 楓が許さぬことを、最初から分かっていて――。

 いや、むしろ稲村こそが、牧野の死を望んでいるはずだ。

 牧野が死ねば、口封じは完了する。

 しかもここまで派手に頭を下げてみせれば、楓としても稲村組全体を粛清するわけにはいかない。

 露見しているのは"牧野の動き"だけ。そこにだけ罰を下さねば、組織の均衡は崩れる。

 稲村はその一線を見極めているのだ。巧妙に、抜け目なく――

 自分の勢力を少しでも残すために。


 しばらく沈黙が続いた後、楓が低く口を開いた。

 「裏切り者には死が待つ。こいつらは……やっちゃいけないことをした。」

 そのまま牧野に視線を落とし

 「だが、物事には例外がある。事情を話せ。そうすれば――命だけは助けてやる。」

 楓は、牧野にそこまでの策を練る器があるとは考えていなかった。ならば、その背後には必ず黒幕がいる――そう踏んでの言葉だった。

 「ありがとうございます……! 牧野、全部吐け! これが最後のチャンスだぞ!」

 稲村が隣で声を張った。

 絶望に沈んでいた牧野の顔に、命が助かるという言葉が一筋の光を差し込ませた。わずかに目に生気が戻り、しばらくしてから、深く息を吐き、静かに正座すると、観念したように口を開いた。

 「……実は――」


 牧野の話によれば、稲村組が黒楓会の傘下に入るかどうかは、組内でも意見が分かれていた。

 牧野自身は、まさにその反対派だったという。

 だが、組長である稲村哲夫が黒楓会との提携に前向きだったこと、

 さらには新型覚醒剤"アイス"の入手が可能になるという条件も重なり、

 最終的には全員が同意した。

 ――しかし、その裏では、一部の幹部が密かに反乱を企んでいた。

 そんな時、ある人物が牧野の前に現れた。

 その人物は、武藤組や桐原一家の残党すら取りまとめており、

 一連の計画も、すべて彼の手の内だった。


 話を聞いた楓は、ゆっくりと目を閉じ、静かに思考を巡らせた。

 そして、再び目を開き、低く静かな声で口を開く。

 「――二つ、聞く。

 一つ目。市原拠点の情報を……事務所の中から流したのは、誰だ?

 二つ目。裏ですべてを仕組んだ人物は、何者だ?」

 ――!!

 顔を伏せたの稲村は、その表情こそ見えなかったが、わずかに肩を震わせた。

 「それは……い」

 ――パァンッ!

 乾いた銃声が響いた刹那、牧野のこめかみが弾け飛び、もう片方の頭部が肉片ごと吹き飛んだ。

 血飛沫が飛び、周囲に赤黒い斑点を描く。

 全員の目が驚きに見開かれる中、牧野は糸が切れたように崩れ落ちた。

 あまりに唐突で、楓ですら反応が遅れた。

 思考が一瞬だけ空白に沈み、次の瞬間、楓は周囲を見渡した。

 銃を構えていたのは、二人。

 一人は稲村。もう一人は、佐藤守だった。

 いずれの銃口からも、うっすらと煙が漂っている。

 これは一体……

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