65 安堵
楓は感情を表に出さず、胸の奥に生じた違和感は、徐々に確信めいていく。
しかし、今の黒楓会は、"アイス"の精製方法どころか、量産体制すら崩壊した状態だ。
もしこの事実が青龍幇に漏れれば――黒楓会は、かなり危うい立場に立たされる。
交渉どころか、足元から切り崩されるだろう。
にしても、この曹という男……やはり厄介だ。
「精製方法の提供」と「取引の継続」――
あえて一方に不可能な条件を突きつけ、もう一方を現実的な妥協案に見せかける。
同時に提示すれば、大抵の人間は後者を選ばざるを得ない。
ただの交渉術だが、心理の急所を正確に突いてきやがる。
「取引はもちろんだ。それも、元より俺たちの目的だ。
だが――"アイス"の純度は極めて高い。精製の工程にも、原料の手配にも限界がある。
月に出せる量には、どうしても上限がある。
だから取引の量も、条件も、全て俺が決める。」
曹は楓の瞳をじっと見つめ、その言葉の真意を探った。
だが、底知れぬ漆黒の瞳は、一切の感情も、揺らぎも見せなかった。
――不気味な目だ、この少年。
楓の言葉は、確かに事実だった。
"アイス"の量産には、さまざまな条件や制約が伴う。
しかし、それでも生産量は決して低いわけではない。
今回、楓の真の狙いは、主導権の掌握に加え、何よりも時間を稼ぐことにあった。
「果たしてそうでしょうか……白夜、あれを」
曹が指を鳴らすと、隣に控えていた真っ白な顔の青年が、無言のまま一冊のファイルを差し出した。
「玄野様。こちらは我々が独自に調査した、"アイス"の市場流通量の資料でして」
曹はゆったりとファイルを卓上に置き、わざとらしくページをめくる。
「小売と組織間の取引を、仮に五分五分と見積もっても――月におよそ三キロ以上は流通しているかと。
……それに、我々の情報では貴会はLTから原材料を仕入れていると聞きますが、原材料の確保に、まさか不都合でも?」
まるで楓の返答をすべて見越していたかのように、曹は次々と資料を提示してきた。
準備の周到さ、そして相手の出方を見越した立ち回り――そのどれもが、並の交渉人ではあり得ない手際だった。
楓は、表面上は変わらぬ静けさを保ちながらも、内心では"天狐"曹無念という男の危険性を深く刻んでいた。
この男は、単なる使者ではない。冷徹さと狡猾さ、そして情報力。
曹の読みはほぼ正解だった。
市場に流通しているのはおよそ二キロ、そしてLTへの供給が二キロ。
そこまで掴まれている以上、主導権を取るどころか、逆に相手に完全に掌握されつつあった。
一方、その頃――。
千葉市稲毛区。
住宅が密集する静かな区画の一角で、一人の約六歳前後の少女が一軒家の前に立っていた。
彼女は周囲を何度も見回し、怯えた様子で誰かの気配を窺っている。
それでも、覚悟を決めたように、小さく息を吸い込むと、震える指で玄関のチャイムにそっと手を伸ばした。
ピンポーン――。
「はーい、楓?鍵忘れたの?今日は早いわね、最近はよく……あら」
ドアを開けたのは、家の主婦だった。
息子が帰ってきたのかと軽口を叩きながら扉を開けると、そこにいたのは見知らぬ、小柄な女の子だった。
「こんばんは、お嬢さん。どうしたの?こんな時間に……親御さんは?」
戸惑いながらも、主婦は優しく声を掛けた。
「あ、あの……楓お兄さんのお家……ですか?」
少女は不安げに尋ねた。
主婦は一瞬驚き、次いでふっと笑みを浮かべる。
「あら、いつの間にか楓はこんな可愛い妹ができたのかしら。」
そう呟きながら、ちらりと外を覗く。
周囲に誰の姿もないのを確認すると、少女に向き直って優しく声を掛けた。
「とりあえず、中へおいで。外は冷えるでしょう?」
少女は一瞬だけ戸惑ったが、主婦の柔らかい声に促され、小さく頷いた。
「ありがとう、ございます……」
その頃、一軒家の斜め向かい。古びたアパートの一室で。
「原田さん、一人の子供が会長の家に入った。」
窓際で双眼鏡を覗いていた男が、背後の男に報告する。
「子供?」
原田と呼ばれた男は、煙草の煙を吐きながら、面倒くさそうに答えた。
「放っとけ。どうせ近所のガキだろう。……俺たちの役目は、会長の家族を守ることだ。」
双眼鏡の男は頷きつつも、もう一度慎重に窓の外を見やった。
リビングに案内された少女は、遠慮がちにソファの端にちょこんと座った。
主婦は台所で湯を沸かし、温かいミルクをカップに注いで戻ってくる。
「はい、お待たせ。冷えたでしょう?飲んで温まってね」
そう言って少女の前にカップを置く。少女は小さく「ありがとうございます」と頭を下げ、両手で包むようにカップを持ち上げた。
「……ねえ、名前、聞いてもいいかしら?」
主婦は穏やかに微笑みながら、そっと尋ねた。
少女は小さな声で名乗った。
「……まえだ、はるか、です」
「遥ちゃん、ね。かわいい名前だわ」
主婦は微笑みながらそう返し、少女の顔色をそっと伺った。
「そうだ、遥ちゃんは、どうやって楓と知り合ったの?」
主婦は思い出したように尋ねた。
主人がリストラされてからというもの、息子の楓は、家庭の負担を減らそうと必死だった。
自分の学費や生活費は自分で賄うと決め、高校に入ってからは毎日のようにバイトに明け暮れている。
そのせいで、帰宅はいつも深夜。時には、家にすら戻れない日も珍しくなかった。
最近では、ちゃんと学校に通っているのか、勉強は大丈夫なのかと、不安に思うことも増えていた。
「……病院で。一緒に本を読んでました」
「あら、病院で知り合ったのね」
主婦は不思議そうに首を傾げた。
「遥ちゃん、病院に通ってたの?」
遥は小さく頷き、ぽつぽつと自分の病気のこと、そして楓が父の教え子だったことを語った。
「そうだったの。楓の担任の先生の娘さんだったのね」
主婦は優しく微笑んだ。
「お父さんは?お家にいないの?」
主婦が尋ねると、遥は不安げに答えた。
「父さんは今日帰れないって……楓お兄さんのところに行ってって」
「なるほど……」
主婦はそう頷いたものの、腑に落ちない様子だった。なぜわざわざ楓の家なのか、その理由は遥の口からも語られなかった。
ひとしきり考えた末、主婦は思い出したように立ち上がり、楓が以前残していった"バイト先"の携帯番号に連絡を入れることにした。
事務所。
曹との交渉の最中、楓の携帯が再び震えた。
――誰だ、こんな時に。
楓はちらと画面に目を落とし、着信番号を見て、表情がわずかに動く。
その変化を曹は見逃さなかった。片手のひらを返して言った。
「どうぞ。ワタクシたちは、そう急ぎでもありませんから」
余裕を見せるその態度に、楓は一瞥だけくれて、無言で立ち上がり、奥の部屋へ歩きながら通話を取った。
『楓?今バイト?お時間大丈夫?』
画面には自宅の番号が表示されていた。電話の相手は母親だ。
「……はい。」
楓は声をわずかに低くして応じる。
『あのね、一人の女の子がうちに来たの。』
「女の子?」
『楓お兄さんを探しているって。はるかちゃん、担任の子よね?』
「……何だって?!」
母の言葉に、楓は思わず声を上げた。
『今、家にいるんだけど。』
「……そうか。絶対に家から出すな。俺が迎えに行く。」
『え?なにかあったの?』
「後で話す。誰が来てもドアは開けるな。」
『わ、わかったわよ……』
通話を切る直前、母の戸惑う声が微かに耳に残った。
――そうか、そういうことか。
前田先生が遥に指示した「安全な場所」とは、自分の家だったのだ。
学校の記録を辿れば、前田が自宅の住所を知るのは難しくない。
だが、なぜ事務所ではなく、わざわざ家なのか。
楓はすぐに思い至った。
黒楓会の本部には常に幹部や若衆が出入りし、敵の目が光っている可能性もある。
一方、普通の家庭である自宅なら、目立たず足を運べる。
監視の手も届きづらい。遥のような子供が向かうには、むしろ最適だった。
前田先生の選択は、賢明だったと言える。
奥の部屋を出ようとした楓は、ふと何かを思いついたように立ち止まり、再び携帯を取り出した。そして、迷いなくある人物に連絡を入れた。
「待たせたな。」
楓は再び自らの席に腰を下ろし、静かに告げた。
「あんたの要求は理解した。だが――月に3キロは無理だ。今の生産体制じゃ到底届かねぇ。」
楓はわずかに間を置き、目の前の曹をじっと見据えた。
「1.5キロなら約束しよう。ただし、今月と来月分はすでに予約が入ってる。出せるのは――精々0.5キロだ。それで良ければ話は進めてやる。」
言い切る声音は静かだが、譲る気配は微塵もなかった。
「いいでしょう。玄野様がそうおっしゃるなら。」
曹はゆっくりと立ち上がり、楓に手を差し出した。
先ほどの電話の後、楓の様子がわずかに変わった。
曹ほどの男が、それに気づかないはずがない。
何かがあった――そう確信しながらも、今はあえて詮索しない。
それに、目的も果たした以上、今日はもう潮時だ。
「本日はこれにて失礼いたします。単価やルートなど詳細については、改めて伺わせていただきます。」
楓はその手を握り返し、簡単な挨拶を交わすと、三人が事務所を後にするのを黙って見送った。
あっさりと立ち去った背中を見送りながら、室内には重い沈黙が落ちた。
「楓さん……一体どういうことですか。奴らの態度を見る限り、実験室の襲撃については何も知らないようでさ」
沈黙を破ったのは佐竹だった。
「もし黒楓会が今、アイスを精製できなくなったと知っていたら……わざわざ交渉なんか持ちかけて来ねぇだろうが」
鬼塚も腕を組み、唸るように言った。
「罠の可能性もありますよ、無理にでも引き留めて、吐かせりゃよかったんですよ」
稲村が陰険に笑った。
「テメェが一人で止められるなら、俺は止めねぇよ」
鬼塚が鼻で笑い返す。
「え?何を言ってるんっすか、鬼塚さん」
稲村が眉をひそめたとき、鬼塚はふいに隅に立つ龍崎へと視線を向けた。
「なあ、そう思わねぇか?」
その視線を追って、幹部たちの目も自然と龍崎へ向いた。
少しの沈黙の後、龍崎は低く短く言い切った。
「……ああ。あの白夜ってやつ、強い」
その言葉に、楓はわずかに眉を動かした。
黒楓会の武闘派筆頭である二人が揃ってそう言うのだ、無視できるはずがない。
「どういうことだ?」
楓が問うと、鬼塚が唇の端を吊り上げた。
「白夜とか言ったな、あの顔が真っ白なガキ、近くにいただけで血の匂いがプンプンしたぜ。
それに、動きにゃまったく音がねぇ。気配すら掴めなかった」
青龍幇は中国から来た勢力。
あの国には、武の達人や常識外れの奇人がいても不思議ではない。
曹がたった三人だけで黒楓会本部へ乗り込んできた時点で、切り札がないはずがない。
だが――今はそれどころではない。
楓は一度呼吸を整え、鋭い声で告げた。
「青龍幇の件は後回しだ。……前田遥の居場所が判明した。」
「なに?!一体どこですか?」
楓はわずかに口角を上げ、静かに告げた。
「それは――黒楓会市原拠点だ。」
――わざと偽りの情報を流した。




