62 舞台
宴会場。
残された宴会場には、毒に倒れた客人たちと、崩れた場の空気だけだった。
組長は連れ去られ、関東の拠点もすべて制圧され、もはや誰も場を仕切れない。
「……こりゃあ、えらいことになったのう」
沈黙を破って立ち上がったのは、鈴木三四郎だった。
その足取りは確かで、顔色一つ変わらない。
まるで最初から毒など受けていなかったかのように。
「三四郎さん……やはり、あんた……」
驚きに眉を動かしながら、鯨井が口を開く。
「ほっほっほ、鯨井様も、気づいておられたのでは?」
「ふふっ、やはりあんたの目には誤魔化せないわね」
鯨井もゆっくりと立ち上がり、扇子をたたんで袖に収める。
「そこのお兄さんも――そうでしょう?」
その一言に、場の視線が一斉にひとりの人物へと向かう。
そこに座っていたのは、整った顔立ち、金色のハーフリム眼鏡がきらりと光る。
結城蒼のホストとも一線を画す、どこか場違いな――芸能人のような少年だった。
「さすがは三河会の四柱――白川優樹様ですな」
鈴木三四郎は柔らかく微笑みながら、少年の名を口にした。
「あら、あなたがあの四柱の新入り? ……若いわねぇ。玄野の坊やと同じくらいかしら。けど、最初に気づいたのは――あなたでしょ?」
白川は、爽やかな笑みを浮かべて応じる。
「買い被りですよ。私も、たまたま気づいただけです」
――あのとき、あのスタッフの姿を見た瞬間に気づいた、あれは黒楓会の矢崎俊介という元族の人だったと。
鈴木三四郎は、混乱に包まれた会場を他人事のように眺めながら、軽く嘆息する。
――どうやら、この場で毒の影響を受けなかったのは、自分たち三人だけらしい。
「では、これにて失礼させていただきます」
鈴木三四郎は一礼をすると、客人たちの視線を背に受けながらゆっくりと歩き出した。
鈴木三四郎は静かに目を細める。
桐原一家を仕留めることなど、ただの序章に過ぎん。
問題は、この後――
麻薬の供給が止まれば、金と血が入り混じる底なし沼から這い上がってきた連中が、黙って見ているはずがなかろう。
癒着でもなければ御しきれぬ、外道ども。
さて、どう動くかな……玄野楓よ――
修羅の幕は、まだ降りてなどいない。
むしろ今、この瞬間からが本当の地獄だ。
車内に静かなエンジン音が響くなか、矢崎が運転席から声をかけた。
「さすが楓さん。全部、計画どおりですね」
その言葉には、心からの敬意が込められていた。
後部座席、楓の隣で腕を組んでいた鬼塚が、不満げに口を開く。
「おりゃあ、やっぱり稲村のやり方は気にくわねぇな」
短く吐き捨てるような声音だった。
助手席の龍崎は、無言のまま窓の外に広がる東京の夜景を見つめていた。
言葉にはしないが、その背中からも、思うところがあるのが伝わってくる。
――確かに。
稲村の手段は、あまりに苛烈すぎる。
たとえ結果が出たとしても、自分の流儀には反していた。
「……分かった」
楓は短くそう応じ、それ以上は何も語らなかった。
稲村のやり方は、確かに残虐だった。
しかし――その能力は、称賛に値する。
今の黒楓会にとって、人材は喉から手が出るほど欲しい時期だ。
不用意に稲村を排除すれば、組織にとって逆風となる可能性もある。
同時に、稲村という男には、明らかに野心がある、このまま泳がせれば、いずれ黒楓会そのものを揺るがす火種になりかねない。
――手を打たねば。
問題は、次から次へと尽きない。
楓はそう内心で呟きながら、懐から一枚の紙を取り出した。
――9月17日、立花円香、東京ドーム、VIP席。
記された文字を一瞥すると、楓は口を開いた。
「桐原公はそのまま黒楓会に運べ。佐藤に尋問させろ。……俺たちは少し寄り道しよう」
「了解っ、すぐに2号車に連絡します」
矢崎が即答する。
「寄り道?」
鬼塚が訝しげに問い返した。
「せっかく仕事が片付いた。ライブでも見に行くか」
楓はチケットをひらりと鬼塚に見せる。
「はっ? ライブ……だと?」
9月17日 20時24分
ライブ終了まで、残り約30分。
だが、会場の熱気はますます高まり、空気は最高潮に達していた。
一曲を終え、照明が一瞬だけ落ちる。
円香はステージ中央に立ったまま、静かに深呼吸をする。
歌い踊り続けて一時間以上――さすがの彼女も、額にうっすらと汗を滲ませていた。
ふと、再びVIP席に視線を送る。
……そこは依然として空席のまま。
ほんの一瞬、彼女の目に寂しげな色がよぎる。
だがその時、不意に、別の場所から強い視線を感じた。
視線の先――VIP席空席の近くに、湘北連合顧問・長谷川宗一郎の息子、長谷川翔の姿があった。
一瞬だけ、彼女の表情が曇る。
小さく首を振り、視線を逸らすと、再び観客席に向かって笑顔を取り戻す。
「――それじゃあ、次の曲、いくよ!」
明るい声が響き、再び音楽が流れ始めた。
――まただ。
円香の視線を感じるのは、もう何度目だろうか。
長長谷川翔は、そのたびに胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。
思い込みかもしれない――それでも構わなかった。
こんなにも広いドームの中で、あの円香が、自分のいるこの席を何度も見ている。
それだけで、翔の中にある特別の確信が強まっていく。
――やっぱり気づいてるんだ。俺がここにいるって。
翔は円香を愛している。ずっと、ずっと前から。
幼い頃から、翔は"特別"だった。
父・長谷川宗一郎が元伝説の暴走族"ブラックサーペンツ"の総長だったこともあり、周囲は常に翔に一目置き、恐れ、そして従った。
欲しいものは、いつだって手に入った。
金も、力も、女も――その気になれば、どんな相手も振り向かせることができた。
ただひとり、立花円香を除いて。
彼女はいつも礼儀正しく、どこか遠くにいた。
軽くもなく、媚びもしない。
近づけば、ふわりとすり抜けるように距離を保たれた。
だからこそ、翔の中で彼女の存在は、ますます特別なものとなった。
――今日こそは、振り向かせる。
この感情が、ほんの少しでも伝われば、それでいい。
そんな想いが、翔の中で、熱く、静かに燃え続けていた。
そんな時だった。
隣のVIP席に、いつの間にか一人の少年が静かに腰を下ろしていた。
整った黒髪に、端正な顔立ち。
黒のスーツに、控えめながらも目を引く楓色のネクタイ。
だが何よりも印象的だったのは、その瞳――
漆黒のように深く、光を吸い込むような不思議な眼差し。
そこに見下しも驚きもなく、ただ揺るがぬ静けさが宿っていた。
翔は、瞬時にその少年が誰なのかを理解した。
――何でこいつがここに?
忘れられるわけがない。
立花円香が、あの少年の前で、まるで恋する乙女のように笑っていた――
自分の誘いを、あっさりと断ったその理由も、全てこいつだった。
四大勢力の一角、黒楓会を束ねる若き会長。
――玄野楓。
ふと、翔の中で何かがつながった。
――そうか。
円香が、何度もこちらに視線を送ってきたのは、自分のためではなかった。
彼女が待っていたのは、この男――玄野楓だったのだ。
一瞬、翔の胸の内に嫉妬と怒りが爆発した。
熱いものが頭にのぼり、血が逆流する感覚に襲われる。
拳が、膝の上でひっそりと強く握り締められた。
だが、視線は逸らさなかった。
目の前の少年の存在が、まるで自分の世界を塗り替えていくように感じる。
観客の歓声すら、遠ざかっていく。
音も光も、すべてが薄れ、翔の意識はただ、楓という異物に引き寄せられていた。
もし視線で人が死ぬのなら、翔はとっくに、何百回――いや、何万回も、玄野楓を殺していた。
それでも楓は、泰然としたまま舞台を見つめている。
その姿が、翔の怒りをさらに燃え上がらせた。
円香は歌いながら、ステージ中央で客席に手を振る。
ふと、もう一度VIP席に視線を送った――そこには、少年の姿があった。
彼は小さく手を振りながら、どこか申し訳なさそうに微笑んでいる。
「ごめん、遅れちゃった」
そんな声が、聞こえてきたような気がした。
円香の目がぱっと見開かれ、笑顔はさらに明るさを増す。ステージの光さえ霞むほどに。
円香と楓のやり取りを目の当たりにし、翔はついに堪忍袋の緒を切った。
握りしめていたペットボトルを、怒りに任せて床へと叩きつける。
鈍い音がVIP席に響いたが、音楽の盛り上がりにかき消され、客席の大半は気づかなかった。
周囲の数人が一瞬だけ顔を上げ、だがすぐに視線を舞台へ戻した。
翔は憤然と立ち上がり、唇を噛みしめながらその場を離れた。
楓は――まるで最初から翔など存在していなかったかのように、最後まで一度も視線を向けることはなかった。
――覚えてろよ、玄野ォォ……! 必ずぶっ殺してやるッ!
ライブもいよいよ終盤。
照明がやわらかく落ち、円香はステージ中央に立ったまま、深く息をつく。
汗ばんだ額にかかる髪を払いながら、どこか満ち足りた笑みを浮かべ、マイクを握る。
「今日は――来てくれて、ほんっっっっとうに嬉しかった!」
万雷の拍手と歓声が返ってくる中、円香はふと視線をVIP席へと送る。
そこにいる少年の姿を目にして、わずかに頬が緩む。
「今日も最高のライブになりました! みんなの笑顔が見られて……ほんとうに幸せです!
これからも――一緒に夢を追いかけようね!」
最後のセリフを残し、円香は舞台の隅々まで手を振りながら、観客席の一人ひとりに感謝を届けるように微笑んだ。
化粧室。
円香はステージ衣装から私服に着替え、水を一口飲んだあと、カバンの中から小さな折りたたみ携帯を取り出した。
画面を開くと、受信ボックスには一通のショートメール。
『遅くなって悪い。いいステージだった。時間が合えば、また会おう』
その短い文章を目にして、円香の頬がふわりと緩んだ。
カバンに携帯を戻しながら、ぽつりと呟く。
「……もう。今度会ったら、絶対に文句言ってやるんだから」
けれど、その声に怒りの色はない。
むしろ、溢れそうな嬉しさをどうにか隠そうとしているようにすら見えた。




