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55 継承

 楓の背を見送りながら、誰もが無言のまま酒盃を置いた。

 それぞれの胸中に去来するのは、興味、警戒、あるいは疑念。

 東京組の人も、口元に笑みを浮かべつつも、視線はじっと楓の背中を追っていた。

 「……潰されるか、喰われるか、せいぜい楽しませてもらおうじゃねぇか」

 桐原がぽつりと呟くように言い、細い目を細める。

 それを聞いた結城蒼が、グラスを揺らしながら応じた。

 「どっちにしても、あの年でここまで登ってきた坊やにゃ、見ものってこと」

 場にいたほとんどの者が、楓が処罰されるものと思っていた。

 ――しかし、その中で、異なる思惑を抱いていた者が三人だけいた。

 カジノの女王・鯨井節子、斎藤会三代目会長・斎藤浩一、そして湘北連合総参謀長・猿飛隼人。

 鯨井節子は、艶やかに微笑んだ。

 「さあ、どうかしら。」

 斎藤は微動だにせず、目を閉じて思索に沈んでいた。

 猿飛の視線は、深く刻まれた隈のある目で、獲物を狙う鷹のように、楓の一挙手一投足を捉えて離さなかった。

 その時、一人のスタッフ風の中年男が、猿飛の背後を通りざま、誰にも気づかれぬ声で何かを呟いた。

 猿飛は目を細めると、まるでトイレか何かの用でもあるかのように、自然な足取りで会場の外へと向かった。

 場にいたほとんどの者は気づかなかった。それも無理はない――立って控えている幹部の一人ひとりまで目を配る者など、そう多くはないからだ。

 だが一人だけ、その異変を聞き逃さなかった。常人を超える聴力を持つ、もう一人の幹部が――。

 長年カジノでサイコロを転がし、その音だけで点数を見抜く、鯨井節子の傍に控える部下の一人が、険しい顔で腰を落とし、低く報告した。

 「姉御、先程、妙な話を耳にしました……」

 鯨井はわずかに頷きながらも、盃を持つ手を止めず、表情一つ変えない。

 勝負の流れを見極めるような静けさを保ち、

 やがて、ふっと唇に笑みを浮かべる。

 「フフ……面白くなってきたわね」

 その様子を見ていた結城蒼が、プロホストのような微笑みを見せながら声をかける。

 「我が女王様。なにか、愉快なことでも?」

 「何でもないわ。乗ってみたくなる勝負が見つかっただけよ」


 一方、鈴木三四郎は楓を、グランドホテルの最上階――特別貴賓専用のフロアまで静かに案内していた。

 エレベーターの扉が開くと、そこはまるで別世界だった。廊下には重厚な絨毯が敷き詰められ、壁には高価そうな油絵や調度品が整然と飾られている。照明は淡く、静謐な空気が満ちていた。

 誰もいない廊下を歩く中、鈴木三四郎は一言も発さなかった。楓もまた、一歩も引かずにその後ろを静かに歩いていた。

 やがて、廊下の突き当たりにある一際大きな扉の前で、鈴木三四郎が立ち止まる。

 「こちらでございます」

 扉をノックし、中から応答があったのち、扉をゆっくりと開けた。

 室内は、ホテルの一室とは思えないほど静かで広い空間だった。窓からは都内の夜景が一望でき、カーテンは半分だけ開けられている。中央には一つのソファセットと、豪奢なガラスのテーブル。その傍らに、背を向けて立つ一人の老人の姿があった。

 ――木下龍。

 その背中からは、言葉では表せない重圧が立ち上っていた。

 鈴木三四郎は軽く頭を下げると、静かに部屋を後にした。

 扉が閉まり、部屋に残されたのは――玄野楓と、木下龍。

 「……座りな」

 先に口を開いたのは、木下龍だった。

 「失礼します」

 さすがの楓も、この老人を前にすれば、自然と敬語が口をついた。

 二人は向かい合うようにソファへ腰を下ろす。

 木下は黙ったまま、楓の目をじっと見つめていた。

 その黒い瞳には、底知れぬ深さがあった。

 まるで、すべてを飲み込むブラックホールのような、不可思議な力がある。

 楓もまた、その目を真っすぐに見返した。

 関東極道の頂点に立つ者の威厳。

 血と闇を越えてきた男の知恵。

 どんな嘘も見逃さぬ鋭さ。

 そして、ほんのかすかに――人間らしい温もり。

 すべてが、木下龍という存在に宿っていた。

 「ハッハッハ……若造、良い目をしておる」

 木下龍は楽しげに笑った。

 多くの人間がこの男に呼び出され、正面から見据えられただけで声も出せずに震える。

 だが、楓は違った。怯えも、取り繕いもない。

 まっすぐに、ただ木下の瞳を見返している。

 その目の奥を覗いても、木下でさえ読み切れなかった。

 「若造、名は」

 「申し遅れました。黒楓会会長、玄野楓です」

 楓は静かに一礼し、落ち着き払った声で名乗った。

 木下龍が、その名を知らぬはずもない。

 それでも、あえて名を尋ねたのは――試すような意図か、あるいは儀式のようなものか。

 「玄野、楓か……良い名じゃ」

 「恐れ入ります」

 「古きを壊し……そして新たな秩序を築く、か」

 木下はふと、独り言のように呟いた。

 楓は黙ったまま、木下龍の言葉を待っていた。

 「このワシも、壊すつもりか?」

 低く響いたその言葉には、明らかな威圧が込められていた。

 まるで巨大な岩が空気を押し潰すような圧力。

 多くの者がこの威圧に怯え、慌てて頭を下げる――が、楓は違った。

 わずかに口元を緩め、静かに答える。

 「木下組長、御冗談を。

 ただ――時代が変わるなら、その重さごと背負う覚悟はあります。

 あなたが、背負いきれなかったものも、すべて」

 ……!

 木下龍の瞳が、わずかに揺れた。

 試そうとしたが、まさか、見抜かれていたのは自分のほうとは。

 しかしその動揺を一瞬で呑み込み、やがて笑った。

 「フッ……ハッハッハ……なるほど。なるほどな」

 木下龍は立ち上がり、静かに大窓の前へと歩を進めた。

 最上階から望む東京の夜景は、まさに繁栄の象徴――遠く、東京タワーが赤く輝いている。

 無数のビル群に灯る明かり、途切れることのない車の列、そして街角に小さく揺れる人影。

 「……極道は、いずれ滅びる。

 じゃがな、極道の"精神"まで死なせてはならん。

 ワシは、ずっと影からこの国を見守ってきた。

 光があれば、影もある。表は法律で動く……しかし、裏には裏の理っちゅうもんがある。

 世の連中はよう言うわ。極道は"社会のクズ"だ、"ただの脅し屋"だってな……。

 ――じゃが、考えてみるが良い。

 その"クズ"どもを束ねる筋がなけりゃ、どうなる?」

 木下龍はゆっくりと振り返り、楓の目をまっすぐに射抜いた。

 「地獄じゃ。

 素人が因縁吹っかけられて、殴られて、黙って怯えて生きるしかなくなる。

 誰も責任を取らん。誰も止めん。

 麻薬もそう。

 規制だけじゃ止まらん。

 需要があるかぎり、必ず"売るやつ"が現れる。

 それを、誰がどう握るか――そこの見極めが、命運を分ける。

 放っときゃ、LTみてぇな外の奴らがズカズカ入り込んで、根こそぎ持っていきよる。

 そうなりゃもう、濫用どころか、裏も表も崩れちまう」

 楓は黙ったまま、木下の言葉を聞いていた。

 確かに、そうだ。

 麻薬なんざ、根絶することは不可能だ。

 どれだけ法律を整え、どれほど厳しく取り締まろうと――需要は必ず、どこかに生まれる。

 痛みを逃れたい者、金を稼ぎたい者、現実から目を背けたい者。

 人間の弱さがある限り、麻薬は消えない。

 「……ワシはこれまで、悪を背負い続けてきた。

 その名を穢しながらも、極道というものの秩序を――なんとか保ってきたつもりじゃ。

 東京の連中も、地方の連中も、いがみ合いながらも、最後はワシの引いた線を越えんよう動いていた。

 それが"ルール"というもんじゃ。暴の中にも筋がある。それがなければ、ただの獣の群れになる」

 これはなぜ、今まで三河会や極刀会がどれだけ黒楓会と対立しようとも、楓の両親に手を出さなかったのか――その理由でもある。

 極道者同士の仇は、家族にまで持ち込んではならない。

 それがこの世界に生きる者たちの、不文の掟。

 単なる口約束ではない。

 木下龍という男が、血と力で築き上げた、揺るぎない秩序だった。

 「……しかし、情けない話じゃが、ワシも歳を取った。

 抑えが利かん連中が、あちこちで顔を出し始めとる。

 かつては気配一つで黙らせられたが……今は、そうもいかんようじゃ。

 玄野楓よ……

 ワシがくたばるまでに、お主の"秩序"を、築いてみせてくれんか」

 木下龍の言葉を聞き、楓は一瞬だけ目を閉じた。

 まるで、胸の奥に何かを沈めるように。

 そして、ゆっくりと瞼を上げると、落ち着いた声で言った。

 「……一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか」

 「……うぬ」

 「なぜ、俺に?

 獅子倉総番長や斎藤会長のほうが、よほどふさわしい気がします」

 湘北連合総番長――獅子倉英司。

 若き日にはいくつもの伝説を打ち立て、今もなお多くの者に慕われる、まさしく"漢"の中の"漢"。

 三代目斎藤会会長――斎藤浩一。

 その冷静さと胆力から"平成の任侠"と呼ばれ、現代において最も尊敬を集める侠の一人。

 どちらも、極道の世界で名実ともに頂に立つべき器を持つ男たちだ。

 木下はゆっくりと目を閉じ、ひとつ小さく息を吐いた。

 「――あの二人は、"壊せん"」

 その言葉に、楓の目がわずかに細められる。

 「秩序というのは、ただ守るだけでは腐ってゆく。

 時に古きを砕き、新しきを築かねばならん。

 時代を変えるには、変化を恐れぬ者が要る。」

 木下の眼差しは、静かに楓を射抜いていた。

 「じゃが、お主の中には、怒りがある。

 他人や過去に向けた私怨ではない。

 この歪んだ世界そのものに対する、根源的な拒絶じゃ。

 それは、復讐でも、義憤でもない。

 もっと深く、静かで――確かに燃える火じゃ。

 その火が消えぬうちに、すべてを焼き尽くせ。

 そして、新たな秩序を――築け」

 木下龍の言葉には、楓の過去を深く知った者にしか語れぬ、確かな重みがあった。


 会場内――。

 楓が連れられてから、すでに一時間が経過していた。

 佐竹と鬼塚は、黙したまま立ち尽くしていたが、空気は次第に張り詰めていく。

 「……おい、これ、やばくねぇか。なんとかできねぇのか、佐竹」

 鬼塚が低く唸るように言った。

 「……できるなら、とっくにやってる」

 佐竹の声も、焦りを隠しきれていなかった。

 そのとき――陰湿な笑いが、後方から響いた。

 「クック……待ってたって無駄だぜ。呼び出された以上、戻ってくる保証なんざ、どこにもねぇ、おめぇらも消えな。」

 桐原泰三が、毒気を含んだ笑みを浮かべていた。まるで他人の破滅を喜ぶような愉悦が滲んでいた。

 「……なんだとてめぇ……!」

 鬼塚が低く唸り、拳を握る。

 「やめんか、鬼塚!」

 佐竹が即座に腕を伸ばし、押し留めた。

 「ここで何か起こしたら、会長の立場が逆に悪くなる……落ち着け」

 鬼塚は唇を噛み、怒りを押し殺す。

 その時、背後から低く静かな声が響いた。

 「――誰が、もう戻れないって?」

 全員が振り返る。

 そこに立っていたのは――黒のスーツに、深い紅を帯びた楓色のネクタイを締めた少年。

 玄野楓が、微笑みを浮かべて姿を現した。

 まるで、何事もなかったかのように。

 「……か、楓さん……!」

 佐竹が思わず声を上げる。

 桐原公の顔から、笑みがすっと消える。

 目がわずかに見開かれ、喉の奥で言葉が詰まったように動きを止めた。

 他の者たちも、ざわめきながらそれぞれに異なる表情で楓を見つめる。

 「……まさか、本当に戻ってくるとは」

 「これは……想定外だな」

 楓の微笑みは穏やかなままだったが、その眼差しは、氷の刃のように冷たく鋭かった。

 「随分と……俺のこと、勝手に処理しようとしてたみたいだな」

 「ふん……いい気になるな、小僧。ひとつ教えてやる。極道の世界ってのはな、何事には順序がある。……そのへん、よく噛みしめて動くんだな」

 桐原公が得意げに言い放った。

 楓は、思わず鼻で笑った。

 木下龍のような大物と語り合った直後に、今度は小物に極道を説教されるとはな

 「覚えとくよ。」

 楓は、もはや反論する気すらなかった。ただ一言だけ返し、その場を後にする。

 その背中を見送りながら、桐原公は顔を歪め、吐き捨てる。

 「ふん……見てろよ、玄野楓。後悔する頃には、もう地獄の底だ」


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