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52 序章

 9月、東京都港区・グランドホテル赤坂。

 都内でも屈指の豪奢と広さを誇るこのホテルは、国会にも近く、大臣や国会議員がしばしば宴会や密談の場として利用することで知られている。

 一般の民衆がその門をくぐることは稀だ。価格が高額であること以上に、ある程度の"地位"がなければ、そもそも予約すら受け付けられない。

 そして今――

 このホテル全体が、三日間にわたり、貸切となっている。

 入口には黒スーツにインカムを装備した私設警備員が数十名。

 表向きはホテルの警備会社という名目だが、その目線と立ち居振る舞いは、明らかに"その筋"の人間のものだった。

 入り口脇には、豪奢な金色の案内板が立てられている。


> 『関東極道懇親会 -第十一回 主催・木下商会』

会場:瑞雲の間(3F特別宴会場)

ご招待者以外の立ち入りは固くお断り申し上げます。


 ロビーの真ん中、受付を務めていたのは、五十代半ばと思しき和装の男だった。

 浅黒い肌に深く刻まれた皺、無駄のない所作と、鍛え抜かれた背筋。

 目の前のすべてを冷静に見通すようなその眼差しには、鋭さよりもむしろ、確かな洞察力が滲んでいた。

 その背後には、スーツを包んだ十数名の若衆が、無言のまま控えていた。

 この者たちも、ただ立っているだけで異様な気配を放っており、並の者とは明らかに一線を画していた。

 一見無表情だが、常に周囲の動きを把握しているような目の動き。些細な異変にも即座に反応できる――そんな"実戦経験者"の気配が、全身から漂っていた。

 整然と並んだその姿は、主催側の格の高さと、この場の厳粛さを如実に物語っている。

 ロビーの奥にはエレベーターが三基。

 和装の男が一組一組の招待状を丁寧に確認し、わずかに頷くと、背後の若衆がひとり前に出る。

 無言で一礼し、客人をエレベーターまで案内すると、静かにボタンを押して乗り込む。

 そのまま、三階――「瑞雲の間」へと客人を送り届けるのだった。

 その時、楓、佐竹、鬼塚の三人が、ゆっくりとロビーに足を踏み入れる。

 今日の場は、極道世界における数少ない正式な場。

 そうであるからこそ、黒楓会を代表して出席するのは、会長の玄野楓と、組の立ち上げから支え続けてきた最古参の佐竹重義、そして初期から行動を共にしてきた武闘派の鬼塚大地――それが筋だった。

 その三人の姿がロビーに現れた瞬間、和装の男は一歩前に出て、三人を正面から迎えた。

 「ご来賓の方、恐れ入ります――ご招待状を拝見してもよろしいでしょうか」

 楓はわずかに口元を緩め、小さく微笑んだ。

 胸元から招待状を取り出し、静かに差し出す。

 和装の男はそれを恭しく受け取り、一瞥したのち、口元に穏やかな笑みを浮かべて頭を下げた。

 「これはこれは……黒楓会の会長殿にお越しいただけるとは。お噂は、随分と耳にしております。わたくし、木下商会の鈴木三四郎と申します」

 その名を聞き、楓は一瞬、心中で反芻する。

 三四郎……夏目漱石の作品にもあった名前だ。

 楓は穏やかに口を開いた。

 「はじめまして。黒楓会会長、玄野楓だ。」

 「……ここで立ち話というのも無粋でしょう。どうぞ、早速中へお進みください」

 鈴木は恭しく一礼すると、背後の若衆に視線を送った。

 「お三方をご案内申し上げろ」

 「はっ」

 声を揃えた返事ののち、若衆のひとりが一歩前に出る。年の頃は二十代後半、柔らかな物腰ながら、視線の鋭さと身のこなしには、鍛え上げられたものがあった。

 「ご案内いたします。どうぞ、こちらへ」

 手早くエレベーターの扉が開けられ、楓たちはそれに続いて歩き出す。

 重厚なロビーの空気が、ゆっくりと背後に遠ざかっていった。

 エレベーターに乗り込むと、若衆の男が、扉が閉まると同時に静かに口を開いた。

 「恐れ入りますが、当会では規定により、すべての武器類はお預かりさせていただいております。お帰りの際には、確実にご返却いたしますのでご安心くださいませ。

 なお、会場内の安全は、我ら木下商会が責任をもってお守りいたします。」

 佐竹は横目で楓に視線を送る。無言の問いかけに、楓は余裕を漂わせた笑みで応じ、ゆっくりと胸元から拳銃を取り出して差し出した。

 それを見た佐竹も無言で頷き、自らの拳銃を同様に若衆の男に手渡す。

 男は続いて鬼塚に視線を向けた。だが鬼塚は腕を組んだまま鼻を鳴らすと、短く吐き捨てた。

 「チッ、俺はそんなもん持ち歩かねぇよ。必要ねぇからな」

 若衆の男は一瞬迷ったように楓の方を見やる。楓は穏やかに微笑み、軽く頷いた。

 「……畏まりました。ご協力、感謝いたします」

 エレベーターが静かに開くと、目の前に広がっていたのは――「瑞雲の間」と書かれた金箔の額が掲げられた、重厚な扉。

 分厚い絨毯が足元に敷き詰められ、壁面は漆塗りと金箔をあしらった雅な装飾が施されている。格式と権威、そして緊張が入り混じった空気が漂っていた。

 若衆の男が一歩前に出て、扉の前で軽く頭を下げた。

 「こちらが、会場でございます」

 男が静かに扉を押し開けると、中ではすでに数組の組織が揃っており、円卓ごとに分かれて着席していた。皆、黒や紺のスーツや和装に身を包み、視線を向ける先には、未だ席に着いていない一角――つまり、黒楓会の三人に注がれる視線。

 場が、わずかに静まった。

 楓はその全ての視線を真正面から受け止めながら、まるで通り雨でも避けるかのような落ち着きで歩を進めた。

 その堂々たる背中に敬意を抱きつつ、佐竹も静かに続いた。長年の修羅場をくぐってきた佐竹にとっても、こうした格式張った場は気を抜けない。だが、その足取りに迷いはなく、全身に漂う空気も変わらず穏やかだった。

 一方、鬼塚はというと――

 「……ちっ、こういうのは性に合わねぇな」と小声で吐くが、歩みは乱さない。

 こうした正式な場に臨むのは初めてだった。表情は崩さず平静を装っているが、視線の動きや呼吸に、普段とは異なる緊張がにじんでいた。

 「……若いな、あれは誰だ?」

 「ほぉ……」

 「あれが噂の……」

 低い声のざわめきが、会場のあちこちから微かに漏れる。

 「来たか。」

 中央の二つテーブルの左側、彫りの深い顔立ちに引き締まった顎。薄く笑みを湛えた自信に満ちた口元。長身は180センチを優に超え、何よりも目を引くのは、派手な金髪のロングヘア。

 重厚な椅子に背を預けているのは、湘北連合総番長――獅子倉英司。

 その背後には、陰鬱な隈を湛えた痩身の男と、腕まわりのスーツがはちきれんばかりの筋骨隆々な大男が、控えるように立っていた。

 湘北連合総参謀長・猿飛隼人と、湘北連合エース・熊谷隆志。

 「へぇー……あれが、玄野楓か」

 軽く笑うような口調で呟いたのは、獅子倉英司のすぐ向かいに座る男。年齢は三十代とも四十代ともつかないが、端整なスーツを完璧に着こなし、整った髪型に、どこまでも誠実そうな笑みを湛えている。

 その姿は、まるでこの場に似つかわしくない――「正義を掲げる政治家」そのものだった。

 だが、そこに居合わせた誰もが知っている。この男こそ、湘北連合にとって最大の敵にして、今や関東四大勢力の一角――三河会会長・三河雅。

 その背後には、落ち着き払った眼差しの三十代男と、スーツに身を包み、ポニーテールを揺らす男が控えていた。

 三河会四柱、加藤昭彦と、同じく四柱、犬飼武文。

 犬飼は、会場へと歩み入る玄野楓の姿を目にした瞬間、その表情を一変させた。

 朗らかさの欠片もない、鋭利な刃のような視線が、楓の一挙手一投足を射抜く。

 口元は強く結ばれ、頬の筋肉がわずかにぴくりと動いた。

 ――まるで「何故、貴様がここにいる」とでも言いたげな、敵意と警戒の混ざった眼差し。

 その変化に気づいたのか、隣の三河雅が軽く目線を動かした。

 会場の中央、楓は一通り見渡すと、迷いなく歩き出した。

 その視線の先には、獅子倉と三河が並ぶ中央の席。

 佐竹と鬼塚も、無言のままその背を追った。

 楓たちの動きを見て、会場の空気がざわりと揺れた。

 獅子倉は不敵に口元を歪め、三河雅は目を細め、どこまでも柔らかな笑みを浮かべた。

 加藤昭彦は微動だにせず、無表情のまま楓を見つめ、犬飼武文は露骨に表情を険しくした。

 他のテーブルでも反応は様々だった。

 唖然と目を見張る者、興味津々で身を乗り出す者。

 それらの視線には、敬意、警戒、羨望、悪意――入り混じった感情が、楓の背に突き刺さっていた。

 「……どこに行く気だ? まさか……」  

 「やはり、あれが千葉の……」

 「ククッ、大した度胸してやがる」

 楓は、周囲の視線を一切気にする様子もなく、まるで自分の指定席であるかのように、獅子倉と三河の間にある空席へと歩み寄った。

 そして、無造作に椅子を引くと、静かに腰を下ろした。

 「失礼する――会ったことある人もいるけど、はじめまして、黒楓会会長、玄野楓だ。」

 「これはご丁寧に。……黒楓会会長、君の噂は耳にタコができるほど聞いていますよ。ようやくお目にかかれて光栄です。」

 「俺は二度目だ。黒楓会の……そうか、もう"ここ"に来たか」

 獅子倉は、意味ありげに口元を歪めた。

 "ここ"とは、物理的な場所ではない。地位のことだ。

 かつて稲毛海岸で楓と対峙したとき、獅子倉はこう言った。

 ――テッペンで待ってるってな。

 あれから半年。黒楓会は、かつて雲の上だった旧三大勢力と並び立ち、四大勢力の名を冠されるに至った。

 楓は静かにテーブルを見渡し、やがてその視線を三河に止めた。

 そして、ゆっくりと微笑みながら、初めて真正面からその男を見据えた。

 その瞬間、胸の奥に妙な既視感のようなものが湧き上がる。

 三河もまた、同じように楓の視線を受け止めた。

 ふたりは、どこか似ていた。

 それは外見や雰囲気ではなく――目の奥に潜む、底知れぬ"闇"だった。

 これまで楓は、数多の人間と目を合わせ、その内面を読み取ってきた。

 だが三河の眼差しには、何も映っていなかった。

 深く覗いても、手応えすらない。ただ広がる虚無が、返ってくるだけ。

 三河もまた、同じ感覚を抱いていた。

 楓の瞳を覗いた時、そこには計り知れぬ深さと、引きずり込まれるような重みがあった。


 似ている。けれど、決定的に異なる。


 楓の闇は、見る者を飲み込む"吸引"の闇。

 三河の闇は、見る者に染み出し、心の隙間から侵食していく"拡散"の闇。

 光を拒む二つの闇が、今、正面から交錯していた。

 その瞬間、二人の思考が静かに一致した。

 ――この男は、極めて危険だ。いずれ必ず、排除しなければならない。

 だが、そんな結論を下しながらも、二人の顔には変わらぬ微笑みが浮かんでいた。

 テーブル越しに繰り広げられる静かな対話――否、宣戦布告。

 隣でそれを見ていた獅子倉は、あえて割って入ろうとはしなかった。

 いまここで交わされているものが、言葉ではないことを理解していたからだ。

 そんな空気を切り裂いたのは、再び開かれた扉の音だった。

 場の温度が、わずかに揺れる。

 全員の視線が、自然とその入り口へと注がれた。

 「……これはまた……」

 「ようやく、四枚目が揃ったか」

 静かに入ってきたのは、和装姿の若き男。その立ち姿は凛とし、研ぎ澄まされた空気を纏っている。

 群馬を本拠地に据える、四大勢力の一角――三代目斎藤会。

 そして、その若き総帥にして、"平成の任侠"の異名を持つ斎藤浩一だった。

 まだ二十歳前後の青年でありながら、その纏う風格は、歴戦の大物ですら無言にさせる威圧を持っていた。

 斎藤の姿が現れた瞬間、ある者は息を呑み、ある者はわずかに表情を強張らせる。

 これで、四大勢力が――すべて、ここに集結した。


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