5 黒楓
混乱を押し殺し、佐竹は浅く息を吐いた。
「……断る」
鬼塚の仲間たちがざわめく。だが、楓はまったく動じず、むしろ薄く笑みを浮かべた。
楓はますますこの男に興味を持った。
しかし、今は時間がない。作戦がまだ終わっていない。
指を銃身に沿わせながら、考えるようにトントンと叩く。ふっと鬼塚に向けた。
「鬼塚、奴らの主力はいつ戻る?」
名前を呼ばれ、鬼塚はまだ目の前の出来事を完全に飲み込めていない様子だったが、すぐに答えた。
「……あと15分くらいだ」
「十分だ。外で待ち伏せしろ。一匹たりとも逃がすな」
楓は冷静に指示を出しつつ、横目で佐竹の反応をうかがう。
そして——
佐竹の表情は硬く、内心で何かを巡らせているのが伝わってくる。
確かに、古川には失望した。
だが、それでも幹部として、部下たちを見捨てるわけにはいかない。
組長が殺された今、残った部下たちの命は、自分が背負うしかない。
深く息を吸い込み、佐竹は口を開いた。
「待てぇ」
楓は背を向けたまま、続きを待つ。
「……古川組はもう終わりだ。これ以上やり合っても意味がねぇ。」
佐竹は拳を握りしめ、ゆっくりと顔を上げる。
「俺一人で、ケジメをつけさせてくれ」
すべてが、楓の読み通りだった。
「解放してやれ」
鬼塚は一瞬ためらい、楓の顔を見る。
「しかし……」
「いいんだ」
「……わかった」
族たちは警戒しつつ、縛っていたロープを解いた。
佐竹は立ち上がり、驚き、戸惑い、そして疑念を滲ませる。
「……少し待ってろ」
それだけ言い残し、ゆっくりと歩き出した。
——10分後。
古川組の主力たちは、予想よりも早く、事務所のすぐ近くまで迫っていた。
だが、佐竹は部下たちを事務所に入れず、低く告げた。
「……組長と大城は、俺たちを裏切って逃げた。」
一瞬で場の空気が凍りつく。
「……は?」
「嘘だろ……」
「本当すか、佐竹さん……!?」
部下たちは困惑し、ざわめきが広がる。
だが、佐竹は言い切った。
「詳しい話は後日だ。今日は解散する。」
その声は何かを含んだように響く。
部下たちは互いに視線を交わし、言葉にならない疑念を抱いた。
しかし、佐竹はこれまで確かな信頼を築いてきた、だからこそ、部下たちは納得できないながらも、従うことにした。
部下たちが背を向け、一人また一人と暗闇に消えていく。
その背中を見送りながら、佐竹はほんの一瞬、寂しげな目を向けた。
だが、すぐに視線を逸らし、事務所へ戻った。
室内に入ると、目の前には、にやにやと笑う楓と、微妙に緊張した様子の族たちがいた。
鬼塚ですら、眉間に軽く皺を寄せ、佐竹の出方を伺っている。
佐竹は一通り室内を見渡し、床に腰を下ろし、目を閉じた。
「……待たせたな。約束通り、あとは好きにしろ。」
その言葉には、感情がない。
諦めでも、怒りでもなく、ただ淡々とした響きだけが残る。
本当に戻ってきやがった。
さすがの鬼塚たちも、この男に対して敬意を抱かざるを得なかった。
裏切られたにも関わらず、部下を守るため、約束を果たすために、ここへ戻った。
普通の極道なら、あり得ない行動だ。
場に静寂が落ちる。
全員の視線が、一人の少年へ向かう。
玄野楓。
楓はゆっくりと佐竹の方へ歩み寄る。
足音が、やけに大きく響く。
コツ……コツ……
音だけが、薄暗い室内に残響する。
佐竹の目の前で立ち止まり、楓は静かに彼を見下ろした。
「あんたの命は俺のものだ。殺すのも、活かすのも——俺が決める。」
佐竹は無言のまま、けじめの時を待っていた。
だが——
楓は一拍置いてから口を開いた。
「自己紹介が遅れたな。俺は——玄野楓だ。」
全員の視線が楓へと集まる。
初めて耳にする名前。
それも当然だった。ほんの数日前まで、楓はただの学生に過ぎなかったのだから。
沈黙を破ったのは、鬼塚だった。
「……テメェ、どこの組のもんだ?」
「どこの組? そんなもん入ってない。」
楓は人畜無害ない顔で続けた
「これから新しい組織を作るんだ。話した通り、あんたらにも入ってもらう。」
その言葉に、族たちがざわめいた。
佐竹はゆっくりと目を開き、楓を見据える。
「古川組の代わりに、俺たちがこの街に君臨する。古川組のシマは、俺たちが引き受ける。」
声は冷静で揺るがない。
まるで、それが当然のことであるかのように。
鬼塚は鼻で笑い、腕を組んだ。
「偉そうに言ってくれるじゃねぇか……で? 俺らだけでできるとでも思ってんのか?」
他の族も、不安げに視線を交わし始める。
確かに、ただでさえ暴走族はヤクザに狩られている状態だ。
組を潰したとはいえ、いきなりそのシマを乗っ取れるほど、単純な話じゃない。
「分かってないな、鬼塚。」
「……んだと?」
「できるかできないかじゃない。"やる"んだ。"やるしかない"んだ。」
その言葉が、鬼塚の胸に重くのしかかる。
「変わりたきゃ、俺と共に来い——そう言ったはずだ。」
鬼塚は言葉を詰まらせた。
確かに——今まで逃げるしかなかった自分たちが、こんなにもあっさりと古川組を潰すとは、正直思いもしなかった。
これは千載一遇のチャンスだ。
ただ走るだけでは、いずれ滅びる。族の時代が終わりを迎えるのは、時間の問題。
もし生き延びる道があるとすれば——それは、今まさに目の前にある。いや、この男が示した道だ。
鬼塚は床に横たわる死体を見つる
(……変わりたきゃ、俺と共に来い、か。)
「チッ、いいだろう。ヤクザだろうが悪党だろうが、乗ってやらぁ。ただ、これだけは言っとくぞ。」
鬼塚の目つきが鋭くなる。
「もし俺の子分を捨て駒にするような真似をしやがったら——テメェをぶっ潰してやるぞ。」
族たちは、その言葉に目を潤ませながら鬼塚を見た。
やはり、この人についていくのが正しかった。
楓は真剣に答えた。
「無論だ。」
その時。
「極道を甘く見るんじゃねぇ。」
ずっと無言だった佐竹が横から。
「……おめぇ、頭は切れるがな——」
佐竹は厳しい視線を向け、続ける。
「だが、甘ぇ考えでこの世界に入りゃ、すぐに喰われて終わりだ。」
重く響く言葉。
しかし、楓は微動だにせず、佐竹の目をまっすぐに射抜いた。
「だから、あんたの力が必要だ。あんたほどの男が、こんなところで終わるのは惜しい。」
わずかに間を置き、楓はさらに言葉を紡ぐ。
「手を貸せ。いや——俺と共に来い。」
佐竹は楓の目を探るように見つめる。
だが、そこに映るのは深い闇だけで、何も読み取れなかった。
デビュー以来、佐竹は数え切れないほどの目を見てきた。
上に立つ者、成り上がろうとする者、裏切る者、欲にまみれた者——
そこに潜んでいた 欲望、殺意、期待、嫉妬、悪意、警戒、軽蔑、決心、動揺——どんな感情も見抜ける自信があった。
だが、目の前の少年の瞳は——まるで全てを吸い込むブラックホールのようだった。
佐竹は、諦めたように重く息を吐いた。
それに——横に立つ鬼塚の顔が目に入った。
子分を守ろうとするその姿に、どこか 自分と似たものを感じた。
(……こんな若者たちを放っておくわけにはいかねぇか……)
佐竹は苦笑した。
「少しだけ、時間をくれ。」
楓は頷く。
佐竹はゆっくりと古川の死体の前に歩み寄る。
そして、静かに膝をついた。
両拳を床につき、頭を深く下げる。
「短ぇ間でしたが、お世話になりやした。——盃、返させてもらいます。」
重い沈黙が落ちる。
族の連中は固唾をのんでその姿を見守っていた。
「……さて、」
佐竹はゆっくりと頭を上げ、楓に向き直った。
「俺の名は、佐竹重義。」
まっすぐに楓を見据え、言葉を続ける。
「微力ながら、力にならせてもらいやす。」
深く頭を下げた。
「今後とも、よろしく頼みやす。」
こうして、楓はようやく自らの組織を立ち上げた。
その名は——黒楓会。
暴走族《悪覇連棒》はそのまま黒楓会に併合され、組織の実働部隊となった。
これまでの特攻服を捨て去り、黒のスーツに楓色のネクタイ——それが新たな"戦闘服"となる。
"族"ではなく、"組織"としての再編。それは、時代の変化に対応するための選択でもあった。
古川組の残党への対応も、慎重に進められた。
後日、佐竹がかつての仲間たちの前に立ち、頭を下げる。
そして、すべての真相を明かした。
組長・古川誠の死。
それが何を意味するのか——もう、誰の目にも明らかだった。
納得できない者もいた。
しかし、極道の世界では、"負けた者"に未来はない。
古川組はすでに終わった。
その事実を突きつけられた組員たちは、選択を迫られた。
結果——半数以上が佐竹についていくことを決断した。
佐竹は、古川組の生き残りを束ね、新たな黒楓会の骨格を築き上げた。
一方、鬼塚はその武力で組織の戦闘力を底上げし、実行部隊としての機能を確立させた。
頭脳派の佐竹と、一騎当千の鬼塚。
この二人の支えによって、黒楓会は間もなく古川組の縄張りを完全に手中に収めることとなる。
——新たな勢力が誕生した。
教室の中、教師の単調な声が響く。
「He was overflooded with satisfaction…」
しかし、ほとんどの生徒は聞いていない。
誰かとおしゃべりをしている者、机に伏せて寝ている者、漫画を読んでいる者、そして——空いたままの井上の席。
そんな中、楓だけは静かにノートを取っていた。
「では玄野くん、今の文章を和訳してください。」
突然の指名。
楓はゆっくりと立ち上がり、教科書に視線を落とす。
その顔には焦りの色など一切ない。
まるで、答えなど既に頭に入っていたかのように、余裕を持って口を開いた。
「遂に夢を現実のものとした彼は、その至福の喜びに浸っている。」
教師が満足げに頷く。
「よく出来ました。さすがは玄野くん、皆さんも——」
楓は席につき、ノートを閉じた。
窓の外へと視線を向ける。
秋の空は澄み渡り、どこまでも青い。
誰も気づかない——楓の口元に、微かな微笑が浮かんでいたことを。