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48 買収

 「いけーー!」

 犬飼が叫んだ。

 部下は反射的に走り出す。もはや思考の余裕などなかった。

 ――工場内に、火災報知器のけたたましいブザーが鳴り響く。

 影小隊の隊員たちが、即座に異変を察知した。

 「しまった! 消防が来る!」

 「副隊長、指示を!」

 無線に焦りが走る。

 矢崎は落ち着いていた。

 ……犬飼も捕まるのは避けたいはず。なら、必ず隙を見て逃げる。

 矢崎は無線のスイッチを押した。

 「全員、構えろ。やつは、そろそろ現れる」

 「「了解!」」

 ――その瞬間

 点滅の赤いランプに紛れて、一つの人影が工場から飛び出してきた。

 逃げるように走る、その背を――

 「犬飼さん、待ってくれ!」

 後ろから、もう一つの声が追いかけてくる。

 叫びに応じて、最初の人影が一瞬だけ振り返る――

 その刹那

 バァン! バァン! バァン!

 複数の銃声が同時に轟いた。

 人影が、信じられない表情のまま崩れ落ちた。

 「……まだ一人、残ってる!」

 誰かが警戒の声を上げる。

 だが――

 「引き上げるぞ。犬飼は死んだ。雑魚に構うな」

 矢崎が即座に指示を飛ばした。

 影小隊は無駄な追撃を避け、速やかに撤退していく。

 誰もが気づくことなく、撃たれたのは――犬飼ではなく、その部下だった。

 そしてその直前、響いていたあの叫び――「犬飼さん、待ってくれ!」

 叫んだのは、まさか犬飼本人だった。

 黒楓会の銃口を欺くために、部下を囮にした。

 ――それが、犬飼武文のやり口だった。

 影小隊が立ち去り、工場にはけたたましいブザー音だけが虚しく響いていた。

 粉塵と油の匂いが混じる薄暗い空間。その片隅に身を潜めるようにして、犬飼武文はじっと動かずにいた。

 顔には怒りとも焦燥ともつかぬ険しさが刻まれている。

 「……これが影小隊、か。見くびっていたな」

 黒楓会には、暗殺や情報工作に特化した精鋭部隊がいる――そう聞いてはいたが、まさかこれほどの射撃能力とは思わなかった。

 動きに一切の無駄がなく、銃撃の精度も桁違い。あれは単なる構成員の延長ではない。

 まさに、殺すために訓練された兵隊だ。

 犬飼も並みの人間ではない。

 格闘術にも長け、これまで何度も死線を潜ってきた。しかし、人間がいくら鍛えていようと、複数の銃口を前に素手でどうにかできるわけがない。

 歯噛みするように顔をしかめ、彼は血の混じった唾を吐いた。

 「これで終わりと思うなよ……玄野楓。

 この借りは――倍にして返してやる!」



 一晩の騒ぎがようやく落ち着いた頃、時刻はすでに深夜三時を回っていた。

 「死傷者の救助を最優先に。あとは証拠の処理も忘れるな」

 佐竹が現場の後始末を指揮していた。

 黒楓会の面々は、幹部たちの奮戦と会長の見事な采配に感服しながら、勝利の余韻に浸っていた。

 鬼塚、龍崎、矢崎らも、どこか安堵した様子を見せている。

 ――そんな中、ただ二人だけ、険しい表情を崩さない者たちがいた。

 会長玄野楓。そして、影小隊隊長佐藤守。

 「先程、HF法律事務所に確認したところ、やはり村上泰之という人物は存在しませんでした。戸籍情報の照会は、昼間でないと……」

 「多分、戸籍にもないだろうな」

 「……恐らく、ですね」

 これで確信した。

 ――村上弁護士は、自分に"気づかせる"ために現れたのだ。

 認めたくはないが、あの村上の、わざとらしい言動がなければ、自分はまんまと、犬飼の計画に嵌められていたに違いない。

 だが、一体何の目的で? そもそも、どうして事前にこの計画を知っていた?

 考えられるのはただ一つ――敵の内部に裏切り者がいるということだ。

 犬飼も同じ結論に至った。だからこそ、湘北連合の長谷川に問いを投げかけたのだ。

 実際のところ、二人の分析は半分しか当たっていなかった。

 確かに、内部には裏切り者が存在した。

 ――しかし、その人物は、事前に計画を知っていたわけではなかった。



 横浜のとある平屋。

 「……以上、今夜の一件は、犬飼の敗北という形で収束しました。」

 グレーのスーツをまとい、眼鏡越しにやや疲れの見える顔立ち。

 控えめな所作で立つその中年の男は、感情を排した声で淡々と報告を続けていた。

 「お疲れ、"村上弁護士"――いや、"千変"、影山公明。」

 "千変"と呼ばれた中年の男は、口元を歪めると、静かに眼鏡を外した。

 その瞬間、疲れた表情は消え、目つきが鋭さを帯びる。

 わずかな変化にすぎない、しかしそれだけで、まるで別人に見える。

 ――"千変"影山公明――その異名は、単なる変装や姿かたちの偽装を指すものではない。

 彼は、実に千の身分を持つ男だった。

 かつて、かのアメリカ銀行を手玉に取り、数十億円を詐取した伝説の詐欺師――その名を知らぬ者など、裏社会には存在しない。

 「いやはや、すべてが貴方様のお見通しでしたね。さすがは湘北連合の総参謀長――稀代の策略家、猿飛隼人様。」

 「買い被りですよ。」

 猿飛は深い隈を浮かべた目を細める。病的に痩せた体躯に、どこか影のある微笑みを浮かべながら、淡々と応じた。

 「かの三河会・四柱の一人、犬飼武文の策を見破り、

 その上、黒楓会会長・玄野楓の動きまで正確に読み、導いた。

 ――極道の世界で、ここまでの知略を持つ人物は、私の知る限り、貴方様だけです。」

 湘北連合の幹部の一人、猿飛は今回の作戦に直接関わってはいなかった。

 実際に三河会と手を組んで密謀を進めていたのは、顧問・長谷川宗一郎だった。

 しかし猿飛は、連合内部のわずかな動きから、その全体計画を見抜いていた。

 「……やはり、あの玄野という男、面白いですね。

 ほんの少しのヒントで、即座に犬飼の裏をかくとは――英司さんがあの男を気にする理由、よく分かりますよ」

 「しかし……なぜ貴方様が、玄野楓にわざわざ手の内をお見せになったのですか? 黒楓会が潰れたほうが、我々にとっても都合がいいのでは……」

 「……まだ、やってもらわねばならぬ役割があります。ここで退場されては、困るのですよ」

 その落ち着きぶりは、まるで千手の後手までも見通しているかのようだった。

 謙遜でも傲慢でもない。まさしく――湘北連合・総参謀長の風格。

 「一体、貴方様はどんな未来を描いておられるのか……ククッ、楽しみでなりませんね」



 長い一夜がようやく明けた。

 その翌日、楓は学校を休み、ある人物に会いに向かった。

 千葉市内の旧市街地にある老舗料亭の裏口に、一台の黒塗りの車が滑り込むように停まった。

 店の暖簾はすでに下ろされており、表は人気がないが、通されたのは奥の個室。障子越しに灯る明かりと、沈んだ空気だけがそこにあった。

 「お待たせしました」

 「いや、こちらこそ貴重な時間をありがとう」

 楓はすぐ立ち上がり、形だけの礼を示して座るよう促した。

 入ってきた男は、小野良明。三十代後半の千葉県議会の有力議員。

 表向きは温厚で親しみやすい、地域密着型の政治家として知られていた。

 しかし裏では、検察、警察、そして複数の企業と密かに結びつき、己の影響力を巧みに広げていた。

 佐藤守の調査によれば、小野議員は平民の出であり、親族の中に政治家は一人として存在しなかった。

 血筋も地盤も欠いた小野が築ける地位には、そろそろ限界が見え始めていた。だが、小野自身には強烈な出世欲があった。だからこそ、楓は彼を選んだ――欲に突き動かされる者ほど、操るのは容易い。

 小野の視線が、室内の男に向けられる。

 黒のスーツに、深い楓色のネクタイ――だが、その顔立ちはどう見ても若すぎる。二十代……いや、学生にしか見えない。

 「……君が、黒楓会の会長の?」

 楓はわずかに頭を下げ、穏やかに口を開く。

 「紹介が遅くなったな。俺が黒楓会会長、玄野楓だ。今日は時間を取ってくれて感謝してるよ、小野議員」

 見た目によらず、楓の立ち居振る舞い、目線の動かし方、声の調子、それらすべてが、政治の世界で何度も修羅場をくぐってきた小野良明にすら、一瞬の静かな圧を与えていた。

 ……なるほどね。噂以上だ

 小野は薄く笑い、手を差し出す。

 「はじめまして。千葉県議会議員の小野良明です。……さて、玄野さん。今日はどんなご用件で?」

 言葉が終わるころ、背後からスタッフが静かに現れ、コース料理の皿を順に並べ始めた。

 楓は差し出された手を軽く握り、微笑すら浮かべずに言った。

 「お食事でもしながら、話を進めましょうか」

 テーブルには、淡く冷やされた吟醸酒と前菜が並べられた。

 器もまた、一流料亭らしい静かな趣を湛えていた。

 世間話を交えながら、小野は箸を進めていた。

 適度な緊張と和やかさが入り混じり、絶妙な空気がそこには流れていた。

 最後の一品が下げられたタイミングで、小野は盃を静かに卓へ戻し、ゆっくりと楓に視線を向けた。

 「……最近、少々物騒な噂を耳にしましてね。

 玄野さんの"お仲間"が――どうやら、逮捕されたらしい」

 小野の声には、微かな探るような響きが混じっていた。楓の出方を見ているのだ。

 楓はその意図を正面から受け止め、まっすぐに小野の目を見返した。

 そして、不意に笑った。

 「その件で、わざわざ議員を煩わせると考えたのなら……それは誤解だ」

 小野は楓の反応に、わずかに眉をひそめた。

 「――違ったのですか?」

 「それも一つだが……」

 楓は湯呑みを一口すすってから、静かに置いた。

 「小野議員は、今の立場に満足してるのか?」

 「……どういう意味でしょうか?」

 楓は口元にわずかな笑みを浮かべ、視線を逸らさずに言った。

 「来年は千葉県知事選がある。小野議員、興味はないのか?」

 「……!」

 小野はわずかに目を見開いた。まさか、この場でその話が出るとは――

 「……あると、言ったら?」

 「力を貸す。必要なだけ、な」

 楓は淡々と答える。語気も表情も揺らがない。

 小野は無言のまま、楓の目を見つめた。だが、その漆黒の瞳からは、何も読み取れなかった。

 まるで、底の見えない井戸を覗き込んでいるような感覚だった。

 「……しかし、タダより怖いものはないとも言いますよ」

 小野が揶揄するように笑みを浮かべる。

 楓はその言葉に、軽く笑った。

 「クク……単刀直入に言おう」

 言葉の調子が一段、低くなる。

 「俺と手を組まないか。――俺は金も票もある。政治的な実績も、欲しけりゃ作ってやる」

 楓は真っ直ぐに小野を見据えた。

 それは虚勢ではなかった。

 金は潤沢にある。

 票もまた、黒楓会の縄張りに圧力をかけることで、飲食業、建設業、物流業を通じて動かすことが可能だった。

 シマそのものが、潜在的な票田だった。それは、極道の世界でも政治の舞台でも、誰もが口に出さぬ暗黙のルール。

 「その代わり……黒楓会が必要とするときは、あんたの"便利"を使わせてもらう。」

 小野は沈黙に落ちた。

 政治家が裏に財閥やヤクザを後ろ盾にすることは、珍しい話ではない。むしろ、平民出身の政治家にとっては必要な後ろ盾だとも言える。

 だが――玄野楓という男の素性を、小野は何ひとつ知らない。下手に乗れば、あとで何を要求されるか分かったものではない。

 躊躇う小野の前で、楓は一枚のメモを差し出した。

 「……!!」

 数字が並んでいる。1、2、3……ゼロが多すぎる。

 「UBSの匿名口座だ。受け取るがいい」

 その言葉に、小野の喉がごくりと鳴る。

 ――UBS。スイス最大手の銀行にして、その匿名性の高さで知られる機関。世界中の闇取引が、捜査機関の目を避けるために、こぞって利用している。

 「……さん、ぜん……三千万……?」

 小野の声がかすれた。

 「ただのご挨拶代わりだ」

 小野は未だ動揺を抑えきれず、深く息を吐いた。

 「……しかし、なぜ私に? 現職で最有力なのは、与党の石田康信議員のはずだが……」

 楓は淡く、感情のない声で告げた。

 「彼は――事故で亡くなる予定だ」

 「……なっ!?」

 小野の目が見開かれる。

 それは、ただの事故予告ではなかった。

 政治の舞台で長らく経験を積んできた小野は、すぐに楓の言葉の裏に潜む意味を察した。

 一つは、「お前の敵なら――俺が排除する」。

 もう一つは、「もしお前が俺の敵なら――同じように、いつでも消せる」ということだ。

 目の前のメモをじっと見つめ、小野は長い沈黙に沈んだ。

 楓はまるで気にした様子もなく、湯呑みを口に運ぶ。

 どれほど時間が経ったのか――もう分からない。

 やがて、小野はゆっくりと手を差し出した。

 「……分かりました、玄野さん。警察署の件は――きっと何かの行き違いでしょう。ご心配なく。これからも、よろしくお願いします」


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