46 偽報
事務所に戻ると、迎えたのは影小隊隊長の佐藤守と、背後に控える隊員五名だった。
室内には、まだわずかに薬品のような匂いが残っている。空気の大部分はすでに入れ替えられていた。
部屋の隅には、敵の死体が十体――乱雑に積み重ねられていた。しかしそこに視線を向ける者は誰一人いない、まるで、何もなかったかのように。
「お疲れ様です、会長」
佐藤守が姿勢を正し、静かに頭を下げる。
「状況は?」
楓が足を止めずに問いかける。
「は。おっしゃる通り、敵襲がありました。すでに――片付けてあります」
「被害は?」
「ありません。こちら側に負傷者なし。敵は全滅しています」
楓は称賛の目で佐藤守を見やる。
影小隊の隊員はどれもが黒楓会の精鋭で、一人でも欠けさせたくない。
「これからは反撃だ。」
全員の視線が、自然と楓へと集まった。
楓はゆっくりと口元を歪め、短く命じる。
「――黒楓会会長が死んだって情報を流せ」
佐藤守が一瞬だけ目を見開き、そして感服したように笑った。
「了解しました」
どんな絶境でもひっくり返せる。敵の策の裏をかく――これこそが、自分が命を預けた会長だ。
――船橋戦場
「なんだこいつ、強すぎるぞ!」
「いっきにかかれ!」
怒号と共に、スーツ姿の男たちが次々と襲いかかる。
その中心に立っていたのは――ただ一人の少年。
サイドを刈り上げたツーブロックに、きっちり撫でつけたオールバック。
いつもは無関心に見える目が、今はどこか落ち着いていた。
その手には、一本の木刀。
振るうたびに男たちの身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられる。
「えぃ、怯むな! こっちは三十人いるんだぞ!」
そう叫んだ男が、先頭に立って刀を振り上げた。
少年に斬りかかる。
「龍崎さん! あぶねぇっ!」
木刀が少年の額に迫る。あと一センチ――。
ふっと、少年の姿がかき消えた。
次の瞬間、斬りかかってきた男の身体が、3メートルも上空に跳ね上がる。
その真下。
少年は低く身を沈め、木刀の切っ先だけを天へ向けていた。
「……天道理心流 壱の太刀――霞」
少年、龍崎は、九条憲孝から天道理心流を学んでいる。 ただし、それは単に技を受け継ぐことではない。
天道理心流は、技術よりも"心"を修めることを重んじる流派。龍崎は、九条の型をなぞるのではなく、基礎から己を見つめ直し、自分自身に最も適した動きを磨き上げてきた。
「さすが龍崎さん……動き、全然見えなかったっす」
若中・平山が、目を丸くして呟く。
龍崎が来るまでは、船橋拠点の面々は必死に持ちこたえるのが精一杯だった。だが――
たった一人の加勢で、戦局は一気に逆転した。
スーツの男たちは、龍崎が木刀一本で自分たちを薙ぎ倒す姿を目の当たりにし、さっきまでの勢いを完全に失っていた。
「……こいつ……人間かよ……」
誰からともなく、そんな声が漏れる。
全員が動けず、互いに視線を交わし合うだけだった。誰一人として、もう一歩も前に出る勇気はなかった。
そのとき――
平山のポケットから着信音が鳴り響く。
「はい、平山です! 佐竹の兄貴、こっちは……はい……えっ!?」
突然、平山の表情が凍りついた。
目を見開き、口を半開きにしたまま、声を失っている。
「……うそ……だよな、会長が……」
「……!!」
その言葉に、背中を向けていた龍崎がふっと振り返った。
普段は無表情の彼の目に、動揺が走る――隠しきれないほどに。
スーツの男たちも、そのやり取りを耳にしていた。
「ククッ……どうやら作戦、成功したようだな」
「ここまでだな、黒楓会さんよ」
薄ら笑いを浮かべながら近づこうとしたその瞬間、龍崎の目が鋭く光る。
殺気を孕んだその睨みに、男たちは反射的に一歩後ずさった。
「は、はいっ……わ、分かりました!」
電話を切った平山が、青ざめた顔で龍崎に向き直る。
「龍崎さん……本部が襲われました。会長が……撃たれたそうです!」
龍崎の眉がわずかに動く。動揺を押し殺すように、唇がわずかに引き結ばれる。
「佐竹の兄貴が撤退を指示しました。龍崎さんには、退路の援護を最優先で頼んでくれと……仲間の無事を最優先に、って……」
しばしの沈黙。
龍崎は大きく息を吐き、感情を無理やり押し殺して答えた。
「……分かった。全員、撤収するぞ」
「逃げると思うなよ、あぁッ!?」
先ほどの醜態を忘れたかのように、スーツの男の一人が怒鳴り声を上げる。
隣にいた男が舌打ちした。
「今は行かせとけ。……目的を忘れたか、このボケ」
「っち、分かってるよ……。黒楓会の犬っころどもめ、ただで済むと思うなよ……クックック」
――八街拠点
鬼塚が拳を振り抜き、近藤を数メートル吹き飛ばした。
「テメェじゃ歯が立たん。出直してこい」
同じく力任せの荒い戦闘スタイルだが、近藤と鬼塚とでは、そもそもの地力が違いすぎた。
「いいぞ鬼塚の兄貴!」
「見たか極刀会! これが俺らのエースの実力だ!」
鬼塚が挑発するように、戦場を一望して吠えた。
「これで終わりってか? もっとマシな奴、いねぇのかよ!」
その叫びが響くなか、少し離れた場所で三人の姿が戦況を見下ろしていた。
「あれが黒楓会の鬼塚か。力はあるが、頭のほうは大したことなさそうだな」
白いスーツにポニーテールの男が、軽蔑を込めて笑う。
隣には、芸能人のような整った顔立ちの少年と、落ち着き払った中年男が立っていた。
少年――極刀会会長、白川優樹が冷たく口を開いた。
「ええ。あんなガキ大将風情に、三河会の"四柱"たる犬飼殿を煩わせる必要などありませんよ、九条先生」
「行って参る」
九条が手短にそう告げ、ゆっくりと歩き出した。
三河会"四柱"のひとり、犬飼武文。その名の通り、文武両道の逸材にして、今回の黒楓会壊滅作戦の主導者でもある。四柱の中でも異彩を放つ存在であり、頭脳と実行力を兼ね備えた男である。
すれ違いざま、犬飼は九条の背を見送りながら、わずかに目を細める。
才覚を誇る犬飼は、常に他人を見下ろしてきた。大抵の人間は、自分の足元にも及ばないとすら思っている。
今回に限っては、少しだけ――気にしている人物が二人いた。
一人は、黒楓会会長・玄野楓――狡猾かつ冷徹な策士。
そしてもう一人は、剣術の技量がすでに人外の域に達している男、九条憲孝である。
その時、一人の若衆が小走りで駆け寄り、一礼した。
「お疲れ様です、白川さん、犬飼さん。……たった今入った情報です。黒楓会の会長、玄野楓が本部事務所で撃たれたとのことです」
「……!!」
いつもは冷静な白川の顔に、明らかな驚きが走る。
「フッ。玄野楓も、所詮その程度か。がっかりだぜ」
犬飼が勝ち誇ったように鼻で笑った。
白川は瞬時に頭を回転させる。
……ありえない。あの玄野が、こんな浅い罠に気づかないはずがない。
昼間、突然現れた犬飼が「黒楓会を潰す」と言い放ち、八街への襲撃を命じた。
白川は楓に連絡を取ろうとしたが、犬飼はその隙すら与えなかった。
作戦の詳細も一切知らされず、夜には八街拠点への攻撃が始まり、同時に黒楓会の他の拠点も襲われたという情報が入った。
黒楓会の戦力を分散させた上で、本部を叩く――おそらく、それが狙いだ。
しかし、そんな露骨な仕掛けに、玄野が気づかないわけがない。
かつて敵として対峙したからこそ分かる――あの男の洞察力は、自分など遥かに凌駕している。
白川は胸に渦巻く疑念を押し殺しながら、静かに犬飼の横顔を見据えた。
まるで白川の疑念を見透かしたかのように、犬飼が薄く笑った。
「おやおや。――"どうして玄野楓が、こんな単純な策に引っかかったのか"……顔に書いてあるぞ、白川会長」
「……私も、何度も玄野とやり合ってきましたが……一体、どんな手を?」
「ククッ……所詮、凡人か」
犬飼は鼻で笑い、視線を戦場の鬼塚と九条の激戦へと移した。
「簡単な話だ。最初に"誘き出した"のは、玄野楓本人だ」
「……っ!?」
「政治関係に手を回して、市原の拠点にガサを入れさせた。奴が動かないはずがないだろう?」
「……なるほど」
道理で――警察が動いた以上、会長の玄野が出てこざるを得ない。 その隙に主力を炙り出し、最後に戻ってくる楓を始末する。
わずか数時間の電撃作戦。玄野に思考の余裕すら与えず、一気に黒楓会を潰す計画――恐ろしい男だ。
白川もまた智将であるがゆえに、すべてを語られずとも、少ない情報から全貌を読み取っていた。
戦場の向こう側に、黒楓会ざわつきはじめていた。
どうやらその情報が、現場にも伝わったらしい。
やがて、その騒ぎは動きに変わる。黒楓会は、明らかに撤退を開始していた。
白川は無言で、何かを思案していた。
一度は敵だった自分のために、果たせずにいた復讐すら肩代わりしてくれた――その恩に、まだ応えていない。
しかし、やはりおかしい。この手は確かに巧妙だが、玄野なら必ず気づくはずだ。
いや、そう信じたい。
だからここで取るべき行動は、玄野が犬飼の策を見破り、その裏をかく前提で動くことだ。
「犬飼さん、もし自分の読みが正しければ――この後は奴らを追撃し、本部に仕掛けた伏兵と挟み撃ちにして、黒楓会を殲滅する……という流れで、よろしいでしょうか?」
「ほぉ?分かってるじゃねぇか。」
犬飼は横目で白川を一瞥した。凡人にしては、まだ使える方だ。
白川の眼鏡が街灯の光を反射し、その目元を隠す。だが口元だけが、わずかに歪んでいた。
「――というわけで、車を」
「はいっ!」
若衆が一礼し、駆け出していった。
「行きましょう、犬飼さん」
二人は同じ車に乗り込み、黒楓会の車列を遠巻きに追っていた。
犬飼は窓越しに街を眺め、満足げに鼻を鳴らす。自ら描いた計画に、一片の疑念も抱いていない。
だが隣の白川は、どこか陰を帯びた表情で、静かに口を開いた。
「……恐れながら、犬飼さんのご計画に異を唱えるつもりはございません。ただ――あの玄野がいなくとも、黒楓会が無策で潰されるとは思えません。万が一に備え、私は前線に出ます。全体の指揮は、犬飼さんにお任せいたします」
犬飼は鼻で笑った。
「ふん、好きにしろ」
――玄野楓が倒れた今、犬飼にとって極刀会の価値はすでに薄れていた。白川を傍に置く意味も、もはやない。
むしろ、前線に出したほうが都合がいい。乱戦の最中――何が起きても、不思議ではないのだから。
犬飼と白川は、それぞれ思惑を胸に抱きながら、車を黒楓会本部事務所の約二キロ手前に停めていた。
助手席の犬飼が携帯を取り出し、落ち着いた口調で連絡を取る。
「……長谷川さん、そっちはどうだった?」
携帯越しに、ねっとりとした笑みを含んだ声が返る。
『クク……玄野は死んだらしい。作戦は成功したな。こっちは黒楓会本部のすぐ近くだ』
「こっちも同じだ。では、最終確認を取ったら、また連絡する。その時は……」
『黒楓会の滅びの時だ。ククク……』
通話が切れる。
静かな闇に包まれた、とある場所。
ふっと、携帯が震え、短く鳴った。
佐藤守は隣に立つ楓と目を見合わせ、すぐに応答ボタンを押す。
『今どうなってる。なぜ報告がない?』
通信越しの声は冷たく、苛立ちを滲ませていた。
足元には数台の携帯電話が並んでいる。それはすべて、黒楓会事務所を襲撃し、今は屍となった男たちの所持品だった。
佐藤は口元に手を当て、まるで覆面越しに話すかのように、意図的に声を濁した。
「……も、申し訳ありません……」
音声には微かな雑音が混じっていた。
『……まあいい。黒楓会の本部はどうなっている?』
「……すでに、占拠しました」
わざとらしく抑えた調子で答える。
『フン……分かった。そこを死守しろ。誰一人、中には入れるな』
「……はい」
短く返答し、通話は途切れた。
再び、静寂。
――全く疑われていない。
犬飼は、最初からこの者たちの声すら覚えていない。
彼にとっては、使い捨ての駒にすぎなかった。
一方――
犬飼は窓の外を眺めながら、勝利を確信したように口元を歪めた。
「全員……総攻撃だ」