表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
45/100

45 陽動

 事務所内――

 佐藤はキッチン脇のガス栓をひねり、無言で確認する。空気の中に、わずかな違和感が広がっていく。

 ドアも窓も、すべて締め切った。

 ライトとテレビはつけたまま。まるで中に誰かがまだいるように。

 影小隊の隊員たちを軽く手で制し、佐藤は裏口の小窓から静かに外へ抜け出した。

 続く隊員たちも、足音一つ立てずにその場を後にした。

 ――それから、約二十分後。

 ビルの前で見張り役の若衆が、あくびをかみ殺しながら携帯をいじっていた。

 そのとき、着信音。

 「はい!佐藤さん。何かご指示ですか」

 若衆は一瞬眠気を振り払い、姿勢を正す。

 「……分かりました。6人分の夜食ですね。すぐ買ってきます!」

 そう言って通話を切ると、小さく舌打ちしながら歩き出した。

 「あー、めんどくせぇ……」

 陰から様子を窺っていた男が、ようやく"今だ"と判断した。

 手の合図で周囲に指示を出す。

 黒い影が動く。

 一行、十名。足音を殺し、黒楓会の事務所ビルへと密かに接近していった。

 ビルの正面ドアは、鍵もかかっておらず、わずかに隙間が空いていた。

 用心深く先頭の男が覗き込み、拳銃を構えて室内へ足を踏み入れる。

 続いて二人、三人……静かに、慎重に、建物の中へと滑り込む。

 ――しかし、異様な静けさだった。

 人の気配があるはずなのに、誰も出てこない。

 テレビの音がかすかに流れていた。

 照明もついている。だが、人影はどこにもない。

 「……空っぽか?」

 「どういうことだ。確かにいたって報告が――」

 囁き交わす声の直後、奥にいた一人が不意に咳き込んだ。

 「……っ、なんだこれ……くせぇ……」

 別の一人も額を押さえ、浅く息を吐く。

 「おい、空調止まってんのか……?」

 その瞬間、ひとりがふらつき、壁に手をついてよろめいた。

 続けざまに、別の男が鼻を押さえてその場に崩れ落ち、膝をつく。

 「……っ、ちょ、これ……ガスか?」

 警戒していた隊列に、次々と動揺が広がる。

 誰かが叫ぶ前に、最初に突入した男が前のめりに崩れ、床に沈んだ。

 「……しまっ……た……これ、罠……っ」

 言葉が消えたときには、すでに視界が暗くなっていた。

 意識が混濁する中、誰かが最後の力で背後に手を伸ばす。

 だがその指先は、誰にも届かなかった。


 モニター越しに、その光景を冷静に見つめている男がいた――佐藤守。

 影小隊の隊長であり、元CIAの情報員。今回は楓の指示を受け、自ら罠の設計と実行を請け負っていた。

 映像には、事務所に突入した敵が次々と倒れていく様子が映っていた。

 もがく者、壁にすがる者、そして沈黙する影たち。

 佐藤は無言で指を動かし、脇に立つ端末の酸素濃度とガス拡散状況を確認する。

 ――14%以下:軽度の息切れ、集中力の低下(発現まで3〜5分)

 ――12%以下:ふらつき、判断力の喪失、吐き気(2〜3分)

 ――10%以下:意識混濁、昏倒(1〜2分)

 ――8%以下:昏睡状態、最悪の場合は呼吸停止(数十秒)

 すでに13%台に突入しており、ガスの濃度も均一に拡散しつつある。

 「……反応時間、予測通り」

 淡々と呟きながら、背後に控える影小隊のメンバーに指示を出す。

 「周囲に見張りや援軍がないか確認しろ。突入は五分後だ」

 「了解」

 低い声が返り、影小隊の5人が音もなく散っていく。

 佐藤はわずかに目を細め、モニターに映る倒れた敵の姿を見据えた。

 そして、ほとんど独り言のように呟いた。

 「……無策で踏み込む奴ほど、扱いやすい」


 一方その頃、楓・佐竹・矢崎の三人を乗せた車が、深夜の国道を走っていた。

 時刻は午前零時過ぎ。通行車両はまばらで、街全体が静まり返っている。

 車内には沈黙と、張り詰めた空気が流れていた。

 ――パンッ。

 何かが車体を打つ、乾いた音が響いた。

 「……今の音……」

 誰かが言いかけた瞬間、――パンッ!

 二発目。よりはっきりとした衝撃。

 「やはり、待ち伏せやがったな!」

 佐竹が険しい顔で言い放つ。

 ピューッ――!

 直後、車体が大きく揺れた。右に、左に、弾かれるように進路を逸れていく。

 「タイヤがやられたっす!」

 矢崎が叫び、必死にハンドルを抑え込む。

 だが車体はコントロールを失いかけ、視界がぐらつくように揺れはじめた。

 楓は即座に矢崎へ指示を飛ばした。

 「――脇道に突っ込め」

 「了解っ!」

 矢崎は迷いなくハンドルを切り、ガードレールぎりぎりの脇道へ車を滑り込ませた。

 元々、暴走族きっての腕前を誇っていた矢崎は、片輪がパンクした状態でも、わずかにブレる挙動を巧みに抑え込み、車体を見事にコントロールしていた。

 ――パンッ! パンッ! パンッ!

 銃撃はなおも続く。

 鋭い衝撃音とともに、車体の各所に深くえぐられた弾痕が刻まれていく。

 だが、車は止まらない。

 黒楓会の使用車両――外装は防弾仕様。弾は車体に痕を残すが、貫通はしていない

 「クソッ、しつけぇな……!」

 佐竹が助手席で歯を食いしばる。

 脇道に入り、銃撃はようやく止んだ。

 この状況、油断はできない。楓たち三人はすぐに車から飛び降り、周囲を警戒しながら駆け出す。

 すぐ先に、灯りのない古びた建物が見えた。

 「こっちだ」

 楓が短く指示し、錆びた扉に手をかける。

 鍵は壊れていた。

 軽く押すだけで、扉は軋む音を立てて開いた。三人はためらうことなく中へ入り、静かに扉を閉めた。

 まもなく、黒ずくめの数人が銃を構えながら姿を現した。

 暗がりの中、警戒するようにゆっくりと車へ近づいていく。

 しかし、そこに人影はなかった。

 扉も窓も開いておらず、内部はもぬけの殻だった。

 「クソッ、逃げられた」

 一人が悔しげに声を漏らす。

 「まだ近くにいるはずだ。探せ」

 「はいっ!」

 敵の一団は二手に分かれ、周囲へ散っていく。

 一方、わずか離れた建物の中。

 楓、佐竹、矢崎の三人は、窓の隙間からその様子を見ていた。

 このままでは、いずれ見つかる。

 楓はわずかに顎を動かし、合図を出した。

 その瞬間、佐竹と矢崎が迷いなく動いた。

 二人は息を揃えるように窓際に出て、構えていた拳銃を一斉に撃つ。

 ――バァン、バァンッ!

 ほぼ同時に、外の黒ずくめの男が二人、撃たれた箇所を押さえる間もなく地面に崩れ落ちた。

 「撃たれた!」

 「伏せろッ!」

 残った敵たちが慌てて銃を構え、周囲に身を伏せる。倒れた仲間の位置から、すぐに楓たちの潜伏場所を割り出した。

 「……あの建物だ!」

 一人が叫ぶと同時に、数人が一斉に銃口をそちらへ向ける。

 銃撃戦の火蓋が、再び切られようとしていた――

 楓たちは敵の火力に抑え込まれ、建物内で身を潜めるしかなかった。

 正面の壁に、次々と弾が食い込み、破片と埃が飛び散る。

 そのとき、矢崎が短く言った。

 「俺に任せてください」

 そう言い残し、背後の小窓から静かに身を滑らせ、外へと姿を消した。

 楓と佐竹は、正面の隙間からわずかに身体を出し、反撃の銃声を放つ。

 狙いは適当だ。目的は敵の注意を引き続けること――

 「くそっ、まだ撃ってくるぞ!」  

 「構うな! もうすぐ距離を詰められる!」

 敵の数人が身を低くしながら建物に近づいていく。

 突入まで、あと数歩――その瞬間。

 ――パンッ! パンッ!

 後方から、鋭い銃声が二発。

 続けて、前方にいた黒ずくめの二人が、悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちた。

 発砲したのは、影小隊副隊長の矢崎だった。

 元々射撃の才能には恵まれていたが、佐藤守の指導を受けてからは、さらにその腕を磨き上げた。

 今や、射撃に限っていえば佐藤守と並ぶレベルにまで達している。

 「後ろだ!」

 敵の一人が叫び、隊列が乱れる。

 その声を聞き、楓と佐竹も同時に動いた。

 「今だ」

 楓の短い一声と共に、二人は遮蔽物の隙間から身体を乗り出し、正確に敵を狙って銃撃を開始した。

 抑えに転じていた火力が一気に攻勢へと変わる。

 佐竹と楓の射撃の腕も、決して侮れない。

 佐竹は冷静に急所を撃ち抜き、楓はわずかな隙すら逃さず、正確に弾を通した。

 矢崎の後方からの奇襲と、二人の正面からの猛反撃。三方からの挟み撃ちによって、敵は完全に崩れた。

 逃げる隙も、反撃の余裕も与えられず――

 次々に倒れていく黒ずくめの男たち。

 わずか数十秒後には、路地には静寂だけが残った。

 そしてその地面には、死体とともに濃い血の河が広がっていた。

 三人はゆっくりと歩み寄った。

 無言で一人ひとりの息を確かめていく中――そのうちの一人が、わずかに身を震わせた。

 矢崎が即座に銃を構え、引き金に指をかける。

 「……た、助けて……全部、白状……する……」

 血に濡れた口から、掠れた声が漏れた。

 矢崎は銃を構えたまま、楓に視線を送る。

 楓は無表情のまま、わずかに頷いた。

 「やれ」

 ――バァン。

 短く、乾いた音。

 その瞬間、再び場に沈黙が戻った。


 白状? そんなもの、楓には必要なかった。

 そもそも――すべての手は、最初から読めていた。

 まず、警察を動かして市原拠点を潰す。次に、自分が必ず動くと読んだうえで、弁護士まで用意されていた。

 そこで、最初に違和感を覚えたのが――村上弁護士の、あのひと言だった。

 「玄野会長、もしよろしければ……場所を変えて、詳細をお伝えできればと思いますが」

 確かに事態は厳しい。だが、夜中に引き留めてまで詳細を語ろうとするほど、村上が仕事熱心には見えなかった。

 帰りの車内で、佐竹がぽつりと漏らした。

 「……HF法律事務所に、村上なんて弁護士はいなかったそうです」

 その一言が、楓の疑念に火をつけた。

 そして直後、船橋拠点から敵襲の報。

 続いて、八街での極刀会との交戦。

 楓は確信した。

 すべては陽動。狙いは――本部事務所、そして帰還する自分。

 本来、楓が警察に足止めされている間に、船橋と八街、二つの拠点を同時に襲撃し、黒楓会の戦力をすべて引き出す。

 本部が手薄になったその瞬間を狙い、事務所を制圧。そして、帰還した楓を襲撃する。

 加えて――

 船橋や八街の戦場に「会長がやられた」と情報を流せば、黒楓会全体に動揺が広がる。

 戻ってきた構成員を、本部で挟み撃ちにして皆殺しにすれば、組織は壊滅する。

 しかし、楓は予定より早く解放されてしまった。

 だからこそ、村上は時間稼ぎのために、楓を足止めしようとした。

 だが――楓は引っかからなかった。

 むしろ、その"引き留め"自体が決定的な違和感となった。

 時間稼ぎに失敗した村上は、帰路で何かを仕掛けてくるに違いない――そう読んだからこそ、あの時車内で佐竹と矢崎に「今、降りても遅くはない」と告げたのだ。

 一歩踏み外せば、自分どころか、黒楓会の全員が道連れになってしまう。

 この冷酷で、邪悪で、そしてよく練られた計画も――村上の、ほんの僅かな綻びによって、楓の眼を逃れることはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ