45 陽動
事務所内――
佐藤はキッチン脇のガス栓をひねり、無言で確認する。空気の中に、わずかな違和感が広がっていく。
ドアも窓も、すべて締め切った。
ライトとテレビはつけたまま。まるで中に誰かがまだいるように。
影小隊の隊員たちを軽く手で制し、佐藤は裏口の小窓から静かに外へ抜け出した。
続く隊員たちも、足音一つ立てずにその場を後にした。
――それから、約二十分後。
ビルの前で見張り役の若衆が、あくびをかみ殺しながら携帯をいじっていた。
そのとき、着信音。
「はい!佐藤さん。何かご指示ですか」
若衆は一瞬眠気を振り払い、姿勢を正す。
「……分かりました。6人分の夜食ですね。すぐ買ってきます!」
そう言って通話を切ると、小さく舌打ちしながら歩き出した。
「あー、めんどくせぇ……」
陰から様子を窺っていた男が、ようやく"今だ"と判断した。
手の合図で周囲に指示を出す。
黒い影が動く。
一行、十名。足音を殺し、黒楓会の事務所ビルへと密かに接近していった。
ビルの正面ドアは、鍵もかかっておらず、わずかに隙間が空いていた。
用心深く先頭の男が覗き込み、拳銃を構えて室内へ足を踏み入れる。
続いて二人、三人……静かに、慎重に、建物の中へと滑り込む。
――しかし、異様な静けさだった。
人の気配があるはずなのに、誰も出てこない。
テレビの音がかすかに流れていた。
照明もついている。だが、人影はどこにもない。
「……空っぽか?」
「どういうことだ。確かにいたって報告が――」
囁き交わす声の直後、奥にいた一人が不意に咳き込んだ。
「……っ、なんだこれ……くせぇ……」
別の一人も額を押さえ、浅く息を吐く。
「おい、空調止まってんのか……?」
その瞬間、ひとりがふらつき、壁に手をついてよろめいた。
続けざまに、別の男が鼻を押さえてその場に崩れ落ち、膝をつく。
「……っ、ちょ、これ……ガスか?」
警戒していた隊列に、次々と動揺が広がる。
誰かが叫ぶ前に、最初に突入した男が前のめりに崩れ、床に沈んだ。
「……しまっ……た……これ、罠……っ」
言葉が消えたときには、すでに視界が暗くなっていた。
意識が混濁する中、誰かが最後の力で背後に手を伸ばす。
だがその指先は、誰にも届かなかった。
モニター越しに、その光景を冷静に見つめている男がいた――佐藤守。
影小隊の隊長であり、元CIAの情報員。今回は楓の指示を受け、自ら罠の設計と実行を請け負っていた。
映像には、事務所に突入した敵が次々と倒れていく様子が映っていた。
もがく者、壁にすがる者、そして沈黙する影たち。
佐藤は無言で指を動かし、脇に立つ端末の酸素濃度とガス拡散状況を確認する。
――14%以下:軽度の息切れ、集中力の低下(発現まで3〜5分)
――12%以下:ふらつき、判断力の喪失、吐き気(2〜3分)
――10%以下:意識混濁、昏倒(1〜2分)
――8%以下:昏睡状態、最悪の場合は呼吸停止(数十秒)
すでに13%台に突入しており、ガスの濃度も均一に拡散しつつある。
「……反応時間、予測通り」
淡々と呟きながら、背後に控える影小隊のメンバーに指示を出す。
「周囲に見張りや援軍がないか確認しろ。突入は五分後だ」
「了解」
低い声が返り、影小隊の5人が音もなく散っていく。
佐藤はわずかに目を細め、モニターに映る倒れた敵の姿を見据えた。
そして、ほとんど独り言のように呟いた。
「……無策で踏み込む奴ほど、扱いやすい」
一方その頃、楓・佐竹・矢崎の三人を乗せた車が、深夜の国道を走っていた。
時刻は午前零時過ぎ。通行車両はまばらで、街全体が静まり返っている。
車内には沈黙と、張り詰めた空気が流れていた。
――パンッ。
何かが車体を打つ、乾いた音が響いた。
「……今の音……」
誰かが言いかけた瞬間、――パンッ!
二発目。よりはっきりとした衝撃。
「やはり、待ち伏せやがったな!」
佐竹が険しい顔で言い放つ。
ピューッ――!
直後、車体が大きく揺れた。右に、左に、弾かれるように進路を逸れていく。
「タイヤがやられたっす!」
矢崎が叫び、必死にハンドルを抑え込む。
だが車体はコントロールを失いかけ、視界がぐらつくように揺れはじめた。
楓は即座に矢崎へ指示を飛ばした。
「――脇道に突っ込め」
「了解っ!」
矢崎は迷いなくハンドルを切り、ガードレールぎりぎりの脇道へ車を滑り込ませた。
元々、暴走族きっての腕前を誇っていた矢崎は、片輪がパンクした状態でも、わずかにブレる挙動を巧みに抑え込み、車体を見事にコントロールしていた。
――パンッ! パンッ! パンッ!
銃撃はなおも続く。
鋭い衝撃音とともに、車体の各所に深くえぐられた弾痕が刻まれていく。
だが、車は止まらない。
黒楓会の使用車両――外装は防弾仕様。弾は車体に痕を残すが、貫通はしていない
「クソッ、しつけぇな……!」
佐竹が助手席で歯を食いしばる。
脇道に入り、銃撃はようやく止んだ。
この状況、油断はできない。楓たち三人はすぐに車から飛び降り、周囲を警戒しながら駆け出す。
すぐ先に、灯りのない古びた建物が見えた。
「こっちだ」
楓が短く指示し、錆びた扉に手をかける。
鍵は壊れていた。
軽く押すだけで、扉は軋む音を立てて開いた。三人はためらうことなく中へ入り、静かに扉を閉めた。
まもなく、黒ずくめの数人が銃を構えながら姿を現した。
暗がりの中、警戒するようにゆっくりと車へ近づいていく。
しかし、そこに人影はなかった。
扉も窓も開いておらず、内部はもぬけの殻だった。
「クソッ、逃げられた」
一人が悔しげに声を漏らす。
「まだ近くにいるはずだ。探せ」
「はいっ!」
敵の一団は二手に分かれ、周囲へ散っていく。
一方、わずか離れた建物の中。
楓、佐竹、矢崎の三人は、窓の隙間からその様子を見ていた。
このままでは、いずれ見つかる。
楓はわずかに顎を動かし、合図を出した。
その瞬間、佐竹と矢崎が迷いなく動いた。
二人は息を揃えるように窓際に出て、構えていた拳銃を一斉に撃つ。
――バァン、バァンッ!
ほぼ同時に、外の黒ずくめの男が二人、撃たれた箇所を押さえる間もなく地面に崩れ落ちた。
「撃たれた!」
「伏せろッ!」
残った敵たちが慌てて銃を構え、周囲に身を伏せる。倒れた仲間の位置から、すぐに楓たちの潜伏場所を割り出した。
「……あの建物だ!」
一人が叫ぶと同時に、数人が一斉に銃口をそちらへ向ける。
銃撃戦の火蓋が、再び切られようとしていた――
楓たちは敵の火力に抑え込まれ、建物内で身を潜めるしかなかった。
正面の壁に、次々と弾が食い込み、破片と埃が飛び散る。
そのとき、矢崎が短く言った。
「俺に任せてください」
そう言い残し、背後の小窓から静かに身を滑らせ、外へと姿を消した。
楓と佐竹は、正面の隙間からわずかに身体を出し、反撃の銃声を放つ。
狙いは適当だ。目的は敵の注意を引き続けること――
「くそっ、まだ撃ってくるぞ!」
「構うな! もうすぐ距離を詰められる!」
敵の数人が身を低くしながら建物に近づいていく。
突入まで、あと数歩――その瞬間。
――パンッ! パンッ!
後方から、鋭い銃声が二発。
続けて、前方にいた黒ずくめの二人が、悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちた。
発砲したのは、影小隊副隊長の矢崎だった。
元々射撃の才能には恵まれていたが、佐藤守の指導を受けてからは、さらにその腕を磨き上げた。
今や、射撃に限っていえば佐藤守と並ぶレベルにまで達している。
「後ろだ!」
敵の一人が叫び、隊列が乱れる。
その声を聞き、楓と佐竹も同時に動いた。
「今だ」
楓の短い一声と共に、二人は遮蔽物の隙間から身体を乗り出し、正確に敵を狙って銃撃を開始した。
抑えに転じていた火力が一気に攻勢へと変わる。
佐竹と楓の射撃の腕も、決して侮れない。
佐竹は冷静に急所を撃ち抜き、楓はわずかな隙すら逃さず、正確に弾を通した。
矢崎の後方からの奇襲と、二人の正面からの猛反撃。三方からの挟み撃ちによって、敵は完全に崩れた。
逃げる隙も、反撃の余裕も与えられず――
次々に倒れていく黒ずくめの男たち。
わずか数十秒後には、路地には静寂だけが残った。
そしてその地面には、死体とともに濃い血の河が広がっていた。
三人はゆっくりと歩み寄った。
無言で一人ひとりの息を確かめていく中――そのうちの一人が、わずかに身を震わせた。
矢崎が即座に銃を構え、引き金に指をかける。
「……た、助けて……全部、白状……する……」
血に濡れた口から、掠れた声が漏れた。
矢崎は銃を構えたまま、楓に視線を送る。
楓は無表情のまま、わずかに頷いた。
「やれ」
――バァン。
短く、乾いた音。
その瞬間、再び場に沈黙が戻った。
白状? そんなもの、楓には必要なかった。
そもそも――すべての手は、最初から読めていた。
まず、警察を動かして市原拠点を潰す。次に、自分が必ず動くと読んだうえで、弁護士まで用意されていた。
そこで、最初に違和感を覚えたのが――村上弁護士の、あのひと言だった。
「玄野会長、もしよろしければ……場所を変えて、詳細をお伝えできればと思いますが」
確かに事態は厳しい。だが、夜中に引き留めてまで詳細を語ろうとするほど、村上が仕事熱心には見えなかった。
帰りの車内で、佐竹がぽつりと漏らした。
「……HF法律事務所に、村上なんて弁護士はいなかったそうです」
その一言が、楓の疑念に火をつけた。
そして直後、船橋拠点から敵襲の報。
続いて、八街での極刀会との交戦。
楓は確信した。
すべては陽動。狙いは――本部事務所、そして帰還する自分。
本来、楓が警察に足止めされている間に、船橋と八街、二つの拠点を同時に襲撃し、黒楓会の戦力をすべて引き出す。
本部が手薄になったその瞬間を狙い、事務所を制圧。そして、帰還した楓を襲撃する。
加えて――
船橋や八街の戦場に「会長がやられた」と情報を流せば、黒楓会全体に動揺が広がる。
戻ってきた構成員を、本部で挟み撃ちにして皆殺しにすれば、組織は壊滅する。
しかし、楓は予定より早く解放されてしまった。
だからこそ、村上は時間稼ぎのために、楓を足止めしようとした。
だが――楓は引っかからなかった。
むしろ、その"引き留め"自体が決定的な違和感となった。
時間稼ぎに失敗した村上は、帰路で何かを仕掛けてくるに違いない――そう読んだからこそ、あの時車内で佐竹と矢崎に「今、降りても遅くはない」と告げたのだ。
一歩踏み外せば、自分どころか、黒楓会の全員が道連れになってしまう。
この冷酷で、邪悪で、そしてよく練られた計画も――村上の、ほんの僅かな綻びによって、楓の眼を逃れることはなかった。




