40 英雄
千葉市から少し離れた郊外。
そこには、バブル期に建設が始まりながらも、途中で放棄されたマンションのような建物があった。
コンクリートの躯体だけが無骨に残り、窓はなく、壁の一部には雨風に晒された跡が生々しく刻まれている。
本来は、高級ホテルか高層マンションとして完成するはずだったのだろう。だが今では、誰一人として近づく者もいない廃墟。まるで、時間だけが取り残されたような場所だった。
薄暗い部屋の中。
窓枠だけが残った開口部から、郊外の夜景がぼんやりと見えた。
楓は無言で外を眺めていた。
煙草も吸わず、ただじっと、遠くの光を見つめている。
建物の外では、龍崎が周囲の警戒にあたっている。この部屋での作業には、彼がいないほうが都合がいい。
なぜなら、楓の背後では、かすかな呻き声と、肉の擦れる音が断続的に響いていた。
椅子に縛られた男が、額から汗を垂らし、口元を震わせている。目は既に虚ろだった。
佐藤は無言のまま、冷たく光るペンチを手に取った。まるで作業でもするかのように、慣れた手つきで男の指を掴む。
バキッ、と骨の折れる音が小さく響いた。
男が短く悲鳴を上げ、身をのけぞらせたが、佐藤は一切表情を変えなかった。
「誰の指図だ。」
楓の声が、背中越しに静かに響く。
男は、荒い息を吐きながら、縛られたまま首を振った。
「……ほ、本当に……いないん、です……」
楓は振り返らず、ただ短く告げた。
「続けろ。」
元CIA、潜入と尋問のプロフェッショナル。この程度の拷問に、感情を交える必要などなかった。
佐藤は、表情ひとつ動かさず、無言で工具を持ち替える。特殊警棒。伸縮式の、無骨な鉄の棒だ。
男はまだわずかに抵抗しようとするが、縛られた身体ではどうにもならなかった。
佐藤は男の前に立ち、そして――
何の予告もなく、ゴキリ、と重い音が響いた。
棒が男の右足の膝関節を正確に打ち砕き、骨まで粉々に砕けた。
「あーーーーーッ!」
砕けた膝の激痛に、男は叫び声を上げた直後、目を見開いたまま力なく崩れ落ちた。
首が垂れ、全身の筋肉が抜け落ちたように弛緩する。
佐藤は脈を取ることもせず、男の顔を一瞥した。
「昏死しました。」
「起こせ。」
楓が冷たく命じる。
佐藤は無言で立ち上がり、リュックからペットボトルを一本取り出す。キャップを外し、中身をそのまま男の顔にぶちまけた。
バシャッという音とともに、男の身体が痙攣し、むせ返るような息を吐く。水と一緒に、胃の中身が口元から逆流し、生臭い音がコンクリートに広がった。
「……ごほっ、ごほっ……ああ……」
男は意識を取り戻したが、視線は彷徨い、口元は泡を含んだまま震えている。
楓は窓の外に一度目をやり、それから淡々と告げた。
「左も。」
「ま、まってぇ……ごほっ……」
男は縋るように声を絞り出した。
楓は何も言わず、ただ静かに続きを待っていた。
数分の沈黙ののち、男は苦しげに息を吐きながら、かすれた声で
「……たい……」
荒い呼吸。
「たい……隊長の命令……それ以上は……本当に……ゲホ、ゲホッ……」
答えになってない。
「なぜ、LTを襲った。」
楓の問いに、男はもう声も出せず、わずかに首を振るのが精いっぱいだった。
「左。」
その一言に、男の身体が激しく反応する。拘束されたまま、必死にのたうつように暴れる。
「やめっ……! やめてくれっ――!」
ゴキリ。
鈍い音が部屋に響いた。
男は口を大きく開けたまま、声にならない叫びを上げ、白目を剥いてそのまま崩れ落ちた。
再び、昏死。
両膝から下は真っ赤に染まり、血が床に広がっていく。
佐藤の手によって顔に水がかけられた。男はびくりと痙攣し、白目を剥いたまま、息を吸い込もうと喉を鳴らした。
――もう、死ぬ寸前だ。
その目に、もはや生気はなく、魂が抜け落ちかけているようだった。
何分が過ぎたのか。何時間か、それともほんの数秒か。男には、もはや区別がつかなかった。時間の感覚が壊れ、すべてが混濁する。一秒ごとが、まるで一世紀のように長く感じられる。
やがて、男の口がかすかに動いた。
「……麻薬、が……嫌い……」
「誰が?」
楓の声は、感情の欠片もない。
「……さ……」
男の目が再び白濁し、頭ががくりと垂れる。
佐藤は無言で水を注いだ。
「……ごほっ、ごほっ……」
男は本能で空気を求めるように、喉を鳴らして息を吸い込んだ。
「……さ、斎藤さん……」
楓はようやく、窓の外から目を戻し、ゆっくりと細めた。
――群馬。なるほど。以前、佐竹が言っていた。関東圏で最大の三大勢力、茨城の三河会、神奈川の湘北連合、そして群馬の三代目斎藤会。最近になって、揃いも揃って、一気に姿を現しやがった。
「もう十分だ。始末しろ。」
「は」
男は、その言葉を耳にした瞬間、わずかに顔を緩めた。恐怖でも絶望でもなかった。
それは、長い苦痛の末にようやく与えられた解放。ほんの微かな、ほっとしたような微笑みだった。
この時代の極道に、英雄はいない。
もし唯一その称号に相応しい者がいるとすれば――三代目斎藤会会長、斎藤浩一。その人に他ならない。
極道でありながら、麻薬の密売や風俗商売には一切手を出さず、むしろ警察以上の厳しさで、それらを取り締まっている。
街のチンピラや半グレを抑えつけ、一般人には決して手を出させない。
地震や災害があれば、率先して民衆のために動き、人々の安全を守ろうとする。
個人としての能力も傑出している。
十六歳で、内紛続きだった斎藤会を瞬く間にまとめ上げ、そして今、十九歳にして、かつての全盛期の斎藤会に匹敵するまでに三代目斎藤会を押し上げた。
仁義を何よりも重んじ、義理には必ず応える。自ら動いて頭を下げることも厭わず、誠意をもって筋を通す姿勢は、年上の幹部たちからも一目置かれていた。
部下からの信頼も厚い。その命令には、誰一人として疑問を挟まない。恐れられているのではない。斎藤浩一という男に、心から「ついていきたい」と思わせる何かがある。
世間では「平成の任侠」とも囁かれている。だが、それすら彼にとっては過小評価にすぎない。
斎藤浩一――まさに、英雄と呼ぶに相応しい存在である。
群馬県、伊勢崎市。とある広大な屋敷の一室。
「兄貴。LTの麻薬車を襲ったうちの先頭小隊、全滅しました。」
報告に来た組員が、床に膝をつき、低く頭を下げる。
「報告によると……たった一人の剣士に、三秒もかからずやられたそうです。しかも、五人のうち一人の死体が……そいつに、トラックの中へ運ばれてました。」
それは深夜の出来事だった。
離れた位置に配置されていた見張りや援護の者たちが目にしたのは、トラックの扉が開いた直後、一人の男が飛び出し、わずか数秒で五人を叩き伏せた光景。
最後の一人が峰打ちで気絶させられたことまでは、さすがに確認できなかった。
あまりにも衝撃的な光景だった。見張りも援護も、出るべきか否か、判断する間もなく、ただ、息を潜めていた。
兄貴と呼ばれた青年は、ゆっくりと目を開いた。
澄みきった眼差しに、義経を思わせる切れ長の眉。凜々しい顔立ちには、一分の曇りもない。
三代目斎藤会会長、斎藤浩一。
「なぜ、このタイミングでLTを襲った。……誰の指示だ?」
斎藤の声に怒気はない。ただ静かに、確かめるように問いかける。
「そ、それは……行動に参加した者たちが……せっかくLTの尻尾を掴んだのだから、功績を立てようと……」
報告を終えた男は、頭を深く垂れたまま、斎藤の表情を伺っている。
「それより、運ばれたのは、本当に"死体"か?」
「そ、その……」
報告していた男の背中に、冷たい汗が伝う。
「もし、その兄弟がただ気絶していたなら、今ごろ、危険な目に遭っている。助けに行かねばならん。」
その言葉に、報告していた男の肩がわずかに震えた。
叱責や責任追及よりも先に、まず部下の安否を気にする。その声色には、斎藤の本質が滲んでいた。
「トラックは、LTの拠点に戻ったのか?」
「トラックは……既にパンクしていたので、レッカー車で連中の巣へ運ばれたようです。それと、トラックの荷台から一台の黒いセダンが、反対方向へ離れました。車のナンバーは千葉でした。」
「分かった。ご苦労。」
斎藤浩一は一呼吸置き、静かに言葉を継いだ。
「……この一件は、確かに勝手な行動だったが、責任は俺にある。死んだ兄弟たちの親族には、俺が謝罪しに行く。だが、その前に――残っている一人の兄弟が危ない。千葉へ向かうぞ。」
「千葉……ですか?」
「最近、千葉で"アイス"っていう新型覚醒剤を流してる組織がある。」
「……黒楓会のことですか? なるほど、確かに……」
黒楓会の名は、すでに関東圏で広く知られている。特に会長・玄野楓は、その若さと、狡猾さ、そして残忍さで有名だった。
斎藤は、ふっと無敵の笑みを浮かべた。上着の襟を掴み、肩に軽く掛けながら、ゆっくりと振り返る。
「山爺。LTの報復には警戒しておいてくれ。留守は頼んだ。」
執事のような、品のある老人が静かに体を傾け、一礼する。
「行くぞ、お前ら。」
「「「おうっ!」」」
一夜の出来事をようやく処理し終え、楓たちが本部の事務所に戻ってきたのは、すでに午前四時を回っていた。
軽く挨拶を交わし、解散しようとしたそのとき。
佐藤の携帯が鳴った。
耳に当てながら、佐藤が短く言葉を交わす。
「……うん、そっか。分かった。引き続き監視してくれ。」
通話を切り、佐藤は楓の方へ顔を向けた。
「会長。三代目斎藤会が、数台の車両を出動させました。今、高速に乗ったとのことです。方向はおそらく……」
「こっちだな。」
「……はい。」
「反応が早いな。全員、戦闘準備を。どうやら、まだ夜が長いようだ。」
佐藤と龍崎は一礼し、そのまま各自、連絡と準備に動き始めた。
このタイミングで来るとは。やはり、峠道には見張りがいたか。ならば狙いは、あの捕虜だ。
いきなり、三大勢力の一角、三代目斎藤会と正面からぶつかることになるとは、常に先を読む楓ですら、この展開は読めなかった。
楓は迅速に戦術を練っていた。
どんな手が来るか、すべての可能性を、頭の中で冷静に計算し尽くしていく。
時が流れる。
やがて、東の空がわずかに白み始め、一抹の光が夜の帳を押し返していく。
そのとき、数台の車が黒楓会本部事務所ビルの前に、静かに停まった。
車から真っ先に降りたのは、身長一七六センチ、澄んだ目に剣眉の青年――三代目斎藤会会長、斎藤浩一である。
続いて、ジャージ姿とスーツ姿の男たちが次々と降り立ち、無言のまま斎藤の背後に整列する。
「お前らはここで待ってろ。俺が先に行く。」
「しかし!」
数人が、心配そうに声を上げた。
「交渉に必要なのは、人数じゃない。」
その時
「心配すんなや。ワイが一緒についたる。」
ジャージ姿で髪をオールバックにした青年が、関西弁で言った。
「おお、藤原の兄貴!」
「藤原さんがいれば安心だな……」
藤原克也――藤原組の新任当主にして、三代目斎藤会の中で"二番目"の猛者である。
二代目斎藤会の時代から、藤原組は子分組としての役割を担い、親組を支えてきた。
その頃、歳の近い藤原克也と斎藤浩一は、自然と親交を深めていき、やがて親友と呼べる関係になった。
しかしまもなく、斎藤会が再び内紛に巻き込まれ、藤原克也は藤原組と共に、一時的に関西へと身を引かざるを得なくなった。
斎藤が若くして斎藤会をまとめ上げたとき、そこには藤原組の全面的な支援があった。その時、関西から戻ってきた藤原克也もまた、その中心に立ち、大きな役割を果たしていたのである。
「克也、頼んだぞ。」
二人は言葉を交わすでもなく、ただ正々堂々と、本部事務所の正面玄関へと歩み出た。




