39 攫取
楓の要求を聞き、デイビッドの目が一瞬だけ見開かれた。だがすぐに笑みを取り繕い、慎重な口調で言葉を続ける。
「ミスター玄野……君との関係なら、できる限り応えたい。だが、そんな重大な取引は、上に許可を取らなければならないのだ。」
「クック……ミスターデイビッド、賭けをしないか?」
楓はわずかに口元を緩めた。
「あんたのボスは、必ず受けるよ。」
「なぜ、そんなことを言い切れる?」
デイビッドが慎重に問い返す。
理由は、極めて簡単だった。LT本部はメキシコにある。いくら黒楓会が武器を手に入れようと、LT本体にとっては脅威にはならない。むしろ、今後伸びる可能性のある組織に情を売っておくほうが、長期的には得だ。
LTが麻薬だけではなく、武器の密輸に関与しているのも、もはや秘密でも何でもない。そしてこれから、長期にわたる取引が見込める相手の依頼を、わざわざ断る理由などあるはずもなかった。
前回、サンプルだけを渡した段階では、まだ楓たちは実力を証明できていない。信用も、実績も、何もない状態だった。だからこそ、一度、正式な取引を成立させた。取引成功という実績を積み、LT本部に黒楓会は使えると認識させたうえで、初めて武器という踏み込んだ要求を出した。
すべては、最も効果的なタイミングで最大の要求を通すため。それが、玄野楓のやり方だった。
楓が微笑みを浮かべたまま、答える気配を見せなかった。その様子を見て、デイビッドは半信半疑の表情を浮かべる。
「すぐに本部に連絡を取る。」
そう短く告げると、アジア人の男を一人残して、その場を離れた。
楓は、表情を変えず、目だけで佐藤に合図を送る。佐藤はわずかにうなずき、それを確認した楓は、かすかに笑った。
どうやら、佐藤は先ほど廃棄工場を通った際に、すでに地形の確認を済ませていたらしい。
静かな時間が流れる。ほどなくして、デイビッドが戻ってきた。
「ミスター玄野、君の言った通りだったよ。」
デイビッドは肩をすくめ、苦笑交じりに言った。
「いや、さすがだ。日本人は本当に頭が回るな。上は承認した。ただし、いくつか条件がある。」
楓は静かに目を細めた。
「聞こうか。」
「まず、取引するのは軽火器のみ。重火器や特殊兵器は、次回以降、信用次第だ。そして、供給量にも上限を設ける。初回は、こちらが指定する数量まで。それ以上を求める場合は、追加交渉が必要になる。」
楓は、しばらく無言でデイビッドを見つめた。予想以上の返事に、楓は驚いていた。
さすが世界最大規模の麻薬組織。まさかここで重火器の取引まで視野に入れるとは。
しかし、その感情を微塵も表に出すことなく、静かに表情を保った。
実際、今の黒楓会にそこまでの武装は必要ない。もっとも、それを相手に悟らせる理由もなく、驚きの色を見せる必要もない。
「……分かった。」
楓はゆっくりと頷いた。
「ただし、こちらにも条件がある。」
デイビッドが眉をわずかに寄せる。
楓は微笑を絶やさぬまま、静かに告げた。
「品質は最低でも軍用規格。それ以下の品なら、今後、すべての取引は白紙にさせてもらう。」
「それは保証する。我々は、自らの看板に泥を塗るような真似はしない。君たちの信頼を損ねるような品は、絶対に渡さないさ。」
その後、楓とデイビッドは向かい合ったまま、細かな交渉を続けた。
次期取引の日程、輸送ルート、武器のリスト、数量、支払い方法、一つひとつを、確実に詰めていく。気がつけば、二時間が過ぎていた。
取引を終え、再びトラックの扉が閉まり、光も音も遮断された。
佐藤は無言のまま、膝の上に小さな振り子を置き直した。
「念のため、もう一度測定しておきます。」
楓は軽く頷いた。
トラックが発進する。微かな振動、加減速、横揺れ。佐藤は、外界から届くわずかな情報を逃さず、再び経路をなぞり始めた。
慎重に、確実に。
順調に進んでいた帰路。
出発からおよそ二十分、まもなく山を抜け、市街地へ入ろうとしたそのとき。
突然
プシューッ――
鋭い音が密閉された荷台にまで響き、直後、トラックが大きくバランスを崩して揺れた。
楓は即座に前シートに手をかけ、揺れる車体の中で姿勢を保った。
「パンクか……」
佐藤もすぐに状況を分析し、無言で膝上の振り子装置を片付ける。
その時、ふっと、鈍い破裂音が響いた。
金属の皮が裂ける音。
「銃撃だ!伏せろ!!」
佐藤が鋭く叫び、楓たちは即座に身を低くした。
「……敵襲だと、LTか?」
龍崎が呻くように言う。
楓は頭を回転させた。
LT?いや違う。LTなら、わざわざ帰り道を狙う理由がない。廃棄工場で、もっと確実に仕掛けることができたはずだ。
なら、誰だ?
トラックはどこかに激しく衝突し、きしむ音を立てて停止した。
密集した銃撃が続く。流れ弾が荷台の鉄板を貫き、車体を叩いた。
幸い、楓たちの車は防弾仕様だった。重火器やスナイパーライフルでもなければ、すぐに貫通することはない。
銃声の方向を聞き取る限り、敵の照準は主にトラックの運転席周辺に集中している。
やがて、銃撃音が徐々に沈み、微かな足音が、外から聞こえてきた。
「……何者かが接近している。四人……いや、五人。」
龍崎が低く呟いた。
「五人ですね。包囲されつつあります。」
佐藤も、静かに補足する。
龍崎は刀を抜き放ち、短く息を吐いた。
「……俺が行く。」
「援護は任せて。会長は、ここに。」
佐藤も銃を取り出し、龍崎と並んで身構えた。
「気を付けろ。」
楓は短く告げた。
さっきのような交渉の場は、楓の舞台だった。だが、ここから先は、龍崎と佐藤の領域だ。
足音が徐々に近づき、やがて荷台の周囲で止まる。
「運転手、死亡確認できました。」
「よし、これがLTの麻薬車か……開けろ。」
「はい。」
会話が、密閉された荷台越しに微かに聞こえる。
なるほどな。
楓は静かに思考を巡らせた。
どうやら、こいつらはこのトラックを、LTの麻薬密輸車と勘違いしているらしい。
金属の軋む音。
扉が、外側からこじ開けられ始めた。
龍崎と佐藤は、一瞬だけ目を合わせた。
無言の合図、同時に、戦闘態勢に入る。
扉が開いた瞬間、龍崎が、豹のように跳び出した。
鋭い一閃。
一人の頭部が宙を舞い、血が噴火のように吹き上がった。
外にいた他の者たちは、何が起きたのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……えっ?」
バンッ。
静寂を破って銃声が響き、次の瞬間、もう一人の頭部が炸裂し、崩れ落ちた。
ようやく、状況を理解した者たちが叫びながら銃を構えた。
「まだ敵がいる!!」
だが、龍崎は一歩も隙を与えない。
閃く刃。
さらに一人が、悲鳴を上げる間もなく倒れた。
バンッーー。
もう一発、銃声が夜に溶ける。
四人目が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
残る一人。
龍崎の刀が、すでにその首筋に添えられていた。
「……銃を捨てろ。」
佐藤も静かに荷台から降り、銃口を敵に向けたまま歩み寄る。
ほんの三秒足らずの出来事だった。あまりにも一瞬の惨劇。残された男は、仲間たちの無残な死を前に、完全に言葉を失っていた。
「君たちは何者だ。なぜLTを襲う?」
佐藤が問い詰めた。
男は唖然としたまま、答えられなかった。
龍崎が刀をわずかに動かした。刃先が男の首筋をかすめ、細い血が滲む。痛みに、男の体がびくりと震えた。
「……し、死にたくない!許してください!俺は……ただ命じられただけです!」
命乞いだった。
「気絶させろ。」
楓の声が、荷台の奥から冷たく響いた。
楓の指示に、龍崎は一瞬もためらわなく、刀を反転させ、峰で男の首筋を打つ。男は力なく崩れ落ちた。
「トランクに入れろ。LTが来る。」
佐藤と龍崎は迅速に動いた。失神した男を抱え上げ、車のトランクに押し込む。
静かな夜に、低くエンジン音が響いた。
まもなく、LTの車が数台現れた。
デイビッドと、アジア系の男、それに武装した覆面十人ほどが車から降りてくる。
「ミスター玄野、これは……?」
デイビッドが状況を確認するより先に、楓が一歩踏み出した。
「こっちが聞きたい。これはどういうことだ?」
怒りを押し殺したような声。
デイビッドは現場をざっと見回し、すぐに顔をしかめた。
「……どうやら敵襲に遭遇したらしいな。本当に申し訳ない、ミスター玄野。こんな不快な思いをさせてしまって、完全に我々の責任だ。済まなかった。」
「で、こいつらは何者だ?」
「んー……現時点では、まだ何の情報も掴んでいない。生きている奴はいないのか?」
「見ての通り、全員殺した。あの状況で、手加減なんてできるか。」
デイビッドは短く息を吐いた。
「それは、そうだな……この件については、必ず後で、ミスター玄野にきちんと説明するよ。良ければ、新しいトランクを――」
「結構だ。この先は自分で帰る。」
楓はきっぱりと言い捨て、車に向かって歩き出した。
デイビッドは、一瞬だけ楓を引き止めようとした。だが、すぐに諦めた。この拠点は、すでに露見していた。今さら隠しても、何の意味もない、どうせ、バレた以上、引き払うしかないのだ。
楓も、相当不機嫌だった。
せっかく佐藤に場所を特定させたというのに、すべてを台無しにされた。
楓は無言のまま車に乗り込む。
とはいえ、完全な手ぶらではない。トランクには、生きた捕虜が一人。帰ったら、じっくりと拷問してやる。洗いざらい吐かせてもらうつもりだ。
楓たちの車が視界から消えたあと。
アジア人の男が、低い声でデイビッドに尋ねた。
「よろしいんですか、このまま行かせて。」
「大事な取引先だ。すでにミスター玄野の気に障っている。それ以上刺激するわけにはいかない。」
デイビッドは言葉を切ると、足元に転がる死体たちを一瞥する。
「それより、リー。こいつらは?」
リーと呼ばれたアジア人の男は一礼し、淡々と答えた。
「はい。間違いありません。やはり、連中です。」
デイビッドは冷たく笑った。
「ふん。よくもこんな真似をしてくれたな。……ただで済むと思うなよ。」
先ほどまでの穏やかな顔とは、まるで別人のように、デイビッドの口元には、残虐と嗜虐に満ちた笑みが浮かんでいた。




