37 導火
「行こう、円香」
そう言うと、楓は円香の手を取り、そのまま歩き出した。
唐突な行動に、円香は一瞬驚いたものの、抵抗せずついていく。
二人が歩き出した瞬間、長谷川のこめかみに熱が走った。理屈より先に、怒りが脳を突き抜ける。
「待ちなさい」
長谷川の声には、かすかな苛立ちが滲んでいた。
これまで、湘北連合の顧問の息子として、周囲からは怯えと敬意をもって扱われてきた。彼に向かって無礼な態度を取る者などいなかった。ましてや、好きな女の前で。
その声に呼応するように、二人のスーツ姿の男が楓と円香の前に立ち塞がった。一人は痩せた中年、もう一人は無言で腕を組む大柄な男。
「君、今、火遊びしてるんだよ」
長谷川はそう言った。
だが、楓の顔を見ることはなく、指先を擦り合わせるようにしながら、自分の手元だけを見つめていた。
「小僧、悪いことは言わねぇ。あのお方に触れたら、ただじゃ済まねぇぞ。……さ、円香お嬢様、こちらへ」
痩せた中年が低く唸るように言いながら、円香に手を差し伸べた。
パッ。
乾いた音が、その場に響いた。
差し出されたその手を、楓が無言で打ち払っていた。
「消えろ、雑魚が。」
その言葉に、三人の表情には、薄く嘲るような笑みが浮かんでいた。
たかが学生ごときが、湘北連合の顧問の御曹司に喧嘩を売るなど、まったくもって滑稽だった。
「ククッ……面白いことを言うじゃないか、君」
長谷川は笑みを深めると、スーツの男二人に視線を送った。
「身の程、分からせてやれ」
大柄の男が無言で前に出て、そして渾身の力を込めて拳を振り下ろした。
「か、楓くん!」
円香の叫びが飛ぶ中、楓はまったく動じていなかった。
佐竹から教わった体捌きを使い、最小限の動きで拳の軌道を外す。
拳は楓の頬を、まるで紙一枚の距離でかすめて通り過ぎた。
そのまま楓は、肩に巧妙に力を入れてぶつける。
相手の慣性を逆手に取り、大柄の男の体を斜め後ろへと弾き飛ばした。
男は思わぬ展開に驚き、よろけながら前のめりに転ぶ。
痩せた中年がすぐさまナイフを抜き、楓に向かって突進した。だがその瞬間、彼の後ろ襟が突然引っ張られる。ヒュッと風を切る音とともに、痩せた男の体が宙を舞う。きれいな弧を描きながら、約五メートル後方の地面に叩きつけられた。
彼を投げたのは、他でもない。
病院送りの龍崎勝だった。
たった数秒の出来事だった。長谷川は何が起きたのか理解できず、顔を強張らせたまま、ただ立ち尽くしていた。
「て、手を出したな……この僕を怒らせたこと、後悔させてやる……!」
唇を震わせながら吐き捨て、険しい顔でポケットから携帯を取り出す。助けを呼ぶ気らしい。
だが次の瞬間、その手首が不意に掴まれた。携帯は強引に引き離され、通話ボタンに触れることすらできなかった。
「おっと。やめたほうがいいっすよ」
柔らかい声とは裏腹に、その目は真っ直ぐだった。
「ここは、俺たちのシマなんで」
長谷川が睨みつけるように視線を向ける。
そこに立っていたのは、二十歳前後の青年。ややチャラそうな見た目だが、目つきは鋭く真剣だった。
影小隊副隊長、矢崎俊介。
楓は、龍崎の登場にも特に驚かなかった。
彼が学校を出た直後から、一定の距離を保ちつつ後を追ってきていることなど、とうに察していたからだ。だが、矢崎の姿には少し意外そうに目を細めた。
長谷川とその部下二人が若林高校付近に現れた時点で、影小隊はすでにその動向を把握していた。
報告を受けた隊長・佐藤守は即座に対応を決め、矢崎を現場へと派遣した。
――何もなければそのまま監視。万が一、事が起これば、即時に会長を援護せよ。
それが、佐藤の下した指示だった。
長谷川が矢崎の手を振り払うと、楓を殺すような目つきで睨みつけた。
こんな屈辱を味わうのは、人生で初めてだった。
周囲がざわつき始める。
「何だ何だ、喧嘩か?」
「え、あの子めっちゃ可愛くない? 芸能人?」
「おい、あれ……玄野と龍崎じゃねぇか……」
先ほど倒されたスーツの男たちがようやく立ち上がり、長谷川のもとに駆け寄る。
一人が、小さな声で耳打ちした。
「若様、あいつら……どうやら"こちら側"の者たちのようです。それに、人も集まってきています。ここは――」
「……っち。ああ、そうかよ……」
長谷川は舌打ちし、唇を噛んだ。振り向いて、初めて楓に視線を向ける。
「よくもやってくれたな……この恥、必ず返すよ。ゆっくり、確実に、君の大事なものを壊してやる」
そう言い残し、長谷川はスーツの男たちとともにその場を去っていった。
龍崎が無言で楓に視線を送る。
「いいんだ、行かせてやれ」
楓は静かに答えた。
「楓くん……ごめんね。せっかくの楽しい日だったのに、最後にこんなこと……」
円香は顔を曇らせ、申し訳なさそうにうつむいた。
「円香が謝ることじゃないよ」
楓はそう言い、静かに微笑むと、そっと円香の頭に手を乗せた。
「でも……あの人を怒らせると、本当に危険なんです。」
円香は少し不安げに、楓の顔を見上げた。
「ああ。全然、気にしてない」
「……それでも、庇ってくれて……本当に嬉しかった。ありがとう」
円香は小さな声でそう言った。
「この件……私が兄にちゃんと話しておくから」
駅前で別れたあと、楓は龍崎とともに事務所へ戻った。
一方その頃、矢崎は長谷川たちの動向を、一定の距離を保ちながら監視し続けていた。
電車の中。
楓は険しい顔で、窓の外を黙って見つめていた。千葉の夜景がガラス越しに流れていく。
「……心配か?」
龍崎が隣からぼそりと問う。
「ん? ああ、違う。むしろ逆だ」
「……?」
龍崎が首をかしげたのを見て、楓は目を細めた。
「湘北連合、思ってたほど、一枚岩じゃないみたいだ」
まだ理解が追いつかない様子の龍崎を横目に、楓は静かに言葉を続けた。
「関東の三大勢力――三河会、三代目斎藤会、そして湘北連合。いずれ全部、俺が潰すつもりでいる。中でも、湘北連合は一番隙がないと思ってた。」
楓が、ほんのわずかに口元を歪めた。
微笑とも皮肉ともつかない、どこか不気味な笑みだった。
その様子を見て、龍崎は内心で感心していた。
……さすがだ。言葉にこそ出さなかったが、直感で分かる。今、楓は湘北連合を落とす策を思いついた。
事務所に戻ると、佐竹がすぐに立ち上がり、軽く一礼した。
「楓さん、二点ご報告ありやす」
楓が頷くのを確認して、佐竹は手元のメモを見ながら口を開いた。
「まず一つ目、前田拓也からの連絡で、LTとの取引準備、すべて整ったとのことです。」
楓が黙って聞いていると、佐竹は続ける。
「二つ目は、佐藤からの情報で。三河会が、再び極刀会と接触したとの報せが入りやした」
しばしの沈黙ののち、楓はゆっくりと口を開いた。
「LTには、俺から連絡する。
極刀会の方は心配ない。白川なら、うまくやるだろう」
ひと呼吸置いてから、ぽつりと呟く。
「たまには、前田先生の実験室にも顔を出しておくか」
黒楓会本部から車を出した。
黒楓会が精製している新型覚醒剤アイスは、すでに裏社会では広く知られた存在となっていた。
しかし、その製造拠点の正確な場所を知る者は限られている。
楓を筆頭に、黒楓会幹部の中でもごく一部の信頼された者だけに知らされた、厳重な機密だった。
運転席に佐竹、助手席には龍崎。そして後部座席に楓が静かに座っている。
今日の一件については、佐藤ならすでに把握しているはずだ。だとすれば、こちらからあれこれ言う必要はない。
佐藤なら、長谷川や湘北連合の情報を洗い出し、整理して提出する、それこそが、プロのやるべき仕事だ。
実際、事務所に佐藤の姿がなかったのは、まさにそのためだった。
そんなことを考えながら、車は市原市を抜け、君津市の山あいへと入っていく。やがて脇道に入り、鬱蒼とした林の奥へと進む。車が止まったのは、古びた木造の建屋の前だった。その建屋の前には、すでに二台の車が並んで停まっていた。
中へ足を踏み入れた途端、機関銃を抱えた男が姿を現した。その男は楓に向かって深々と一礼をすると、無言で奥の部屋へと案内する。
部屋の一角、何の変哲もない床板のひとつが、静かに開かれた。そこから現れたのは、下へと続く細い階段だった。
階段を降りきった瞬間、空間が一気に広がる。まるで学校の教室ほどの広さ。だがそこに広がっていたのは、最新の設備が整った地下の科学実験室だった。
白を基調とした内装に、無機質な機材が並び、蛍光灯の冷たい光が静かに照らしている。
白衣をまとった人物が三人。そのうちのひとりが、実験台の前で手を動かしていた前田拓也だった。
楓の姿を認めた前田は、作業の手を止めて軽く身を起こし、白衣の裾を整えながら歩み寄った。
「来てくれたんですね。……ちょうど区切りがついたとこでした」
「お久しぶりです、前田先生」
楓が声をかけると、前田は肩をすくめるようにして苦笑した。
「いやいや、先生だなんて……今や君が会長でしょ」
「いいんだ。先生のおかげで、黒楓会は順調に大きくなってる。感謝してるよ」
前田は一瞬言葉に詰まり、照れくさそうに笑った。
その顔には、誇らしさと、どこか報われたような安堵の色がにじんでいた。
「取引の準備は終わったと聞いたが」
「ええ、それなんですが……ちょっと報告がありまして」
「ん?」
「あっ、いえ、精製自体は完了しています。むしろ、今回届いたヘロインの原材料、以前使っていたものとは全然違うんです。純度がずば抜けていて……正直、驚くほどの品質でして。おかげで、かなりの上物が仕上がりました」
前田は、言い訳じみた口調になりながらも、手元の資料を握りしめるように続けた。
「ほう……さすがだな、前田先生。よくやった」
「ありがとうございます。で、本題はここからでして……」
前田は一度息を整え、やや声を潜めた。
「指定された分はすでに完成しています。ただ、原材料がまだ少し、残っていましてね……」
「どのくらい残ってる?」
「そ、その……約二百グラムほどです」
「で、その使い道も考えてるんだろ」
前田は思わず小さく笑った。
「さすがです。何でもお見通しですね」
楓は黙って続きを待つ。
「これほどの純度のヘロインなら……正直、アイスに使うのがもったいなくて。できれば、さらに一段階上の精製を試してみたいと思っています」
「ほう……」
楓はわずかに目を細めた。
前田は、その表情から何も読み取ることができず、ただ黙って楓の言葉を待っていた。
二百グラム――。
軽く数千万円を超える価値がある。
精製に成功すれば、間違いなく莫大な利益をもたらす。だが、失敗すれば、本来得られるはずだったアイスの売上が、まるごと失われることになる。
これは賭けだ。現状維持か、それとも危険を冒して可能性に懸けるか。
言うまでもない、玄野楓という男は、決して前者を選ばない。
これまで破壊と再生を繰り返してきた。
古い秩序を壊し、その瓦礫の上に新たな体系を築く。そしてこれからも、そうあり続けるつもりだ。
「分かった。失敗を恐れるな、思い存分やれ」
その言葉に、前田は息を呑み、すぐさま頭を下げる。
「は、はいっ!」
――このとき、誰も想像していなかった。
90年代後半から2000年代にかけて世界中を席巻する"スピード"が、まさにこの決断から始まったなどと。




