31 黒影
「ミスター玄野、これは何の冗談か。」
デイビッドの顔色が、陰を落とした。
「話を聞け。俺たち黒楓会が精製し、できたアイスの三割は、LTに提供する。」
デイビッドは黙り込んだまま、考えを巡らせる。
確かに、アイスは合成麻薬の中でも上級品だ。他国に持ち込めば、確実に高値で売れる。
それに、精製を黒楓会が請け負うなら、自分たちの手間もリスクも省ける。
原材料といっても、精製に必要な成分は一つではなく、調達にもコストがかかる。
加えて、精製は百発百中とはいかない。品質が高いほど難易度も上がり、その分成功率も下がる。
だが、それでも三割は、あまりに少ない。
沈黙の末、デイビッドはようやく口を開いた。
「……七割。」
「五割。」
「オーケイ。」
引っかかった。
楓にとって、実のところ割合などどうでもいい。最初に三割と口にしたのも、デイビッドの注意を割合という条件に引き込むためだった。
なぜなら、楓が口にしたのは「できた分」。成功率を口実にすれば、よほど低くない限り、工作などいくらでも可能だ。
その後、二人の間では具体的な取引ルートや日程の調整など実務的な会話が続いた。
部屋を出た頃には、すでに時刻は午前三時を回っていた。
「ハッハッハ。ミスター玄野は実にすごい人物だ。この歳で、ここまでの気魄と手腕を持つとはな。会えて嬉しいよ。」
デイビッドは、楓たち三人を車まで自ら見送った。
「俺も、ミスターデイビッドが話の通じる相手で、本当に助かった。」
「では、俺はここまで。帰りも来たときと同じく、しばらく、トラックの中で我慢してもらうことになる。」
「ああ、そちらの事情は理解している。すべては契約通りに。よろしく。」
トラックの扉が閉まった瞬間、車内の楓はふっと長く息を吐いた。
「やっぱり……疲れたんですね、楓さん。」
矢崎が心配そうに声をかける。
「……お前らしくないな。」
龍崎も静かに口を挟んだ。
楓は何も言わず、目を閉じたまま微動だにしなかった。
――当たり前のことだ。
楓がどれだけ冷静で凄まじくても、まだ高校一年の少年に過ぎない。
相手は、世界でも名を知られる麻薬組織。そんな連中と正面から交渉し、しかも主導権を握ったのだ。
緊張しないはずがない。
だが、どれだけ緊張していようと、楓はそれを決して表に出さない。
いや、出せないのだ。
ほんの一瞬でも隙を見せれば、その場で三人とも、確実に消される。
「すまん。少し寝る。着いたら起こしてくれ。」
そう言い残すと、楓はそのまま一言も発することなく、静かに目を閉じた。
東京のとある道路。
トラックから降りた矢崎は、千葉に戻ろうと車を出そうとしていた。
そのとき、熟睡していた楓を叩き起こしたのは、ポケットから鳴り響いた着信音だった。
「……」
不快そうに眉をひそめながら、楓は携帯を取り出す。
画面には、不在着信の表示が数十件。
一瞬、胸の奥に嫌な予感が湧き上がった。
再び、着信音が鳴る。
楓は黙って通話ボタンを押し、携帯を耳にあてた。
『――あっ、繋がった! 大変っす、会長! 佐竹の兄貴が……!』
報告を受け、楓の目が大きく見開いた。
「佐竹が射たれた!? 何があった!」
楓の怒声に、矢崎と龍崎も顔を強張らせた。
「なにっ!?」
電話の向こうでは、子分が慌ただしく状況を説明していたが、その途中で、低く太い声が割り込んだ。
『――代われ。』
数秒の間のあと、聞き慣れた声が通話口から響く。
『俺だ。……佐竹は今、病院で手術中だ。命に別状はねぇ。』
「鬼塚か、何があった?」
『宮野亮が単独で拠点に襲ってきた。その時佐竹と若いのが五人しかいなくてな、佐竹は部下をかばって撃たれた。』
楓は少しだけため息をつき、短く言った。
「分かった。詳しい事情はあとでいい。病院の名前を教えろ。」
朝五時ごろ、楓たち三人は千葉中央病院へ駆けつけ、手術室前に到着した。
ちょうどその頃、手術が終わったところだった。
医師の説明によれば、腹部の弾丸は無事に摘出され、不幸中の幸いで臓器には損傷がなかったという。
「今夜は集中治療室で経過観察します。バイタルが安定すれば、明日には一般病棟へ移れる見込みです。」
「ありがとう、先生。」
楓が静かに礼を述べると、背後に控えていた黒楓会の若衆たちが一斉に頭を下げた。
「ありがとうございましたッ!」
その迫力に、医師は思わず一歩、後ずさった。
鬼塚の話によれば、昨夜の事情はこうだった。
楓たち三人が離れたあと、やはり極刀会が攻めてきた。
予定通り、佐竹が全体の指揮を取り、鬼塚を最前線へと送り込んだ。
さらに、事前に仕込んでいた別働隊もいた。敵と激戦を繰り広げている最中、別働隊が後方から現れ、戦況は一気に黒楓会に傾いた。
戦術そのものには何の問題もない。むしろ、構成としては優れていた。
問題は、あのイカれた男、宮野亮にあった。
宮野亮は、戦場にいた自分の部下たちを見捨て、一人でその場を離脱した。その動きを見た者は、彼が逃げたのだと判断した。
だが実際、宮野亮はそのまま指揮拠点へ単独で潜入し、部下を囮にしてまで、佐竹を狙った。
その結果、極刀会の若衆二十人近くが重傷を負った。そんな狂気じみた行動、誰ひとりとして、予想できなかった。
「宮野亮、か。」
楓は低く呟いた。
前回は黒楓会の本部を直接狙い、今回もまた指揮を断ちに来た。
その行動は異常で不穏、そのうえ実力は鬼塚や龍崎と並ぶレベル。
まったく厄介な存在だ。
この男は、消さなければならない。
佐竹の負傷は、黒楓会にとってあまりにも痛い。
事務処理全般を担うだけでなく、資金の流れも掌握し、戦闘の指揮までこなす、まさに全能の男だった。
佐竹が入院している間、楓が自ら事務業務をこなさなければならなかった。
山のように積まれた書類を、一枚ずつ丁寧に目を通し、必要に応じてサインや指示を書き入れていく。
戦闘も組織運営も、すべてが楓の肩にのしかかっていた。
そしてゴールデンウィークの最終日。
その日、とある人物が黒楓会本部を訪れた。
楓が一人で黙々と事務作業をこなしていると、見張りの一人が事務所に入ってきた。
机の前まで歩み寄り、頭を下げ、小さく告げる。
「失礼致します、会長。面会を希望する者が来ています。……いかがなさいますか?」
「何者だ?」
「それが、"紹介で来た"と伝えれば分かる、と言っております。」
「紹介……? ああ、入れてくれ。」
「はい。」
二分後、事務所に姿を現したのは、三十代前後の男だった。
身長はおよそ百七十五センチ。精悍な顔立ちに、軍人のように短く剃り上げた短髪。
そして何よりも印象的だったのは、やや濃い眉毛。
男は背筋を伸ばし、無駄のない動作で一歩前へ出た。
「お初にお目にかかります、佐藤守と申します。……黒楓会の会長で間違いありませんね?」
その声には無駄な抑揚もなければ、焦りもなかった。ただ正確に、状況を見極める者の落ち着きがあった。
楓は興味深げに、目の前の男をじっと見定めた。
四月末、黒楓会独自の情報網を構築するため、楓は裏の仲介屋に依頼を出していた。
情報工作に優れた人材を紹介してほしいと。
そして、現れたのがこの男だった。
「はじめまして。俺が、黒楓会の会長、玄野楓だ。」
「お目にかかれて光栄です。」
「立ったままじゃ話もしにくい、座っていい。仲介屋からは"プロ"と聞いている。あんたの実力、少し聞かせてもらおうか。」
「承知しました。」
佐藤は静かに腰を下ろし、背筋を崩さず答えた。
「専門分野は、潜入捜査、身分や書類の偽造、暗殺、情報収集。
必要であれば、敵組織の深部に入り込み、内側から崩すことも可能です。」
楓の目がわずかに細くなる。
「ほう……かなり有能そうだな。情報員なら、俺のことは調査済みだろうな。」
「は。勝手ながら、調べさせていただきました。」
「言ってみろ。」
「玄野楓。年齢は十六。中学三年のとき、暴走族"悪覇連棒"と共に古川組を潰し、その後、黒楓会を立ち上げた。
以降、縄張りを拡大し続け、人員も着実に増やしている。現在は極刀会と対立中です。」
楓は表情一つ変えずに聞いていた。ここまでは、誰でも辿り着ける一般情報に過ぎない。
「調べた限り、中学三年までは特に異常な経歴は見当たりませんでした。……ただ、一件だけ気になる事件があります。」
佐藤は一拍おいて、言葉を続けた。
「千葉市内の路地裏で発生した、三人死亡の落下事故。死者のうち一人は、君のクラスメイトだった。
その事故のあと、君はまるで別人のように変わった。そして、事故の発生と古川組の壊滅までの間は、わずか十日。」
佐藤の目が、静かに楓を射抜く。
「君があの事故に関与している可能性は、高いと見ています。」
楓は肯定も否定もせず、ただ無言で佐藤を見つめた。
その視線は、何かを測るように静かで深い。
「あんた、経歴は?」
佐藤守は一切ためらわず、静かに口を開いた。
「元CIA情報員です。冷戦終結後、外籍の情報員は次々に現場を外され、私もその一人でした。
以降は独立し、依頼ごとに仕事を選んでいます。」
「話は分かった。あんたの能力は高く評価する。
今回の依頼は、十人規模の情報隊員を訓練してもらうことだ。あんたの技術を、うちの者に徹底的に叩き込んでほしい。」
佐藤の眉がわずかに動いた。
「訓練……ですか?」
「ああ。」
「かしこまりました。」
候補はすでに決めてある。リーダーは矢崎に任せ、残りの九人は若衆の中から器用な者を選抜した。
「期間は半年。その間に実務もある。その分の報酬は、きちんと払わせてもらう。」
「感謝いたします。」
楓は具体的な任務や要求を述べ、最後に言った。
「では本日は以上だ。何か必要な条件があれば、遠慮せずに言ってくれ。」
「かしこまりました。今のところは特にございません。では、これにて失礼いたします。」
佐藤守は静かに立ち上がり、一礼してドアに向かった。
だが、二、三歩進んだところで足を止める。
振り返り、楓の瞳をじっと見つめた。
「まだ何か、不明な点でも?」
「いえ。」
そう言いながらも、佐藤は少しだけ困惑したように目を細めた。
佐藤の顔から初めて見せる、"表情"というものだった。
「恐れながら……君のような方は、なぜ極道に?」
楓はふっと口元を緩めた。その瞳は、まるで深淵を湛えたような黒い色をしていた。
手にしていたペンを静かに机に置き、片手で湯呑みを取った。
ひと口だけ飲んで、また丁寧に机の上へ戻す。
そして、静かに口を開いた。
「いじめされたくないから。」
翌日、若中の松島が退院し、四街道の拠点へと復帰した。
一方、矢崎は本部に戻ったばかりだったが、すぐに楓から新たな任務を言い渡される。
それは、佐藤守と共に情報網を構築しつつ、彼の下で訓練を受けることだった。
一方、黒楓会に加入した前田拓也は、早速その協力のもと設備を調達し、アイスの精製所を立ち上げた。
LTとの初取引で手に入れた約十キロの原材料を使い、現在は全精力を注いで精製に取り組んでいる。
楓の指示のもと、情報小隊は瞬く間に編成された。
隊長は佐藤、そして副隊長に矢崎。隊員は九名。
その名は――影。
影小隊は今後、黒楓会における最強の武器となる。
情報収集、情報工作、暗殺。それらすべてを一貫して担う、極めて精鋭の部隊だ。
その名の通り、影は付き纏う悪霊のように、どこにでも存在し、そして、どこにも存在しない。
そして、影の初任務は、極刀会の内情を余すところなく洗い出すこと。




