23 布石
龍崎は楓の声を聞き、目を見開いた。
「……玄野、お前……黒楓会の人間だったのか?」
「そっちこそ、極刀会にいたとはな」
「龍崎? こいつが、あの“病院送り”の?」
鬼塚が訝しげに問いかけた。
意外な展開に、龍崎はわずかに戸惑いを見せた。
しかし何も言わずに背を向け、静かにその場を去ろうとする。
――その背に
「おい、龍崎」
楓の呼びかけに、龍崎の足が止まった。
「俺と共に来る気はないか?」
龍崎はしばし沈黙し
「……今は、無理だ」
今は、か。
楓は、一瞬のうちにいくつもの策を練り上げていた。
「分かった。それじゃ、また学校でな」
まずは退路を断つ。
龍崎は、どうしても手に入れたい人材だ。
鬼塚と互角に渡り合い、たった一人で一拠点を沈黙させる実力、そして何より、義理堅い。
だからこそ、楓は二度も試しで誘った。2度も断られたからこそ、なおさら確信した。龍崎を仲間にできれば、必ず大きな役目を果たす。
龍崎が姿を消したあと、鬼塚が口を開いた。
「……いいのか、このまま行かせて、また来やがったらどうする」
「いいんだ。」
鬼塚は、龍崎が去っていった方向を見つめた。
すると楓が、その心中を見透かしたように
「最初に言ったさ。いつか会わせる。その時も……必ず勝ってこい」
こんな形で出会うとは、さすがの楓も予想できなかった。
しかし、入学日の時点で、楓はすでに“龍崎と鬼塚の決闘”を企んでいた。
なぜなら、龍崎は、倒さなければ配下に置けない男だからだ。
龍崎が八街市の極刀会本部へと戻った。
「この役立たずが。なぜ黒楓会の連中を仕留めなかった?!」
そう怒声を上げたのは、四十代前後、薄青の着物に身を包んだ男。 小さな目に宿るのは、冷ややかな光――極刀会会長・岩本健三だった。
龍崎は黙って立ったまま、ゆっくりと目を閉じる。
「またそれか。何か言え」
苛立ちを押し隠すことなく、岩本が続ける。
沈黙の末、龍崎がようやく口を開いた。
「……契約が違うじゃねぇか」
「契約だと? てめぇ、どの口で俺に契約を語る!」
岩本の声が一段と鋭くなる。
「病院送りの事件――あの始末をつけてやったのは誰だ? 俺が手を回さなきゃ、お前はとっくにムショ行きだ。賠償金も誰が払った? この俺だぞ」
「……」
あの事件の後、極刀会は即座に龍崎へと接触した。 見返りとして、龍崎は“用心棒”として五年間、極刀会に仕える契約を交わしたのだ。
その“用心棒”とは、あくまで極刀会を守る役目のはずだった。
だが、最近の岩本は、龍崎を頻繁に各地の拠点に送り込んでいる。 “守り役”としての契約だったはずが、今では“攻め駒”として使われている。
龍崎の言う「契約が違う」とは、まさにその点だった。
しかし、岩本健三という男は、実に狡猾だった。
人の心を操ることに長け、言葉と情を巧みに使い分ける。
不器用で義理堅い――そんな龍崎の性格を、岩本は最初から見抜いていた。
情を武器にされれば、龍崎のような男は拒絶しづらい。操りやすい。
怒りをぶつけた直後、岩本はすぐに冷静さを取り戻し、それまで怒気を帯びていた目元が、すっと和らぎ、声音も別人のように穏やかになった
「この件はもういい。……勝、お前は極刀会の大事な仲間だ。だから育てたいんだ」
穏やかな声で、まるで親心でもあるかのように言葉を続ける。
「知り合いだからって手加減するな、とは言わん。だが――お前には“立場”ってもんがある。……明日は行けるか?」
ふっと、楓の言葉が頭をよぎった。
『――また学校でな』
あれはただの挨拶ではなかった。楓は龍崎の本質を見抜いていた。
“明日、もう黒楓会の人間には手を出すな”。
そう暗に釘を刺す、言葉だった。
「……明日は、無理」
岩本は一瞬、怒気を滲ませた。
だが、すぐにそれを噛み殺し、次に口から出たのは
「そうか。分かった。……焦らなくていい。今はゆっくり休んどけ、また来週頼んだぞ。」
「……はい」
龍崎が本部を出たあと、すぐに一人の舎弟が岩本の元に近づいてきた。
「兄貴……龍崎が裏切る可能性って、あるんすかね?」
岩本は扇子で軽く顔を仰ぎながら、ゆっくりと目を細めた。
「さあな……だが、あいつは貴重な戦力だ。他所に行かせるつもりはねぇ。もし仮に……そうなったら――クククッ」
不気味な笑みを浮かべながら、岩本の目が細く鋭く光る。
「ヘッヘッヘ……さすが兄貴。」
日曜日を無事に過ごし、月曜日を迎えた。 若林高校――昼休み。
楓は教室の中で、龍崎の席の前を通り過ぎる際に、誰にも聞こえない小さな声で言った。
「……屋上まで」
龍崎は無言で席を立った。
屋上に着いたころ、春の風が楓と龍崎の髪をやわらかく揺らしていた。
「なあ、龍崎。借りは返すって言ったな」
「……ああ」
「手を貸してくれ」
「……何のことだ」
「白川が、そろそろ動く」
白川か。
龍崎の中で何かが揺れた。
それが安堵なのか、それとも落胆なのか、自分でも分からない。
けれど、分かっていることが一つだけある。
龍崎は、また楓に“誘われる”ことを、どこかで望んでいたのかもしれない。
だが、極刀会と契約を交わした以上、それを理由もなく破ることはできない。いや、それ以上に、何よりも、龍崎自身が納得できない。
その感情を悟られまいと、龍崎は目を伏せ、短く答えた。
「……分かった」
楓は頷き、推測と計画を語り終えた。
「今週、“すべて”を終わらせるさ」
龍崎は、それを“白川の件”だと理解した。
しかし、楓の言う“すべて”は、白川の件だけではなく、前田拓也の娘の手術、そして――龍崎自身のことまでも。
「それじゃあな」
そう言って、楓が屋上の出入口に向かおうとした、その背に
「……玄野。お前は、なぜ黒楓会に入った?」
龍崎の問いに、楓は立ち止まり、振り返る。
「違うな、間違ってるよ龍崎。」
風に揺れる髪の向こうで、楓の目がまっすぐに龍崎を見据えていた。
「黒楓会に入ったんじゃない。俺は――黒楓会の会長だ。俺が黒楓会を立ち上げた」
「……!」
龍崎は元々、感情の起伏が薄い人間だった。
けれど、楓と出会ってからというもの、毎回のように、その予想を裏切られてばかりだ。
あらためて、目の前に立つ楓の目を見つめる。
真っ黒なその瞳は、まるで底知れぬ深淵のように、すべてを飲み込もうとしている。
……本当に、器が大きい。
白川の計画は、当初の段階では成功していた。
まず、山田を痛めつける。
それを見せしめにすることで、楓の周囲にいる者たちを脅し、徐々に楓を孤立させる。
白川は、楓が反撃できるのは本人が強いからではなく、周囲の人間を上手く使っているだけだと考えていた。
だからこそ、“孤立無援”の状況を作り出し、そのうえで一気に叩き潰そうとしていた。
だが、白川には二つの誤算があった。
一つは――龍崎の実力だ。
白川は龍崎が加勢に現れる可能性も想定していた。
生徒会の面々に加え、上級生を含めた人員をあらかじめ揃えていた。
どれだけ龍崎が強かろうと、これだけの人数を相手にしてはさすがに不可能。
白川はそう考えていた。
もう一つは――楓の読みの正確さ。
白川は楓を甘く見ていたわけではない。だが、ここまで深く読まれていたとは、夢にも思わなかった。
楓の下校ルートは、山田とは違い、基本的に、人通りの多い道だった。
そもそも白川には、山田のように人気のない場所で楓を襲うつもりはなかった。
彼が狙っていたのは、決まった場所――
学校の校門前。
多数の生徒が見ている前で、玄野楓を潰すことだった。
月曜から金曜まで、楓はあえて空気を読み、周囲の人間と距離を取っていた。
まるで自ら孤立しているかのように見えるほどに。
そして、金曜日の下校時。
狙いすましたように、白川たちが姿を現した。
下校する生徒たちの中に、一人だけぽつんと歩く姿があった。
玄野楓。誰とも言葉を交わさず、ただ静かに歩いていた。
「やあ、久しぶりだね、玄野くん。いや……代理会長と言ったほうがいいのかな?」
涼やかな声が、背後から響いた。
振り返らずとも、その声の主は分かる。
眼鏡をかけた端正な顔立ち。整った鼻筋に、涼しげな目元。
そして、見る者を安心させるような爽やかな笑顔。
まるで雑誌のモデルからそのまま出てきたかのような完璧なルックス。
生徒会長、白川優樹。
その周囲には、生徒会の面々がずらりと並んでいた。
異様な空気に気づいた下校中の生徒たちが、次々と足を止める。
「なになに、ケンカ?」
「おいおい、こりゃ見ものだぞ」
「これはこれは、生徒会長様じゃないか。行けないですね、生徒会が揃って不登校なんて……まさか、食中りでもしたのか?」
楓の一言に、周囲の生徒たちからくすくすと笑い声が漏れる。
白川の背後で、生徒会の面々が一斉に睨みをきかせた。
「ずいぶん余裕だね。前にも似たようなこと言ってた子がいたな……山田くんだったかな? うっかり転がって、入院したらしいよ。玄野くんも気をつけないと」
その言葉を合図に、生徒会のメンバーがじりじりと楓を囲みはじめる。
それだけではない。
気づけば、周囲に見覚えのある上級生たちが二十人ほど集まってきていた。
どうやら、彼らも白川の支持者らしい。
――用意周到、というわけか。
他の下校生徒たちは誰一人、声をあげることはなかった。
立ち止まって見ている者もいれば、気まずそうに視線を逸らす者もいる。ただ、それだけだ。
誰も助けようとはしなかった。
「なにせ……あちこち“ゴミ”が転がってるから、危ないからね」
白川の言葉に、楓は相変わらず柔らかい笑みを浮かべたままだった。
「たしかに、ゴミはいっぱいですね」
「ククク……その笑顔、すぐに消してやる」
金髪の男がが怒りに顔を歪め、前に出ようとする。
楓はたった一瞥だけをくれた。
「先輩、本当に懲りないね」
どこか諦めたように、わずかに苦笑を滲ませる。
「俺があんたなら、二度も負けた相手の前に、のうのうと姿を見せたりはしないけど」
「はっ? てめぇ、状況分かってんのか、ぷはっ――!」
言葉の途中で、鋭く振り抜かれた脚が、金髪の男の顔面をとらえる。
確実で、かつ力強い一撃。
男の身体が宙を舞い、五メートル先のアスファルトに叩きつけられた。
「いや、三度目か」
気づけば、楓の背後にひとりの男が立っていた。
くだらなさそうな目つき、サイドを刈り上げたツーブロックに、きっちり整えられたオールバック。
――病院送りの龍崎勝。




