2 変貌
翌日。
玄野楓は、まるで何事もなかったかのように教室へ入ってきた。
足取りは軽く、表情も穏やかだった。しかし、どこか昨日までとは違う雰囲気を漂わせていた。
鞄を置き、椅子に腰を下ろし、静かに授業の準備を始めた。
すると、背後から声がかかった。
「おい、玄野」
井上だ。
楓が平然と登校してきたことが気に入らないのだろう。
井上は楓の椅子を軽く蹴りながら、いつものように命令した。
「持ってきてんだろうな?手塚さん、待ちくたびれてるぜ。」
いつもなら、手塚の名前を聞くだけで楓は萎縮し、震えながら頷くだけだった。
だが、今日は違った。
楓はゆっくりと顔を上げ、目を細めた。
「行くよ、必ず。」
井上の眉が、かすかに動いた。
何かが違う。
楓の表情にどこか不気味なものを感じたが、すぐに苛立ちをぶつけるように鼻を鳴らした。
「……は? まあ、いいけどよ。」
そう言い捨てて席に戻った。しかし、心のどこかで引っかかるものを感じていた。
何だ、今のは――。
一方、楓は再び教科書に目を落とした。
その顔には、笑みが浮かんでいた。だが、その瞳だけは、氷のように冷たく光っている。
昼休み、楓は体調不良を理由に保健室へ向かった。
保健の先生は中年の女性で、授業を抜け出す生徒には慣れていた。簡単な問診を終えると、楓をベッドへ寝かせた。
カーテンで仕切られたベッドの中、楓は枕と制服を布団の下に詰め込み、寝ているように見せかけた。
そして、窓から静かに抜け出し、校舎の外へ足を踏み出した。
昨日の路地裏に到着すると、事前に用意していた軍手をはめ、工具袋を開き、午後から仕掛けの最終調整に取りかかった。
全ての準備を終えると、楓は再び学校へ戻った。
アリバイ作りのため、午後三時頃に保健の先生に時間を尋ね、再び保健室を抜け出した。
午後四時。
路地裏には手塚たち三人が待ち構えていた。
いつものように奥でタバコをふかし、煙を吐き出しながら楓を睨んでいた。
「おっ、来たか」
手塚が立ち上がり、面倒くさそうに顎をしゃくった。
「で、金は?」
楓はゆっくりと首を振った。
「その前に、貸しを返してもらおうか」
手塚が眉をひそめた。
「は? 何の話だよ」
「この二年間、あんたらが俺から奪った金――ざっと百万円はあるが」
手塚は鼻で笑った。
「そんなにあったっけ? 覚えてねぇな」
その時、遠くから電車の音が響いてきた。
古びた鉄道のため、通過するたびに耳をつんざく轟音が響く。
楓は電車の音に合わせるように、ゆっくりと口を開いた。
「その金――あんたらの弔い代にしてやるよ」
轟音が路地を包み込む。
その瞬間、楓は右手側に隠されたロープを強く引いた。
頭上から重い衝撃音が響く。
鉄製の棚、古い洗濯機やタンスが崩れ落ち、手塚たちの上に降り注いだ。
狭い路地では逃げ場などない。
三人の悲鳴が、電車の轟音にかき消された。
経年劣化していたバルコニーの支柱のボルトを緩め、ロープで固定していた仕掛け。
引くことでバルコニーが傾き、上に積まれていた粗大ゴミが一気に崩れ落ちるようになっていた。
轟音の中、重い家具が落下し、井上の頭を直撃する。
一瞬で動かなくなった。
もう一人もまた、崩れたタンスの角に叩きつけられ、かすかにうめき声を上げた後、ピクリとも動かなくなった。
そして、唯一生き残った手塚は、瓦礫の中で震えながら楓を見上げる。
足を潰され、動けなくなった手塚の顔には、恐怖に引きつった表情が浮かんでいる。
楓はゆっくりと瓦礫を踏みしめ、落ちていた金属片を拾い上げ、口元を歪める。
「――さようなら」
次の瞬間、楓は破片を振り下ろした。
手塚が短く息を詰まらせ、静かに崩れ落ちる。
楓は無言のまま、血に濡れた破片の表面を拭き、慎重に指紋を消した後、破片を瓦礫の下へと滑り込ませた。
電車の音が遠ざかる頃には、路地裏には完全な静寂が戻っていた。
楓は深く息を吐き、ゆっくりとその場を後にした。
こっそりと保健室へ戻り、ベッドに身を沈めた。
薄暗いカーテン越しに、微かな光が差し込でいる。
――殺人って、思ったより簡単だ。
驚くほど、あっけなかった。
計画通りに仕掛けを作動させ、自分をいじめた連中を始末する。
確実に証拠を消し、誰にも気づかれず、日常へと戻る。
怖さも、罪悪感も、まるでなかった。
むしろ――胸の奥を塞いでいた何かが、すっと取り払われたような感覚。
スッキリしていた。
楓は静かに目を閉じ、わずかに笑みを浮かべた。
アリバイを作るため、楓は午後五時まで保健室で過ごした。
そろそろ保健室が施錠される頃だ。
カーテン越しに、保健の先生が声をかけた。
「具合はどう?」
楓は背筋を伸ばしながら、にやりと笑った。
「ええ、もう大丈夫です」
先生はカーテンの中を見て、微笑んだ。
「あら、その様子だと、よく眠れたみたいね」
楓はふっと息を吐き、視線を窓の外へ向けた。
「……ああ、随分長い夢を見ていた気がする」
淡々とした声だった。
だが、その目には、今までとは違う光が宿っている。
翌朝、教室にはざわざわとした空気が漂っていた。
「なあ、聞いたか? 昨日、あの路地裏で事件があったらしいぞ」
「マジで? 俺、今朝登校する途中で警察と封鎖された現場見たぜ」
「なんか、死んだのはうちの生徒らしいけど……」
クラスのあちこちで、低い声での会話が交わされている。
楓は無言で席につき、教科書を開いた。
ちらりと周囲を見渡せば、明らかに普段とは違う雰囲気だった。
興味本位で噂をする者、怖がる者、ただ静かに耳を傾ける者。
その中で、井上の席だけがぽっかりと空いている。
「……おはようございます」
教室に担任が入ってきた瞬間、ざわめきはピタリと止んだ。
「朝礼を始める前に、皆さんに伝えなければならないことがあります」
教師の声は、妙に硬かった。
「昨日、井上くんが事故に巻き込まれ、亡くなりました」
教室が一瞬、静まり返る。
「……事故?」
誰かが小さく呟いた。
「そう。警察によれば、老朽化したバルコニーから落ちてきた物に巻き込まれたそうです。」
教師は淡々とした口調で言うが、その顔にはどこか腑に落ちない表情が浮かんでいた。
「……ついてねぇな」
「うわっ……」
「まだ捜査は続いているそうですが……現時点では事故と認定されています。ご冥福をお祈りしましょう。あと、くれぐれも怪しい場所には近づかないように」
再び静寂が降りた。
だが、その沈黙の中で、楓はふっと笑みを浮かべる。
「……なるほどな」
クラスの誰も、彼がわずかに口元を歪めたことには気づかなかった。
警察は、適当に結論を出したのだ。
死んだのはチンピラだが、現場に争いの跡もない。当時、監視カメラもほとんど設置されていなかった。警察はろくな調査もせず、手間をかけたくなかったのだろう。
朝礼が終わり、教師が教科書を開くよう指示を出した。
クラスメイトたちはまだざわついていたが、やがてそれぞれの机に視線を落とし、普段通りの授業が始まった。
昼休み、楓は廊下の掲示板の前で立ち止まった。"落とし物の届け出"の紙が貼られている。
拾得物:黒いメモ帳
発見場所:3年A組廊下のロッカー付近
楓は、その文字をじっと見つめた。
黒いメモ帳……?
ふと、昨日の出来事が脳裏をよぎった。井上は、たびたびノートに何かを書き込んでいたのを、楓も見たことがある。
しかし、掲示板には持ち主の名前は書かれていない。つまり、誰の持ち物か特定されていない状態ということだ。
もしこれが井上のメモ帳なら――自分に関する情報が記されている可能性がある。それは危険だ。
アリバイは完璧だが、もし中に手塚たちとの関係や、恐喝されていた金の記録が残っていたら――。
楓は無意識に拳を握った。
放っておくわけにはいかない。
一度、ゆっくりと息を吐き、気持ちを整える。焦りを見せず、いつも通りに振る舞う。
落とし物は職員室の"落とし物ボックス"に保管される。もし井上のものなら、その中身を確認し、処理する必要がある。
楓はゆっくりと踵を返し、職員室へ向かった。
職員室の扉を軽くノックし、中に入る。教師たちは昼食を取ったり、書類を整理したりしていた。
楓は真っ直ぐに"落とし物ボックス"が置かれた棚へ向かい、落とし物担当の教師に声をかけた。
「すみません、落とし物のメモ帳を確認したいんですが」
教師は顔を上げ、少し考えるような素振りを見せた後、楓の顔を見た。
「ああ、黒いメモ帳のことか? それならここにあるよ」
そう言って、棚からメモ帳を取り出し、楓に見せる。
楓は表紙を一瞥し、念のため自然な仕草で確認するフリをしながら、ページを軽くめくった。中には、乱雑な字でびっしりと書き込まれた文字が見える。
間違いない。
教師の前でじっくりと中身を見るわけにはいかないが、井上が書いていたものと考えて間違いないだろう。
「これ、僕のです。すみません、昨日落としたみたいで」
教師は特に疑う様子もなく、あっさりとメモ帳を楓に渡した。
「ちゃんと持ち物管理しろよ。落とし物は他の人に拾われたら困るだろ?」
「はい、ありがとうございます」
楓は礼を言い、メモ帳を手に取りながら職員室を出た。
人気のない廊下へ出ると、楓は静かに歩きながら、メモ帳を開いた。
中を見ると、予想以上に詳細な情報が記録されていた。
『悪覇連棒』
地元の暴走族、総長鬼塚大地
携帯番号:090-xxxx-xxxx
『古川組』
ヤクザ。族狩りをやっている。
他には、手塚たちによる恐喝の記録
楓だけでなく、複数人から金を奪っていたことが書かれている。
これは、かなり使えるな
井上はどうやら、裏社会のことを学ぼうとしていたらしい。
不良にしては、よく調べたものだ。
メモには、彼なりの考察や情報の整理がびっしりと書き込まれている。しかも、手塚は楓だけでなく、他の生徒からも金を巻き上げていた。
これなら、楓が疑われる可能性はゼロに近い。
メモ帳をポケットに滑り込ませ、そのまま歩き出した。
たとえ外れた道でも、楓は中途半端で終わらせる気はない。どうせなら、最後までやり遂げる。
そのためには――
「自分の組織」が必要だ。
このメモ帳に記されている情報が本物なら、「悪覇連棒」は利用できる。ヤクザの暴走族狩りによって追い詰められている側なら、"助け"をちらつかせれば、接触のチャンスはある。
問題は……どう動くか
楓は慎重に情報を集めながら、機会を待つことにした。
学校の帰り道。電車の中。コンビニの前。
街を歩きながら、耳を澄ませる。
"不良"たちの会話。
「暴走族狩り」の噂。
古川組の動き。
何か、突破口になる情報はないか。
こうして、一週間が経った。