19 交錯
成田空港から4キロほど離れた、使われなくなった廃棄倉庫。
錆びた鉄骨と割れたガラスが散乱し、空気は埃と錆の匂いに満ちていた。
倉庫の中央、時間を忘れたような薄暗さの中、中央に置かれた古びたパイプ椅子に、一人の男性が座っている。
三十代。シャツの袖は乱れ、額には脂汗。顔には焦りと疲労、そして何より恐怖の色が濃く滲んでいた。
その男の隣には、黒いスーツを着た大柄の男が黙って立っている。
さらにその背後に、数名の手下らしき人物が無言で控えていた。
向かい側には三人の影。
その中央に立つ少年だけが、倉庫の中を静かに行ったり来たりしていた。
コツ、コツ、と床に響く革靴の足音。
その音だけが、倉庫内の静寂を断ち切る。
誰もが黙っていた。
空気は重く、冷たい。
男は耐えきれなかったのか、ついに声を上げた。
「た、頼む……遥ちゃんは……娘は関係ないんだ……!」
だが、その声に誰も返事をしない。
その"遥ちゃん"と呼ばれる少女は、倉庫の外れにある車の中にいた。
鍵がかけられた車内。外には二人の男が立っており、視線を絶やさない。
しかし、正面を歩く少年は、その訴えに何の反応も示さない。表情は見えない、ただ静かに歩き続ける。
何分が過ぎたのか、あるいは何十分が過ぎたのか。
空気はさらに重く、濃く淀んでいく。
そして——少年の足が、ぴたりと止まった。
薄明かりの中、ゆっくりと顔を上げる。
黒真珠のように澄んだ瞳。
その奥に潜む闇は、相手の心を覗き込むような、底知れぬ鋭さを帯びていた。
黒楓会 会長、玄野 楓。
楓は静かに、言葉を落とした。
「娘さん、手術は東大付属病院で受けてもらう。」
前田の表情が引きつる。
その言葉の意味を理解するまでに、数秒の沈黙が流れた。
「……え?」
声にならない声が、前田の喉から漏れる。
楓は目線すら動かさず、言葉を重ねた。
「費用も手配も、全部こちらで引き受ける。」
「…………」
「娘さんが治ってきたら——」
一拍、間を置いて。
「また“話”しよ、前田先生。」
相手の反応を待たず、楓はくるりと踵を返し、そのまま無言で歩き出した。
「よろしいんですかぇ……」
隣で歩調を合わせてきた佐竹が、小声で問いかける。
「いいんだ。」
楓は視線を前に向けたまま、淡々と応じた。
懐柔策——。
前田拓也は間違いなく“使える人材”だ。あれほどの純度の覚醒剤を、限られた設備と材料で安定的に合成できる人間など、裏社会を見渡してもそう多くはいない。
うまく取り込めば、黒楓会の競争力は飛躍的に高まる。
この場で直接説得するなら、主導権を相手に握られる可能性もある。
だからこそ、敢えて言葉を交わさず、倉庫内を行きつ戻りつして見せた。
無言の圧力で空気を支配し、交渉の土俵ごとこちらに引き寄せる。
単純に力で脅す手段は、最も効率が悪い。下手をすれば、心に反発の火種を残す。
金で買収したところで、より条件の良い組織が現れれば、簡単に寝返る可能性もある。
故に——忠誠心が必要だ。
黒楓会が、前田にとって“安全で、安心できる場所”であると証明しなければならない。
ここに来るまでの車内で、前田の娘について詳しい報告を受けた。
7歳の少女。母親と同じ、先天性の重い心疾患——単心室症候群。
すでに何度も手術を重ねてきたが、今後も高難度の再手術が必要になる。
完治を目指すには、最先端の医療設備と、経験豊富な外科医の存在が欠かせない。
国内でそれを実現できる病院は、ほんの一握り。
中でも、東京大学付属病院の小児循環器外科は、そのトップに位置する。
そこへ、入院してもらう。
前田にとって、娘の命こそが生きる理由であり、最後の支えだ。
ならば、その命を預かる場所ごと、黒楓会が“守る”と示すことで、彼の忠誠は、自然とこちらに向く。
楓は静かに、前を見据えたまま歩みを止めない。
この世界で人を動かすのは、力や金だけじゃない。
“情”もまた、武器になる。
楓一行が倉庫を出ていった後も、前田はその場に座ったまま、微動だにできなかった。
何が起きたのか、頭がまだ整理できていなかった
その静けさを破るように、隣にいた鬼塚がぽつりと口を開く。
「会長の命令だ。しばらくは、娘のそばで介護してやれ。学校は一旦、休んでもらおう。」
柔らかな物言いではあるが、その響きには選択肢の余地はなかった。
“介護”という表現は穏やかだが、実質的には“軟禁”に近い措置だと、前田はすぐに理解した。
「な、なんで……」
声は震えていた。
最初は殺されると覚悟していた。
娘さえ無事でいれば、自分はどうなってもいい。そう思っていた。
だが、待っていたのは、罰ではなく、救いのような処置だった。
鬼塚は片手をポケットに突っ込んだままぼそりと呟く。
「さあな。……うちの会長、人情に弱いのが玉にキズでな。命張って娘を守ろうとした奴のこと、見て見ぬふりはできねぇんだとよ。」
鬼塚の背中から伝わる声には、どこか乾いた優しさがあった。
「……」
前田は、何かを言いかけて——やめた。
ただ、静かに倉庫の扉の向こうを見つめる。
その先に、玄野 楓の姿はもうなかった。
帰り道。車内にはしばらく沈黙が流れていた。
佐竹が、低く報告を口にする。
「病院、押さえました。VIPルート通して手配済みです。これなら、外に漏れる心配はねぇかと。」
「ご苦労。」
楓の声は淡々としていた。
少し間を置いて、佐竹がためらいがちに問いかける。
「楓さん……前田、素直に協力すると思いやすかね。」
楓の視線は、夜の街に溶け込む街灯の明かりを見つめたまま、しばらく沈黙に落ちる。
やがて、ぼつりと。
「佐竹、最近、思考しなくなったね。」
唐突な言葉に、佐竹の目が見開かれる。
「よくないことだ。」
「す、すんません……!」
思わず背筋を伸ばし、素直に頭を下げる佐竹。
その空気をやわらげるように、前方から矢崎が笑い混じりに口を挟んだ。
「気持ちはわかりますよ。楓さんがいりゃ、たいていのことは読まれちまいますからね。」
無理もない。
楓の読みは、もはや勘や推測の域を超えている。
横でそれを見ていれば、考える前に頼りたくもなる。
だが、佐竹には——今後、もっと大きな役割を担ってもらうつもりだ。
いずれ県外に遠征することになれば、総本山である千葉には、誰かが残って守りを固める必要がある。
その任に最もふさわしいのは、用心深く、冷静で、組織を仕切れる佐竹だ。
思考が止まれば、成長も、そこで終わる。
「それと、花子さんにはもう用済みだ。」
楓の静かな声に、佐竹はすぐ反応した。
「承知しやした。今までの分はきっちり吐かせてから、キレイに始末しやす。」
翌日、学校ではまだ「生徒会脱糞事件」の話題で持ちきりだった。
廊下では、上級生たちがやけに大人しくなっている。一方で、一年生たちは妙に堂々とした様子で、特に楓のクラスの生徒たちはどこか誇らしげですらあった。
そして、この日、二つの大きな変化があった。
一つは、前田先生が急に“入院”することになったこと。
代わってやってきたのは、五十代の、まるで定年を消化するだけのような無気力な教師だった。
もう一つは、生徒会——白川優樹を含む全メンバーが、誰一人として登校してこなかったこと。
生徒会メンバーはともかく、あの白川が黙って引き下がるはずがない。
きっと、何かを企んでいる。
「昨日のあれ、マジで傑作だったよな。俺だったら、もう二度と学校なんか来れねぇわ。」
山田が楽しげに笑いながら言うと、教室の数人が「だよな」と頷き、クスクスと笑い声を漏らす。
「今でも思い出すわ、あの絶望したツラ。マジで腹抱えて笑った。」
「玄野、お前ってほんと……天才だよ。」
この教室では、玄野 楓はすでに「一目置かれる存在」から「中心」へと変わっていた。
そのとき、不意に異様な視線を感じる。
顔を上げて振り向くと、教室のドアのところに龍崎が立っていた。
無言で軽く顎をしゃくり、「こっちだ」と目で合図を送ってくる。
楓が立ち上がった。
「おい、玄野、どこ行くんだよ?」
山田が訝しげに声をかける。
「ちょっと教職員室に行ってくる。」
そうだけ返して、楓は教室を出た。
山田は「なんだよそれ」と首をひねったが、楓の後ろ姿にそれ以上の言葉はかけなかった。
ドアを閉めた瞬間、廊下の奥に階段を登っていく後ろ姿が見えた。
その背中は何も語らないが、目的地は分かっている。
楓は迷いなく、その後を追った。
三階、四階——そして最上階の五階。
屋上へと続く鉄扉が、ゆっくりと閉まる直前、楓は手を伸ばして押し開けた。
強い風が吹き抜ける屋上。
そこには、フェンスに背を預けて立つ龍崎の姿があった。
「珍しいね。あんたから声をかけてくれるなんて。」
楓がそう言いながら歩み寄る。
実際には“声”ではなかった。ただの合図にすぎない。
「どうかしたの?龍崎。」
龍崎は無言のまま。
普段、誰とも距離を詰めない男。
クラスでも浮いた存在で、会話は最低限、無駄口など一切叩かない。
それなのに、なぜか楓にだけは、時折、さりげなく距離を詰めてくることがあった。
屋上を吹き抜ける風が、ふたりの間を冷たく撫でていく。
そして、唐突に——龍崎が口を開いた。
「……手塚祐介。」
その名が放たれた瞬間、楓の脳内に冷たい電流が走った。
なぜ、この場でその名前を?
内心は凍りつくような衝撃。
だが、表情ひとつ変えず、ただ静かに立ち尽くす。
記憶の底から、黒く濁った映像が浮かび上がる。
中学時代。
ほぼ毎週のように呼び出された、決まった場所。
あの路地裏。殴られ、金を奪われ、見下され続けた日々。
手塚祐介。
あの路地裏で、自分は初めて人を“殺した”。
湿った血の匂い。
手に残った確かな感触。
倒れた手塚の目が、今も記憶の奥に焼き付いている。
龍崎は何も言わず、問いかけも追及もない。ただ、風の音と視線だけがそこにあった。




