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18 逃路

 楓一行は学校に到着した。

 まだ下校途中の生徒が多いが、構わずそのまま校内へ入る。

 職員室へ向かい、やはり前田はいなかった。

 「ああ、前田先生なら……午後から半休を取りましたよ。用事があるなら、明日の朝にでも。」

 「ありがとうございます。」

 楓は静かに礼を言い、職員室を出る。

 すぐに佐竹が寄ってきた。

 「楓さん、鬼塚に前田拓也の写真を送りやした……しかし、なぜ成田空港ですか?」

 「前田はこのままではかならずバレると踏んで、最後の取引を済ませたらどこかへ逃げるつもりのはずだ。逃げるとしたら海外の可能性が高い。成田か羽田、どちらでもあり得るが……成田のほうが国際便が多い。」

 楓の声は冷静だったが、内心は焦っていた。

 正直なところ、断定はできない。前田が本当に逃げるのか、どちらの空港を使うのか、あるいはすでに飛行機に乗っているのかさえも——すべては推測に過ぎない。

 だが、何もしなければ、すべては前田の思い通りに終わってしまう。

 それだけは絶対に許せない。

 「佐竹、前田拓也の家族を調べろ。」

 逃げられたとしても、親や身内が残っているはずだ。

 最終手段は、家族を人質に取ることだ。



 午後18時、高速道路を走る車内。

 「お父さん、どこに行くの?」

 助手席に座る少女が、不安げに問いかける。年の頃は7歳ほど。

 男性はハンドルを握ったまま、優しく微笑んだ。

 「ん? ああ、父さんと一緒に海外で暮らすんだ。」

 「病院は?」

 その言葉に、男性の表情がわずかに曇った。

 「……ああ、今日で退院することになったよ。大丈夫、遥ちゃんは向こうで新しい病院に入るから。」

 "遥ちゃん"と呼ばれた少女は、まだ状況を理解していない様子だった。

 「これから父さんは、ずっと遥ちゃんのそばにいるから。」

 「お仕事は? お父さん、学校の先生でしょ?」

 無邪気に尋ねる少女に、男性は少しだけ口元を緩める。

 「それがね、もう辞めちゃった。」

 ——今日から。

 助手席の少女が、小さな手でシートベルトを握りしめる。

 その横でハンドルを握る男性——化学の先生、前田 拓也は、静かに前を見据えた。

 2000万。

 今日の取引で、一気に手に入れた大金。

 しかし、手元に残った現金はわずかだった。大半はすでに海外の口座へ移してある。

 これまでに溜め込んだ資金は、ほとんど娘の治療費に消えた。

 それでも、今回の取引で手にした金があれば、しばらくは何とかなる。

 娘は、亡き妻と同じ病を抱えていた。

 生まれて間もなく「単心室症候群」と診断された。

 心臓の片側しか機能しておらず、生き延びるには複数回の大手術が必要だった。

 これまでに何度も手術を受け、そのたびに高額な医療費がのしかかってきた。

 そして今——さらなる合併症を防ぎ、完治に近づくには、国内でも限られた設備、あるいは海外の最先端医療に頼るしかない。

 一教師の給料では、とてもまかなえなかった。


 あるきっかけで、前田拓也は覚醒剤を作った。

 まだ純度は低いが、驚くほど簡単に合成できた。

 ——どうやら、自分にはその才能があるらしい。

 試行錯誤を重ねるうちに、精製技術は格段に向上した。

 最初は市販の薬品を組み合わせた程度だったが、化学の知識を駆使することで、高純度の結晶化に成功した。

 "アイス"と名付けたそれは、想像以上に市場に受け入れられた。

 今では、従来の覚醒剤とは比べ物にならないほどの価値を持ち、わずかな量で莫大な利益を生み出す。

 普通の教師の給料では到底叶わない額の金が、一晩の取引で手に入る。

 そう考えたときには、すでに後戻りできなくなっていた。

 トイレの花子さんという裏仲介屋を通じて、アイスを流通させた。

 このまま売り続ければ、莫大な利益を生み、娘の治療費を十分に賄えるはずだった。

 しかし、すべてが狂い始めたのは、今年の春。

 新入生名簿の中に、ある名前を見つけた瞬間だった。

 玄野 楓。

 黒楓会の会長が、まさかこの学校に入学するとは思わなかった。

 噂は耳にしていた。

 "まだ学生の身分らしい"

 "頭がキレる"

 それは所詮噂話に過ぎないと思っていた——あの日、入学式までは。

 新入生代表挨拶の場で起きた乱闘。

 倒れた上級生たち。

 その中心で、平然とした顔でマイクを握る少年。

 その光景を目にした瞬間、理解した。

 ——この人は、危険だ。

 しかし、運が良かった。

 玄野 楓は白川に目をつけられた。

 白川が裏で覚醒剤を使い、生徒を操っていることは知っていた。

 それなら、利用しない手はない。

 白川を"黒幕"に仕立て上げる。

 さらに裏社会では、黒楓会と極刀会、二つの勢力をぶつけ合い、その混乱の中で、自分は姿を消す。

 それが最善策だった。

 ところが、先週。

 花子との取引の直後、自分は尾行されていた。

 学校に戻ると、ずっと後をつけていた車も同じように止まった。

 最初は偶然かとも思ったが、まさか1時間も待っていた。

 相手の正体は不明。しかし、明らかに自分をマークしている。

 下校する生徒たちに紛れて校舎を出ると、相手はついてこなかった。

 どうやら、まだ正体まではバレていないようだ。

 その夜、花子から連絡が入った。

 「黒楓会が、二倍の量を欲しがっている。」

 つい最近売ったばかりのはずなのに、なぜこんなにも早く追加を求める?

 そこで確信した。

 自分を尾行していたのは、間違いなく黒楓会だと。

 このままでは、自分の正体がバレるのは時間の問題だ。裏社会に知られれば、どう利用されるかは目に見えている。ヤクザに足を掴まれたら、もう二度と普通の人生には戻れない。

 今回の取引が終われば、娘を連れてどこかでやり直すんだ。

 昨日。

 生徒会がいつも昼休みに理科室で覚醒剤を摂取していることは知っていながら、あえて玄野楓を向かわせた。

 もし彼がその現場を見つけたなら、白川への疑念はさらに深まる。あとは、玄野楓が目を背けた隙に取引を済ませ、そのままどこかへ姿を消すだけだ。

 月曜日、生徒会メンバー募集のポスターを見たとき、白川に玄野楓を推薦しようと考えたが、まさか向こうから話を持ちかけてくるとは思わなかった。

 そして、ホームルーム。

 白川が、堂々とクラスの前で言った。

 『明日放課後、生徒会室まで来てくれないか。』

 その瞬間、機会が来たと確信した。

 玄野楓と生徒会が直接対峙する。

 その間に、花子と取引を済ませることができる。

 すべてが終わった今——成田空港に向かって、車を走らせている。

 もう日本に未練はない。

 ここまでの計画は完璧だった。

 後は誰かが気づく前に、日本を出る。

 それさえできれば、もう追われることもない。

 隣の助手席では、いつの間にか娘が静かに眠っていた。

 前田拓也は、フッと息を吐いた。


 車に戻り、楓は静かに目を閉じていた。

 表情は落ち着いているが、頭の中では複雑な計算が巡っている。

 運転席と助手席で、佐竹と矢崎はそれぞれの端末で連絡を取り合っていた。

 しばらくして佐竹が通話を切り、楓に向き直る。

 「たった今、情報が入りやした。前田には7歳の一人娘がいやして、持病で長く入院していたそうです。今日の午後5時前後、本人が迎えに行ったと確認できやした。」

 楓が目を開けた。

 5時前後……1時間前か。まだ日本にいるはずだな。

 佐竹は続ける。

 「妻は5年前に病気で亡くなっていて、両親は秋田にいるんで。だから娘のこと以外に、国内に縛られる要素はないかと。」

 矢崎がすかさず割り込むように言った。

 「こっちも情報入りました! 30分前、ナンバー“千葉マ26XX”の車が千葉北ICを通過したって。」

 「よくやった。」

 前田の車だ。千葉北なら……やはり、成田に向かっている。

 地図を思い浮かべながら、楓は次の一手を組み立てる。

 「佐竹、その娘の病気を詳しく調べろ。おそらく前田が薬を作り始めた原因そこにあるはずだ。」

 「はっ!」

 「矢崎、車を出せ、行き先は成田空港だ」

 「了解っ!」



 成田空港・第1ターミナル。

 人でごった返す出発ロビー。

 大型スーツケースを転がす旅行者、疲れた顔で座り込むビジネスマン、子ども連れの家族。

 アナウンスが絶え間なく響き、電光掲示板には「DELAYED」の文字がいくつも並んでいる。

 床は磨き抜かれ、ガラス張りの天井からは西日が差し込んでいた。

 前田 拓也は、スーツケースを片手に、もう片方の手で娘・遥の手をしっかり握っていた。

 「お父さん、早いよ……」

 小さな不満の声に、前田ははっとして足を止める。

 「あ、ごめんね、遥ちゃん。」

 心ここにあらず、気がつけば足が速まっていた。

 小さな子どもの足では、到底ついてこられない。

 少しペースを落としながら、前田は周囲を見渡す。

 人の流れに紛れるように、歩みを進める。

 行き先はメキシコ。日本との司法協定が緩く、潜伏にはうってつけの国。

 そして現地には、世界最大規模の麻薬市場が存在している。

 「ロス・ティエンブロス」と呼ばれる巨大な密売組織が支配する地帯では、合成麻薬の製造技術を持つ者が重宝される。

 “アイス”のような高純度の新型ドラッグなら、なおさらだ。

 チケット購入の列には外国人の姿が多く、周囲の会話も日本語ではない言葉が飛び交っていた。

 ようやく航空券を手にし、前田は出国審査の列に並ぶ。

 スーツケースのハンドルを握る手に、じっとりと汗がにじんでいた。

 時計をちらりと確認する。出発まで、あと40分。

 もうすぐだ。

 この列さえ抜ければ、日本から完全に離れられる。


 ——その時。

 「ちっと、顔貸してくれや。」

 低く落ち着いた声と同時に、肩に置かれた重み。

 「前田先生。」

 全身が、びくりと硬直する。

 振り返らずとも、その気配で理解した。

 180センチを超える長身。短髪。黒スーツ。

 空港のざわめきの中で、まるでそこだけ音が止まったかのような圧。

 ——黒楓会きっての猛者、鬼塚 大地が現れた。


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