12 登校
——拍手の音。
最初は、一つ、二つ。 だが、次第に増え、やがて体育館全体を包み込んだ。
「やるぜ、代表!」
「病院送り、かっけぇーぞ!」
「ざまあみろ!」
「ツンツン頭もナイスだ!」
ヒューッ——
口笛が響く。
楓は満足げに微笑んだ。
——すべてのチャンスを見逃さず、あらゆる状況を自分にとって有利な流れへと導く。
大胆不敵の裏には、すべてが計算し尽くされている。
人々の神経を逆撫でし、衝撃を与え、心を奪う覇気。
それが、今の楓だった。
龍崎は鉄パイプを無造作に投げ捨てると、無言のまま座席へ戻る。
だが、彼の席は先ほどの乱闘で椅子ごと消えていた。
「……あっ、すぐ用意します!」
一年生の一人が慌てて、新しい椅子を持ってきた。
龍崎は特に反応もせず、ドカッと腰を下ろす。
短髪の一年生も、バットを肩に担ぎながら演壇を降りた。
楓はマイクを置き、静かに会場を見渡す。
一瞬、背筋に、冷たい視線を感じた。
会場の隅。
在校生代表、白川優樹——
先ほどまでの爽やかな雰囲気は消え去り、まるで楓を殺すような目で睨みつけていた。
楓は、微笑んだまま視線を合わた。
お互いの直感が告げていた。
——こいつが、この高校で最も目障りな存在だと、二人とも理解していた。
午後、事務所に戻ると、佐竹と鬼塚が待っていた。
鬼塚がニヤリと笑いながら言う。
「会長、青春を満喫してきたか?」
楓はソファに腰を下ろした。
「思った以上に楽しかったよ。」
「何かあったんですか?」
佐竹が興味深げに尋ねる。
楓は、入学式での出来事を話した。
話を聞いた鬼塚は、腹を抱えて笑う。
「ハハハ、そりゃ傑作だな! 俺も参加すりゃよかったぜ!」
それに対し、佐竹は額に手を当て、深いため息をついた。
「まったく……もう少しおとなしくできねぇんですかい。」
「これで動きやすくなる。悪い話じゃないよ。」
楓は淡々と答え、続ける。
「あの龍崎、結構強い。鬼塚、あんたと互角……いや、それ以上かも。」
鬼塚が眉をひそめる。
「高校生のガキが?」
「いつか会わせる。」
鬼塚は面白そうに口元を歪めた。
「へぇ……そいつは楽しみだな。」
一方、佐竹は腕を組み、考え込む。
「しかし、聞いた限り、その在校生代表の白川優樹って人物は要注意ですね。何か確信が?」
「確信はない。ただの勘よ。」
佐竹は少し黙り込む。
——楓の"勘"は、当たる。
「白川か……」
楓が、じっと佐竹の様子を窺う。
「何か心当たりはある?」
佐竹は、一瞬目を伏せ、考え込む。
——そして、首を振る。
「……いや、まさか。多分気のせいです。」
楓は、それ以上追及しなかった。
——気のせい、ね。
今は、聞かないでおこう。
翌朝。
楓が校門をくぐろうとすると、すぐに異変に気付いた。
校門の前に、腕を組んで立つ上級生たち。
昨日の騒動に加担していた連中ではない。見覚えのない顔ぶれだが、彼らの腕には、「生徒会」と書かれた腕章があった。
しかし、その立ち姿には品位も威厳もない。
まるでどこかのチンピラ集団にしか見えなかった。
「おい、一年」
先頭に立つ一人が、不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。
「俺たちは生徒会風紀委員だ。規則違反がないかチェックするのが役目でな」
「お前の持ち物検査をする」
——校門前での検査。
こんなもの、ただの建前にすぎない。
他の一年生が素通りしているのに、楓だけが狙われている。
「……で?」
楓は興味なさげに言った。
「素直にカバンを開けろ」
別の上級生が横柄に言い放つ。
楓は冷めた目で一瞥した。
周囲の生徒たちは足を止め、様子を窺っている。
誰もが状況を理解していた。これは"風紀委員による取り締まり"などではない。
見せしめだ。
楓を公衆の面前で辱め、屈服させるための。
「どうした? さっさと開けろよ」
腕を組んだまま、上級生がニヤリと笑う。
楓は小さく息を吐いた。
「俺一人のためにここまで用意周到とは、光栄ですよ、"先輩"」
「勘違いするなよ、一年」
先頭の男がニヤリと笑い、肩をすくめる。
「お前が調子に乗ったせいで、学校の秩序が乱れた。俺たち生徒会は、それを正さなきゃならねぇんだよ」
楓は静かに目を細める。
「俺たち、か——つまり、人が多ければ何でもアリってことか?」
挑発的な言葉に、風紀委員たちの笑みが強まる。
だが、その余裕は一瞬で消え去った。
——楓の背後に、十数名の一年生が無言で立っていた。
沈黙。
風紀委員たちの顔色が変わる。
「……何だよ、こいつら」
「知らねぇよ……」
——この状況、すべては楓の想定内だった。
昨日、入学式が終わった後のこと。
楓は教室に戻り、クラスメイトの顔ぶれを確認する。
まさか、あの龍崎がいる。
それだけではない。
体育館で共に暴れた短髪の一年生も、同じクラスだった。
偶然か、それとも何かの因果か。
いずれにせよ、このクラスがただの寄せ集めで終わるはずがないと、楓は直感した。
楓の席は、窓側の一番前。
オリエンテーションはすでに入学前に終わっていた。
しかし楓だけが、新入生代表挨拶の準備のため、まだ自己紹介をしていなかった。
このクラスの担任であり、化学教師の前田拓也——一見冴えない男は、それに気付いていた。
しかし、先ほどの入学式の件が影響しているのか、どう扱えばいいのか分からないとでも言うような落ち着かない視線を向ける。
「そ、それでは……玄野くん。自己紹介をお願いします。」
ぎこちない声だった。
楓は静かに立ち上がる。
ゆっくりと視線を上げ、クラス全員を見渡した。
クラスメイトたちの目は、興味と期待、そして僅かな緊張を帯びていた。
龍崎は、基本的に誰にも興味を示さないタイプだったが、楓には何か特別なものを感じたのか、じっと視線を向けていた。
「玄野楓。仲台中出身。最近の趣味は格闘技と射撃の研究。特に射撃には少々自信がある。以上、よろしく。」
教室が微かにざわついた。
「軍事オタか?」
「俺も射撃すげぇーぞ。ビー玉だけどな。」
軽い冗談が飛び交う。
だが、誰も気づかない。
——楓が、本物の拳銃に慣れていることを。
春休みの間、黒楓会の戦闘力を強化するために、成田連山の射撃場で訓練を積んでいた。
佐竹の指導のもと、大量の資金を投じ、ほぼ全員が実弾射撃を経験している。
中でも、最も優れた腕前を見せたのは矢崎だった。
初めてとは思えないほどの命中率と精度。
本人曰く、「まるで運転のように、最初から体に染みついている感じがする」ほどの技量だった。
そして、それに次いで腕が立ったのが楓だった。
楓は周囲を気にも留めず、静かに席に座った。
「では、次にクラス委員を決めましょう。立候補する人はいますか?」
前田先生が問いかけるが、教室は静まり返ったままだった。
誰も手を挙げない。
——当然だ。
クラス委員など、面倒ごとを引き受けたい者などいるはずがない。
全員が互いに目を合わせ、誰かが名乗り出るのを待っている。
その沈黙を破ったのは——
「玄野がいいんじゃねぇか」
短髪の一年生が、不意に口を開いた。
その言葉に、教室の空気が微かに動く。
「いいね、新入生代表だしさ」
別の生徒が同調する。
まるで最初から決まっていたかのように、声が次々と上がる。
前田先生が楓に視線を向ける。
「玄野くん……どうかな?」
期待と困惑が入り混じった表情。
楓は一瞬、思案する。
——クラス委員、か。
別に断る理由はない。
むしろ、この立場を利用すれば、より動きやすくなる。
「……特に問題ありません。」
淡々とした口調で答える。
短髪の一年生が口角を上げた。
「おー、決まりだな。」
クラス内で軽く拍手が起こる。
その後、学校施設や教科書の案内が終わるまで、思ったよりも時間がかかった。
「今日はここまでにします。明日からもよろしくお願いします。」
前田先生がそう言い残し、教室を出た。
それを合図に、生徒たちは各自解散しようと立ち上がった。
——その時。
ガタッ
楓が静かに席を立つ。
「ちょっといいか。」
自然と、視線が集まる。
龍崎も短髪の一年生も、特に驚いた様子はない。
他のクラスメイトたちは、楓が何を言い出すのかと、少し戸惑いながらも耳を傾けた。
「今日の一件で、明日の登校時には、上級生が必ず仕掛けてくる。」
その一言で、教室の空気が微かに変わった。
「……マジかよ。」
「やっぱり……」
誰もが、何となく予感していた。
体育館での騒動で、上級生たちの面目は丸潰れだ。このまま黙っているはずがない。
「おそらく、報復はさらに苛烈になる。」
しかし、楓はすべてを口にしなかった。
狙われるのは一年生全員ではない。
標的は——楓、龍崎、そして短髪の一年生だけのはずだ。
楓の言葉に、クラス内がざわつく。
「そこで提案だ。」
楓は、ゆっくりと周囲を見渡し、計画を告げた。
「いいか、俺たちだけではなく、他のクラスも守るんだ。」
短髪の一年生が、ニヤリと笑った。
「おもしれー、乗った。……ああ、そういや自己紹介がまだだったな。俺が山田博明だ、よろしくな、代表。」
「おう、上級生どもに思い知らせてやる。」
「……あいつら、今までやりたい放題だったからな。」
クラスのあちこちで、同調する声が上がる。
体育館での一件を目の当たりにした彼らは、すでに楓の狂気じみた一面に引き込まれていた。
その上で、今の楓の言葉に乗るかどうかを、無意識のうちに天秤にかけていた。
「儀式の屈辱を……」
誰かが低く呟いた。
新入生に対する、上級生による「洗礼」。
毎年恒例の嫌がらせ。
例年なら、大人しく耐えるしかなかった。
しかし、今年の一年は反発した、しかも、見事に上級生たちを叩きのめした。
だからこそ、一年生の闘志は燃え上がっていた。
彼らはもう、"耐える側"ではなく、"抗う側"へと変わっていた。
だが、龍崎は無言で席を立ち、そのまま教室を出ていった。
興味がないのか、それとも別の考えがあるのか。
誰も彼を引き止めようとはしなかった。
楓は、龍崎の背中を一瞥しつつも、再びクラスメイトたちに視線を戻す。
「明日の朝、校門前で合流する。遅れるな。」




