113 死線
後方の惨状をサイドミラー越しに確認した佐藤は、即座に手で合図を送った。
その合図を受け、楓の乗る車の運転手である"影"の隊員が、迷いなくアクセルを緩めた。
車体がぐっと減速し、楓たちの車は後方へと下がった。
一拍遅れて――
佐藤の車が前へと躍り出る。
まるで盾のように楓の車との間へ割って入り、正興会の二台が浴びせる銃撃を、真正面から受け止める形になった。
パンッ、パンッ――!
フロントへ次々と弾丸が叩き込み、金属が悲鳴を上げる。
火花と破片が散り、薄い煙が車体の周囲を漂った。
運転席の"影"の隊員も佐藤も、頭を極力伏せて射撃を避けていたが――
それでも防ぎきれない弾がひとつ、鋭く車内へ滑り込んだ。
パンッッ――!
かすめた弾丸が、佐藤の右耳の軟骨を抉った。
瞬間、血が噴き、耳の後ろから頬にかけて真っ赤に染まる。
「っ……!」
佐藤は眉ひとつ動かさなかったが、血は止まらず顎へ滴り落ちる。
伏せた横顔の片側が、まるで顔半分だけ赤い仮面をつけたように染まっていく。
――今だ。
佐藤は、呼吸すら凍らせるように気配を殺し、撃ち返せるほんの一瞬だけを見定めた。
次の刹那、指が静かに引き金を絞る。
バンッ――!!
破れかけたフロントガラスを弾丸が貫き、粉砕片が飛び散る。
そのまま一直線に前方車両へ突き刺さり、リアガラスを砕き、シートをえぐり――
最後に、運転席へと届いた。
「……ッ!」
弾丸は正興会の運転手の頭部を正確に撃ち抜いた。
男の身体は糸の切れた操り人形のように崩れ、力なく前のめりに倒れる。
ガンッ。
頭がハンドルに叩きつけられ、クラクションが悲鳴のような音を上げた。
制御を失った車は壁へ向かって擦れ、火花を散らしながら、やがて、速度を失い、完全に止まった。
その時だった。
パァーン――ッ!
乾いた破裂音が、佐藤の鼓膜を焼くように叩いた。
隣でハンドルを握っていた"影"の隊員の身体が、びくりと跳ねる。
次の瞬間、虚ろな目を開いたまま両腕がだらりと垂れ――ハンドルから手が離れた。
「……っ!!」
車体がぐらりと傾ぎかける。
佐藤は反射より早く身を乗り出し、ハンドルを掴んだ。
ハンドルに血が流れ落ち、掌が滑る。
横で息のない隊員の身体が、肩へもたれかかってくる。
「……すまん」
佐藤の唇から、かすかな声が漏れた。
痛みを噛み締めるような、どこか絞り出すような声音。
――影の一人ひとりを、佐藤が自ら育ててきた。
命懸けの任務を前提に、徹底的に叩き込み、鍛え上げ、支えてきた者たちだ。
彼にとって"影"は単なる戦力ではない。
名も表に出ない情報部隊である以上、佐藤自身が父親のように基礎から叩き込み、命を預けられる仲間として育てた者たちだ。
茨城に入ってから――すでに二人が死んだ。
彼らの死は、「そういう仕事だから」で割り切れるほど軽くはない。
佐藤の胸の奥で、何かが静かに、だが確実に軋んだ。
しかし――
佐藤に悲しむ時間など与えまいと、正興会の別の男がすでに銃口を向けていた。
狙いは佐藤の頭。
引き金が、絞られる。
――ドカンッ!!!
轟音。
佐藤の目に映ったのは、迫る弾丸ではなかった。
左の合流車線から、猛獣のような勢いで突っ込んできた一台の車。
それが、正興会の車の横腹へ体当たりするようにぶつかったのだ。
「えっ!?」
衝撃で警備服の男の身体が大きく揺れ、身を乗り出していたバランスを完全に失う。
次の瞬間、男の身体は窓から投げ出され――
ガードレールへ激突し、無残に転がり落ちた。
車体は激しく揺れながらも、どうにか軌道へ復帰した。
その左側を並走する車の窓が、ゆっくり下がる。
次の瞬間――
闇に沈む窓の隙間から、三本の機関銃の銃口が突き出された。
佐藤は後方からそれを一目で察し、シートの背を押し倒すように身体を滑り込ませ、運転席で倒れた"影"の隊員を脇へ寄せながら無理やり運転席へ潜り込む。次の瞬間、ハンドルを切り、正興会の車の後ろにスペースを開けるよう、左の車線へ車体を滑らせる。
前方――轟音の嵐が叩き込まれた。
バババババババッッ!!
突き出された三丁の銃口から、怒号のような弾幕がほとばしり、正興会の車へ集中砲火が浴びせられる。
フロントからリアへ、鉄板が蜂の巣のように抉れ、ガラスが霧のように砕け散り、車体はみるみる速度を失っていく。
やがて、煙を吐きながら惰性で進み――ガードレール近くで、完全に停止した。
ハンドルに倒れこんだ人影が微動だにしない。
あの破壊の光景からして、生きている者がいるとは思えなかった。
すべての正興会の車両が沈黙したあと、あの途中から割り込んできた謎の車は速度を落とし、佐藤の車と並ぶ位置へと寄せてきた。
「お――い、みんな、無事か?」
風に混じって届いたのは、聞き慣れた声だった。
佐藤は、まだじわじわと流れ続ける血で赤く染まった頬のまま、そちらへゆっくりと顔を向けた。
暗い高速のライトの中、姿を現したのは――茶髪の青年だった。
「柏か……助かったぞ」
柏は片手でハンドルを押さえながら、もう片方の手を窓から上げる。
「おうよ」
親指を立て、いつもの調子でグッドのポーズを突き出した。
しかし――佐藤の沈んだ表情を目にした途端、柏の軽い笑みはすっと消え、真剣な色が瞳に宿った。
「……話はあとです。まずは負傷者の処置を最優先にしましょう」
「……ああ」
一方、一番後ろにいる龍崎が、低く押し殺した声で助手席の男へ告げた。
「……前の車についていけ。おかしな真似をしたら、即殺す」
隣で屋根を刀に肩を刺し抜かれた男が、意識をかろうじて保ちながら苦悶の息を漏らしている。
その光景と、自分たち以外の車がすべて撃沈された現実を見て――
助手席の男は、反抗どころか、視線すら上げられないほどの恐怖に支配されていた。
運転席の男は足を震わせつつアクセルを踏む。
助手席の男は必死にハンドルを制御し、車体をまっすぐ保つのに精一杯だ。
車はよろめきながらも前へ進み、楓たちの車列の後ろへ素直に従った。
こうして四台の車列は、高速道路をひたすらまっすぐ走り抜け――
次のインターチェンジで降りると、迷うことなく近くの病院へと向かった。
「着いたッス、ここです!」
柏の声とともに、暗がりのなかに白い大きな建物が姿を現した。
地方の救急指定病院――夜間でも診療を受け付けてくれる数少ない施設だ。
救急入口の前に車が並び、まだ止まりきらないうちにドアが開く。
真っ先に降りたのは佐藤だった。
耳から血を流しながらも、足取りは乱れない。後の車の運転席側へ回り込み、銃弾を受けた"影"の隊員のドアを開ける。
「歩けるか」
問いに、隊員は顔面蒼白のまま頷いた。
シートと服は右肩の血で濡れている。
「大丈夫です、隊長……」
必死に立ち上がろうとした瞬間、力が抜け、ぐらりと膝が折れた。
佐藤がすぐに肩を抱え、体重を預からせる。
「救急だ、負傷者一名。至急、ストレッチャーを頼みます」
自動ドアが開き、白衣とスクラブ姿の看護師が飛び出してきた。
血の量を見て、女性看護師が息を呑む。
「右肩の銃創ですか!? 意識は?」
「あります。出血が多い、早く運んでやってください」
佐藤に促され、隊員はすぐストレッチャーへ移される。
点滴と酸素マスクを準備する手が忙しなく動き、"影"の隊員は担架に固定されて緊急搬送口の中へ消えた。
その様子を見届けてから、佐藤の耳元にも看護師の視線が向かう。
「そちらの方も耳からかなり出血しています。すぐ処置室へ」
「後回しで結構です。自分はかすり傷ですから」
そう言いながらも、佐藤の頬には血が大きく広がっていた。
その様子を見て、楓が後方から静かに声をかける。
「……あんたも手当してもらってこい。他に傷を負った者もだ」
短い言葉だったが、その声音には命令と気遣いが同居していた。
その時、後部座席のほうから、低く荒んだ声が響いた。
「こら、動くんじゃねぇ」
声の主は、縛られたチェコフの横についた別の"影"の隊員だった。
両手を縛られたままのチェコフは、周囲の慌ただしさと日本語の飛び交う状況を理解しきれず、混乱した目であたりを見回した。
「……クロノ、オレも……治療を……」
必死の声に、楓はただ一瞥を送る。
チェコフの腕には確かに銃創があった。だが、血はすでに止まり、どうやら血管までは損傷していない。
「黙って座ってろ。死なせはしない。今はそれで十分だ」
淡々と告げられた言葉に、チェコフはぐっと歯を食いしばり、それ以上何も言えなかった。
救急処置室へ運び込まれた"影"の隊員たちの処置が始まったころ、廊下の奥――薄暗い職員室の一室で、白衣の医者二人が顔を寄せ合っていた。
どちらも顔色が冴えない。
「……完全に銃創だよな、これ。しかも複数人分」
「当たり前だ、見りゃ分かる。……どうする?」
医者はちらりと廊下のほうへ視線を走らせる。
そこには、黒スーツの"影"が二人、黙って立っているのが見えた。
ただ立っているだけだが――あの無言の圧力に、素人が逆らえる雰囲気ではなかった。
「……とにかく治療を進める。だが同時に、警察へ連絡を入れてくれ。こっちで抱え込むには危険すぎる」
「分かった……。救急隊にも念のため共有しておくよ」
短く頷き合うと、二人は足早に部屋を出ていった。
廊下のベンチに、楓は深く腰を下ろしていた。
肘を膝に預け、両手を組み合わせ、頭を垂れる。
薄い蛍光灯の光が、影だけを長く伸ばしている。
千葉にいた頃――
どんな敵が相手でも、黒楓会がここまで痛手を負うことはなかった。
敵対勢力の逆襲を受けても、最悪でも数名の負傷で収まった。
死者が出るなど、ほとんどなかった。
だが、茨城に来てまだ二週間も経たない。
影の精鋭二名が死亡。
複数が重傷。
幹部の佐藤でさえ、耳を負傷した。
楓は目を閉じて、小さく息を吐く。
――なんで、こうもうまくいかないんだ。
敗北感ではない。
迷いでも不安でもない。
ただ、状況が思うように運ばないことへの、静かな苛立ちが胸に残っている。
その時、廊下の静寂を破るように、階段の奥から複数の足音が近づいてきた。
黒楓会の者たちが一斉にそちらへ視線を向ける。
――明らかに、何者が来た。




