112 高速
「こちら岩下鉄男ッス。筑波から宇都宮方面へ向かってますが……まだ黒楓会らしい車影は見当たりませんッス」
助手席で、早乙女組の新入り――モヒカン頭の男が無線機に向かって報告する。
出発から、すでに三十分が経っていた。
本来なら、チェコフを乗せた黒楓会の車が向こうからこちらへ向かって来ているのなら、この区間で、とっくに行き違っているはずだ。
にもかかわらず、何もない。
さらに十数分ほど走ったころ――
対向車線の奥から、三台の車が物凄い勢いで突っ込んでくるのが見えた。
――来たか?
岩下鉄男は思わず前のめりになり、目を凝らす。
だが、すれ違う瞬間に視界へ飛び込んできたナンバープレートは――
"郡山"
しかも大きなジープ、黒楓会の車とは程遠い。
肩の緊張がわずかに落ちた岩下は、再び無線機を手に取った。
「報告ッス。さっき草薙警備会社の車とはすれ違いましたが……
黒楓会らしい車影は、まだ確認できてないッス」
無線の向こう、早乙女晋作の車も同じく筑波方面へ向かって走っていた。
「……分かりました。捜索はもういい。筑波に戻りなさい」
『了解ッス!』
短い返答のあと、無線は雑音に溶けるように途切れた。
晋作は横目で流れる景色へ視線を投げる。
――やはり、国道は避けたか。
読みどおり、と言いたげな冷たい思案が瞳の奥で静かに光る。
しかし、追跡の指示は出さなかった。
理由を口にすることもなく、ただ窓に映る自分の輪郭にだけ、小さく……
誰にも気づかれない角度で、口元を歪めていた。
――このまま黒楓会にチェコフが殺されれば……スコート・ファミリーは確実に黒楓会と敵対する。
草薙警備会社を潰した償いは、きっちり払わせてもらうさ。
一方、楓たちの車は、高速道路を滑るように走っていた。
夜八時過ぎの高速は思ったほど混んでおらず、前方に伸びる道は静まり返っている。
ひとつのインターチェンジで降り、一般道をしばらく走ってから、再び別の高速へ乗り直したころだった。
佐藤はサイドミラーをちらと確認し、怪しい車影はなかった。
――これで、一旦は撒いたか。
そう判断しかけた、その瞬間だった。
横合い、サービスエリアの合流レーンから、暗闇を裂くように二つのライトが飛び出した。
二台の車が、楓たちの車の前方へ一気に割り込むように滑り込んだ。
「……っ!」
佐藤の眉が一瞬だけ跳ねる。
まるで待ち伏せしていたかのような、あまりにも不自然な合流だった。
前方へ割り込んだ二台に気を取られた刹那――
後方の合流路から、更に二台が跳ねるように飛び出した。
ヘッドライトが一斉に高速の闇を切り裂き、四つの影が炎のように迫る。
これで、楓たちの車は――完全に前後を挟まれた。
「会長!」
佐藤の声が鋭く響く。
『……ああ、敵襲だ。ちっ――ここまで徹底して待ち伏せしていたとはな。』
楓の声にも、わずかに驚きが滲んだ。
『突破するぞ。全車、間隔を空けるな!』
前方の敵車二台は斜めに並び、まるでゲートのように進路を塞ぐ。
さらに後方では、追撃の二台が車間を詰め、バンパーが触れそうなほど近い。
無闇にブレーキを踏めば――後ろから押し潰されて大惨事だ。
完全にスピードまで封じ込める形だ。
楓は前方を見つめる。
だが、自分には車の運転技術などない、そもそも免許すら持っていない。
――この状況で細かな指示なんて出せるはずがない。
その時、前方の敵車の窓が、がたりと開く。
警備服の男が上半身を乗り出し――
黒い銃口が、楓たちのフロントガラスへ向けられた。
「銃――!」
"影"の隊員が叫ぶより早く、龍崎の手が、楓の肩を強く押した。
「伏せろッ!」
次の瞬間、パンッ!! パンッ!!
乾いた金属音が弾け、弾が当たったその瞬間、ガラスはクモの巣を描くように割れ広がる。
楓たちの車は防弾仕様ではなかった。
防弾車は簡単に使えず、目立つため千葉の拠点に置いてきた。
頭を押し倒された楓は、撃たれてはいなかった。
だが――頬に、生温かい液体が飛び散る。
鉄の匂い。赤い、重たい感触。
楓は目を見開き、即座に状況を確認する。
運転席の"影"の隊員が、右肩を押さえている。
指の隙間から、血が脈打つように溢れ出していた。
それでも、彼は片手でハンドルを握り、
痛みに顔を歪めながらアクセルを踏み込んでいる。
「おい、大丈夫か」
楓の声に、隊員は歯を食いしばって返した。
「……っ、大丈夫です……!」
その声には、"影"である者の矜持がにじんでいた。これこそが、黒楓会の精鋭部隊だ。
バァン――ッ!
横並びで走る隣の車、その助手席の窓から――佐藤守が、片手を軽く伸ばしただけで一発。
銃を構えた様子すらなく、ただ腕を上げた瞬間にはもう撃っていた。
弾丸は一直線に飛び、警備服の男の頭を正確に貫く。
男の頭が跳ね、力なく崩れ落ちる。
半身が窓の外へ垂れたまま、血が風に散った。
「……あの服……!」
楓は、風圧に揺れる警備服を見て、目を見開いた。
胸の奥で、忘れようにも忘れられない記憶がえぐられる。
楓が人生で初めて撃たれ、死の境をさまよったあの日――
引き金を引いたのは、この制服を着た連中だった。
焼けるような痛み、倒れた地面の冷たさ。
血の味。
反射的に蘇る。
「……正興会が、なぜここに……?」
元々は東京四家の一角。だが――討伐連盟の際に黒楓会に敗れ、東京の利権も産業もすべて捨てて、茨城まで逃げ込んできた負け犬。
『会長――あの服!』
無線越しに、佐藤の短い声が届いた。
どうやら、佐藤も気づいたらしい。
まさか、ここで待ち伏せしていたのは、草薙警備会社ではなく――茨城へ逃げ込んでいた正興会。
「……ちっ。そういうことか」
楓は低く舌打ちした。
これは間違いなく、三河雅の仕込みだ。
楓とチェコフが面会することを察し、その後、楓がチェコフに手を出す可能性まで読んだうえで、この高速道路に伏兵を置いた。
完全に漁夫の利を狙ってやがる。
――パンッ、パンッ!
後方からも連続した銃声。
弾丸がリアガラスを砕き、粉々になった破片が風に散らされて後続車へと降り注ぐ。
「チェコフを死なすな!」
「……おう!」
龍崎が短く応じる。
だが、言われるまでもなく――チェコフ自身が本能的に頭を伏せていた。
銃撃は前後から。
車は挟まれ、回避も反撃もほとんどできない。
状況は、一気に最悪へ傾き始めていた。
そんな絶境の最中――
龍崎は、まるで腹を括ったように隣の"影"の隊員へ言った。
「……こいつは任せた」
続いて龍崎は振り返る。
リアガラスは既に粉々に砕け、枠だけを残して吹き飛んでいた。
そこから、夜風が凶暴に車内へ流れ込む。
「なにをする気だ、龍崎!」
楓が異変を察し、思わず声を上げる。
龍崎は答えない。
ただ静かに――刀を抜いた。
鞘走りの音が、車内の混乱を裂く。
龍崎は体をわずかに伏せ、反動をつけるように足を踏み込むと――
次の瞬間、リアガラスの枠から外へと跳び上がった。
「――ッ!!」
車内の全員が、言葉にならない驚愕の目でその背中を見送った。
龍崎の体は、高速で走る車の上――
後方から迫る正興会の車のボンネットを一瞬で飛び越え、
そのルーフへ叩きつけるように着地した。
衝撃とともに、刀が屋根へ突き刺さる。
ガギィン――!
鋼を裂く凄まじい音が響き、刀身は鉄板を貫き、
さらにそのまま――真下の運転席まで届く。
「ぎあああああ――ッ!」
貫かれた運転手の肩から血が噴き、ハンドルが大きくぶれる。
正興会の車体が急激に傾き、蛇行しはじめる。
隣を走る正興会の車内でも、全員が揃って目を見開いた。
「正気か――ッ!?!?」
信じられない、というより恐怖に近い叫びだった。
屋根を貫かれた車は、ハンドルを失った獣のように横へ大きく弾かれる。
制御を失ったまま――隣の正興会の車へ、横っ腹から激突した。
ガッシャアアアア――ン!!
衝撃で隣の車体は跳ね飛ばされ、そのまま高速道路の壁へ叩きつけられる。
フロントが潰れ、火花を散らしながら数回バウンドし、
横転した車は車線上をゴロゴロと転がっていった。
屋根を貫かれた車は、横に弾き飛ばされながらも――
助手席の男が絶叫しつつ、無理やりハンドルを掴んでこじ伏せた。
「ぐっ……っ!! 戻れッ!!」
車体は先ほどの反動で軌道へ復帰する。
だがその衝撃で、左側の後部ドアが――バンッ、と半開きになった。
その隙間が見えた瞬間――
龍崎の体が、まるで影そのもののようにひらりと翻り、勢いよく蹴りを叩き込むように後部座席へ突っ込んだ。
「なっ――?!」
正興会の男たちが驚愕する暇すらない。
龍崎の踵が、いちばん近くにいた後部座席の男の顔面へめり込む。
「ぐはっ!!」
蹴り飛ばされた男は、隣の男へと凄まじい勢いでぶつかり、押しつけられた男の身体がドアへ叩きつけられる。
その衝撃で、ドアが外側へ弾け飛び――
男の身体ごと、高速道路へ投げ出された。
ギャアアア――ッ!!
路面を数度バウンドし、アスファルトに皮を削られながら転がっていく音が、夜の高速に生々しく響いた。
顔面を蹴られた男は、目の前が揺れるほどの衝撃に耐えきれず、シートにもたれかかった。
そこへ――龍崎の拳が迷いなく振り下ろされる。
ドスッ。
悶絶の音が、破れたドアから入り込む風音に混じって室内に響いた。
助手席の男は助けようと身を乗り出しかけるが、ハンドルを手放せば即座に事故だ。
ただ歯噛みし、ちらつく視界で化け物じみた光景を見るしかない。
やがて、後部座席の男が力なく崩れ、完全に気絶した。
龍崎はシートに落ちていた拳銃を拾い上げ、何のためらいもなく助手席の男のこめかみに押し当てる。
「まっ……まってくれ……!」
悲鳴のような声が震えた。
高速走行中の車――しかも複数人が乗った車両を、わずか数十秒で制圧してみせた。
これが黒楓会トップ戦力――かつて"病院送り"と呼ばれた龍崎勝の実力だ。




