106 態度
命令は徹底され、黒服たちは一斉に動きを止めた。
火線が途切れ、廊下には一瞬だけ――耳が痛くなるほどの静寂が落ちた。
「とまっ……た?」
「逃げたか……?」
楓は眉をひそめ、視線を鋭く巡らせる。
――どういうことだ、なぜこのタイミングで撤退した?
少し離れた三階建ての屋上。
一人の黒服が無線機を床に投げ捨て、ひざまずいた。
「これでいいんだろ……」
茶髪の青年は動かず、銃口をその男のこめかみに押し当てたままだった。周囲には数人の死体が横たわり、傍らには刀を握る少年がじっと立っていた。
青年は短く吐息を漏らし、笑みを浮かべる。
「よし、いい子だ。約束どおり殺しはしねぇ――」
その笑みが滑らかに歪む。
「てめぇが死にたくても、簡単に死ねると思うな」
ドン――
銃床が鈍い音を立て、男の体が糸の切れた人形のように崩れた。
臨時拠点内。
まだ敵が残っていないか、若衆たちが慎重に建物内を探っていた。
楓は蒲田の遺体の前にしゃがみ込み、静かにハンカチを取り出して、その顔を覆う。
携帯が再び震え、耳に当てる。
『会長、ご無事ですか?』
「柏か。今どこにいる?」
『実は、佐藤さんが侵入者に気づいた時点で、自分と龍崎さんに指示を出してくれてました。無線の電波から敵の指揮官らしい人物の位置も割り出してくれて……今、龍崎さんと一緒に制圧してきました』
「佐藤が……なるほど。で、撤退指示はあんたらの仕業か」
『そうなんです、やっぱ気づきましたか。いや、さすがです。今、敵の指揮官を連れて帰ります。佐藤さんが直接、尋問に当たるそうです』
「……分かった。よくやった」
少し時間が経ち、建物内と周辺の安全が確認された。
敵は完全に撤退したようだ。
黒楓会の若衆たちはすぐに現場の片づけに取りかかった。
床に残る血の跡をモップで拭い、倒れた仲間の亡骸を静かに運び出す。
弾痕の残る壁にはシートが掛けられ、薬莢が一つずつ拾い集められていく。
戦いの痕跡を、わずかでも外に漏らさぬために。
やがて、柏と龍崎が戻ってきた。
二人の後ろには、気絶した黒服の男が一人、縄で縛られていた。
その頃、モニター室では――
佐藤が立ち上がりかけた瞬間、モニターの画面に何かを見て再び腰を下ろした。
「……会長、やばい状況です」
『どうした、また敵襲か?』
「いえ、今度は――警察です」
『――何だと?』
静寂の中、遠くから微かにサイレンの音が響いてくる。
最初はかすかだったそれが、次第に近づき、夜の闇を切り裂いていった。
まもなくして、パトカーが三台、臨時拠点の正門前に止まった。
ドアが開き、警官が十人ほど次々と降りてくる。
黒楓会の若衆たちは、素早く銃を隠し、門前に並んで構えた。
互いの距離は三メートルもない。
沈黙の中、睨み合いだけが続く。
その時、警官の列の中から一人の中年警察官が前に出た。
地味に太った体を揺らしながら、面倒くさそうに声を上げる。
「ここの責任者は誰だ?」
楓が一歩、前に出た。
「警察がこの時間に何の用だ」
中年警官は目の前の少年をただ一瞥し、鼻で笑った。
「てめぇみたいなガキに用はねぇ。責任者を呼べ」
「俺がここの責任者だ」
楓は静かに言い放つ。
「てめぇが……? ガキが何を抜かす。いいから上を呼べ。公務執行妨害で引っ張るぞ」
「てめぇ――うちの会長になんて口きいてんだ、コラァァァ!」
背後の若衆が一歩踏み出し、怒鳴った。
「ぶっ殺すぞ、この野郎!」
数名の警官が即座に拳銃へ手を伸ばす。
黒楓会の若衆も反射的に腰へ手をやる。
黒楓会の若衆のその反応に、中年警官も思わず唖然とした。
楓は一言も発さず、片手を静かに上げる。
その動作だけで、若衆たちは一斉に整列し、口を閉じた。
一瞬にして沈黙が戻る。
その様子を見て、警官たちは互いに顔を見合わせ、改めて目の前の少年を観察した。
太った中年警官が顔を引きつらせながら、低い声で言った。
「……ここで銃声が聞こえたって通報が入った。
ヤクザ同士の抗争の可能性がある。――中を確認させてもらう」
言い終えると、中年警官は楓の返答を待つこともなく、門の内へ足を踏み入れようとした。
その瞬間、楓は片手を上げた。
その掌が、警官の胸元の前で静止する。
「――待て」
短く放たれた声に、警官たちの動きが止まった。
楓は表情を崩さず、静かに言葉を継ぐ。
「入る前に、まず確認しておきたい。あんたの名前と所属を」
中年警官は目を細めた。
まるで自分が取り調べを受けているかのような錯覚に陥る。
「……何だと?」
「当然のことを聞いてるだけだ。俺たちの敷地に踏み込むなら、どこの誰かくらいは名乗ってもらわないと困る」
中年警官は言葉を飲み込み、数秒だけ楓を見た。
背後では若衆たちが一言も発さず、重い沈黙が場を支配する。
「……茨城県警刑事部、組織犯罪対策課の根本だ」
中年警官――根本は唇を噛みながら答えた。
「なるほど」
楓は小さくうなずき、ゆっくりと手を下ろす。
「――なら、わかるだろう。令状なしで踏み込むのは、あんたらのほうが"法"に触れる行為だ」
根本の顔が歪む。
そんな短時間で令状を準備できるはずもない。
当然、それを楓も分かっている。
そもそも――通報自体、初めから存在していなかったのだ。
この一帯は工業団地で、夜間に稼働している工場はあっても、住民はいない。
厄介事に首を突っ込むような者など、まず存在しない。
根本は、ある"議員"の指示で動いていた。
その議員から、ほんの十数分前に電話が入ったのだ。
――筑波の工業団地にある倉庫にガサを入れろ。
できれば、何人か逮捕しろ。
理由も目的も語られなかったが、根本には拒む権利がなかった。
普段から、その議員から多額の金を受け取っている。
賄賂の見返りとして、こうした"雑な仕事"にも応じねばならないのだ。
根本の反応を見て、楓はふっと微笑んだ。
「名乗るのが遅れた。――俺たちは、こういう者だ」
楓は懐から一枚の黒い金属カードを取り出し、無言で差し出した。
薄明かりの下、表面に金色の文字がくっきりと浮かぶ。
背面には、金箔のような光沢で刻まれた楓の葉。
――“黒楓会”
その文字を目にした瞬間、根本の手が小刻みに震えた。
警察である以上、この名を知らぬ者はいない。
千葉を拠点とする新興勢力にして、短期間で関東一円にまで影響を広げた危険な組織。
だが、なぜ――その黒楓会が、茨城に?
そして、あの議員は……よくも自分に、こんな火薬庫のような現場を踏ませた。
楓は静かに根本を見据えた。
「――俺は、玄野楓だ」
その名が発せられた瞬間、空気が凍った。
根本は無意識に息を呑み、反射的に一歩、後ずさった。
「く……玄野楓……」
その名を口にしただけで、根本の喉が乾いた。
黒楓会を一代で築き上げ、警察内部でも指定される危険人物。
――その本人が、今、目の前に立っている。
背中に、じわりと冷たい汗が流れた。
「根本警部。……本当に"通報"があったのか?」
楓は一歩も動かず、ただ穏やかに笑っている。しかし、その瞳には一片の感情もなかった。
「こ、これは――きっと何かの勘違いだ。まったく……この夜中に、イタズラ通報なんて、困ったもんだな」
根本は引きつった笑みを浮かべ、慌てて帽子の位置を直した。
彼は分かっている。
こんな連中に、"法"など意味をなさない。黒楓会が報復に動けば、自分のキャリアも命も、跡形もなく消える。
「いやぁ、本当にすまねぇ。必ず――このイタズラ通報をしたやつは見つけ出してやるから。
あっ、もうこんな時間か。……コホン!」
根本はわざとらしく咳払いをし、部下たちに振り返った。
「聞いたな? ここに異常はねぇ。――引き上げるぞ!」
その声には焦りが混じっていた。
部下たちは一瞬戸惑ったが、誰も逆らわない。
互いに視線を交わし合い、重苦しい沈黙の中でゆっくりと車へ戻っていく。
根本は再度帽子を直しながら、作り笑いを浮かべながら楓に軽く会釈した。
「……ご迷惑をおかけしました、玄野さん。では、失礼します」
楓は一言も返さず、ただ静かにその背を見送った。
パトカーの赤色灯が遠ざかるにつれ、夜の空気が再び冷たく沈んでいく。
「――態度変わるのが随分早ぇな。あっしにゃ真似できねぇよ」
稲村がタバコを噛みしめ、煙を吐きながら皮肉げに笑った。
「イタズラ通報、ね……」
楓は小さく冷笑する。
倉庫に戻ると、広い空間の中央に一脚の椅子が据えられていた。
その椅子には一人の男が縛られ、うなだれている。
床一面に薄く水が流れ、蛍光灯の白が反射して冷たく揺れた。
どうやら、気絶したところを水で無理やり叩き起こされたらしい。
楓と稲村、柏が入ってくるのを見て、佐藤が静かに一礼した。
「こいつが、あの黒服たちの指揮官か」
「はい」
楓は一歩踏み出し、椅子に縛られた男を見下ろす。
濡れた髪から水滴が落ち、床に小さな波紋を描いた。
「――あんたは、何者だ」
男は楓を見上げ、唇を結んだ。
「……話したら、殺さないでくれるか」
男は賢かった。この状況――黙れば死ぬよりも長い苦痛が待っていることを悟っている。
だから、条件を口にしたのだ。
「いいだろう。殺しはしないと約束する」
男は半信半疑の目を向けたが、楓の瞳からは一片の嘘も感じられなかった。
「……俺は、草薙隊三番隊隊長、横内勘助。
さっきあんたらを襲ったのは、うちの草薙隊員だ」
「草薙隊……聞いたことのない名だな。どこの組織だ」
「福島県の警備会社、草薙警備――そこの実働部隊だ」
「福島……東北の勢力が、なぜ関東に手を出した?」
「上の指示だよ」
男は乾いた笑みを漏らした。
「役員の一人から命令があった。あんたらの拠点を叩けってな」
楓の瞳が細くなる。
「その役員の名は」
沈黙ののち、男は観念したように吐き捨てた。
「……早乙女組組長、早乙女正晋の息子――早乙女晋作だ」




