103 露顕
戻る途中、深井玲子は屋敷にいる信頼できる部下へ指示を送り、柏弘大を駅前で解放させた。
柏は合流地点で待っていた楓と龍崎を見つけると、ニッと口角を上げながら駆け寄る。
「いやぁ、本当にすみません、会長。
ちょいと捕まっちまって……でも、これで深井玲子も仲間になったわけですよね?」
楓は歩みを止めもせず、冷ややかに言い放った。
「――まだ敵だ」
「えっ? 敵ッスか……?
じゃあ、なんで俺を解放したんですか?」
楓は喫茶店での会話を淡々と要点だけ告げた。それを聞き終えて、柏は頭を掻き、眉を寄せる。
「あの女、頭が相当切れるので……敵に回すと厄介ですね」
楓は前方を見据えたまま、どこか愉しげな色を宿した瞳で言う。
「いいんだ、それで」
「え? どゆことですか?」
「敵同士であるからこそ分かるものがある。
牙をむき合う時――器量は露わになる」
「……なるほど。確かに」
納得したように柏が頷くと、楓は振り返りもせず短く告げた。
「帰るぞ」
その一言に、龍崎と柏が静かに後へ続いた。
深井玲子が屋敷へ戻ると、応接室の灯りが既に点いていた。
そこで、一人の男が静かに待っていた。
「……三河会長。いらしていたのなら、事前にご連絡いただければ、お迎えの準備も整えておりましたのに。
このような無作法、どうかお許しくださいませ」
三河雅はソファに腰を預けたまま、視線だけを向けてきた。
「今日は――どこへ行っていた?」
「駅前の喫茶店で、少し休憩を」
深井玲子は表情を動かさずに答えた。
「早乙女組との対立が目前だというのに、随分と余裕だね」
「恐れ入ります。実は、怪しい動きをする者がいたため、調査へ向かいました。
結果、わらわの思い過ごしだったようですが」
真っ直ぐな嘘。
――もし玄野楓に"見張られている"と告げられていなかったら、今日、無様な失態を晒していた……。
「……怪しい者?」
三河の声音がわずかに低くなる。
「はい。早乙女組の者ではない、何者か。おそらく――第三の勢力」
「何者だと見ている?」
「おそらくは、早乙女の三男を殺した
真犯人かと」
すべてを語らず、しかし核心は外さない。だからこそ疑われない。
三河は瞼を細める。
「――黒楓会、違うか?」
――来た。
この問いが来ると踏んでいた。
玲子の返答は、一瞬の迷いも見せない。
「わらわも、それを確かめに動きました。ですが……残念なことに、痕跡ひとつ掴めず」
深井玲子は視線を崩さず、冷静そのものを演じ切った。
少し沈黙を挟み、三河は細い瞳を深井へ向けた。
「深井君。早乙女組の件、君はどうするつもり?」
「お言葉ですが今、早乙女組と正面から話し合えば――真犯人の策に乗せられるだけ。
ゆえに、あえて早乙女の喧嘩を買いながらも、真実を突き止めるべきだと考えております。
真犯人を奴らの眼前に引きずり出せれば、その怒りの矛先は自然とそちらへ向かうであろう」
もう一つの狙いは、黒楓会の注意を惹きつけ、黒楓会会長・玄野楓と接触する機会をつくることだ、もちろん、深井玲子はそれを口にしなかった。
三河は、ふぅ、と息を吐き、指先で肘掛けを静かに叩いた。
「ふむ……君の考えは理解した。しかし、私から一つ"提案"がある」
「……ご提案とは」
「真犯人が黒楓会だと仮定するなら、短時間で尻尾を掴むのは難しい。であれば――奴らの望みどおり、早乙女組を襲えばよい」
深井の瞳がかすかに揺れる。
「……!」
三河は低く問いかけた。
「加藤君。できるかね?」
いつの間にか、深井玲子の背後に――もう一人の影が立っていた。
"四柱"加藤昭彦。気配を感じさせないまま、そこに。
加藤は一歩進み出て、短く応じる。
「問題ございません」
「よろしい」
三河は深井へと視線を移す。
「深井君。君は今までどおり任務を続けなさい。
……相手が玄野楓であるならば、今の君には荷が重い」
「……畏まりました」
これを――玄野楓に会う"前"に言われていたなら、深井玲子は、きっと納得できなかった。
しかし、あの少年とわずか一手交わしただけで理解した。
――自分は確かに、まだ遠い。
深井は静かに頭を垂れた。
深夜――筑波。
月明かりさえ乏しい闇の中、加藤昭彦が影のように白亜の大きな洋館の裏に立つ。
冷たい風が、枝葉をわずかに揺らすだけ。
静寂――しかし、その中に確かな"殺気"が息づいていた。
外壁をなぞるように設置された古い白黒監視カメラ。
ギリ、ギリ、と鈍く回転し、定められた軌道を往復している。
光の射さない死角へ滑り込むと、夜闇と同化したかのように、加藤の姿は輪郭を失っていった。
外壁の高さは大したことはない。
だが、よじ登る音すら許されない状況。
加藤はワイヤーを掛け、無音のまま垂直に上昇した。
足場を必要としない、鍛え上げた指先だけ。
裏手へ回ると、厨房への小さな勝手口。
古びた南京錠が掛けられている。
ピッ……ピン。
二つの音だけで錠は解け、扉が開いた。
一歩、室内に踏み入る――料理人が一人、片付けをしていた。
振り返る間もなく、加藤の手が素早く伸びた。片手に握られた短めの軍用ナイフは頑丈な一枚刃で、刃先が冷たく光った。
刃は首筋の下、喉元の柔らかな部分を正確に突いた。声を上げる間もなく、男はその場に崩れ落ちる。音は最小限、布が床を擦るようなかすかな擦過音だけが残った。
加藤は倒れた相手に視線を向けることもなく、ナイフの柄を確かめると静かに握り直し、足取りを乱さず歩を進める。
三河会"四柱"という肩書きが、彼の全てを語るには足りない。彼は本物の殺し屋だ。暗殺と潜入の技量だけを見れば、元CIA情報員、"影"の隊長佐藤守も及ばない。生まれも経歴も闇の中だが、確かな事実がひとつある。標的に選ばれた時点で結果は既に決しているということだ。
加藤昭彦は音を立てず屋敷の奥へと消えていく。次の標的を探る獣のように進んだ。
この時間、本来なら極道が動き回る頃だ。しかし、早乙女正晋はもう年を重ねており、表向きは昼間に会社を経営する身だ。普段なら夜はとっくに床につき、安らかな寝息を立てているはずだった。
だが今は違う。
息子を失って以来、眠りというものが遠のいた。目を閉じれば、あの忌まわしい光景ばかりが甦る。薬を飲んで無理やり深い眠りに落ちるのが、ようやくの休息だった。
寝室の外には、六人の警護が配置されている。二人は寝室のドア前で直立し、二人は庭側と窓下に潜む。残る二人は寝室の周辺を巡回し、絶えず警戒態勢を保っている。
巡回役の二人は、警戒と言うより惰性に近い足取りで廊下を進んでいた。
「こないだの店の新入り、結構可愛いぞ。写真と違ってびっくりした」
「ああ駅前の、仕事帰りに寄っていくか」
笑い声が廊下に薄く溶け込む。
階段へ差しかかったその瞬間、背後から静かな力が降りかかった。
気配は一切ない。
あるのは、喉を押し潰す強烈な指の圧だけ。
二人は声を上げる間もなく膝を折り、目だけが驚愕に見開かれたまま、静かに力を失っていく。
もがく余地は短く、音もわずかだった。
倒れた二人の背後に、加藤が静かに立っていた。
冷徹な瞳のまま、死体を引きずり、階段下の陰へ押し込む。
階段を登り切ると、廊下の先に二人の警護が寝室前に立っていた。
加藤は階段の影に身を沈め、小石を廊下の奥へ弾いた。
微かな硬い音が、寝室前の二人の注意を奥へ引き寄せる。
「ん? なんだ?」
二人が同時に奥へ視線を向けた、その刹那――
加藤は階段側から無音で背後へ滑り込み、距離を一気に潰した。
右手の軍用ナイフが一人の頸動脈を斜めに断ち、続いてもう一人の肋間をすり抜けて心臓を刺す。
息を吸う音すら許さない速さだった。
膝が折れる前に、加藤は心臓を刺された男の口を封じながら、もう一人の身体を抱え、壁際へそっと受け流した。
警護を完璧に片付け、やっと早乙女正晋の寝室へと入り込んだ。扉を押して中に踏み込んだ瞬間、違和感が胸を刺す。
部屋には誰もいない。布団も枕もそのまま、人の気配は消えていた。右上隅に設置された監視カメラが無機質に回転し、部屋の光景を淡々と捉えているだけだった。
その時、廊下のほうから複数の足音が聞こえた。声が、遠慮のない速さで近づいてくる。
――しまった。罠だ。
考えるより先に体が動いた。
加藤は窓ガラスへ向かい、肘で打ち砕くと、そのまま躊躇なく外へ飛び降りた。
着地した庭の芝が少し沈む。
「いたぞ! こっちだ!」
「本当に入りやがった!」
両側から懐中電灯の光が走り、複数の人影が庭へ雪崩れ込む。
パーン、パーン――銃声が次々と弾け、土が跳ねる。
加藤は身を低くしたまま駆け出し、敷地外へ出るため外壁へ接近する。
勢いを殺さずに跳躍し、外壁の縁に手をかけ、上体を引き上げると、一気に登った。
パーン、パーン!
背後から銃弾が迫るが、彼は振り返らなく、そのまま外へと消えた。
「ちっ、逃げ足が速ぇ」
駆け寄った者が外壁を見下ろすと、白い壁に赤い筋が伸びていた。血が跳ね、壁を塗るように流れている。
「奴は傷を負っている、追え!」
外には待ち構えていた車が一台、エンジンを吠えさせて加藤の下へ滑り込む。加藤を引き上げると、車はアクセル全開で路地を飛び出していった。
後方では叫び声と足音が交錯し、喧騒が遠ざかる。
洋館の奥深く、誰も知らぬ隠し部屋。
白黒の監視モニターの前に、二つの影が座っていた。
杖を握りしめた禿頭の老人が、怒りで肩を震わせる。
「おのれ……裕作だけでなく、今度はワシの命まで奪うつもりか」
その隣に座るのは、眼鏡をかけ、淡いリネンスーツを品よく着こなした男。
一見すれば、暴力の匂いから遠い職場エリートのようだ。
「まあまあ、お父さん。冷静さを欠けば、相手に付け入る隙を与えますよ」
「晋作……お前がいてくれて本当に助かる。しかし、一体誰がこんな真似を……?」
「答えは簡単ですよ、お父さん。
今このタイミングで、僕たちの手を借りてまで三河会の力を削ごうとしている連中――」
男は、人差し指で眼鏡を押し上げた。
モニターの淡い光がレンズに反射し、顔が影に沈み込む。
静かに、だが冷酷に言い切った。
「三河会と並び立つ、四大勢力の一角――黒楓会ですよ」




