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102 蓮華

 いきなり背後から声が落ちてきた。

 深井玲子は、反射的に振り向こうとした――その刹那。

 「振り向くな。あんたは今――見られている」

 「……!」

 ぞくり、と背筋を撫でる冷気。

 胸の奥が一瞬だけ跳ねたが、深井玲子はその動揺をすぐに凍らせた。

 視線だけをわずかに動かし、窓ガラスに映った反射へと焦点を合わせる。

 そこにいたのは――

 黒い私服、整えられた眼鏡、喫茶店に入った時から、ずっと後方の席で勉強していた、どこにでもいそうな優等生の少年。

 ――ま、まさか、この少年は……

 まるでその思惑を証明するように、少年は続けて低く告げた。

 「初めまして、三河会"四柱"――深井玲子さん。

 俺は、黒楓会会長・玄野楓だ」

 ――やはりか……!

 深井玲子は、言葉にできぬ衝撃に沈んだ。

 もし後方の少年が本当に玄野楓本人であるならば――

 この三時間、自分が取った全ての行動が、驚くほど正確に読まれていたことになる。

 深井玲子がこの喫茶店を選び、龍崎勝の出現に二段構えの見張りをつけ、そして――玄野楓の"居場所"を探ろうとしたこと。

 そのすべて。

 考えれば考えるほど、深井玲子は背筋に冷たい汗が伝うのを止められない。

 もしこれが、本気で命を奪い合う勝負だったなら――

 自分は最初の一歩から、すでに負けていた。

 喉の奥へ、氷のしずくが落ちていく感覚。呼吸が、わずかに乱れる。

 「……初めまして。まさかこの形で会えるとは。さすがと言うべきか」

 深井が抑えた声で言うと、少年は手元の本をめくりながら、まるで宿題のページを確認するかのような自然な仕草で答えた。

 「うちの柏――世話になったな」

 「こちらこそ。なかなか愉快な男であった」

 短い挨拶を交わし、ほんのわずかな間を置いて――

 「……して、"見られている"とはどういう意味だ?」

 「──ああ。あんたの角度からは見えづらいが」

 少年は本から視線を上げることなく、低く言い放つ。

 「百貨店の三階、階段の陰。あんたがここに入ってからずっと、こっちを張ってる」

 「……!」

 ――自分でも察知できなかったとすれば、動いているのは同じ"四柱"の一角――加藤昭彦だ。

 やはり、疑われている。

 深井玲子は短く礼を述べた。

 「……助言、感謝する」

 楓は、カップに口を寄せてホットミルクを一口含んだ。

 もともと苦いものが好きではない楓は、コーヒーをほとんど飲まない。飲むとしても、砂糖を溶けきれないほど入れてしまうタイプだ。

 「さて、本題に入ろうか。

 あんたが俺に接触した理由は――復讐、でいいんだな?」

 「……随分と調べているようだ。

 ええ、その通り……わらわの悲願を、叶えてくれるか?」

 「その願い、三河会じゃ叶えられないのか」

 「……」

 沈黙。

 ――そう。

 復讐を果たすために、横浜からわざわざ茨城へ赴き、三河会の傘下に身を置いた。

 深井玲子は、神奈川県・横浜の生まれだった。


 十数年前、横浜最大の極道組織――蓮華組の組長、深井慶宗の娘として何不自由なく育った。

 兄・深井真嗣、幼い頃から"神童"と呼ばれ、数々の奇策で敵対勢力を打ち倒し、人望はすでに父をも上回っていた。

 戦場では冷徹そのもの、しかし家では、玲子にだけは不器用なほど優しかった。

 本来なら、深井玲子に極道の世界など一切関わりがなかったはずだ。

 裕福で、穏やかで――"お嬢様"としての人生が約束されていた。

 しかし――ある新興組織の登場によって、その全てが音を立てて崩れていった。

 同じく十数年前。

 関東極道界に、まるで彗星の如く現れた新興勢力があった。

 元は暴走族、しかも、互いに敵対していた二つの勢力が、鎌倉での"10VS600"の乱闘を経て、一つにまとまったのだという。

 その乱闘の中心にいたのは、一人の男。

 圧倒的な強さで敵を叩き伏せ、全員がその男の下へひれ伏した。

 その強烈な求心力は瞬く間に関東全域へ広がり、各地の族が雪崩を打つように帰順した。

 気がつけば――一夜にして、千人規模の"怪物"と化していた。

 その"怪物"に与えられた名は――湘北連合。

 その出現は、神奈川の極道界に深い危機感を与えた。誰もが恐れ、押し潰されるのを待つだけかと思われたその時――そこで最も立ち向かったのが、蓮華組だった。

 組長・深井慶宗はもちろん、その息子・深井真嗣、十七歳にして切れ味鋭い頭脳を持ち、先を読み盤面を操る天才。幾度となく、湘北連合の侵攻を弾き返してきた。

 蓮が泥の中でも気高く咲くように、彼らは、暴力の渦中でも"品"を失わなかった。

 神奈川県の極道勢力は、溺れる者が藁をも掴むように、蓮華組へと縋った。

 ――しかし、ある男の存在が、すべてを狂わせた。

 上には上がいる。

 蓮華組に深井真嗣という天才がいるならば、湘北連合にもまた、一人の鬼才がいた。

 湘北連合総参謀長――猿飛隼人。

 深い隈を落とし、病弱にも見える細い身体。その頭脳は――極道の世界の頂点すら射程に収める、桁外れの怪物だった。

 深井真嗣のすべての策は、猿飛隼人に読まれていた。

 しかもその度に、反撃を浴びせられ、蓮華組に付き従う極道者たちは、次々と倒れていった。

 「お前のせいで仲間が死んだ!」

 「さっきまで笑っていた連中が、次々と地面に転がっていく……」

 「何が"神童"だ?笑わせるな。所詮、子供じゃねぇか」

 「本物の極道の戦なんざ、お前には荷が重ぇんだよ」

 冷たい言葉が、深井真嗣の背に突き刺さる。

 信頼は徐々に失われていった。

 それでも真嗣は、すべてを背負い、局面を挽回しようと足掻いた。

 ――猿飛隼人の"たった一つの隙"を突き、最終決戦へと踏み切ったのだ。

 その策には、父であり組長である深井慶宗、そして蓮華組の主力すべてが乗った。

 しかし――待ち伏せるはずの地点へ踏み込んだ途端、嵐のような銃火と轟音が襲いかかった。

 気づけば、その"隙"すら、猿飛隼人が張り巡らせた罠だったのだ。

 深井慶宗は、その場で命を落とした。蓮華組の主力は、ほとんど壊滅した。

 そして――信じてくれた父と仲間の亡骸を前に、己を見失った深井真嗣は、絶望の淵で命を断った。

 蓮華組は、一夜にして名門から残骸と化した。

 以来、深井玲子は――幼い身体で蓮華組の業を引き受けた。

 髪を切り、笑みを捨て、少女の服を脱ぎ捨てて、極道のスーツに袖を通した。

 支えを求めた先は、当時唯一、湘北連合と正面から渡り合えた勢力――三河会。

 その三河会を率いた三河雅は、圧倒的な統率力で幾度も湘北連合の侵攻を退け、双方の抗争は――今なお、終わりなく繰り返されている。

 それでも――どこまで行っても互角止まり。

 決定的な勝利は、一度として掴めなかった。

 湘北連合を叩き潰し、兄と父の無念を晴らすには、まだ足りない。

 そんな折――

 一人の少年が一組織を立ち上げた。

 たった一年で、四大勢力の一角へと駆け上がり、三河会と湘北連合、そして関東中の極道組織が手を結んだ"連盟"すら退けてみせた組織が現れた。

 その少年の存在に――深井玲子は、再び希望を見出した。


 喫茶店。

 深井玲子はすっかり冷めたコーヒーを見つめて、背を向けたまま問いを放った。

 「玄野楓──そなたは、湘北連合の猿飛隼人に勝てるか?」

 もし、自分が彼の居場所を探り当てられていたのなら、そんな質問をするまでもなかっただろう。

 だが現実は、存在を隠され、観察され、誘導され、この三時間の全てを、読み尽くされていた。

 少なくとも、この少年は──遥か先を行く相手。

 そんな少年は、迷いもなく一言だけ返した。

 「分からん」

 実際のところ、猿飛隼人と手合わせしたことは一度もない。

 誰かが奴と戦うことも見たことすらない。

 ただ一つの接点といえば──獅子倉を通じて、たった一言のメッセージが届いたこと。

 それだけだ。

 もちろん、裏では猿飛隼人が、何度も、危機に瀕した楓へ密かにヒントを送っていたことなど、楓は知る由もなかった。

 深井玲子は、その答えを聞き、ほんの僅かに肩が沈んだ。

 視線は前のまま、微動だにせず。背中越しの沈黙が落ちる。

 その沈黙ごと断ち切るように、楓は言葉を続けた。

 「だが――勝つしかない」

 少年の声は淡々としているのに、不思議と背筋に刺さる。

 「俺は、関東極道を統一する。いずれ四大勢力は消え、黒楓会だけが残る。阻む者は、消し尽くすまでだ。」

 そこに虚勢は一切なかった。

 深井の指先が、かすかに震える。

 しばらく沈黙が流れたのち、深井玲子は笑った、笑い出した。愉快さと寂しさが入り混じった、奇妙な笑みだ。やがて、彼女は静かに言葉を継いだ。

 「口だけなら誰でも言える。もし、そなたが実力を示すというのなら――

 わらわはそなたのために力を尽くし、刀となり、盾となろう。」

 「どう見せればいいのか?」

 「そうだな。まずは、三河会を倒してみせよ」

 「無論だ。そのためにここへ来た」

 「決着がつくその日まで、わらわは三河会として、全力で迎え撃つ」

 「……分かった。三河会"四柱"・深井玲子の本領を、確かめさせてもらう」

 話がちょうど区切れたところで、龍崎が百貨店の前に現れたのが見えた。

 楓は手書きの伝票を指先で摘むと、音もなく立ち上がった。

 「今日の言葉……忘れるな。

 ――そのうち、黒楓会の刃になってもらう」

 背を向けたまま静かに告げると、レジへ向かって歩み去っていった。


 楓が去ったあとも、深井玲子はしばらく席を動かなかった。

 わずかに残るコーヒーの香りを前に、考えを巡らせている。

 そこへ、携帯が震えた。

 『……お嬢様、なぜ五階まで上がってこないのです?』

 「その呼び方で呼ぶな。何度も言っているはずだ」

 深井玲子は短くため息をつき

 「それと――玄野楓には、もう会った。作戦は終了だ。全員撤収させろ」

 『……い、いつの間に?!』

 「余計な詮索はするな。」

 『し、失礼しました……!』

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