101 先手
「龍崎さんがついていくなら……」
「その方が安心ですね」
他の幹部たちも、ようやく納得したようにうなずいた。
とりわけ清水は、直近で目にした龍崎の圧倒的な強さが、いまも脳裏に焼き付いている。
言葉にはしなかったが――すでに彼に、憧れを抱いていた。
「じゃあ――龍崎、頼んだ」
楓も静かにうなずく。
「問題は……どうやって接触するか、だな」
一方その頃、土浦の中心地にある一軒の大きな屋敷。
その奥まった一室で、深井玲子は静かに机の前に座っていた。
向かいの椅子には、柏が腰を下ろしている。
柏の体には傷一つなく、縛られた様子もない。
むしろ、湯気の立つ茶と煎餅が丁寧に差し出されていた。
彼はそれを前にしても、毒など疑う素振りを見せない。
というより、今さら毒を盛る必要などないと理解していた。
殺すつもりなら、命令ひとつで済む相手だとわかっているからだ。
柏は無造作に茶をすすり、当たり前のように煎餅をかじり始めた。
パリ、パリ、パリ……。
静まり返った部屋に、乾いた咀嚼音だけが響く。
やがて沈黙を破ったのは、深井玲子だった。
「そなたは……無神経なのか、大胆無敵なのか。
よくも敵陣のど真ん中で、そのような顔をしておれるとはな」
柏は最後の一口を噛み、お茶で流し込むと、涼しい顔で言った。
「ご馳走様。……いい酔い覚めになったぜ」
「黒楓会には、やはり面白い者が多いようだ。
そなたも、あの少年剣士も。
申し遅れた。わらわは深井玲子。一応、三河会の"四柱"を預かっておる」
「俺は柏弘大。黒楓会の若中だ」
「そなた、指揮を執ったのであろう? あの小宮山の件で」
「ノーコメント」
「……では、あの少年剣士。名は龍崎勝、であったな?」
「ノーコメント。
ていうかよ、俺の口から黒楓会の情報を聞き出そうなんざ、やめといた方がいい。
俺はな――拳より、口が硬ぇんだ」
深井玲子は、しばし柏を見つめたまま、静かに問いを重ねた。
「黒楓会会長、玄野楓――噂はいろいろ聞いておる。そなたの目にはどう映る?」
柏は一瞬だけ目を細め、今度ははぐらかさなかった。
不敵な笑みを浮かべながら、低く言う。
「そりゃあ……とんでもねぇ人だ。
言葉じゃどうしても伝えきれねぇ。
一度会えば――てめぇなら分かるさ」
玲子の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「ほぉ……そこまで言われたら、なおさら会ってみたくなるものだ」
「それが――てめぇの真の狙いだろ?"俺だけ"を捕まえたのも、そのためだ」
柏の目がふっと鋭くなり、真面目な声音に変わる。
「……話が早くて助かる。では、そなたの会長――玄野楓に、会わせてくれるか?」
「その前にひとつ聞かせろ。
てめぇはなぜ、俺たちの存在に気づいていながら、早乙女組を煽るような真似をした?」
深井は一瞬だけ目を細めたが、すぐに静かな調子で返す。
「なぜ、わらわがそうしたと思う?」
「質問に質問で返すなよ。……さっきまでは分からなかったが、てめぇがうちの会長に会いたがっていると確認した瞬間、全てがつながったんだ。」
「……口の利き方も鋭いな。そなた、本当にただの若中か?」
「あいにく、俺様は肩書きなんざ興味ねぇ。
あの人と一緒に戦えりゃ、それで十分だ」
深井は柏の目をまっすぐ見つめ、やがてゆっくりと瞼を閉じ、静かに言った。
「まったく、黒楓会には面白い者ばかりだ。
そなたの問いに答えてやってもよい。
だが――それは、玄野楓に会ってからとしよう」
その時、柏の携帯が震えた。
一瞬、深井と視線が交わる。彼女は静かに頷く。
柏は携帯を耳に当てる。
『あっ、繋がった。もしもし――ヒロ君、"元気"?』
聞き慣れた少年の声が響いた――
いつもより、わずかに高く、妙に明るい調子で。
「ああ、とりあえずはな」
柏は何気ない調子で応じる。
『そっか。今夜の約束、覚えてる? "八時"、駅前の"百貨店の前"で待ってるから』
「分かった。すまんな」
『ううん。それじゃ、夜にね』
通話が切れ、柏は狡猾な笑みを浮かべた。
――柏ほどの頭なら、すぐに通話の意図を理解していた。
通話の相手は、他でもなく黒楓会会長・玄野楓本人。
おそらく、稲村と清水がすでに状況を楓へ伝えている。
そして楓もまた、同じ結論に至ったのだ。
――深井玲子は、黒楓会との接触を望んでいる。
しかし、その行動は三河会にも秘している可能性が高い。
ならば、電話で直接言葉を交わすなど論外だ。盗聴でもされれば、すべてが終わる。柏の命さえ、保証されない。
だから楓は"友人"を装い――さりげなく、会う時間と場所を伝えたのだ。
それに、こちらから時間と場所を指定すれば、主導権はこっちにある。万が一、罠だったとしても、事前に対策を練る余地が生まれる。
深井玲子は、静かな声で
「……今のは玄野楓であろう?」
「ククッ、そうだ」
柏は肩をすくめ、会長がいかにして時間と場所を伝えたかを、淡々と説明した。
深井はしばし黙し、やがて瞼を閉じた。
そして、冷ややかに、しかしどこか愉悦を含んだ声で呟いた。
「……玄野楓。噂に違わぬ男だ」
夕方五時少し前。
約束の時間まであと3時間にも関わらず、深井玲子はすでに土浦駅前にいた。
百貨店向かいの喫茶店。
店内には、ビジネスマンや勉強中の学生、若い女性がちらほらといるだけだった。
窓際の席から通りを眺めながら、ゆっくりとコーヒーを口に運ぶ。
落ち着いた視線。
けれど、その奥には研ぎ澄まされた警戒と観察が宿っている。
――地元の人間か、よそ者か。
そんな区別は、この街で長くやっていれば一瞬で見抜ける。
まして相手は極道者なら、なおさらだ。
出発前、柏にこう告げた。
「この部屋は好きに使うがよい。
逃げたければ逃げてもいい――ただし、ここには、もう一人の"四柱"が控えておる。
見つかったとあらば――どうなるか、分かるであろう?」
感情の起伏は乏しいが、その言葉に隠された現実は容赦なく突きつけられる。
そう言い残し、彼女は部屋を後にした。
あの柏という青年──
見た目こそ軽薄だが、頭はよく回る。玄野楓と自分の接触を、彼が邪魔する理由はない。故に、逃げはしないと判断した。
深井玲子は、カップをそっと皿に戻し、
行き交う人々へ静かに視線を向けた。
――玄野楓。
どのように姿を現すのか。
さらに二時間が過ぎ、時計は十九時を少し回った頃。
百貨店前の歩道に、一人の少年が立ち止まった。
サイドを刈り上げたツーブロック。整えられたオールバック。鍛え上げられた身体。
何より――隙のない目。
深井玲子は、わずかに目を見開いた。
――あれは黒楓会の剣士、龍崎勝……やはり予定時刻より前に現れたか。
彼は人混みに紛れるように立ちながら、視線を巡らせる。
深井玲子は、頬に触れる髪を耳にかけながら、携帯を耳へと添えた。声量は、店内の雑踏に溶けるほどの低さ。
「……黒衣の少年。見えるな?」
短い応答。玲子の視線は微動だにせず、龍崎を捉え続けている。
「――よい、尾け。ただし、悟られるな」
静かに通話を切る。
一方、龍崎は命令通り、予定より少し早く百貨店前に現れ、しばらくそこに佇んでいた。
ほどなくして、背中に刺さるような視線が増えていく。
――やはり、会長の読み通りか。
龍崎は踵を返し、何かを警戒しているように百貨店へ入った。
そのまま階段を上がりながら、足音と気配を静かに探る。
――四人……いや、五人。
私服に紛れ、一般客を装った者たちが、同じリズムで背後を追ってきていた。
位置、動き、視線、どれも素人ではない。
――「先ずは尾行者を眠らせろ」
楓の命令が、静かに背中を押す。
龍崎は、何の迷いもなく人気の少ないフロアへと誘導した。
――まず一人。
紳士服売り場を抜け、視界の死角――柱の影に身を滑り込ませる。
警戒もなく通り過ぎた男の首筋に、手刀が正確に叩き込まれた。
ひゅ、と短い息が漏れ、男はそのまま崩れ落ちる。
龍崎は迷うことなく男の腕を取り、近くのフィッティングルームへ引きずり込んだ。
――二人目。
化粧品コーナーを歩きながら、鏡に映る後方の男と目が合った。
男の瞳に「気付かれた」という焦りが走るより早く、龍崎の肘が鳩尾に突き刺さる。
泡を食って折れた体を、さっと展示棚の裏へ。
――三人目、四人目、そして五人目。
喫茶店側から、すぐに報告が入った。
——百貨店へ向かった五人全員、気絶を確認。
深井玲子は眉ひとつ動かさない。
「構わん、想定の範囲だ。あれは気を緩ませる囮だ。本命は百貨店内の見張りたち。……そちらが"真打ち"だ」
百貨店内。
龍崎は五人を静かに片づけると、警戒を見せぬままエスカレーターへ向かった。
——「あれはフェイクだ。中にはまだ別の目がある。無視してレストランへ向かえ」
脳裏に残る楓の指示。
龍崎は五階のレストランへ一直線。
店内へ入ると、品の良いウェイターが恭しく会釈した。
「ご予約のお客様ですね。こちらへ」
案内されたのは最奥の個室。
龍崎が椅子に腰を下ろすと、扉が静かに閉まる。
——「そこでのんびり三十分待て。ま、お茶でも飲みながらな」
喫茶店側。
深井玲子は窓の外を淡々と見やりながら、低く冷たい声で指示を出す。
「……五階か。どうやら、あそこに玄野楓がおる。
回せる者はすべて四階と五階へ回せ。もう少し待てば、あの黒衣の少年が姿を現す。
わらわを迎えに来るためとな」
深井玲子は手首の腕時計へ視線を落とした。
針はまだ、約四十分前を指している。
――時間はある。
彼女は椅子の背にもたれ、再びコーヒーへ指先を添えた。
この静かな一息すら、夜へ備える準備であるかのように。
三十分後。
龍崎が五階のレストランから再び姿を現し、そのまま百貨店の正面玄関へ向かって歩き出す。
その報告を受けた深井玲子は、短く応じた。
「……分かった。ご苦労」
携帯を閉じると、窓越しに百貨店へ静かに視線を向ける。
その眼差しには、すべてが掌中にあるという確信が宿っていた。
「初対面は、わらわの勝ちだ。玄野楓」
「――それはどうかな」
その時、背後から、少年の声が落ちてきた――




