10 儀式
四月——
桜が風に舞い、柔らかな陽光が差し込む春の朝。
県内の進学校では、新入生たちが期待に胸を膨らませ、青春を謳歌する準備を進めている頃だった。
だが、ここは違う。
入学式当日。
正門前には、新入生とは思えないガラの悪い連中が集まり、制服の着崩し方はバラバラ。
煙草をふかす者、バイクを横付けしながら群れる者、ちらほらと見える刺青や金髪——
その場の空気は、まるで"入学式"ではなく"シマの確認"といった様相を呈していた。
ここ、若林高校。
千葉県でも名の知れたヤンキー高校。
地元の暴走族、半グレ、喧嘩自慢の不良たちが集まり、学校というよりも"縄張り"のような場所。
そんな中、学年トップの成績を誇る玄野楓が、その門をくぐった。
——黒のブレザーに、きっちりと締められたネクタイ。
周囲の新入生とは対照的に、まったく乱れのない制服姿。
無駄のない所作で校内へ歩を進める楓に、多くの視線が向けられる。
「……誰だ、アイツ?」
「どっかの進学校と間違えてんじゃねぇか?」
「新入生か? 今年のレベル、随分と低そうだな……」
興味深そうな目つき、獲物を品定めするような視線——
だが、楓はそれらを意に介さず、淡々と歩を進める。
その時——
ガシャァン!!!
ガラスが砕ける音が響いた。
楓が足を止めると、校門の近くではすでに"何か"が始まっていた。
「おらァ! これはこの学校のルールだ、気に入らねぇ奴は今すぐ消えろや!!」
数人の二年生が、一人の新入生を取り囲んでいた。
制服の襟をつかみ、蹴りを入れ、地面に叩きつける。
「……クソが……!」
倒れた新入生は悔しげに歯を食いしばるが、周囲の生徒たちは誰も助けない。
ただ見ているだけ——あるいは、見て見ぬふり。
「儀式が始まったか。今年はやけに気合入ってんな……。」
儀式?
校舎へ向かうと、異様な光景が広がっていた。
正面には、机を何段も積み上げた"山"。
その中央には、一人がかろうじて通れるほどの狭い隙間。
さらに、その机の上には上級生たちが仁王立ちし、下を見下ろしている。
下では、新入生たちが屈辱に顔を歪めながら、次々とその隙間を通っていく。
——いや、正確には、机の上に立つ上級生の"股の下"をくぐらされているのだった。
「さっさと通れ!!」
一人の新入生が躊躇すると、上から怒鳴り声が飛ぶ。
「これが"股くぐり"ってやつだ! しっかり学んでいけよ!!」
上級生たちは下品に笑いながら、机の上でふんぞり返る。
「将来有望な後輩に、俺たちが"指導"してやってんだよ!!」
——権威の誇示。
新入生たちに屈辱を味わわせることで、上級生は自らの立場を示す。
ここでは"力"がすべて。
一年生は最初に"上下関係"を刻み込まれる。
逆らうことは許されない。
従わない者は、徹底的に叩き潰される——それがこの学校の"ルール"だった。
楓は目を細め、その光景を静かに眺めた。
股くぐり
その言葉を聞いて、楓はある故事を思い出す。
中国の故事「韓信の股くぐり」——
若き日の韓信が、無頼の男に喧嘩を売られた際、耐え忍んで相手の股をくぐった。
その後、彼は大将軍となり、歴史に名を刻んだ。
この故事の本来の意味は、「将来の大きな目的のために、一時の屈辱を耐え忍ぶこと」。
だが、偏差値の低いヤンキーたちはそんな深い意味など知る由もなく、ただ新入生を侮辱するために使っているらしい。
実に滑稽だ。
本来の意味では、"屈辱を味わわせる側"こそが、"格の低い存在" なのだから。
楓は微かに口角を上げた。
しかし、参ったな、どう通るか。
楓は、冬休みからずっと鍛えていた。
最初は鬼塚に指導を受けたが、彼の戦い方は力任せの喧嘩スタイル。
楓には向いていなかった。
次に、佐竹から護身術を学んだ。
佐竹の技は、最小限の動きで相手の力を無効化する、実戦的なものだった。
楓ほどの頭脳があれば、すぐに要領をつかむ。
自分に合うように技を特化し、独自の戦闘技法を身につけた。
加えて、毎朝の鍛錬を怠ることなく続けた。
——今では、ヤンキー2、3人程度なら問題なく捌けるほどの実力を手にしていた。
だが、目の前にいるのは、上級生数十人。強行突破は無理だ。
一人では、どう考えても勝ち目がない。かといって、股くぐりは、絶対に論外。
楓は次の一手を考えている。
その時、一人の男が机の山に向かっていった。
176センチほどの身長。
髪は短く整えられ、サイドは刈り上げられたツーブロック。
トップは長めに残し、無造作にかき上げられたオールバック風のスタイル。
ワックスで整えたわけでもなく、自然に乱れたその髪型が妙に馴染んでいる。
男は両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、ダルそうな足取りで歩いていた。
ん……?
楓は、その男の表情に違和感を覚えた。
この場にいる上級生のほとんどは、新入生を見下し、嘲笑を浮かべている。
一方、新入生たちは、怒りや悔しさに顔を歪めていた。
この男だけは違う。
どこか、すべてをくだらなさそうに見ている目。
楓は興味深げにその様子を眺めた。
上級生たちも、男の存在に気づいた。
一瞬、何かを言おうとしたが——
「……!」
男が無言のまま、机の山へと歩を進める。
上級生たちは、男が逆らえずに股くぐりをすると思い込み、軽蔑交じりに笑った。
腰抜け野郎か。
そう思った、まさにその瞬間——
ガシャァァァァンッ!!!
男がポケットに手を突っ込んだまま、蹴り一発で机の山を崩した。
積み上げられた机が、一瞬にして崩れ落ちる。
上に乗っていた上級生たちはバランスを崩し、次々と転げ落ちた。
「なっ……!?」
「お、おおお!!」
下に立っていた上級生たちが怒り、拳を振り上げる。
「テ、テメェ何しやがる!?」
だが、男は驚く様子もなく——
再び、一蹴り。
ドガッ!!!
蹴り飛ばされた上級生が、一人にぶつかり、五メートル以上弾き飛ばされ、床に叩きつけられる。
呻き声を漏らし、動けない。
降ってきた拳を、男は最小限の動きで避ける。
そのまま膝蹴りを一発、さらに横蹴りを放つ——
バキィッ!!!
息をする間もなく、上級生たちは次々と地面に沈められていく。
気づけば、七、八人が倒れていた。
男は、手すら使わず、ポケットに突っ込んだまま、
崩れた机と転落した上級生たちをまるで障害物のように足で避け、一瞥すらくれずに、そのまま校舎へと入っていった。
窓から覗いていた者、遠巻きに眺めていた者——
誰もが、目の前の出来事に息を呑んでいた。
ざまあみろ。どこか痛快そうな笑みを浮かべる者もいたが、ほとんどの新入生たちは驚きに目を見開く。
「……思い出した、アイツだ。」
一人がぽつりと呟く。
「え、誰?」
「アイツだよアイツ、さっきの一年生。」
「だから誰だよ。」
「付属中の龍崎」
「……!!」
「病院送りの龍崎 勝だ。」
——病院送りの龍崎。
確かに聞き覚えのある名前だった。
中学2年の時、県内で起こったある事件。
中学生が社会人五人を病院送りにした。
その主犯こそ、龍崎勝だった。
まさか、その龍崎が、この若林高校に進学していたとは。
楓は、その背中を目で追いながら、静かに微笑んだ。
儀式とやらが消えて、楓にとっても好都合だった。
校舎内の掲示板でクラス分けを確認し、教室へ向かう。
教室で担任に名前を呼ばれると、すぐに別の場所へ案内された。
「君のような優秀な生徒がうちに来るのは珍しいね。」
当然、楓は学校1位の成績で入学した。
その準備のため、体育館の控室へ案内され、スピーチ原稿に目を通すことになった。
中学でも新入生代表を務めた経験があるため、楓は緊張することもなく、余裕を見せていた。
書類に目を通しながら時間を潰していると、やがて9時半。
入学式が始まる時間が迫っていた。
新入生たちが次々と体育館へ集まり、指定された席へ座っていく。
壇上には校長、教頭、来賓などが並び、厳かな雰囲気を演出している。
——どうせ、誰もまともに聞いちゃいない。
形式的な入学式が始まる。
校長の式辞が始まると、案の定、生徒たちは興味なさげに視線を泳がせていた。
「続いて、在校生代表の挨拶。」
マイクを通してアナウンスが流れると、一人の男子生徒が壇上へ上がる。
眼鏡をかけた端正な顔立ち、整った鼻筋に涼しげな目元、爽やかな笑顔——まるで雑誌のモデルのような完璧なルックス。"イケメン"という言葉が、これほどしっくりくる男も珍しい。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。
私たち在校生を代表して、心より歓迎の意を表します。」
女子たちがざわめいた。
若林高校は共学だが、男女比は圧倒的に男子が多い。
そんな中、女子生徒のほとんどはギャル系が占めている。
一方——
新入生の男子たちは、女子の反応とは正反対だった。
「ッチ……」
「フン、ああいうのがモテるのかよ……」
「なんだよ、あの爽やかぶった感じ……」
嫉妬や反感が混じった視線が、壇上の彼に向けられる。
普通の学校では、こういうタイプは人気があるのかもしれない。
だが、この"若林高校"では、そうとは限らない。
壇上の男子生徒は、そんな視線を気にも留めず、淡々とスピーチを続けていた。
「私たち在校生も精一杯サポートしていきます。一緒に頑張りましょう。在校生代表、白川優樹」
そして——
「続いて、新入生代表の挨拶。」
アナウンスとともに、楓は立ち上がった。




