1 優等生
バブル経済が崩壊した後の1990年代、千葉市。
玄野楓は、一見するとどこにでもいる普通の中学三年生だった。成績は常に学年トップで、教師からも「将来有望な生徒」として期待されていた。家族構成はごく普通の核家族。父はサラリーマン、母は専業主婦で、一人っ子だった。外見に特筆すべき特徴はなく、性格も穏やか、誰にも迷惑をかけることなく、静かに日々を過ごす――そんな少年だった。
しかし、楓の学校生活は決して「普通」ではなかった。
彼は、いじめられていた。
教室の隅にひっそりと座り、昼休みになっても誰も話しかけてこない。クラスメイトの視線は冷たく、ときには嘲笑が混じることもあった。教師たちはそれを知りながらも、見て見ぬふりをしていた。
楓がいじめられていた理由は単純だった――優秀すぎたのだ。
どの試験も満点を取り、教師たちの評価も高い。それが、不良たちの気に障った。彼らにとって、楓は「目障りな存在」だった。
「アイツ、調子乗ってんじゃねえよ」
「優等生ぶってるのがムカつくんだよ」
そんな言葉が背後から飛んでくることは、日常茶飯事だった。
クラスメイトたちは、楓と関わろうとしなかった。関われば、自分たちも標的にされてしまう。
楓にとって、学校へ行くことは、毎日が苦痛だった。
朝、目を覚ますと、胸の奥が重く沈む。布団の中でしばらく天井を見つめ、それから渋々、体を起こした。母が用意した朝食を黙々と口に運んだ。
「行ってきます」
小さな声で呟き、玄関のドアを開けた。
通学路は、いつもと変わらない風景が広がっていた。
道端には、誰にも回収されることなく打ち捨てられたゴミが散乱し、空き地には朽ち果てた建物が立ち尽くす。
バブル崩壊後の不景気が、この街に深く根を張り、寂れた空気を漂わせている。
学校に着いても、教室のドアを開けるのが怖かった。
「おはよう」
声を絞り出すように言った。だが、誰も振り向かない。クラスメイトは、それぞれの世界に没頭し、楓の存在など最初からなかったかのように振る舞っていた。
授業が始まると、楓は一心不乱にノートを取り、勉強だけが、唯一の逃げ場だった。しかし、どれだけテストで満点を取っても、誰も褒めてはくれない。教師は成績表に「優秀」と書くだけで、楓の苦しみに目を向けようとはしなかった。
――先生なら、助けてくれるかもしれない。
そう思ったことがあった。
「先生、ちょっと話があるんですが……」
職員室のドアをノックし、担任の教師に声をかけた。
教師は答案用紙を眺めながら、「何だね?」と、ぶっきらぼうに応じた。
「実は、クラスで……いじめられていて……」
声が震えた。言葉を絞り出しながら、なんとか伝えようとした。
だが――
「楓くん、君は気にしすぎなんじゃないのか?」
教師は一度も楓を見ず、書類を指でめくった。
楓は、言葉を失った。
心の奥が、すっと冷えた。
職員室を出ようとしたとき、教師たちの話し声が耳に入った。
「いじめなんて、うちのクラスにはないよな」
「楓くんは優秀だが、ちょっと神経質なだけじゃないか?」
「最近の子は、すぐに『いじめ』って騒ぐからな」
――笑い声が響いた。
この人たちは、初めから助ける気などなかった。
それでも、何度か相談しようと試みた。だが、返ってくるのは決まって同じ言葉だった。
「君はしっかりしているから、大丈夫だよ」
「いじめなんて、気にしすぎだよ」
教師たちは、楓の訴えをまともに取り合おうとはしなかった。
彼らにとって、楓はいじめられるはずのない「問題のない優等生」だった。
授業が終わると、楓はほっと一息ついた。ようやく、この息苦しい空間から解放される。
しかし、その瞬間、背後から低い声がかかった。
「おい、玄野、顔を貸せ」
振り向くと、井上が立っている。クラスの不良の一人で、執拗に楓を狙っている。
楓は心の中でため息をつき、無言のまま立ち上がった。拒否すれば、後で何をされるかわからない。仕方なく、井上の後を追い、トイレへ向かった。
トイレの中は薄暗く、湿気と嫌な匂いがこもっていた。井上は楓を壁際に追い詰め、ニヤリと笑った。
「放課後、いつものところに来い。手塚さんが待ってるからよ」
楓はその名前を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。
手塚――この辺りでは名の知れた不良で、学校外の連中とつるんでいる危険人物だ。
彼が言う「いつものところ」とは、学校から少し離れた路地裏。
日が落ちる頃には、不良たちがたむろし、トラブルの火種がくすぶる場所だった。
「逃げたらどうなるか、わかってるよな?」
井上の声には、冷たい威圧感が滲んでいた。楓は拳を握りしめたが、何も言えず、ただうつむくことしかできなかった。
夕日が沈みかけ、街に長い影が伸びるころ。
楓はゆっくりと「いつもの場所」へ向かった。
路地は狭く、両脇には古びたアパートが立ち並び、壁には無数の落書きが描かれ、地面には割れたガラス片が散らばっていた。奥には線路が通っていて、ときどき電車が駆け抜ける。そのたびに、轟音が路地の静寂を切り裂いた。
路地の奥へ足を踏み入れると、待っていたのは手塚、井上、そして見知らぬもう一人のヤンキーだった。
手塚はタバコをくわえたまま、楓を見てニヤリと笑った。
「来たな」
楓はうつむき、小さな声で答えた。
「……何の用?」
手塚はゆっくりと近づき、楓の肩を軽く叩いた。
「なぁ、金持ってんだろ? ちょっと貸してくれや」
楓は唇を噛みしめた。
「……今月はもう三回目だよ。もうない」
その言葉を聞いた瞬間、手塚の表情が変わった。
「……あぁ?」
声のトーンが一気に冷え込んだ。
次の瞬間、手塚は楓の胸ぐらをつかみ、荒々しく壁に押しつけた。
「テメェ、なめてんのか?」
タバコの煙が、鼻を刺す。
「……本当に、ないんだ」
絞り出すように言った次の瞬間——。
ドンッ!
腹に強い衝撃が走る。
「ぐっ……!」
息が詰まり、喉がひゅっと鳴った。手塚の拳がめり込んだ場所に鈍い痛みが広がり、膝が震えた。だが、倒れ込むことは許されなかった。井上が背中を押さえつけ、無理やり立たせた。
「おいおい、嘘ついてんじゃねえだろうな?」
手塚が顔を近づけ、笑いながら楓の頬を軽く叩いた。
「……本当に、ないんだって……」
それでも楓が繰り返すと、次の瞬間——。
バチンッ!
頬を強く打たれた。衝撃で視界が揺れ、熱い痛みが頬を走った。井上ともう一人の男がクスクスと笑っているのが聞こえた。
「チッ……つまんねぇな。」
手塚は苛立たしげに唾を吐き、楓の胸ぐらを乱暴に押し返した。バランスを崩した楓は、壁にぶつかった。
「明日、三万、わかったな?」
「……そんな大金、用意できないよ」
楓の言葉に、手塚の目つきが険しくなった。
「テメェ、もっと痛い目に遭いてぇのか?」
その言葉に、楓は息をのんだ。
三万円――今の楓には、とても用意できる額ではなかった。親に頼めば理由を聞かれるし、財布にはせいぜい数百円しか入っていない。
「……どうすれば……」
うつむく楓を見下ろしながら、手塚は面倒くさそうに言い放った。
「は? そんくらい自分で何とかしろや」
それだけ言うと、手塚たちはクスクスと笑いながら路地の奥へと消えていった。
楓は壁にもたれかかり、ヒリヒリと痛む頬を押さえた。遠くで電車の音が響いた。
楓はふらふらとした足取りで夜の街を歩いた。
頬の痛みはじんじんと残り、頭の中で手塚の言葉がこだました。
「明日、三万。わかったな?」
どうすればいいのか。
そんなことを考えながら、自宅にたどり着いた。
玄関のドアを開けると、いつもとは違う静けさが漂っていた。
リビングの明かりがついてる。
――こんな時間に?
父は普段、夜遅くまで会社にいるはずだった。母も、いつもならテレビを見ながらのんびりしている時間だ。
だが、今日は違った。
父はスーツ姿のままテーブルに肘をつき、難しい顔をしていた。母もまた、眉を寄せ、真剣な表情を浮かべていた。
「……ただいま」
楓がそっと声をかけると、母が顔を上げた。
「おかえり、楓……」
その声はどこか沈んでいた。
「どうしたの?」
不安になりながら聞くと、父がため息をつき、重い口を開いた。
「会社を……クビになった」
楓の胸が強く締め付けられた。
「え……?」
「リストラだ。業績が落ち込んで、次々と人員整理が進んでいたんだが……俺も対象になった」
父はテーブルの上の紙を指で弾いた。見ると、そこには会社のロゴが入った通知書が置かれていた。
楓はごくりと唾を飲み込む。
バブル崩壊後、不景気の波は全国に広がっていた。ニュースでは毎日のように「リストラ」「倒産」の話ばかりが流れている。だが、それはどこか遠い世界の出来事のように思っていた。
まさか、こんな形で現実になるなんて――。
「そんな……」
母が静かに言った。
「しばらくは退職金と貯金でやっていけるけど……早く次の仕事を探さないと」
そう言いながらも、その声には不安がにじんでいた。
沈黙が落ちる。
「……そうなんだ、大変だね」
それだけ絞り出し、楓は笑顔を作った。
「楓?」
母がじっと楓の顔を見つめる。
「ちょっと、その頬……どうしたの?」
一瞬、背筋が冷たくなった。
「え、ああ……ちょっと転んじゃって」
慌てて頬を押さえ、苦笑いした。
「本当に? 結構腫れてるけど……」
母が心配そうに近づこうとするのを、楓は軽く手を振って制した。
「大丈夫、全然痛くないし、たいしたことないよ」
母はまだ疑わしげに見ている。
「……本当に転んだの?」
「うん、本当に。ただの不注意だよ」
楓は無理に笑ってみせた。母はまだ納得していないようだったが、それ以上は何も言わなかった。
楓はそっと息を吐いた。
これ以上、心配をかけるわけにはいかない。
そう思いながら、自分の部屋へと足を向けた。
楓はベッドに倒れ込み、天井をぼんやりと見つめた。
――なんで?
何度も、何十回も、何百回も、自分に問いかけた。
なんで、こんな目に遭わなきゃいけない?
真面目に生きているせいか?
成績が優秀だからか?
良い子だからか?
もしこれが映画なら、きっとヒーローが助けに来るだろう。
もしこれがアニメや漫画なら、不思議な力を手に入れて、異世界で青春を謳歌しているはずだ。
――だけど、これは現実だ。
誰も助けには来ない。
楓は、絶望の底に沈んでいく。
時間の感覚すら曖昧になり、何分経ったのか、何時間経ったのかもわからない。ただ闇に飲み込まれるように、意識は深く沈んでいった。
遠くで母の声が聞こえた。
「楓、ご飯……できたけど……」
けれど、その声さえも届かない。
母はもう一度呼ぼうとしたが、途中で言葉を飲み込んだ。
部屋の中は静まり返っていた。
さらに、どれくらいの時間が経ったのかもわからない。
――いや、そんなことはどうでもいい。
絶望の果てで、楓は笑った。
それは、自嘲でもなく、皮肉でもなく――狂気に満ちた笑いだった。
「真面目に生きたって、何の意味があるんだ……」
小さくつぶやき、口元に笑みを浮かべる。
「だったら――外道でもなんでもなってやるさ」
その瞬間、楓の中で何かが完全に壊れた。