1 マルガリータはヴァレリーの旅支度が終わるのを待っていましたが、
マルガリータはヴァレリーの旅支度が終わるのを待っていましたが、その間にアルテムたちやインハが周りを取り囲み、次々とお別れを言うのです。
「姫様……どうか、お体にはお気をつけてくださいね」
インハの目には涙が浮かんでいます。
「夜は温かくして眠るのですよ。変なものを口にしちゃいけませんよ。鞄に短剣を入れておきましたから、いざとなったらそれでご自分を守ってくださいね。知らない人の言うことは、簡単に信じちゃいけませんよ」
インハによる怒濤の忠告の一つ一つに、マルガリータはしっかりうなずきました。これからは、インハに頼ることができないのですから。
「……最後に一つだけ。旅の途中でも、いつでも帰ってきていいのですからね。このインハたちが姫様を待っていること、いつも忘れないでくださいね」
「ありがとう……でも、インハはどうするの? まさかお城に帰るんじゃないでしょう?」
「帰りますとも。お妃様の様子を見張らなくちゃなりませんからね」
「やめて、お城に戻っちゃだめ。お母様に捕まったらどうするの」
マルガリータは必死で止めました。アルテムも同意します。
「インハさんも、大公の城には戻らない方がいい。我々とボフダン公の領地へ行きましょう。歓迎するよ」
インハは、しぶしぶうなずきました。
「分かりました。それでは、ご一緒させていただきましょう。何か働き口をくださるのなら」
すりきれたマントをはおり、大きな荷物を背負ったヴァレリーがマルガリータの側にやってきました。窓の外を見張っていた家来が振り向いて言いました。
「家の周りに兵隊どもはいない。出発するなら、今だ」
「はいはい」
ヴァレリーはマルガリータを見下ろして、微笑みました。
「じゃあ、行きましょうか、お姫様」
「はい!」
最後にインハがマルガリータをだきしめ、優しく背中を叩きました。ヴァレリーに見られていることをちょっぴり気恥ずかしく思いながらも、鼻の奥がつんと痛みます。
ヴァレリーは扉を小さく開けながら、アルテムに言いました。
「あんたらも、気をつけて領地に帰るんだな」
「ああ、分かってる」
「家にある食い物なんかは、好きに持っていって構わないから」
「ありがとう、後でたっぷりお礼するよ」
インハたちは、いつまでも手を振っていました。外に出たマルガリータが扉を閉める、最後の瞬間まで。
辺りは静まり返っていました。さっきまでは、酔っ払った若者たちが歩き回っていたのに。
「幽霊の時間だからです」
ヴァレリーがささやきました。
「真夜中から一時間は、幽霊の時間。この世に未練を残した魂が、悪意を持って飛び回っている。生きた人間が外をうろついていると、恐ろしい目に遭うのです」
そんな怖いことを言いながら、ヴァレリーは歩きだそうとします。マルガリータは思わず彼の袖をつまんで引き留めました。
「どうしてそんな時間に、出発しようとするの?」
「そんな時間だからこそですよ。今は兵隊すら出てこようとしない。都から脱出するのにおあつらえ向きです」
ヴァレリーはマルガリータの肩に手を乗せました。
「なあに、幽霊が出たとしても、わしらを襲ってくることなどありませんよ。幽霊の大半は、優しい連中ですからね」
ヴァレリーが自信たっぷりにそう言ったので、マルガリータは仕方なくうなずきました。
その夜は春にしては暖かく、マントを着込んでいると暑くなってくるほどでした。どの家もぴったりと窓を閉ざして、幽霊が入ってこられないようにしていました。家の壁が鳴る音、小石が転がる音が聞こえるたびに、マルガリータは身震いします。自分の周りで風がふくと、幽霊に囲まれているような気がしてならないのでした。
「本当に、幽霊はわたしたちに何もしないの?」
先を歩くヴァレリーに尋ねると、彼は振り向いて答えました。
「お姫様が、幽霊にひどく恨まれていなければね」
ヴァレリーは、真っ暗な中でもちっとも迷うそぶりを見せず、小さな道ばかりを選んで歩いていきます。マルガリータは彼についていくしかありませんでした。
月すらも雲に隠れてしまい、明かりといえば家々からほんのわずかにもれるランプの光のかけらしかありません。マルガリータは何度も小石や地面のひびわれにつまずきました。外の地面は、お城の滑らかな床とは大違いです。細い草が、マルガリータの足をくすぐりました。小さな虫もあちこちを飛び回っていて、しきりにマルガリータの顔にぶつかるのでした。
路地に置いてあった大きな壷に気がつかず、マルガリータが転んでしまうと、ヴァレリーが助け起こしてくれました。
「ランプをつけられれば歩きやすいのですがね、あまりわしらがいるところを知らせたくはない。わしのすぐ後ろを、すり足のようにして歩いてください。いくらか転びにくくなるはずです」
「はい……」
マルガリータは、すりむいて、ひりひり痛む膝を押さえました。
「都を出て、どこか落ち着ける場所を見つけたら、手当てをしてあげましょう。それまであと少しですから、辛抱するんですよ」
「はい」
その時、どこからともなくうううーんと苦しそうなうなり声が聞こえてきました。
「い、今のは何!?」
「幽霊でしょうね」
ヴァレリーはあっさりと言いました。
「幽霊……!」
「あまり気にしちゃいけません。わしらはわしらで、自分のことで精いっぱいなふりをするんです。幽霊なんか関係ないんだと」
「幽霊なんか……関係ない」
「そうそう、そんな風に」
そのうなり声は長いこと二人についてきましたが、二人が市街地を抜けた頃には聞こえなくなっていました。
種まきを終えたばかりの畑のそばを歩いていると、真夜中から一時間経った合図の鐘がお城の方向から聞こえてきました。マルガリータはほっと胸をなで下ろします。幽霊も、兵隊も、当分追ってはこないでしょう。
「一休みしましょうか」
ヴァレリーがそう言ったので、喜んで地面に腰を下ろします。柔らかい草は少し濡れていて、ワンピースの裾が濡れてしまいました。マルガリータの隣に、ヴァレリーも座ります。
「その服も、着替えた方がいいですよ。立派すぎる」
「そうなんですか?」
目立たない服を選んできたのに。マルガリータは、スカートをつまんで首を傾げました。
「今のお姫様の格好は、どう低く見たって貴族のものです。妃の兵隊にも見つかりやすくなるし、盗賊に狙われてしまいます」
「盗賊って、何ですか?」
ヴァレリーはマルガリータの無知を笑うこともなく、教えてくれました。
「盗賊は、他人を脅して金や大事な物を奪う悪いやつらのことですよ。武器を持っているし、戦いにも慣れているから、戦士のように強いんです。都の外にはわんさといるから、わしらも気をつけないといけません」
「都にはいないの?」
「一応、大公のお膝元だから、いないことになっています。ただ都には別の悪いやつらがいる」
マルガリータは固唾を呑みました。
「それは誰?」
「例えば__お姫様の命を狙う妃とか」
マルガリータは、身をすくめました。
「わたし、インハにそう言われたから城を出てきたけど、まだ本当には信じられないの。ダリヤお母様が、私を殺そうとするなんて__お祖父様を殺したのが、お母様だなんて」
ヴァレリーは何も言いません。ただマルガリータの次の言葉を待っています。
「北極星に会ったら、お祖父様を生き返らせてほしいのはもちろんだけど、ダリヤお母様の本当のお気持ちも教えてほしいわ」
「では、先を急がねばなりませんね」
ヴァレリーは立ち上がり、マルガリータに手を伸ばしました。その手をつかみ、マルガリータも体を起こしました。
よく耕された畑が、どこまでも続いているようです。隠れていた月が顔を出して、マルガリータたちの周りを照らしてくれました。視界を遮るものがなく、なだらかな大地の先の先までがうっすらと見えました。
「畑を抜けたら、ケドルという小さな町があります」
「どんなところ?」
「パンが美味くて、鳩もたくさんいる町ですよ」
マルガリータは思わずふきだしました。
「そう、鳩がたくさんいるのね。それって、いいこと? 悪いこと?」
「いいことですよ。鳩のえさになるものがたくさんあり、町の人々の気性も優しいということですからね。鳩が住みやすい町は人間にとっても住みやすいもんです」
「そうなのね、知らなかった」
マルガリータはふと、ヴァレリーが小鳥を飼っていたことを思い出しました。
「あの、ヴァレリー殿」
ヴァレリーは歩きながら振り返りました。
「どうしました?」
「あなたが飼っていた小鳥は、どうなさったの? 残してきてよかったのですか?」
「ご心配なく、出かける前に放してやりました。野鳥が怪我していたのを、手当てしてやっていただけですから」
「そうなの……」
マルガリータは、ヴァレリーが自分と旅に出るために手放したものが他にもあるのではないかと思いました。けれど、そうだと肯定されるのが怖くて、それ以上尋ねることはできませんでした。