4 かわいそうなマルガリータは、
かわいそうなマルガリータは、寝室に戻されてからもずっと泣き通しでした。
ボフダン公は、マルガリータの父親にもひけをとらない立派な貴族で、レゲンダ公国の東南部一帯を治めていました。ボフダン公の愛娘、すなわちマルガリータの母であるロダは、海に面した暖かい南の領地で少女時代をのびのびと過ごしたのです。ボフダン公は孫娘、マルガリータのことも可愛がってくれ、ロダが亡くなってからは年に何度も都の城まで会いに来ました。マルガリータは、ひょうきんで優しい祖父が大好きです。
また、ダリヤ妃に嫌われているマルガリータにとって、祖父は頼もしい後ろ盾でもありました。祖父が城に来ている間は、ダリヤ妃も嫌がらせをしてこないし、いつもより少し優しいのです。
けれど、そんな祖父は、突然マルガリータの目の前からいなくなってしまいました。
ボフダン公の遺体は既に棺に納められ、最後のお別れをすることもできないというのです。マルガリータは泣くのをやめようとして、心の中でどんどん膨らむ祖父と遊んだ思い出を押さえ込みました。枕で涙を止め、シーツで口にふたをするのです。母が亡くなってから、何度も経験したことでした。
葬儀は明日行われると、大臣がマルガリータに言いました。この大臣は、ボフダン公をあまり快く思っていなかったのです。だから、マルガリータの前で悲しそうな様子を装っていましたが、声の調子で喜んでいることが分かりました。
マルガリータは夜まで自分の寝室に閉じこもり、決して出ようとはしませんでした。食事も、飲み物も、見る気にもなりません。勉強の本だって、開くのも嫌でした。滅多にないマルガリータのわがままを、今日ばかりはダリヤ妃さえ叱りませんでした。
月が高く昇った頃、真っ暗な寝室の中でマルガリータが物思いに沈んでいると、扉を遠慮がちに叩く者がありました。
「姫様、インハでございます」
マルガリータは、顔を強くこすってから、そっと扉を開けました。
窓から差し込む月の光に照らされたインハは、悲しみとはまた違う表情を顔に浮かべていました。手にはなぜか小さな背負い型の鞄を持っています。
インハは戸惑うマルガリータをさっと抱きしめ、早口でささやきました。
「単刀直入に申し上げます。姫様、一刻も早く、このお城からお逃げください!」
マルガリータは驚きました。
「どうして。どうして、逃げなければならないの?」
インハはマルガリータを抱いたまま、答えました。
「お妃様と大臣が、姫様を亡き者にしようと計画を練っているのを聞いたのです。あの方々は、姫様がボフダン公の後を追って自害されたように見せかけようと、悪魔のような企みを進めていました。ですから、その計画が実行される前に、何としてもお逃げください!」
「わかったわ。でも、どこに逃げればいいというの……お母様もお祖父様も、もうこの世にはいらっしゃらないのに」
うつむき、震える唇をかみしめたマルガリータを、インハが励まします。
「ボフダン公はいらっしゃらなくとも、あのお方の忠実な家来がいます。どうか、今は何も聞かず、私についてきてください」
マルガリータはうなずき、寝間着から昼間に着る服に着替えました。それから、ふと思い立ち、壁に飾られていた花束を下ろし、鞄の中に入れました。
乳母インハは、マルガリータにマントをかぶせ、城の中を進みました。幸い、二人は誰にも出会いませんでした。一階の厨房に辿り着いた二人は、食材を運び込む入り口から外に出て、ほっと胸をなで下ろしました。
けれどその時、城を昼夜守っている衛兵が、こそこそと出てきた二人を見とがめました。
「こら、お前たちは何者だ。なにゆえ、こんな時分に城から出てきた?」
インハがすかさず答えます。
「侍女の一人が夜中に急に発作を起こしたので、医者に診せにいくところでございます」
インハの顔を見て、衛兵はうなずきました。
「あなたは、姫様の乳母殿か。分かった。気をつけてゆくがよい」
「どうも、ありがとうございます」
「あいにく俺には職務があるゆえ、付き添うことはできないが……」
「いえ、いえ、大丈夫です。では」
インハとマルガリータは、慌てて衛兵から逃げだしました。
都を歩くのは、マルガリータにとってはじめてのことでした。道はでこぼこしていて歩きにくいし、いろいろな煙が混ざってへんてこな匂いがマルガリータの鼻を襲います。その上、都をがやがやと歩いているのは大抵酔っ払いで、大声をかけられるたびにマルガリータは心底恐ろしい思いをしました。
けれど、インハがしっかりとマルガリータの手を握ってくれているので、怖がりなマルガリータも気を保つことができるのでした。
「ええと……どこに集まっているっていったかしら……」
インハが、ぶつぶつとつぶやきながら、大きな道沿いの酒場をのぞいていきます。
「あの、インハ……もしかして、どこに行けばいいか、分からないんじゃ……」
「そ、そんなことはありませんよう」
とは言いつつも、インハは目を泳がせています。
すっかり不安になったマルガリータは、思わず後ろを振り返り、十三年間出たことのなかった城を見上げました。そして、あっと小さな声をもらしました。
今この瞬間に、城の窓の一つに小さな灯りが灯ったのです。まるで、誰かがランプを持って部屋に入ったかのように。
目をすがめて真っ暗な城を見て、マルガリータは恐ろしいことに気がつきました。
「今灯りがついた窓は、わたしの部屋だわ!」
その言葉で振り返ったインハも、すぐに気がつきます。
「お妃様に感づかれたのかもしれません!」
うろたえるマルガリータを抱えるようにして、インハは都を走ります。後ろから、誰かが追いかけてくるような気がしました。
どこか分からない家並みの中に迷い込んだ時、一つの家の扉が開き、中からにゅっと顔が突き出しました。
思わずマルガリータとインハが悲鳴を上げると、中から出てきた男が、ぱっと顔を輝かせました。
「よかった、姫様とインハさんだね?」
男の丸顔を間近で見て、マルガリータは気がつきます。彼は、祖父の側近でした。