死に戻り聖女は水龍に溺愛される〜未練などなかったはずなのにその愛は反則です〜
その日は、敵対視されている公女に嫌味を言われたり、使用人に馬鹿にされたりなんてことはあったが、クロエにとってはどうってことのない一日だった。
だからいつも通り一人で庭に出て、束の間の休息を楽しんでいた。
それで全てから逃れられるわけでもないと知りながら、クロエは意味もなく庭を歩く。
花々になんて興味がないのにわざとらしく足を止めて、手折ってみる。
小さな花々で作った花束は、一つ一つは目を引かないような地味な花を集めたものだったが、束ねられたことによって個々の美しさや可憐さが際立って見えた。
それがどうしてか羨ましく思えて、クロエはわずかに表情を強張らせると、道に小さな花束を投げ捨てた。
そしてまた、何事もなかったかのように歩き出す。
クロエは、侍女を付けずに庭を歩くのが好きだった。
そのときだけは、何にも縛られず、平民だったころのように振る舞えるから。フリルとレースで飾ったドレスも、微笑みと世辞で隠し去った本音も、上辺だけに身に着けた礼儀作法も、それら全てに意味がなくなったようで、安心することができたから。
ふと、足音が聞こえた気がしてクロエはぴたりと足を止める。汚したくないからと言って着替えた簡素なドレスの裾を揺らして振り返ると、今一番顔を合わせたくない相手がいた。
……正確には、その相手の侍女、といったところではあるが。
「こんな所にまでいらっしゃるだなんて、どうかされましたか」
いつだったか、その侍女の主はクロエの好きな庭のことを平民の畑だと嘲笑っていたというのに、何のために来たというのだろう。
「あなた様に会うために参りました」
「……わたしに?」
何となく、嫌な予感がした。
未来予知など普段は出来やしないのにどうしてか、この時ばかりは不快なほど胸騒ぎがした。
そして、こんな時ほど嫌な予感というものは当たるものだ。
侍女が後ろ手に持っていたものを取り出すと、その鈍色の凶器は痛いほどに光を振りまく太陽を眩しく反射した。
「……!」
逃げなければいけない。
振りかざされたナイフを前に、クロエは後退った。
しかし、クロエが逃げるよりも、剥き出しの刃がクロエの腹に吸い込まれるようにして沈む方が、僅かに早かった。
「!……くっ」
今まで感じたこともない鮮烈な痛みが腹部から全身へと広がり、耐え切れずクロエは膝をつく。
そのまま声を出せずにいると、頭上から驚くほど冷たい声が聞こえた。
「二年も待って差し上げたのです。感謝されこそすれ恨まれる筋合いはありません。恨むのなら、あなたが水龍様に愛されなかったことにでもしてください。……では」
血に塗れたナイフをしまうと、その侍女は振り返ることなく去っていった。
(理不尽に命を奪おうとされた挙げ句、全ての責が自分にあるだなんて……っ)
侍女の物言いに腹が立ったが、その怒りを表すことも儘ならず、そのままクロエは意識を手放した。
「……エ、クロエ」
誰かが自分の名を呼ぶのが聞こえた。
意識を失ってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
「クロエ、頼むから目を覚ましてくれ……っ」
いつの間にか降り出していた強い雨が地を打つ音が、クロエの耳を突き刺す。経験したことのないような激しい雨だったが、不思議と体が濡れているような感覚はしなかった。
(わたしは今、どうなっているの……?)
重い瞼を無理やりにでも開けると、結婚してから二年もの間、常にクロエに無関心だった夫の顔があった。
(水龍、様……?)
雨からクロエを庇っているために顔どころか、全身が雨に濡れ、服が体に張り付いていた。だが、当の本人はそれを鬱陶しそうにした様子もなく、ひたすらクロエの名を呼んでいる。
二年の結婚生活で過ごした時間は少なかったが、ここまで必死そうな彼の姿を見たことはなかった。
それでも、クロエは雨に濡れたその顔をこんな時ですら美しいと思ってしまた。
「クロエ……戻って来てくれ……」
このままきっと、死んでしまうのだろう。
そうしたら夫は、公女と結婚する。
それが本来の筋書きだったのだから、仕方がない。
(二人は本来ならば結婚するはずだったのに、聖女としてわたしが現れてしまったから…………でも、その邪魔者も消える)
こうなることをずっと願っていたのに、いざとなるとどうしようもなく泣きたくなる。
けれど、死んでしまえば、この意識を失いさえすれば、全てから解放される。後悔なんて、きっと感じない。
「………を……、……て、……した」
「クロエ……?」
そんなことを考えながら最後に遺した言葉は何だっただろう。今となってはそれすら思い出せない。
ただ、美しい顔を濡らしている雫だけは拭わないと、そんなことをぼんやりと思ったことは覚えている。
最後の力を振り絞って手を伸ばし、何とか拭ったそれは、感覚のない手でもわかるくらいに熱かった。
◇◆◇
大陸のおおよそ中心に位置するアクアリオル王国がある土地は昔、そのほとんどが雨の降らない不毛の土地だった。
ある時、そんな土地に住む一人の少女が人々を救うために立ち上がった。後に聖女と呼ばれるその少女は、永い眠りについていた水龍を目覚めさせ、そして夫婦の契りを結んだ。
それを期に、その土地には季節を問わず雨が降るようになり、長く続いた旱の歴史は幕を閉じた。
その後、二人の間に産まれた子が初代国王となり、アクアリオル王国を建国した。
これが、アクアリオル王国の成立であり、初の王の誕生だった。
―――今日は、そんな水龍の血を引く十五代目の王に聖女が嫁いだ日だった。
そして、これから迎えるのはいわゆる初夜だ。
「お妃様、こちらで水龍様をお待ちくださいませ」
初夜のための支度を済ませた侍女は、呆けたように虚空を見つめているクロエに声を掛かける。案の定、返事をしないクロエに侍女は眉をひそめる。
「……お妃様?」
怪訝そうな声色に、クロエははっと顔を上げる。
「あ、ごめんなさい」
(わたし、何をしてたんだっけ)
咄嗟に謝ると、侍女は隠しもせずに眉根を寄せる。そして、溜息をついてベッドの縁に腰掛けたクロエを見下ろす。
「良いですか、お妃様はこれから水龍様との初夜の儀を迎えるのです。貴族の生活は慣れないかもしれませんけど、もうすこし聖女としての自覚を持ってください」
(初夜……?ああ、そうだったわ。わたしは聖女として水龍様に嫁いだんだもの。しっかりしなくちゃ)
「……ごめんなさい」
謝ってばかりのクロエに、侍女は何とも言えない表情になった後、わざとらしく溜息をつくと、そのまま何も言わずに寝室から出ていった。
寝室に一人残されたクロエは嘆息して、ベッドに倒れ込み、わざと大きな溜息をつく。
「どうせ、水龍様は初夜の儀に来ないのだから、どれだけ待ったところで無駄よ」
自嘲するように自然と口が紡いだ言葉に、そのまま目を閉じようとしたクロエは違和感に気づく。
(あれ、どうせ?……どうして、そんな知ってるみたい、に……)
自分のことながら、これから起こることを知っているような口ぶりが不思議で、何となく記憶を手繰る。
刹那、様々な記憶が蘇り、クロエは満月のような大きく美しい黄金色の瞳を揺らす。
「あぁ……――そうよ、わたしはあの時、殺されて……どうして忘れてたんだろう……」
でも、それなら今は?
どうして生きていて、その上終えたはずの初夜を迎えようとしている?
(……殺される前に、時間が巻き戻っている?)
そんな荒唐無稽な結論に辿り着き、我ながら馬鹿らしいと笑う。
「そんなことがあるわけ…………っ」
腹に刃を突き立てられた感触を思い出し、一気に汗が噴き出す。頬を汗が伝い、滴り落ちる。
「……違う」
あの感触は、夢などではない。絶対に、クロエが経験したものだ。
(……それなら本当に、二年前に巻き戻っているというの?)
取り残されてしまったような孤独に堪え兼ねたクロエはベッド潜り込んだ。
そしてその夜、クロエの記憶を裏付けるように、水龍が寝室を訪れることはなかった。
「はあぁ〜……だからって、どうしてこんなことをしてしまったのかしら……」
初夜の儀を成さぬまま終えた翌日、クロエは自室で頭を抱えていた。
今朝、朝食も一人で済ませたクロエは、昨夜寝てしまったことで中断してしまった巻き戻りについてを考えた。
死ぬ間際、確かに自分は消えることを望んでいた。その気持ちは、今も変わらない。
流石に、もう一度死のうとはとても思えないが。
(それなら、わたしが妃でなくなってしまえばいい)
クロエ一人の意見では上手く事は運ばないだろうが、幸いというべきか、公女を妃に推す派閥もあったくらいだ。きっと、離縁しようとすれば、難しいことではないだろう。
(それに、公女様は水龍様の婚約者だったわけだし)
クロエは、これから他でもない水龍に伝えるべきことを胸に刻み込み、深呼吸する。
その時、扉がノックされ、軽やかな音を立てる。
クロエは肩を跳ねさせ、その後何も無かったように姿勢を正す。
(大丈夫。落ち着いて……今のわたしは、水龍様を知らないのだから。普通に振る舞えば大丈夫)
「待たせたな」
ソファから立ち上がり、頭を下げたまま水龍を迎える。そのまま、水龍が向かいのソファに腰掛けた気配を感じながら、クロエは慎重に口を開く。
「水龍様にご挨拶申し上げます」
「――君は、私の何だ?」
挨拶を遮るようにして問いかけられ、クロエは思わず声を上げる。
「え、……っ?」
戸惑いを含んだその声に、当たり前だが返事はない。クロエは停止しそうな思考と口を働かせて言った。
「お、畏れ多くも水龍様の妻でございます」
水龍が望んでいるものがこれで合っているのかわからないが、頷く声が聞こえクロエは人知れず息をついた。
「そうだ。だから君がそこまで大仰にする必要はない。顔を上げてくれ」
安心したのも束の間、水龍の言葉に心臓が跳ねる。早く用件を済ませてしまいたいのに、顔を見ることが怖かったのだ。
それでも、クロエは一度深く呼吸してから、恐る恐る顔を上げた。
「?どうかしたか」
水龍はその整った造作に、今は困惑を滲ませている。
その顔に、ひどく安心感を感じて、クロエは何故か泣きたくなった。
「……っい、いえ。……何でもありません。気にしないでください」
顔を上げた瞬間に固まってしまったことに気づいたクロエは我に返って、慌てて口を開く。
「?そうか。……それで、何のために私を呼んだのだ?」
(別に呼んだわけじゃ……)
クロエとて、国の頂に座す水龍を呼び付けるつもりなどなかった。しかし、謁見したいと伝えたら、今日クロエの部屋まで自ら赴くと返事をされたのだ。
「……水龍様に、お伝えしたいことがあります」
「何だ」
(大丈夫。今朝何度も言葉を確認したのだから)
「……わたしは妃ですが、それ以前に聖女です。聖女としての務めは、もちろん果たします。ですが、妃という立場は、わたしには不相応です」
「……どういう意味だ?」
「わたしと、離縁して頂きたいのです」
クロエがそう言い切ると、暫し二人の間には沈黙が流れる。
「……それがどう意味かわかっているのか?聖女が水龍の妃となるのは連綿と続いてきた慣習だ。そして、私たちは昨日に契りを交わしたばかりだ」
水龍の低い声に僅かに動揺するが、クロエは決意の籠もった眼差しで頷いた。
「はい。仰る通りです」
「では何故」
視線は鋭く、声からは棘が感じられたが、そんな態度の裏に動揺が見えた気がした。
「それでも、わたしたちは初夜の儀を終えておりません。ですので、まだ正式に夫婦となったわけではありません。その上、聖女信仰も近年は薄れています。……そして、平民のわたしなどよりは、大公のご息女であられるリリア様の方が水龍様に相応しいと思います」
クロエの言葉を否定するように、水龍は反射的に口を開く。
「それは」
だが、何を思ったのか苦々しげな顔つきになると、口を閉ざした。
そして、そんな態度から一転して表情を消すと、クロエから視線を逸らし、静かに問いかけた。
「話は、それだけか」
「……はい」
クロエが答えると、水龍はそれ以上何も言葉を発さずに部屋を出ていってしまった。
「……これで、良かったのよ」
時間が巻き戻る前、水龍と結婚してからクロエはただ自分が妃でなくなることを望んでいた。
平民という出自ながら妃となったことに対する貴族からの批判、クロエが現れるまで婚約者だった公女からの嫉妬。
結婚後のクロエはずっと重圧を感じながら生きていた。
それでも、耐え続けてばかりの人生だったが、不思議と後悔はなかった。自分が居なくなれば、全てが上手くいく。そんな風に自分を責め続けていれば、自分が悪いことをしているような気がしていたからかもしれないが。
(そうまでして気を紛らわせるだなんて、馬鹿だったわね……)
けれど、こうして時間が巻き戻ったというのなら、同じ人生を歩み、殺されたいとは思えない。
「それならまずは、水龍様の妃の座を放棄するしかない」
そうすれば、あんな死に方をすることも、公女派を敵に回すこともないのだから。
クロエは決意を噛みしめるように、或いは――自分の本当の気持ちを堪えるように拳を握りしめた。
……はずだったのだが。
気づけばクロエの目の前には贅の尽くした数々の料理が並べられ、そしてあろうことか水龍と席を共にしていた。
何故こうなったのかは、クロエもよくわからない。寧ろ、クロエが聞きたいくらいだ。
一人で昼食を摂ろうと準備していたら、突然部屋に水龍が訪てきて、そうしてあれよこれよと言う間に昼餐の支度を済まされてしまったのである。
邪魔だからという理由で給仕どころか侍女も居らず、クロエは先程から冷や汗をかいていた。
それでも、クロエは唾を呑んで恐る恐る口を開いた。
「あの、水龍様」
瞬間、水龍がクロエの言葉に割り込むように口を開く。
「水龍、ではなく名前で呼んでくれと言っただろう」
「…………ル、ルキシス様」
水龍は基本的に無表情であることが多いが、その中に僅か不機嫌さが滲んでいて、クロエは身を竦めて咄嗟に名を呼んでしまう。
晩餐が始まったときに、水龍が開口一番に告げたのも、名前で呼んでくれという言葉だった。前はそんなことを言われたことが無く、ずっと水龍様呼びだったので、どうしても慣れない。
それでも、クロエが名を呼ぶと水龍は、どこか満足そうな表情で小さく頷いた。
「それで、その、……」
だが、クロエはやっと言いたいことが言えるというのに、何と切り出せばいいのかわからなくなってしまい、口を開きかけては閉ざす。
そんなクロエの心境を察したように、水龍が問い掛ける。
「……昼餐に呼んだのがそんなに意外か?」
水龍が自分に興味を示したり、自ら声を掛けられたりしたことのないクロエはぱちりと瞬く。
「えっと……」
「違ったか?」
意外も何も、巻き戻る前は食事を共にしたことが一度も無いのだ。
だが、はっきりと肯定することも憚られ、クロエは曖昧に頷く。
「……ま、まあ……はい」
クロエは思わず水龍の反応を伺ったが、さして気にした様子もなくフォークを手にしていた。
「そうか。だが別に、夫婦なのだからおかしな話ではないだろう?」
夫婦だから。
だが、以前はそれでも食事や寝所を共にすることはなかった。納得できないが、怪訝そうな目で水龍に見られたので、クロエは咄嗟にフォークを取る。
「……食べないのか?」
「いえ、……いただきます」
(……夫婦の会話とはとても思わないわね)
初代国王と聖女は仲睦まじい夫婦だったと云われているのに、この違いは何なのだろう。
味を感じない料理を口にしながら、そんなことを他人事のように思った。
その後も何とも言えない気まずい空気感のまま、二人は昼餐を終えた。
そして、クロエがやっと終わった、と一息ついていたところで、水龍から何故か散歩の誘いがあった。
「庭、ですか?」
自身の殺害現場となったあの庭に何も感じずに近づけるほどクロエは図太くはない。
まして、折角生きているのにわざわざ死の危険がある場所に行くような命知らずでもない。
(主にわたしが、本来と違う行動をとっているのだし、未来が変わって二年と経たずに殺されてしまうこともあるかもしれないし……)
本当にそうなった場合、殺される危険のある場所が庭に限ることがなくなってくるわけだが、気持ち的に、あの庭に近づきたくなかったのだ。
「ああ、聖女のための庭もあるが、良かったら私の庭に行かないか?」
拒否したい気持ちがが顔に出ていたのか、それとも偶然かはわからないが、水龍がそう提案する。
「ルキシス様のですか?」
予想外の誘いに、クロエは目を瞬かせる。
水龍の庭は、雨を降らせるための儀式を行うことにも使われる、神聖な場所だ。そなため、水龍が共に居る場合でなければ入ることもできないような、厳重管理のもとにある貴重な庭なのだ。
当然、興味が無いわけがない。
「ああ、私は今なら時間がある。折角ならと思ったのだが、嫌だろうか」
「……お心遣いに感謝いたします。ぜひ、ご一緒させてください」
クロエの声には、心做しか安堵が含まれているようだった。
そうして、水龍の庭を訪れることになったわけなのだが、クロエは少し戸惑っていた。
水龍の命で、侍女たちの手で着たこともない豪奢なドレスを纏わせられただけなら、まだ良かったのだ。
(だけど、まさか水龍にエスコートまでされるなんて……)
クロエは絡められた腕に視線を向け、緊張で顔を引き攣らせる。
以前は水龍な社交界に出る必要はないと言われ、パーティーの類には出席したことが無かったため、このようにエスコートなどされたことがなかった。
(まあ、貴族としてのマナーもよくわからないわたしがパーティーに出たらルキシス様にも迷惑をかけてただろうから、それは良かったのだけれど……)
「陛下!少々お時間よろしいでしょうか」
複雑な気持ちを抱えながら廊下を二人で歩いていた時、向かい側から歩いてきた男性に声をかけられる。
クロエは貴族に詳しくないが、その顔には、クロエにも見覚えがあった。
(大公に付き従っていた伯爵じゃない……!)
クロエを敵対視していた一派の一人のため、鮮明に記憶に残っている。
そして今も、クロエに対してだけ敵意を向けている。
(やっぱり、いい気はしないものよね……)
足を止めた水龍は、駆け寄ってきた伯爵を一瞥して、明らかに不機嫌そうな声で答える。
「……何だ」
その低い声にクロエがびくりとしていると、絡めていた腕を解かれる。
(話を聞かないほうが良いのかしら?)
と、思っていたクロエだったが、次の瞬間、その顔は羞恥に染まっていた。
「ルキシス様……っ?」
クロエの腰に、見せつけるかのように水龍が腕を回したからだ。
小さく悲鳴のような声を上げたクロエの心臓が、これ以上ないほど早鐘を打つ。
「何の用だ」
「……陛下もご存知かとは思いますが、私奴の領地で水不足が深刻化しているのです。どうか、陛下の偉大なる御力をお借して頂けないでしょうか」
水龍は水を司る神であり、その子孫であるルキシスにもまた、水を意のままに操れる力がある。そして雨をも降らせることができると云う。
超人的なこととは言え、媚びるような物言いに、水龍は目を細める。それに対し伯爵は多少たじろいだ様子を見せたが、水龍に尋ねられ、再び口を開くと元の調子を取り戻したようにすらすらと領地の状況を述べる。
「……状況は?」
「もともと我が領地には小さい川しか無いのですが、全ての川が以前の三分の二まで水位が下がってしまっています。こんな時のために溜池もあったのですが、無くなるのは時間の問題かと思われます。もう、手の施しようがありません。どうか、陛下の御力を……」
「わかった」
聞く必要もないとばかりにあっさりと言い放つと、伯爵は少し戸惑ったような表情を見せる。そんな伯爵を一瞥すると、水龍は付け足すように言った。
「これから庭へ向かうから丁度よい」
「ありがとうございます。今後も陛下のためにより一層力を尽くしてまいります。……それと、差し出がましいようですが、妃様の処遇にはお気をつけたほうがよろしいかと存じます」
その時、クロエの位置から水龍の表情をうかがい知ることは出来なかったが、ピリついた空気を肌で感じた。
「――用が済んだのならもう去れ」
「っは、はい。失礼いたしますっ」
どこか捉えどころのない伯爵だったが、殺気すら感じ取れるその声には身を竦ませ、脱兎の如く去っていた。
その姿には、敵とは言え同情を禁じ得なかった。
「――さあ、行こうか」
腰に腕を回されたまま、先程とは打って変わって優しい声音でそう告げられ、クロエの胸が高鳴る。
(ち、違うわ。ただ、さっきまで雰囲気が怖かったから優しく聞こえるだけよ……)
言い聞かせるように頷いていると、不思議そうな目で見られたので、クロエは誤魔化すように笑って頷いた。
「は、はい」
そして、二人で庭へと向かったわけだが、クロエはあることが気になっていた。
(水龍様は雨を降らせることが出来るというけれど、どうやるのかしら)
水龍はどのようにして雨を降らせるのか、とクロエが水龍を盗み見ていると、視線に気づいた水龍が首を傾げる。
「どうかしたか?」
気づかれてしまったことに慌てる気持ちがある中、やはり気になってしまう気持ちが強く、クロエはつい質問してしまう。
「その、どうやって雨を降らせるのですか?つい気になってしまって」
何となく恥ずかしくて、視線を合わせられず、俯いていると、何故かつまらなそうな声が頭上から聞こえる。
「……何だ、そんなことか。――まあ、見ていろ」
「?」
クロエの疑問に、水龍は僅かに口角を上げたかと思えば、すっと目を閉じる。
集中しているように見える水龍に、クロエは質問を口にしかけて、止める。
そんなクロエをよそに、水龍は腕を伸ばすと、細い指で空を手繰るように動かしてみせる。
すると、遥か上空で湧き上がるように薄黒い雲が幾つか生まれ、更に指で操るようにすると、引き寄せられるように集まり雨雲となった。
「すごい……」
初めて見るその光景に、クロエは感動したように息を呑む。
水龍の主な公務は天候を操ることなので、普段から行っていることなのだろうが、間近で見るそれは、神秘的な儀式のようだった。
「他に、何か気になることはないのか?」
遠くの地に雨を降らせているであろう雲を見つめていると、水龍にそんなことを訊かれる。
「えっ?」
「私のことについてだ」
それは、どういう意図で言っているのだろう、とクロエは混乱するが、水龍直々に訊かれているのだ。何か訊かかなければと思い、クロエは記憶を手繰り寄せる。そして、偶然浮かんだ、幼い頃の疑問をクロエは尋ねた。
「……、……あ、ルキシス様は、龍の姿になることはできるのですか」
水龍の存在を初めて知った時から気になっていたことを咄嗟に尋ねると、水龍は呆気にとられたような表情になり、そして、声を立てて笑った。
水龍、呼ばれるくらいだから龍の姿をしていると思っていたため、人と変わらぬ姿をしていると聞いたときにはびっくりしたものだ。
「そ、そんなに笑わないでください」
微かではあるが、声を立てて笑う水龍に、自分から尋ねておきながらクロエは恥ずかしくなった。
「悪い、聞きたいことがまさかそのようなことだとは思わなくてな」
ひとしきり笑ったあと、元の無表情に戻ると、クロエの質問に答える。
「私は龍の血を引いているとは言え、随分と人の血が混ざったからな。龍の姿をとることはできない」
「そうなんですね」
考えてみれば当たり前のような気もしたが、恥ずかしさを紛らわすためにクロエは納得したように頷く。
「が、こうして雨を降らせることくらいはできる。他にも、使い方によっては有用な力だが時には厄介だと感じる力もある」
事も無げに言っているが、神の御業には変わりない。
(あまり知らなかったけれど、やっぱりルキシス様は凄い御方なのよね……)
そうして一人で感心していたクロエに、ボソリと独り言が呟かれた。
「やはりクロエは可愛らしい」
「……?」
流石に、聞き間違いだろうか。
そう思ったが、クロエの手を引いて振り返りもせずに庭を進む水龍に、クロエは本心を聞き出すことができなかった。
◇◆◇
「今日は何か変わったことはなかったか」
どうしてこうなったのかよくわからないが、初めて昼食を共にした日から、食事だけは必ず二人で摂るようになっていた。
「特に変わったことはありません。ルキシス様のお仕事は、今日はどうだったのですか?」
食事、というよりも事務的な報告のような会話ばかりしているのだが。
(ルキシス様の迷惑をかけるわけにはいかないわ……)
クロエは、机に敷かれたクロスの下で手を握る。
最近は、公女派の人間による嫌がらせが頻発していた。訴えることもできないほど些細な嫌がらせを幾つも仕掛けられ、日々嫌な思いをしていた。クロエの心を擦り減らして、自ら水龍に離縁を申し出させようとしているのだろう。
(記憶を取り戻したばかりの頃に申し出たけど、結局うやむやにされているのよね……)
大した理由もなくクロエと離縁するつもりはないようだ。けれど、そうしている内に事態は大きくなりつつある。クロエが何もしようとしないからか、もっと苛烈で残酷な嫌がらせをするようになっているのだろう。
(離縁したくても出来ないこっちの気持ちにもなって欲しいわ……)
とはいえ、事態が悪化していることをクロエはさほど気にしていなかった。
そればかりか、好機と捉えるほどだ。
(これを理由にわたしが妃に相応しくないことを証明できれば、離縁できるはず……!)
「クロエ?どうかしたか?」
「い、いえ。何でもないです」
(きっともうすぐ、ルキシス様と離縁できる。そうすれば、全てが上手くいくはずよ……)
しかしクロエはこの時、事態を甘く見すぎていた。
「ルキシス様から……?」
水龍からだと言われて渡された手紙に、クロエは首を傾げる。
普段は手紙など書かない人なのにと不思議に思いながら開けると、話があるから庭で会わないか、という旨が書かれていた。
「これから会うというの……?」
思わず声に出すと、侍女は早速化粧道具の支度をしながら言った。
「今すぐ準備いたしますね」
化粧を施されながらクロエは、当たり前のように拒否権が無いことを悲しく思った。
それから少ししてすっかり着飾ったクロエは、聖女のために造られたという、昔よく訪ねていた庭に来ていた。
遠くに人影が見え、クロエは迷うことなく歩いていく。後ろ姿の相手に、平然とした態度でクロエは口を開く。
「お待たせ致しました」
相手が振り返るのを見て、クロエは少し離れた位置で足を止めた。
「――いえ、私も来たばかりでございます」
振り返った相手は、水龍ではなく、もっといえば、女性だった。
「……あなたは、リリア様の……?」
「はい、リリア様の侍女を務めております、マリアと申します。私のような者まで覚えていただけているとは、光栄に存じます」
ゆっくりと、よどみのない口調で伝える彼女は、とても只者とは思えない。
クロエは考えながら慎重に言葉を紡ぐ。
「わたしは、水龍様に呼ばれてきたのだけれど?」
「ああ、申し訳ありません。今日私たちがここで会っていることは、陛下もご存じです。私との話が終われば陛下もいらっしゃるかと」
そのその堂々とした態度では、たとえ嘘を言われたとしても、疑うことは難しいだろう。
「そうなの……?」
「はい」
にこやかな笑みを浮かべたマリアとは反対に、顔を俯けたクロエは表情を歪める。
だが、その様子に気づかなかったマリアは、微塵も不穏さを感じさせずに言った。
「――まあ、そんな時間は来ないでしょうけど」
顔を上げれば、ナイフを持ったマリアが敢えてとっていた距離を一気に詰め、迫っている様子が見えた。
「助けてっ!!」
危機感の迫った声で、クロエは叫んだ。しかし、助けは来ない。
……はずだった。
(残念ね。わたしはもう、無知な聖女じゃないの)
後退ったクロエの後ろから、先程まではいなかったはずの人影が現れる。
「きゃあっ」
悲鳴を上げたのは、マリアの方だった。
「ご苦労さま。助かったわ」
クロエはナイフを手ではたき落とし、腕を拘束している人物に笑みを浮かべた。
「頭を下げる必要はありません。――私は、お妃様の命とあらば従うまでですので」
――そう言ったのは、クロエの侍女だった。
「それで、どういうことだ?」
話を聞いたらしい水龍に呼び出され、クロエは水龍と向き合っていた。
「公女派の者が君の命を奪おうとした。そうだな?」
ここで頷いて良いのだろうか。そう思い言葉を探すが、見つからない。
すると水龍は我慢できないというように席を立った。
「潰してくる」
躊躇いなく言い切る水龍に、クロエは慌て、すぐにでも部屋を出ていこうとした水龍の纏っている服の裾をきゅっと握る。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。どうしてそうなるんですか?そこまでしなくても……それに、侍女に助けてもらいましたし……」
「何かあってからでは、遅いだろう」
悲痛な面持ちの水龍に、クロエは何も言えなくなる。
実際、あの時のように殺されてしまったら、と不安な気持ちが無かったわけではないのだ。
「どうして水龍様は、そこまで私の心配をなさるのですか?」
つい突き放すような言い方をしてしまうと、水龍は絶望したような表情をした。
「……わたしのことを思ってくださるのなら、今すぐわたしと離縁してください」
「……ッ」
はじめから、このつもりだった。
何故だかわからないが、今の水龍はクロエのことを大切にしていた。
以前では考えられないほど時間を共にし、無表情の中でも感情を見いだせるくらいにはなったのだ。
(少なくとも心配くらいはしてくれているはず。それなら、わたしの提案を呑んで……)
「どうして君はわかってくれないっ……私はこんなにも、君を愛しているのに……っ」
振り絞るような、掠れて震えた声にクロエは目を瞠った。
「えっ……?それって、どういう……」
クロエが尋ねると、水龍は堪えきれなくなったようにクロエを強く抱き締めた。
「また君を失うようなことは、したくないんだ……っ」
(えっ……?また?)
「まさか……――水龍様も記憶があるのですか?」
◇◆◇
水龍には、狡賢く、厄介な力があった。
アクアリオル王国の歴史には、初代国王と聖女は仲睦まじい夫婦だった、という話が有名だが、実際の話を紐解けば、言葉通りではなかったことがよくわかる。
聖女はもともと許嫁が居て、初代国王に対して信頼以上の関係があったわけではなかった。
それでも、聖女と呼ばれるだけに唯一神に干渉できる力を持っていて、神である水龍すら惹きつける魅力があった。初代国王が聖女を愛したのは必然か偶然かわからないが、それでも聖女を愛していた。
だが、今アクアリオルと呼ばれる土地を救った後、聖女は確かに許嫁と結婚した。
しかし、初代国王は聖女のことを諦めようとしなかった。無理やり聖女を娶り、監禁するようにして暮らさせた。人の目に晒すことを避け、聖女に好意を持つものや、悪意を持つもの、全てを遠ざけた。初代国王は、自分に依存させたかったのだ。
だが、そうなる前に聖女は死んだ。
他ならぬ初代国王に殺されたとか、心を病んで自殺したとも、運悪く病気に罹ったとも云われていて、真実は今となってはわからない。
ただ、問題なのは水龍がとある力を使ったことだった。人の血が混ざっていない初代国王は、今の水龍よりも遥かに強い力を持っていた。
――それこそ、時間を巻き戻せるくらいに。
初代国王は、迷わず時間を戻した。
誤算だったのは、聖女も記憶を持っていたこと。だから水龍は、聖女に逃げられると思い、許嫁と結婚する前に契りを交わした。
しかし、聖女は逃げなかった。常に水龍に従い、愛を誓った。
聖女は、知っていたのだ。自分が許嫁との結婚に拘ったから、不幸が始まったということを。
そうして、現在にも伝わる仲睦まじい夫婦が出来上がった。
現在も、その力は残っている。
だが、今もなお初代初代国王の贖罪は代を渡って続いている。水龍の罪とすら云われるほどに。
そしてそれは、聖女が側に居る限り続くもの。
そう、わかっていた。それでも、命を救うためならば躊躇うことなく使うことを選んでしまうくらいには――
「クロエ、君が私の最愛なんだ」
「……っ」
真剣な声色で告白された過去と想いに、クロエは涙で瞳を潤ませた。
そんなクロエの目元を優しく拭い、水龍は尋ねる。
「君は……君の気持ちはどうなんだ?君が私と離縁したいと思っているのなら、君と離縁しよう。ただ、君が周囲のことを気にしてそう言っているようなら、私は君と添い遂げたい」
水龍の言葉に耳を傾けて、わかった。
水龍は初代聖女と同じ選択を迫っているのだ。
クロエが離縁を選べば、誰も涙を流さない結末を迎えられる。クロエが妃であることを選べば、それは水龍に消せない罪を負わせ、また自身も破滅の道をたどるかもしれない。
「私たちは、良くも悪くも初代国王と聖女に似ている。私だけならまだ良い。だが、初代国王と聖女は、そうではなかった。今後も、君につらい思いをさせてしまうかもしれない」
いつも通りの無表情だが、言葉からは深い悲しみと寂しさが感じ取れて、クロエは思わずずっと隠してきた本当の気持ちを伝えていた。
「っルキシス様っ……!それでもわたしはっ……ルキシス様とずっと一緒にいたいですっ……!」
わかっていた。
最初から離縁を切り出しながら、その実水龍を誰よりも忘れられないのは他ならない自分だったということを。
それでも、隠し通せると思っていた。
「……っ!」
水龍に抱き寄せられ、クロエは息を呑む。
「永遠に君だけを守ると約束する。だからこれからも、側にいてくれるか?」
強く抱き締められていたので、そう言う水龍の表情を見ることは出来なかったが、クロエは迷わず頷いた。
「はいっ……、……ルキシス様を、愛してます」
クロエの視線の先、――部屋の窓から見える空には、大きな虹が寄り添うように二つ架かっていた。
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余談ですが、ルキシスの名の由来は水仙の学名であるNarcissusだったりします。
水仙といえば白色の印象が強いですが、ルキシスという名は中でも黄色の水仙の花言葉やその由来を意識しています。