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理想

「松橋。また、お前だろ」

 私の先輩、松橋真貴は、今日も上司で部長の木藤里沙に怒られている。里沙は、真貴を嫌っていて、毎日のように怒っている。しかし、私、連沼明日花は真貴のミスではないことを知っている。私も、初めは真貴が、仕事があまりできない人だと思っていた。ところが、入社2ヵ月経った頃に任せられた仕事を、同じく、先輩の久沼明奈に教わりながらやったところ、明らかに、そのことで、真貴が怒られていた。思わず立ち上がり、

「すみません。私が間違えました」

 と言うと、明奈に咎められ、真貴は、里沙にどこかへ連れて行かれた。おそらく、どこか別室で怒られていたと思われた。2人が、戻ってきたのは、1時間後だった。明日花は、真貴に、

「すみませんでした」

 と言ったが、笑って、

「何のこと? 」

 と返された。そのことで、もやもやした気持ちになっていた。夕方、真貴はいつものように全員の湯呑みを回収する。明日花は、そのタイミングで、炊事場に行く。腕まくりをして、それを洗おうとすると、

「何やっているの? 2人で洗うほどの量じゃないから、帰る準備したら」

「それなら、ご飯に付き合ってもらえませんか? 奢りますので」

「どうして、私が明日花に奢ってもらわないといけないの? それに、もう少しやっておかないといけないことがある」

「待ちます。もし、私でもよければ手伝います」

「手伝ってもらうほどじゃないから、店でも探して。私、居酒屋がいいな」

「松橋さんは、酒飲みなんですか? 意外でした」

「そんなに飲まないけど、ただ食べるよりは、そっちの方がいい」


 同じ、営業総務部の人は、もう全員帰っていた。言われた通り、明日花は、店を探していた。まさか、飲みに行くことになるとは、思っていなかったので財布を確認しながら、なるべく安いところを見つける。決めて、まもなく、

「今日は、ここまでにしとくね。あんまり、待たせてもいけないし。店は、決まった? 」

「はい。気にいるか、わかりませんが」

「どこでもいいよ。飲みものさえあれば」

 2人は、会社を出て歩く。駅の方向の途中にあるその店は、混雑していた。

「ここは、人気あるから空いているかな。まあ、とりあえず、覗いてみよう」

 入り口の自動ドアの前に立つと、賑やかな声が聞こえた。空いた席が、見つからないため、諦めようとすると、中から、

「真貴ちゃん」

 と大きな声がした。真貴は、その方を見て、

「呉山さんだ。明日花、どうする? せっかくだから、一緒に飲もう」

 聞いておきながら、明日花の返事を聞かずに、真貴は、呉山の隣に座って、手招きする。明日花は、戸惑いながらも、真貴の前に座った。隣にいる人は、知らない。呉山は、注文のタブレットを真貴に渡して、

「何にする? 」

 と聞いたが、真貴は、すぐに、

「私は、生」

 と言って、明日花に差し出す。明日花は、あまり待たせてもいけないと思い生ビールを2にして注文した。1分も待たないうちに、生ビールとおしぼりが、運ばれてきた。

「乾杯」

 呉山が、そう言って4人でジョッキをぶつけた。全員が、1口飲んだところで呉山が、

「真貴ちゃん、彼女は? 」

「うちの部の期待の新人、連沼明日花ちゃん」

「そうなんだ。俺は、営業部の呉山大星」

「同じく営業部の西原晃一郎。よろしく」

「営業総務部だと、木藤部長に怒られてない? 」

「私とあんまり親しくしてないから、大丈夫だよ」

「できれば、親しくなって仕事も真貴ちゃんから教わって欲しいけど」

「たしかに。営業総務部の人って真貴ちゃん以外は全く使えない」

「そんなことないですよ。信用してあげてください。私も、他の方も、木藤部長に仕事を教わったんですから」

「真貴ちゃんは、他の人と努力が、違うんだよ。真貴ちゃんは、しょっちゅう、営業部に来ていろいろ質問したり自分でも調べたりしたでしょ? 」

「そうだよ。他の人に見積書を頼んでも、それしか作ってくれない。真貴ちゃんなら、それ以上の資料も作ってくれる。すごく、信頼できる」

「そうなんですね。私も真似します」

「やめた方が良いよ。木藤部長に怒られる覚悟が、あるなら止めないけど」

「どうして、木藤部長は、松橋さんに対して怒ってばかりなんですか? 」

「もともと、木藤部長は、仕事ができる人だった。それで、部長まで昇り詰めた。しかし、自分より仕事ができてかわいい。強力なライバルが、現れたってところじゃないかな」

「それって、松橋さんのことですよね? 」

「違うでしょ。変な形容詞入っていたし」

「俺は、真貴ちゃん、かわいいって思っているよ。新人研修で、真貴ちゃんの教育係で営業に行けるってなった時ラッキーって思った。さらに、けっこう売ってくれるし」

「普通、新人の子には、何もさせないでしょ? 真貴ちゃんに、させたんですか」

「どうしても、やってみたいっていうから、仕方なく。でも、よく勉強してると思った」

「呉山さんの指導が、良かっただけです」

「どんな指導されたんですか? 私、営業の研修、嫌でした。勉強不足なのは、否定しませんが何も喋れませんでした。売るなんて、尊敬します」

「誰が、教育係だった? 」

「中川さんです」

「中川か。優秀だけど、教えるのは下手かも」

「教育係が、誰だろうが、同じじゃないですか? 1週間では、何も出来なくて当たり前。真貴ちゃんが、特別なんです」

「私、特別なんかじゃないです。やっぱり、私も営業は嫌だし苦手です。だから、営業部の方は尊敬しますし感謝しています」

「俺は、真貴ちゃんには、尊敬してるし感謝しているよ」

「ひどいな。呉山さんだけじゃなく、営業部全員が真貴ちゃんには、尊敬しているし感謝してますよ。毎朝、一番早く出勤して、掃除やゴミ出しまでしてくれる。普段、なかなか言えていないので、言っておく。真貴ちゃん、いつもありがとう」

「やめてください。大したことしてないですから。それに、私も普段言えていないので。営業部の方が、頑張っていただいているおかげで、給料をもらっています。ありがとうございます」

「それは、運良く真貴ちゃんが、作ってくれた資料に当たれば、そのおかげ。ありがとう」

「もし、それが、役に立ったとしたら、私がウザいぐらいに質問したりしても、いつも優しく、丁寧に答えていただいている、営業部の方のおかげです。ありがとうございます」

「えっと……。とにかく、真貴ちゃんには、いろいろ感謝している。ありがとう」

「西原、何だよ、それは」

「酔っているからです。そうじゃなかったら、真貴ちゃんへの感謝は次々と出てきますよ」

「私、松橋さんについて行きます。営業部の方にも、信頼されるように頑張ります。よろしくお願いします」

 ふと、時計を見ると22時を過ぎていた。大星が、支払いをしてそれぞれ家に帰った。


 翌朝、明日花はいつものように目覚まし時計に、起こされた。今日から、早起きして真貴の掃除を手伝う。はずだったのに、設定を変更してなかったようで昨日までと、同じ時間だった。急いで、支度をして家を出る。駅のコンビニで、パンとコーヒーを買って、電車に乗り込んだ。普段より、3本は、早い列車だ。会社に着くと、すでに真貴は、掃除を、ほとんど終わらせていた。

「おはよう御座います」

「おはよう。昨夜は、ありがとう。どうしたの? 今日は、早いね」

「私の中では、遅刻です。松橋さんの掃除を、手伝うと決めたのに」

「気持ちだけで、いいよ。それより、手に持っているの、食べてしまったら」

 明日花は、自分の席に座って、パンとコーヒーを机の上に置いた。食べながら、

「明日は、絶対に、手伝います」

 真貴は、黙ったまま、掃除機を持って、出ていった。戻ってくると、明日花の机の上に化粧道具を置いて、

「私が、予備で、持ち歩いているので、悪いけど、化粧ぐらいしないと。それと、他の人がいる時には必要以上に話しかけないでね。部の雰囲気が、悪くなるから」

 明日花は、化粧道具を持って、トイレに行った。化粧をするためでもあるが、とりあえず流れる涙を拭きたかった。入社して、初めてできた尊敬できる人。その、真貴と話をすると雰囲気が悪くなる部。どう考えても、おかしい。私だって、真貴のように営業部の人から、信用されるようになりたい。そのためにも、真貴にいろいろ、教わりたい。その時、トイレのドアが開いた。真貴だ。慌てて、再び涙を拭いて、化粧をしようとする。真貴は、明日花を抱きしめて、

「ごめんね。言い方、悪かった。でも、明日花にとってその方が絶対いいから。そろそろ、誰かくる頃だから急いで」

 明日花は、慌てて化粧をしてトイレを出た。


 その日の夕方、真貴からメモが渡された。『みんなが、帰るまで待ってて』明日花は、スマホのカレンダーを確認した。だいたい、いつもそうだが予定はない。しかし、明日花は不安だった。いつも、早く帰っているのでみんなが、いつ頃まで、残っているのかわからない。あんまり、遅いのは困るな。お腹も、すくだろうな。なんて思いながら、定時を過ぎると、その心配はあっさり消えた。20分過ぎた頃、真貴が、洗い物を終えて、戻った時には誰もいない。

「お待たせ。今日、時間は大丈夫? 」

「ありがとうございました。今日は、何があるんですか? 」

「営業部の人に、勉強会をお願いした。というか、昨夜の明日花の意気込みを聞いて、呉山さんと西原さんが是非やらせてほしいと、言ってくれたの。そんなに、長時間にはしないと、約束してもらっている。嫌なら、断るよ」

 タイミングよく、ドアをノックする音が、聞こえた。

「はい」

 真貴が、答えるとドアを開けて呉山と西原が入ってきた。

「ちょっと、早すぎます。まだ、明日花の返事を聞いてないです」

「明日花ちゃん、いいよね? 今日の勉強会、先生は真貴ちゃんだよ」

「急に、そんなこと言われても、何も準備していません」

「そんなの、必要ない。真貴ちゃん、俺たちが見積書を頼んだ時に、作ってくれる書類の保存場所を明日花ちゃんに、教えてあげてよ。まさか、秘密だった? 」

「いいえ。隠すつもりは、ないです。むしろ、全員に共有したくて、部長に提案したら『お前が、作ったものなんかじゃ、何の役にも立たない』って怒られました」

「営業の人間の気持ち、全然理解してもらってないんだ。明日花ちゃん、隠し場所はわかった? 」

「はい」

「だから、隠したりしませんよ」

「どれでもいいから、印刷してみて」

 よく確認せずに印刷ボタンを、クリックすると、すごい枚数がプリンターに飛んだ。それを、西原がとって明日花に渡す。

「これが、真貴ちゃんの極秘文書。全部、自分で調べたり聞いたりして作ったらしい。その内容は、時間がある時に、目を通して」

「次は、新人用とか、初心者向けみたいなフォルダーないかな? 」

「あっ、そういうの、見かけました」

「あるよ。一つ戻って」

「これですか? 」

「そう」

「それも、印刷して」

 また、プリンターから、たくさん印刷された。西原がとって、明日花に渡すと、

「極秘文書、パート2」

「それは、鞄に入れて、食事に行こう。もう、パソコン落としていいよ」

 そう言って、呉山は、立ち上がった。西原も、立ってプリンターの電源を切る。

「明日花、今日、大丈夫? 」

「はい。行きます」

 4人で、事務所を出た。


 呉山は、昨夜の居酒屋の近くにある、焼肉屋に案内した。

「今日は、まだ勉強会の途中だからノンアルにしよう」

「えっ、私も、ノンアルじゃないとダメですか? 」

「先生が、飲んでいいわけないじゃないか」

「私の先生役は、もう終わってないですか? 」

「まだ、さっきの資料の解説が、残っている」

 真貴も、あきらめてノンアルにした。肉も、適当に注文した。明日花は、早速さっきの文書を見る。これは、ちょっと見ただけで、思わずこの言葉を発した。

「すごい」

「でしょ? 真貴ちゃんが、入社してから営業部になった人は恵まれてるよ。これがあれば、不安もだいぶ解消されるよ」

「ですね。研修の時、この存在を知っていればもう少しなんとかなったかもしれません。少なくとも、嫌な気分だけには、ならなかった気がします」

「何か、質問は? 」

「まだ、全部みてません」

「見たところまでで。あとは、後日にしよう」

「真貴ちゃん、飲みたいんだ」

「もちろんですよ。焼肉には、ビールです」

「また、ちょくちょく、勉強会してもらえますか? それなら、次回までに全部みておきます」

「やる。ちょくちょくというのは、引っかかるけど」

「じゃあ、皆さん飲みましょう」

 生ビールを、4つ頼んで肉を焼き始めた。呉山は、

「営業部のみんなが、真貴ちゃんの資料を待っているんだ。明日花ちゃんも、宝の隠し場所がわかったから期待しているよ。でも、木藤部長と、営業部の猪田部長には絶対に、見つからないように」

「木藤部長にというのは、なんとなく、わかります。でも、猪田部長にもというのは、どうしてですか? 」

「あの2人は、不倫しているんだ。木藤部長は、独身だけど。だから、木藤部長が嫌っている、真貴ちゃんは、猪田部長も、嫌っている」

「私、嫌われ者なんだ」

 真貴は、笑顔で言うが、明日花には気の毒に思えた。


 翌朝は、真貴とほとんど同じ時刻に会社に着いた。と思うが、真貴の方が先に来ていたので確証はない。しかし始業時間の2時間前だし、真貴も掃除機を準備しているところだったので、明日花の推理は当たっていると思う。

「おはよう御座います」

「明日花。びっくりした。おはよう。昨夜は、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました。松橋さん、私にも、掃除を手伝わせてください」

「あのね。明日花は、木藤部長から大事な仕事を、頼まれるでしょ? その仕事を全うしないと。私は、そんな仕事を、任されることなんて、ほとんどないから、せめてこれくらいはと思って、やってるの」

 真貴は、営業部の掃除を始めた。明日花は、布巾を持って、

「じゃあ、私は机の上を拭きますね」

 そう言って、やり始めると真貴が、

「わかった。じゃあ、交代しよう。私が、机を拭く」

 真貴は、明日花に、掃除機を渡して、布巾を取った。掃除機をかけながら、真貴の様子を見ると付箋がついた書類を注意深くみて、1箇所にまとめて置いた。

「なるほど。黄色の付箋は、営業部の人から松橋さんへの、SOSなんですね? 」

「SOSってほどじゃないけど、追加の資料が欲しいってこと」

「ほとんどの人が、黄色い付箋がついた書類が、置いてありますよ。図々しい」

「何が、図々しいの? 営業の方も、それほど苦労しているってことよ。それを、一番理解してサポートするのが私たちの部だと思うのに、部屋もわけて、メールまで遮断してしまうなんて。酷すぎるよね」

 そう言って、真貴は、営業部から出ていった。そして、すぐ戻ってきた真貴の手には、沢山のUSBがあった。ほかの書類の下に、隠すように、それを配りながら、

「みんな、同じ会社にいるのにね。なんで、くだらないことで、歪みあったり憎み合ったりしないといけないんだろうね? 私、そんなの大嫌い」

 と言った。

「賛同できる部分は、あります。でも、部長とかに嫌われてまで朝早くから夜遅くまでやって真貴さんにいいことなんて、一つもないじゃないですか? それなのに、どうして」

「私は、部長1人だけの評価なんてどうでもいい。全ての人や部署が、協力してうちの会社の商品の良さを少しでも多くの人に理解してもらい、買ってもらって喜んで欲しい。それを実現してくれるのは、営業部のみんな。だから、少しでも力になりたい」

「でも、噂によると松橋さんって、ほとんど昇給していないから、私と給料同じぐらいだそうじゃないですか」

 言ってしまって、思わず手で口を覆う。しかし、真貴は、

「多分、そうだよ。会社なのか部長なのかわからないけど、私の仕事に対する評価だから、仕方ない。明日花たち新入社員には、期待しているだろうし、私は、自分がもらっている給料に不満なんてない」

「私、松橋さんに追いつける気がしません」


 明日花は、真貴を手伝って営業部のための資料を作るようになった。しかし、なかなか上手にできないので、最終的には、真貴に修正をお願いしていた。それなのに、会社が全社員に与える1週間の休暇を真貴が取っている間に事件が起きた。

 ある公共団体から、新しい施設に使うと、うちの会社にも見積もりの依頼があった。明奈は、部長から頼まれた見積書の作成を明日花に頼んだ。明奈が書いた型式、数量、単価を確認しながら入力し、印刷して、もう一度確認する。

「できました」

 と明奈に見せると、ほとんど目を通さず部長に渡した。不安に思いながらも明日花は、真貴が作ったフォルダから資料を探す。「大口」というタイトルをのぞいてみると、以前にも似たような契約があったようで、数量は今回より少ないものの、型式はほぼ同じだった。会社もこの契約は、どうしても取りたいと思っているのか、単価はかなり抑えられていた。急いで、それを今回のものに作り直し、印刷する。それを待っていたかのように、

「蓮沼さん、これを営業部に持って行って」

 と部長にお願いされた。さっきの見積書だ。

「はい」

 そう言って、営業総務部を出て、見積書と資料をもう一度、廊下で見直す。

「大丈夫そうだな」

 そう呟いて営業部のドアを開けて、それを渡した。猿田は、何度も頷き、

「さすが、木藤部長だ。こんな資料も付けてくれるなんて。君も、優秀な部長の下にいるんだから、頑張れよ」

「はい。頑張ります」

 と言いながらも「作ったのは私で、優秀な上司は、松橋さんです」という言葉を口にしなかった。


 真貴の休暇が終わり、朝の掃除を2人でしながら、先日の大口契約の見積書と資料を作って、うまくいったことを話していた。真貴は、

「よかった」

 と自分のことのように喜んでいた。しかし、始業時間になり事態は急変した。部長は、

「この前の契約のことで、緊急会議みたいだから、行ってくる」

 そう言って、出ていった。明日花は、不安になって、明奈に渡されたメモを取り出して、再び見積書と資料を確認して、間違いないと確信した。ところが、資料を見直した真貴は、

「明日花。これ、間違いじゃない? 公共団体が、こんな最上位グレードを買うわけないし、大量とはいえこんな単価で出したら、大赤字だよ」

「でも、私はこのメモに書かれたとおりに入力しました」

 明奈から渡されたメモを、真貴に見せる。

「たしかに、明日花の入力は、間違いない。このメモは、誰に渡されたの? 」

「久沼さんです」

 明奈は、自分の名前が呼ばれたのに反応して、こっちを見ると、

「あんた、まだそんなメモを持ってたの? 」

 と言って、そのメモを奪い取ってシュレッダーにかけてしまった。2人は、呆然としてそれを見ていた。そのタイミングで、部長が戻ってきて、明奈を連れて再びどこかに行った。しかし、明奈は、すぐに戻ってきて、

「次は、明日花の番だって。小会議室」


 明日花が、緊張して小会議室に入ると、中には木藤部長だけがいた。促された向かいの椅子に座ると、この前の見積書を見せられ、

「これは、連沼さんが作ったの? 」

「はい。久沼さんから渡されたメモのとおりに入力しました」

「余計なことは、言わなくていいの。じゃあ、こんなの作ったのは? 」

 今度は、見積書につけた、資料を見せられた。

「それも、私が作りました」

「こんなの、あなたに作れるの? 私、この様式に見覚えがあるの」

「様式自体は、参考にしたものをそのまま使いましたが、私が作ったもので、間違いありません」

「誰が作ったのを参考にしたの? 」

「それは、私が作りました」

「私、その様式を初めて見たのは、あなたが入社する前よ。それを、あなたが作れるわけないじゃない。正直に答えて。誰のを参考にしたの? 」

「私が、誰のを参考にしたかが、そんなに重要ですか? 」

「私は、あなたたちの上司よ。みんなを守らないといけないの。特に、あなたのように頑張っている新入社員は」

「私も、私が参考にした方も、守ってもらえますか? 」

「もちろんよ」

 明日花は、その言葉を信じてしまった。そして、

「大丈夫だから、誰のを参考にしたか教えて」

「松橋さんです」

「そうだったの」

 部長は、一瞬ニヤリとした。明日花は、それを見て、騙されたと気づいた。その後、部長に呼び出された真貴は明日花が、退社するまでに戻ってこなかった。


 翌日、明日花が出勤しても、真貴はいなかった。そして、机を見て驚いた。何一つ、真貴の物がない。机の中、ロッカーも開けても、何もない。その時点で泣きそうになった。

 始業時間ギリギリになって、明奈が出勤すると、それを待っていたかのように部長が、

「松橋さんは、今日から謹慎になりました。おそらく、そのまま退職でしょう」

「部長。昨日、みんなを守るって、言われましたよね。どうして、直接関わっていない松橋さんが、謹慎なんですか? 」

 思わず、泣きながら叫んでいた。

「勘違いしないで。昨日、連沼さんに聞いたこととは、無関係よ。松橋さんは、別件で規則違反のために、こうなったの」

「別件って、なんですか? 」

「それは、私も知らないわよ。たとえ何したか知っていても、本人の名誉のため言うべきじゃないでしょう」

「でも、タイミングがおかしいです」

「タイミングって、何よ。もうこの話は、終わり。仕事始めて」

「明日花。真貴のこと気にしすぎて、ミスするんじゃないよ」

 隣から明奈が言った。明日花は、堪らず、廊下に出た。真相を聞きたくて、何度も真貴に電話しようとしたが、できなかった。ソファに座って、スマホを眺めていると、

「明日花ちゃん」

 声がする方を見ると、西原だった。

「どうしたの? 」

 明日花は、営業総務部での出来事を簡単に説明した。

「そうか。ちょっと今から出かけてくるので、今日の夕方、都合が良いなら食事に行こう」

 明日花が、その提案に乗ると店の名前を告げて、その場を去った。


 昼、指定された店に行くと、西原だけでなく呉山もいた。席について、注文するなり、呉山からの質問責めにあった。しかし、明日花が知っていることなど、ほとんどない。

「連絡は、したの? 」

「何回か、電話しましたけど、すぐに切られてしまいました。で、LINEで『ごめんなさい。明日花は、営業部の方の力になる人。私のことは忘れて、頑張ってください』って、メッセージがきました」

「そうか。もう、真貴ちゃんは、処分とか関係なく、辞めるつもりだな」

「そうなんですかね。嫌です。寂しいです」

「よし。それなら、アパートに行ってみよう」

「いつですか? 」

「今からだよ」

 まだ、ほとんど口にしていなかったが、呉山は会計を済ませた。店を出て、真貴のアパートへ向かう。3人ともほとんど無言だった。

 真貴の部屋は、暗かったが、念のためチャイムを押す。案の定、反応はない。仕方なく近くの居酒屋に入る。

「松橋さん、どこに行ったんだろう」

「真貴ちゃん、平日の夜は、付き合いいいのに、休みの日は、何に誘っても断られるし、だからって、恋人はいないみたいだったから、手がかりがないや」

「もしかしたら、居場所を知っている人が、いるかもしれない」

「誰ですか? 」

「真貴ちゃんの師匠だ」

 明日花と西原の声が、揃った。

「師匠」

「そう。真貴ちゃんが、師匠と呼んでいた、うちの会社の上得意の会社の社長さんだ」

 そう聞いて、明日花にも心当たりがあった。真貴が作った『大口』のフォルダで、何十個も並んだ会社名。おそらく、日本人で、その会社名を知らない人は、ほとんどいないだろう。明日花は、口にしてみた。

「よく知っていたね、明日花ちゃん。その通り」

「松橋さんが、たくさん見積書や資料を作って、それが残っていたので、そうかなぁと」

「俺は、何回もあの社長に契約を取りに行ったけど、見積書の金額なんて、関係なく買ってくれる。ただ、真貴ちゃんが、作った資料を必ずコピーしてじっくりと眺められる」

「俺も行ったことあります。その時も見積書より真貴ちゃんの資料にしか、興味ないような感じでした」

「なんで、あんな大企業の社長さんが、松橋さんの師匠なんですか? 」

「それは、知らない。でも、おそらくあの社長なら、真貴ちゃんの居場所を知っていると思う。明日、電話して、アポ取ってみるから、行ってみよう」


 その日、3人は、休暇をとった。大きなビルの前。今から、このビルにいる社長に会うと思うと緊張する。中に入ると、受付の方に社長室へ行くよう言われた。

 大きなソファに座って、待っていると、まもなく社長が姿を見せて、名刺交換をした。「鈴井徹弥」。明日花も聞いたことがある名前だった。40代半ばぐらいだろうか。年齢相応な渋みがあるが、眼光は鋭く怖そう。座るよう促されて、座るとコーヒーが運ばれた。鈴井は、不機嫌そうに、

「どうして、やってくるのが、君たちなんだ? 私の唯一の弟子の真貴をクビにして、それでも社長は、謝罪にも来ない。うちの会社と真貴が、君たちの会社に、どれだけ貢献したか、わかっていないはずなかろうに。まあ、真貴のような優秀な人材を、うちにもらえるチャンスではあるが」

「たいへん失礼しました。社長は、後日伺います。私たちは、松橋の居場所をご存知ないかと……」

「社長は、来て頂かなくて、結構。もう、おたくの会社から買うことは、ないので。真貴の居場所? 今頃、実家近辺の災害ボランティアをやっているよ。だいたい真貴の休日は、ボランティアか私の追っかけだよ。私が、真貴と最初に出会ったのもボランティアだった」

「そうなんですか。社長さんもボランティアされるんですか」

 なんだお前は……という顔で、明日花を一瞥して、

「私は、そんなことしない。6年前の夏、うちの会社の工場が、豪雨で浸水したんだ。工場で働く半分くらいの従業員も多かれ少なかれ被害を受けた。困っていると、ボランティアが来てくれた。そこで、一番頑張ってくれたのが、当時、大学4年生だった真貴だった。そのお礼に食事に誘った。それからの付き合いだ」

「それだけの関係で、未だに交流が続いているんですか? 」

「その時、初めて知ったのが、真貴は社会人になるための勉強に私の本を読んでいたんだ。そして、うちの会社に憧れて、採用試験を受けたが、不合格になった」

「松橋さん、頭良さそうなのに」

「実際、そうだった。かなり上位の成績だったが、当時、出身校で採用を決めていた。私は、反省して、それ以降は、自分も面接に立ち会い、人柄を重視するようにした」

 鈴井は、コーヒーを一口飲んで、続けた。

「真貴には、当然そんなことは言えない。しかし、真貴は『私に何が足りないか、知りたいので、社長さんの下で勉強させてください』って言って、うちの会社に何回も来て仕事を学んだり、私の講演に足を運んだりするようになった。そう、見積書と一緒に君たちが、持ってきていた資料。あれは、うちの会社が作っているのを参考にしている。最近では、真貴の方が、うちの会社のを超えていた」

「松橋さん、この会社で、働くんですか? 」

「まだ、決まってない。もちろん、この件を知った時も、お願いした。しかし、地元の災害が心配だから返事は待ってほしいと言われている。それと、クビになった人を雇ったりしたら、私に迷惑をかけるとも言っていた。本当におたくの会社は、余計なことをしてくれた。ようやく真貴が、うちの会社に、転職することを考えてくれるようになってくれたのに」

「松橋さん、クビになった原因は、どう言ってましたか? 」

「自分が、古い資料を別のフォルダとかに移さなかったから、間違ったものを作らせてしまったと言っていた。全く考えられない。そんなの真貴の責任じゃないだろう。それも、クビなんて。君たちも、あんな会社で働くの考えた方が良いんじゃない? うちからの取引が無くなれば、相当な痛手だろうし」

「それについては、考えなおしては、いただけないでしょうか? 」

「真貴がいるから、高くても買っていたんだ。いなくなれば、もっと安いところから買うよ。そろそろ、出かけなきゃいけないので、お引き取り願いたい」

 3人は、お礼を言って、帰路についた。


 明日花は、すっかり落ち込んでいた。途中で立ち寄った焼肉屋でも、ほとんど食事が喉を通らない。

「やっぱり、松橋さんがクビになったのは、私のせいだった。どうしよう」

「明日花ちゃんだけの責任じゃないでしょ。だいたい、なんで、真貴ちゃんをクビにまでしたんだろう」

「一体、どうするつもりなんだろう。大赤字を出したうえ、上得意さんに逃げられて」

「このままだと、大量解雇になるかもしれんな」

「私、会社に残っていいんでしょうか? 」

「明日花ちゃんだけの責任じゃないから。真貴ちゃんは、きっと鈴井社長がなんとかしてくれるよ」

「むしろ、あんな大きな会社に入れるなら、安泰なんじゃない」

「それはそうですが、うちの会社はどうなるんですか? 私、もはや不信感しかないですよ」

「俺もそうだ。どっかヘッドハントしてくれないかな」

「無理じゃないですか。真貴ちゃんとは重ねた努力が違います」

「明日花ちゃん、食が進んでないよ」

「私、松橋さんに会いたい。直接謝罪したいです」

 呉山は、少し考えて、

「会いに行こう。明後日の仕事が終わった後、出発。作業ができる格好で。ちょうど3連休だし」

「呉山さん、すごい行動力ですね。まあ、俺は、特に予定ないので、つき合います」

「私も、もちろん行きます」

「じゃあ、レンタカーとかの手配は、任せておけ」

「車を運転して行くんですか? 」

 明日花と西原の声が揃った。

「その方が、向こうに着くのも早いし、便利だろう」

「私、ほぼペーパードライバーなんですが、頑張ります」

「明日花ちゃんは、運転しなくていいや。俺と西原で、頑張るよ」

「俺も実は、ペーパードライバーなんです」

「嘘つけ」

「なんか、松橋さんに会えると思ったら、急にお腹空いてきました」

「明日花ちゃん、好きなの頼んじゃえ」


 当日、3人は、少し大きめのレンタカーに乗り込んだ。食事をして、1時間ぐらいは、会話を楽しんだりしていたが、8時間以上かかる道のり。静かになると睡魔に襲われた。流石に交代で、睡眠をとることにした。明日花も運転したが、呉山は何も言わなかった。

 明日花は、大学に入って慣れるまでは、しょっちゅう同郷の友人と車で実家に帰っていた。もっとも、今の道のりの半分くらいではあるが。その時に感じた高速道路を走らせる、程よい緊張感を思い出していた。

 到着したときは、まだ暗かった。スマホのアラームをセットして、3人とも眠った。疲れていたせいか、明るくなったのには、誰も気づかなかった。車をノックする音がして、ほぼ同時に目覚めた。すると、後部座席のドアが開いて、真貴が乗り込んできた。

「おはよう御座います。みなさん、ほんとうに来られたんですね。ありがとうございます。これ食べてください」

 差し出されたコンビニの袋には、おにぎりやサンドイッチ、そして飲み物が入っていた。明日花は、

「どうして、私たちが来ることを知ってたんですか? 」

「この前、師匠、鈴井社長のところへ行ったでしょ。電話があった。『近いうちに訪ねて行くだろう』って。だから、ボランティアセンターの方にも、東京から来る人がいたら、教えてもらいたいとお願いしてたら、今日だって聞いた」

「鈴井社長には、行くことなんて全く言ってないのに」

「さて、私は、ボランティア活動してきます。ここに帰るのは夕方なので、3人は観光でもしてきてください」

「そんなわけにはいかないよ。俺たちもボランティア活動するよ」

「ありがとうございます。でも、お疲れですよね? 」

「大丈夫だよ」

「じゃあ、私と一緒の場所にしてもらいますね。4人分頑張ります」


 4人で、ボランティアセンターに行って手続きをする。と言っても、ほとんど真貴がした。真貴が、レンタカーを運転して、被災者宅へ移動した。そこは、土砂が家中に堆積していた。真貴は、慣れた手つきで、それをスコップで掬い一輪車に入れる。いっぱいになると、それを運び出す。

 3人は、同じようにやろうとするが、真貴のようにはできない。真貴は、ほかの人からも頼りにされていて、いろいろ聞かれたり相談されたりした。時には、自らやってみたり。ほんとうに4人分、それ以上に頑張っている。鈴井社長に認められたのも頷ける。

 昼食は、真貴が子供の頃から行っていたという、定食屋に行った。真貴は、ここでは今回の会社をクビになった関連の話は、しないでほしいと釘を刺した。しかし、この店の人は、クビになったのは、知っているとのことだった。

「みなさん、本当にお疲れだと思いますので、午後からは、休んでください」

「大丈夫。まだまだ頑張るぞ」

「呉山さん、腰痛いとか言って、ほとんど戦力になってないじゃないですか」

「お前だって、他人のこと言えないだろう」

「やめてください。いいんですよ。これは、仕事じゃなく、ボランティアなんですから。みんなが、できることをやればいいだけですから」

「でも、慣れているとは言え、松橋さん凄すぎます」

「私は、みんながいるから頑張れてるから、誰がどれだけやったとか、関係ないの。全て、みんなの成果だよ」

「やっぱり、松橋さん凄いです」

「だから、そんなことない」

「松橋さんの仕事に対する考え方は、ボランティアにルーツがあったんだって、よくわかりました」


 午後の活動も4人ともやった。と言っても、午前中と変わらずほとんど真貴だけが、頑張っていた。夕方になって、今日の作業を終えるとボランティアセンターに戻った。真貴は、スタッフさんと話したり、何かを記入していた。それが終わると、レンタカーの運転席に座って発車させた。

「どこに向かっているの? 」

「旅館です」

「しまった。私、宿泊費を払うほどお金持ってないかもです。キャッシュコーナーかコンビニ寄ってもらえませんか? 」

「大丈夫だよ。ボランティア用に開放しているところだから」

「それでも、無料ではないですよね? 他にも帰るまでには、いろいろお金使うと思います」

 真貴は、聞こえているはずなのに、どこにも寄らず、旅館に到着した。

「荷物を持って、降りましょう」

「ここって、温泉旅館ですよね? こんなところに泊まるお金は、確実にありません」

「フロントで、手続きしてくるから、待っていてください」

 真貴は、明日花に荷物を預けて、フロントへ行った。明日花が、不安そうに見ていると、

「真貴ちゃん、明日花ちゃんを無銭宿泊で、クビにしようとしているんだ」

「真貴ちゃんの仕返しだ」

 などと呉山と西原から、揶揄われた。やがて、真貴が部屋の鍵を2つ持ってきた。

「男と女で別れるかミックスするか、明日花に選ばせてあげる」

「松橋さんも泊まるんですか? 」

「いけない? もしかしたら明日花は、3人で寝たかったんだ」

「松橋さんと2人にします」

 真貴は、一つの鍵を呉山に渡した。

「じゃあ、1時間後に連絡がありますので、それまでに温泉に入って来てください」


 真貴は、部屋に入ってすぐに温泉に入る準備をした。明日花は、とりあえず2人きりになったところで、謝罪をしようとしていた。それを察したようで、

「何、暗い顔してるの? 早く温泉行くよ。話す時間は、たっぷりあるから」

 明日花は、とりあえず、温泉に行く準備をした。真貴は、いつでも部屋から出られる体制だった。

「松橋さん、浴衣なんですか? 」

「当たり前じゃない。温泉だし」

「恥ずかしくないですか? 」

「温泉で浴衣。何が恥ずかしいの? むしろ、温泉に入った後、他の格好の方が変じゃない」

「そうなんですね。私、温泉なんて、そんなに来たことないです」

 明日花は、真貴に連れられ、温泉に入る。

「気持ちいい」

 先に体を洗って、湯に浸かった真貴が、声を上げた。明日花は、タオルで体を隠していたため、湯に浸かる時にどうしていいかわからない。

「明日花。何やっているの? 私以外、誰もあなたの裸に興味ないから」

 そう言って、下からタオルを引っ張られた。

「きゃっ」

 慌てて湯に入る。

「明日花って、そんなだったんだ。もったいない」

「どういう意味ですか? 」

「かわいいってこと。さあ、出ようか」

 明日花は、またタオルで、ガードする。

「そんなんじゃ、体拭けないでしょ」


 浴衣に着替えて、廊下を歩く。明日花は、真貴に隠れるように胸元を固く押さえていた。

「帯をしっかり結んでおけば、大丈夫だから」

 同じくらいの歳の女性とすれ違う。

「ほら、みんな堂々と歩いているよ。胸、見えてなかったでしょ? そんなにコソコソしてると怪しい」

「さっきの人たちは、胸ないんじゃないですか? 」

「明日花も、そんなに大きくは、なかったけどね」

「松橋さん、見たんですか? 」

「仕方ないじゃない。見えたんだから」

 明日花は、不満そうに、頬を膨らませた。部屋について、真貴が鍵を開けると明日花は、先に部屋に入った。すると、ちょうど部屋の電話が鳴った。真貴が、対応して電話を切ると、羽織を取り出して、

「食事の準備が、できたんだって。それでも着れば、マシでしょ」

 明日花は、少し安心した。食事が、用意された部屋へも、普通に歩いた。そこでは、既に呉山と西原がいた。

「真貴ちゃん、凄い料理なんだけど」

「大丈夫です。みなさん、ビールでいいですか? 」

 真貴は、返事を待たずに、注文した。みんなが、不安そうな表情をしているのを見て、

「先に言いたくなかったんですが、師匠、あっ、鈴井社長が、遠いところ来てもらったんだから、しっかりもてなすようにと、お金を振り込んでくれたんです。それと、みなさんに交通費ということです」

 そう言って、封筒を呉山に差し出した。そこへ、ビールが運ばれてきた。

「さあ、飲みましょう」

 そう言って、みんなにビールを注ぐ。そして、

「今日は、ありがとうございました。そして、お疲れ様でした。乾杯」

 これまでの展開に、明日花は頭の整理が、できなかった。呉山と西原も、そうだったのか無言だ。

「そうでした。まず、みなさんにご心配をいただき、すみませんでした。今まで、ほんとうにありがとうございました」

「やめてください。松橋さんは、まだ処分が出てないんですよね? 実際そうですし、私のせいだって言ってください。松橋さんは、残らないといけません」

「新入社員のせいになんて、できない。それに、もう辞めるって言った」

「やっぱり、鈴井社長のところへ行くのか? 」

「選択肢の一つですが、あまり気が進まないです」

「どうして? うちより、ずっと大きな会社だし、社長も望んでいた」

「師匠は、あっ、鈴井社長は」

「師匠でいいよ」

「師匠は、普段は、とても優しいですが、ビジネスに関してはとても厳しいです。今まで、何度も給料を3倍払うから、来てくれと誘われましたが、それは、仕事も3倍やれってことなんです。そんなプレッシャーに、勝てる自信がないので、断ってきました」

「でも、唯一の弟子をクビにしたって、怒っておられたし、真貴ちゃんのことべた褒めだった」

「私、ビジネスで、師匠から褒められたことなんて、一度もないです。今回の件も、人間関係を上手くやってこなかったからだと、めちゃくちゃ怒られました」

「そんな。他に選択肢は、ないんですか? 」

「それは、もう一つ。私たち、じゃなかった。3人の会社の元ライバルで、私が社長をすることです。実は、あそこも師匠のグループ企業ですが、その社長が、高齢で引退を考えてらっしゃって、事業を縮小しておられました。そこで、師匠は、私が入った会社に、その部門を任せて、その会社を閉める準備に取り掛かっていたんですが、その会社ときたら、自分たちの力でライバルに勝ったと言っているし、年間何億円もの仕事をくれる師匠の会社に社長どころか部長すら、あいさつにも出向かない。そんな会社、お前が潰せ。という選択肢です」

「俺たちの会社を、真貴ちゃんが潰すってこと? 」

「ただし、条件があって、3人のうち誰か1人でも賛同して、引っ張って来れたらということです。師匠に言わせると、私だけでは、絶対に無理なんだそうです。お願いします。誰か、私についてきてください。時間は、まだありますし、断られたからって、今日の料理代や宿泊代を払ってくださいとは、言いません」

「私でもいいですか? また、松橋さんの足を引っ張ってしまうかもしれませんが、ついて行っていいですか」

「もちろん。師匠が言っていた。ハキハキした立派なお嬢さんだって。きっと、私が迷った時に、背中を押してくれるだろうって。羨ましいよ。高く評価されて」

「じゃあ、松橋社長。よろしくお願いします」

「嬉しいけど、もう少し考えて。給料とか条件も、まだ話してない。家族にも話さないといけないでしょ? それに、3月いっぱいは、仕事をやめたらダメ。それまで、準備も必要だし」

「俺も、真貴ちゃんに、ついて行くよ。うちの社長より、ずっと信頼できる」

「呉山さんが、いてくれたら、心強いです」

「鈴井社長は、俺のこと何て言ってた」

「まだまだ伸びる、優秀な営業マンだって。穏やかな口調なのに芯が通っているって。私もそう思っていました。

でも、やっぱりもう少し考えてから、結論を出してください」

「俺は、6割方、真貴ちゃんの方だけど、考えさせてほしい」

「それでいいです。こっちが落ち着いたら、東京に戻ります。そして、労働条件とかも決めて、また招集します」

 明日花には、そんなのは、どうでもよかった。真貴と仕事がしたい。真貴が、誘ってくれたんだから、ダメと言われても、絶対について行く。そう決めた。とりあえず、あと半年、真貴を失望させないように、頑張ろう。


 翌朝、目覚めると、真貴は既に、作業着姿だった。

「おはよう御座います。どこか行くんですか? 」

「私は、今日もボランティア活動に行くから、明日花たちは、観光でもしてきたら」

「私も行きます」

 そう言って、体を起こそうとするが、あちこちに痛みがあった。

「いたた」

「筋肉痛でしょ。はい、手貸して」

 真貴の手を握って、起き上がる。

「松橋さんは、大丈夫なんですか? 」

「なんともないよ」

「さすがですね。あんなに動いておられたのに」

「とりあえず、朝食に行こう」

「そうですね」

「でも、その前に、浴衣は直してね」

 浴衣は、前がほとんど開いていた。直しながら、

「また、松橋さんに裸を見られてしまいました」

「今のは、裸ではないでしょ。明日花、羽織は? 」

「もう何回も、松橋さんに裸を見られたので、どうでもよくなりました。それに、体が痛くて、取るのが大変だと思います」

 明日花は、昨夜とは違い、浴衣でも堂々と歩いた。


 朝食は、昨夜と同じ部屋だった。普段、朝食は少なめだが、美味しそうな料理を見て、食欲が湧いてきた。

「毎朝、こんな朝食だったらいいのに」

「食べよう」

 おかずを少し食べた頃、呉山と西原もきた。2人とも、ゆっくり歩いている。

「筋肉痛ですか? 私もですが、そこまでひどくないですよ」

「真貴ちゃんは、どうなの? 」

「私は、平気です」

「今日もボランティアするの? 」

「はい。私は、無職なので、これしかやることないですから」

「じゃあ、俺も、今日も頑張ろう」

「呉山さんは、今日こそは、じゃないですか? 」

「それは、お前のことだろう」

「気持ちだけで、充分です。みなさん、今日は、観光でもしてきてください。今夜、また会いましょう」

「今夜も、ここで泊まるの? 」

「今夜は、また違うところです。明日は、飛行場まで送りますので、そこに近いところです」

「明日は、飛行機で帰るんですか? 」

「そうした方が、いいでしょ。昨夜、呉山さんに渡した交通費で、賄える」

「そうだった。あれ、多すぎるよ。あんなには、受け取れないよ」

「私に返されても、困りますので、今日、しっかり使ってください。復興支援だと思って。レンタカーは、私が返して、料金も払いますので、安心してください」

「直接、会える方じゃないので、真貴ちゃんから、鈴井社長にお礼を言っておいて」

「直接、会いに行かれたじゃないですか」


 ボランティアセンターで、運転していた真貴と別れた。3人は、今日は、観光をすることにした。3人になったところで、呉山は、明日花と西原に、それぞれ封筒を渡した。

「なんですか? 」

「交通費だ」

 明日花は、悪いとは思いながらも、中身を確認した。10万円だった。呉山は、

「明日花ちゃん、まだキャッシュコーナーに用事があるか? 」

「いいえ。何日かは、行く必要がないです。こんなにもらった上に、昨夜の料理に今夜もなんですかね」

「今夜は、この車の中で、パンでも齧りながら寝るのかも」

「私は、満足しましたので、それでもいいです」

「たしかに。あの旅館、いくらかかったんだろう」

「俺、昨夜の時点で、真貴ちゃんからの誘いに、返答してないんですが、やっぱりこれは、返す方がいいですかね? 」

「松橋さんは、すぐに決めなくて、いいと言われたじゃないですか。だから、その必要はないと思います。でも、私は、もう決めました。誰に何と言われても、松橋さんについて行きます」

「鈴井社長が、バックにいるっていうのは、たしかに魅力的だけど、今から転職するなんて言ったら、うちの嫁さん、何て言うのかな」

「でも、うちの会社から、鈴井社長に逃げられたら、本当に潰れるぞ。しかも、営業部が最も頼りにしてきた真貴ちゃんもいなくなれば、なおさらだ。もう、2人には、うちの会社を潰す自信があるんだ。そうじゃなかったら、鈴井社長が、真貴ちゃんの選択肢に入れるはずない」

「真貴ちゃんは、やっぱりうちの会社のこと恨んでいるんですかね? 」

「松橋さんは、もしかしたら、私たちを救うためにその選択をしたんじゃないかと思ってますけど、ハズレですかね? 」

「でも、共倒れの可能性も、否定できない」

「俺は、真貴ちゃんの会社には、ロマンを感じる。何と言っても、鈴井社長の弟子なんだぞ。西原だって、真貴ちゃんには、助けられてきただろう」

「それは、そうですけど。会社を経営するのは、初めてですよ。条件次第ですかね」

 車は、呉山が、行きたいと言った城に着いた。3人は、ここからは、観光を楽しんだ。


 夕方、ボランティアセンターへ、真貴を迎えに行く。おそらく、今日も、人一倍やったのだろう。泥だらけの作業着を着ていた。

「ちょっと、着替えてくる」

 そう言って、更衣室に入って行った。出てくるとスタッフや他のボランティアの方に挨拶しながら車の運転席に乗り込んだ。

「今日は、観光を楽しまれましたか? 」

「ああ。あちこち行かせてもらった」

「それは、よかったです」

「今日も、ボランティアは、大変だった? 」

「うーん。いつもどおりですよ。でも、今日は、日曜日ということもあって高校生とかも多かったです」

 車から、割と低い位置で飛んでいる飛行機が、見えた。

「空港、近いんですか? 」

「すぐそこだよ。今夜の旅館も、もうすぐ着くよ」

 それから5、6分で、今夜の宿に着いた。昨夜と負けず劣らずの立派な旅館だった。今夜も、男2人、女2人の部屋割りだ。当たり前だけど。昨夜と同じように、まずは温泉に行く。明日花は、今夜も、少しマシになったとは言え、しっかりガードしているので、ぎこちなく、一つずつの行動に時間がかかる。全身を洗って、湯船に入ろうとした時には、既に真貴は何分も前に、入っていたようだ。真貴の近くから入ろうとすると、昨夜と同じで、タオルを奪われた。

「いつまでも、何やってるの? 面倒くさい」

「だって、恥ずかしいですよ」

「何が、恥ずかしいの? 」

 そう言って、乳首を突かれる。思わず、変な声が出てしまった。

「明日花って」

 それに続く言葉を待っているのに、真貴は言わない。

「なんですか? ちゃんと最後まで、言ってください」

「なんでもない。さあ出よう。呉山さんたちが、お腹空かせて、待っているよ」


 明日花は、昨夜と違い、羽織があれば、安心したようで、堂々と歩くようになった。食事をする部屋へは、真貴より先に入った。呉山と西原が、昨夜と同じ並びで、座っていた。

「真貴ちゃん。昨夜も豪華だったけど、今夜はさらに凄いよ」

「そうですか? どれどれ」

 真貴は、早速座って、料理を眺めた。

「なかなか良さそうじゃないですか? 」

「今夜も、あの、その」

 呉山が、言いにくそうにしているのを真貴は、察したようで、

「師匠の奢りですので、安心してください」

「そうなんだ。なんか悪いな」

「じゃあ、飲み物を頼みますね」

 生ビールを注文して、

「今夜は、昨夜のも含めて、ビジネスの話は、やめましょう。私の地元での最後の夜を楽しみましょう」

「えっ、いろいろ聞きたいこともあったのに」

「また、東京に戻ったら聞く機会を設けます」

 生ビールが、運ばれて乾杯すると料理に箸をつけた。どれも美味しく、滅多に口にすることがない食材もたくさんあった。

「こんなにいい思いができるなら、私も誰か師匠が欲しいです」

「ここまでしてくれるのは、鈴井社長だからだし、真貴ちゃんの頑張りが、あってのことだと思うよ」

「松橋さん、私の師匠になってもらえませんか? 」

「私なんか、まだ何も成し遂げていないのに、そんなのになれるわけないじゃない。それに、こんなご馳走を奢れるほどの、収入もない」

「でも、一番尊敬しています」

「どうでもいいけど、今日はなるべく、食べておいた方がいいよ」

「そうそう。こんなの次に食べるの、何年後かわからない」

「ですよね。昨夜のでもそう思っていたのに」

 みんなで、いろんな話をしながら料理を堪能した。


 翌朝、真貴は、お土産が買える店に寄った。そして、この地の有名なお菓子を2つ買った。1つは、営業総務部へ、そしてもう1つは、営業部へお世話になったお礼だと、明日花たちに託した。飛行場までの車中で、真貴は、会社を立ち上げることは、絶対に口外しないように念を押した。そして、共感してもらえるなら、退職の準備を進めて欲しいとお願いした。

 明日花には、これから辛いことも多いだろうけど、耐えてくれと付け加えた。


 夢のような3連休が終わり、明日花は、日常生活に戻った。今まで、真貴とやっていた朝の掃除は、全て1人でやっていた。改めて、真貴の凄さがわかる。会社に1番乗りしても、終わるのは、始業時間ギリギリだ。そして、真貴からもらったお菓子を、全員に配ると、朝礼が始まった。木藤部長が、明日花を見て、

「これは、どうした物なの? 」

「松橋さんから、今までお世話になったお礼ということでした」

「あなた、あの子に会ったの? 」

 すでに木藤部長は、機嫌が悪そうだが、会ったと言えばより悪くなりそうな気がして咄嗟に、

「会ってはいません。私のアパートに届きました」

 と嘘をついた。

「そう。それなら、みんな、それは食べちゃダメ。捨てなさい」

「どうして、捨てないといけないんですか? 」

「松橋さんは、自分がミスして辞めないといけなくなったんです。何か、毒物でも混ぜているかもしれないよ」

「松橋さんが、そんなことするわけないです。それに、ミスしたのは、私です、松橋さんを悪く言わないでください」

「連沼さんは、ミスなんてしてないでしょ。松橋さんが、全て自分のミスだと認めたんだから。それに、証拠になった一連のフォルダは、私だけしか開けないようにして、あの子も助けてあげようと思ったのに、辞めてしまったんだから」

 明日花が、不服そうに木藤部長を見ると、

「そうそう。それと、松橋さんが、でしゃばって、頼まれもしない余計な資料をたくさん保存していたから削除した。連沼さんも、危うく責任取らされる可能性があったんだから、あの子のことは忘れてしまいなさい」

 そう言って、お菓子をゴミ箱に投げ捨てた。それを見て、他の社員も捨てたが、明日花だけは涙を流しながら食べた。

「おいしい」

 実際は、怒りや悔しさで、味なんてわからなかった。ただ、真貴にもらったお菓子が不味いわけないから出た言葉だった。


 その夜、明日花は、真貴に電話で今朝の話をした。

「明日花も、捨てればよかったのに」

「そんなこと、できませんよ」

「これで、木藤部長から、嫌がらせされるよ」

「もういいです。私、松橋さんを悪者になんて、できません」

「でも、それなら、耐えてね。私が、会社を立ち上げるまでは、絶対に辞めないと誓って。私の会社を逃げ道にはしないで」

「わかりました。頑張ります」

「だけど、私の資料、削除されたのか。案外、明日花の会社もうすぐ潰れるかもね。まあ、あまりそんな気はなかったけど、明日花のために、時々東京に行くわ」

「ありがとうございます。でも、私も本当にあの会社、潰れる気がしてきました」

「わかっていると思うけど、これから、営業部の人たちは、すごく苦しむはず。特に、呉山さんや西原さんを精神的に支えてあげて欲しいの」

「西原さんは、松橋さんの会社には、行かないような気がします」

「それでも、支えてあげて。それに、呉山さんや明日花だって今のところは、私について来てくれるように言っているけど、3月までに気が変わる可能性だってある」

「私は、絶対にそんなこと、あり得ません。2人は、奥さんや子供のこともあるから、その可能性もありますが、私には、そんな相談しないといけない人なんて、いません」

「両親が、いるでしょう」

「言いませんよ。どうせ、離れて暮らしてるし、私がどこで働こうが、関心ないと思います」

「ダメ。ちゃんと話して。もし、反対されて気が変わるようなら、来なくて良い」

「わかりました。話します。どうせ、年末年始は帰省しますので」


 12月になって、全社員が、会社の苦しい現状を思い知らされた。上半期の売り上げが、減ったというのは聞いていたものの、ボーナスに反映されると、さすがに厳しい。明日花は、まだ2回目なので、それほど当てにしていたわけではないが、前回の半分しか無いというのは、ショックだった。前回は、入社3か月のもので、今回は半年の基準だから、もっと長く働いている人は、どのくらい減ったのだろう。隣で、明奈が、

「マジかよ。あてにしてたのに。やる気なくす」

 と言った。今まで以上にやる気なくしたら、多分、全く仕事をしなくなってしまうな、と思いながらも、明奈のような人には、これで良かったと思った。木藤部長は、

「あなたたちは、まだマシよ。私なんて、あなたたちより少ないよ」

 みんなが、何回も明細を見て、声には出さず、ため息をついた。明日花は、真貴が作っていたような資料を思い出しながら、真似して作ろうとしていたが、誰かに教えてもらったり、相当勉強しないと完成するものではなかった。営業部のドアの前まで行って、開けようとするが、ここ1月、朝早くから夜遅くまでほとんどの人が、外回りをしているのを知っていたので、ためらった。あきらめて、引き返そうとした時に、

「明日花ちゃん」

 と呼ばれた。振り返ると、西原だった。

「ちょうどよかった。今夜、飲みに行かない? 」

「私は、いいですが、最近遅くまで、仕事じゃないんですか? 」

「昨日まではね。今日、営業部はストライキ状態。呉山さんたち営業部の半分くらいが、社長室に乗り込んで、社長と猪田部長に抗議している」

「そうなりますよね。見込みは、ありそうですか? 」

「ないだろうけど、ぶつけどころがないからね」

 そう言って、今夜の店と時間を告げると、トイレに入っていった。


 明日花が、待ち合わせの店に行くと、呉山と西原がいて、すでにビールも頼まれていた。明日花が、座るとすぐに乾杯した。

「呉山さん、今日の結果は、どうでしたか? 」

「全然ダメ。話にならない」

「そうだったんですね。俺ももう決めました。真貴ちゃんの会社に行きます」

「西原さん、乗り気じゃないと思っていました」

「たしかに、そうだった。いくら、真貴ちゃんが、優秀でも、会社を経営するのは初めてだし、うちの会社もある程度、大きいんだから、潰れるなんて、あり得ないと思ってた」

「それが、正解だよ。うちの会社、もう悪循環に入ってしまった。真貴ちゃんを辞めさせたりするから」

「本当にそうですね。この1か月、購入歴のある会社を回って、改めて真貴ちゃんの凄さを知りました」

「俺もだ」

「えっ、何があったんですか? 」

「ほとんどの会社の社長さんが、鈴井社長の経営者セミナーとかで、真貴ちゃんのことを知っていた。とてもよく気がついて、頭もいい。おまけに、クレーマーに対しても上手く対応して、次回には親しげに話していたりする。さすが、鈴井社長が、何百人の中から唯一弟子と認めた子だと」

「うちの社長も、ようやく認めていた。真貴ちゃんが、経理部によく、単価交渉をしていたのは、知っていたらしい。そういう時は、ほぼ100%うちの会社に決まったそうだ。ただ、それに気づいたのは辞めさせた後で、社長から真貴ちゃんに、謝罪と復職の電話をしたんだって」

「後の祭りですね」

 呉山は、軽く頷き、続けた。

「もちろん、あっさり断られた。それで、さっき西原も言おうとしたと思うけど、他所より高い見積もりを持ってきて、真貴ちゃんを辞めさせたような会社から、買うことはないと、あちこちから言われているのに、交通費を使って、営業に行く意味があるかと言ってやった。それでも、今以上に安く売るのは、できないんだと。元々は、そう西原が、入社した頃までは安く売ってたのに、業績が良くなって、急に値上げ。売れ行きが、落ちたのを、真貴ちゃんのおかげで、V字回復していたのに」

「俺も、真貴ちゃんが、入社するまではほとんど、売れたことがなかったな。資料だけの力じゃなかったんですね? 」

「真貴ちゃん、入社した年に、あまりにもしつこく経理部に食い下がるので、当時の経理部長に呼び出されて、往復ビンタを食らったこともあったらしい。それでも、他所はこの値段を出すはずなので、これ以下にしてくださいと、引かなかったと、当時、経理にいた人に聞いたことがある。そこまでしてくれてたんだ」

「その時の結果は、どうだったんですか? 」

「結局、経理部が折れて、真貴ちゃんのいう金額で勝った。それが、西原が初めて1人でとってきた契約じゃなかったかな? 俺も当時は、真貴ちゃんのことをそこまで信用していなかったし、営業部では、その金額でも無理だというのが、大勢を占めていた。それで、白羽の矢が立ったのが西原だったんだ。あの時から、俺を含め営業部全員の真貴ちゃんに対する見方が、大きく変わった」

「あの時って、そんな裏話があったんですか? 急に1人で行かされて、どうしようかと思いました」

「真貴ちゃんを敵に回したうちの会社は、どうするんだろうな。このままじゃ、すぐ潰されてしまうぞ。もしかしたら、それまで持たないかもしれない」

「私も、そんな気がしてます。これから、どうモチベーションを維持したら良いですかね? 」

 2人とも、考え込んでいたが、結論は出なかった。


 年末年始休暇になって、明日花は、すぐに実家に帰省した。働いて初めてのことでもあるし、なんと言っても転職の話もしないといけない。少しだけ、東京で遊んでから帰りたい欲望を抑えて、満員のバスに乗った。そして、音楽を聴きながら、本を開いてみるが、全く集中出来なかった。両親に、話すべき内容を、まず何から言い出したらいいのか、考えてしまう。今まで、親に反抗したことなど、ほとんどない。むしろ、何かの選択を迫られた時、親の意見に従った。そして、それはいつでも、最善を選んでもらっていたと思う。しかし、今の会社に入ってしまったことに関しては、初めての失敗で、転職することは、両親を否定し反抗することのような気がする。でも、自分のせいで、会社をクビになった真貴が、自分にくれたチャンスなんだ。きちんと話そう。

「よし」

 と、何度も心で、気合いを入れていたが、子供の頃から見慣れた風景が、バスの窓から見えると、心臓の早い音が聞こえた。バスを降りて、1キロほど歩くのに、私の心臓が途中で止まってしまうんじゃないかと不安に思うほど、ドキドキしていた。

 しかし、実際には普通に家まで、無事に帰った。

「ただいま」

「あれ」

 という声が、奥の方から聞こえてきて、バタバタという音が、近づいてくる。ドアを開けて、明日花と目が合うと、母は、

「おかえり。今日から休み? 」

 明日花が、答えるまでに次々と質問が飛んでくる。とりあえず、靴を脱いで上がる。

「そんなにいっぺんに聞かれても、答えられないよ」

「ごめん、ごめん。じゃ、お茶でも飲む? 」

 まだ、何も言っていないのに、母は、

「お父さん、明日花が帰って来たから、お茶でも飲もう」

「わかった。今行く」

 この早い展開に負けてしまって、明日花は、仕方なく荷物を置いて、高校生の頃、座っていた場所に座った。鞄から、お土産を取り出したところで父が、

「おかえり」

 と言って、姿を見せた。

「ただいま。これ、お土産」

「ありがとう。ボーナスが、たくさん出たんだな? 」

 やった。いきなり、本題に入るチャンスだ。と思ったら、母が、

「いくらなんでも、1年目から、そんなにたくさんもらえるわけないじゃない」

「それもそうだな」

 しばらく、父と母の会話が続いた。明日花は、会話が途切れるか、割って入るチャンスをお茶を飲みながら窺っていると、いつのまにか、姉の祐花が、

「明日花、おかえり」

 と言って、現れた。

「ただいま」

 明日花は、最初のチャンスが終わったと悟った。昔から、親子4人になると、明日花だけ会話になかなか入れない。聞かれたことを答える程度。その上、祐花は、明日花が自分の意見を言うと真っ向から否定する。仕方なく、トイレを口実に、荷物を持って自分の部屋に、逃げた。


 まだ、家に帰って来たばかりだ。チャンスは、いくらでもあるはず。ベッドに横になって、作戦を立てようと思っていると、いつのまにか寝ていたようだ。ドアをノックする音で、目覚めた。明日花が、返事をしようとすると祐花が、入ってきた。

「明日花、今回帰って来た理由は、なんなの? 」

「いきなり、入ってきて何? 年末年始休暇だから」

「そんなのが、理由じゃないでしょ? 今まで、滅多に帰らなかったし、いつも長くて2泊までだったのに、おかしい。まさか、結婚じゃないだろうから、クビになったとか」

 絶対に、祐花には、言いたくない。

「クビになんて、なってないよ」

「じゃあ、仕事を辞めようと思っているでしょ? 」

 図星だ。でも、絶対に言わない。

「当たったみたいね。なんで辞めるの? 明日花の成績では、採ってもらえたのが、不思議なぐらい大きい会社だよ。何があったか知らないけど、1年で判断することじゃないでしょ。もう少し頑張りなさい」

 たしかに、事情を知らない人は、そう言うだろう。

「ちょっと待ってよ。勝手に決めつけて、あれこれ言わないで」

「何が、決めつけよ。仕事辞めるって言ったら、表情が一瞬で変わった。明日花は、隠し事ができないね。正直に言ってごらん。もし、正当な理由があって私を納得させたら、お父さんやお母さんに話す時、味方になるから」

 こうなったら、仕方ない。明日花は、渋々話し始めた。そして、明日花の話を最後まで真剣な表情で、聞いていた祐花が、突然笑い出した。

「明日花、たしかにあんたの会社、危ないかもしれないけど、転職しようとしてるところの方が、もっとヤバい。鈴井徹弥が、そんな子の会社に手を差し伸べるわけないじゃない。私、あの人の講演に何回も行っているの。私が勤めている税理士事務所のお客さんが、鈴井さんを何回も呼んでいて、その付き合いで。あの人が、弟子なんて作るわけないし、認めるわけがない。よかったね。騙されなくて」

「騙されてなんてない。ほんとうに松橋さんは、鈴井社長の弟子なんだよ」

「自分で、勝手にそう言っているだけ。だから、この話はお父さんやお母さんには言わず、今の会社で頑張りなさい。明日花が、騙されそうになったなんて、知ったら、2人ともショックを受けるよ」

「だから、違うんだって」

「まだ言うの? 絶対に2人には、話させない。私が、阻止する」

 そう言って、祐花は、出ていった。


 明日花は、困ってしまった。晩ご飯の時も、その後も、祐花がいて、話し出せない。このまま、何も言えずに6日間過ごすしかないかなと思い始めていた時に、電話が鳴った。真貴からだ。

「明日花、いつ実家に帰るの? 」

「もう帰ってます」

「えっ、もう帰ってるの? よく考えたら、私が、明日花を誘っているんだから、両親に挨拶しておかないといけないと思って、明日でもそこに行くから、住所教えて」

 明日花は、住所を言って、祐花とのやりとりを話した。

「ごめんね。まだ、話してないなら、私から話す。明日花が、私を信用してくれていて、気が変わっていなければだけど」

「私は、信用していますし、気も変わりません」

「ありがとう。じゃあ、行くから。近くまで来たら、電話する」

 そう言うと、電話は切れた。しかし、年末で交通機関は、混んでいるし、急に思いついてもどうやって来るんだろうと、疑問に思った。これは、気長に待つしかないと、とりあえず眠りについた。


 朝、目覚め、スマホを見ると、LINEが入っていた。真貴からだ。

「家の近くのコンビニで寝てる。起きたら、連絡して」

 確認すると、5時に届いていた。明日花は、出かける準備をして、コンビニに向かった。広い駐車場に、不自然なくらい、端の方に停まっている車を発見した。間違いないと確信して、その車に近づいた。その中に、運転席を倒して、気持ち良さそうに眠っている、真貴を見つけた。明日花は、起こさないよう、なるべく音を立てないように、助手席に乗り込んだ。真貴は、眠り続けていた。

 スマホを眺めながら、真貴の目覚めを待っていると、30分ぐらい経った時、目が覚めたようで、

「びっくりした」

 と大声で言われ、明日花もびっくりしたが、冷静に、

「おはよう御座います。わざわざ、遠くまでありがとうございました」

「なんだ、明日花か。おはよう。電話してくれれば、よかったのに」

「気持ち良く、寝ておられるのを、起こすのも悪いような気がしたので」

「ありがとう。私、ちょっと朝食を買ってくる。降りる? 」

「そういえば、私も朝食まだなので、行きます」

 真貴は、エンジンを止めて、車から降りた。明日花も、それに続いた。朝食を買って、車の中で食べながら、

「私の姉、昔から私の意見は、聞いてくれないんです。だから、絶対に話したくなかったのに、味方になってくれるような言葉を信じてしまって」

「たしかに、お姉さんが言うこと、間違いじゃない。私みたいな、なんの実績も地位もない人の会社に転職するなんて、反対されるに決まってる。明日花、心配されているんだよ」

「そうですかね? そう思ったことなんて、ありません」

「でも、きっとそうだと思う。じゃあ、行こうか? 」

 そう言って、真貴は車を走らせた。


 明日花の家に着くと、真貴は、玄関で、あいさつをした。明日花は、家に入って、家族がダイニングに全員集まっていることを確認すると、そこへ真貴を案内した。

「おはよう御座います。はじめまして、私は、松橋真貴と申します」

 すると、突然祐花が、真貴を指差して、

「あっ」

 と言った。真貴も、気づいたようで、

「いつも、鈴井のことを、ご贔屓いただき、ありがとうございます」

「お姉ちゃん、知り合いだったの? 」

「知り合いって言うか、鈴井徹弥の講演とかに行くと、時々おられるから」

「覚えてていただき、光栄です」

「そりゃ、覚えるわよ。だいたい、鈴井は3人ぐらい付き人みたいな人を連れてくるのに、この人、松橋さんの時は、1人だけ。それでも、3人いる時と変わらないか、むしろそれ以上の働きをされるので、1回で覚えた。『優秀な人を雇っているな』と私の知り合いの方も、賞賛していた」

「平日は、秘書の方がだいたい3人いらっしゃいます。休日は、私が付いていますが、雇われてはいないですし、気配りが足りないと、いつも怒られています」

「鈴井徹弥。聞いたことあるような気がするけど、誰だったかな? 」

「お父さん、知らないの? いろんな分野で成功して、時代の異端児とか言われて、テレビにも出てるじゃない」

「あっ、あの人か」

「知らないわけないでしょ。私でも知っているのに」

 それまで、黙っていた両親も話に加わった。

「それで、今日、松橋さんがいらっしゃったのは、どういう用件ですか? 」

 真貴は、経過と目的を丁寧に説明した。最後まで聞くと、祐花が、

「私、明日花から、この話を聞いて騙されていると思ったけど、この人なら大丈夫だと思う。なんと言っても鈴井さんが、認めた人だし、いざとなったらなんとかしてくれるだろうし」

「申し訳ありませんが、いざという時に助けてはくれないと思います。しかし、グループ会社として商品を購入していただける可能性はあります」

「条件は、どうされる考えですか? 」

「それにつきましては、今より悪くする考えは、ございません。給料も、今のところの試算では、若干上乗せできると思っております。ただ、今までよりやっていただくことは、増えます。期待していますので」

「明日花は、どうなの? 」

「私は、松橋さんについて行きたい。松橋さんが、いなくなった今の会社に何も魅力を感じないし、倒産するんじゃないかと、私でさえ思ってしまう」

「そうか。松橋さん、まだ戦力にならないと思いますが、明日花をよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。明日花さんはもちろん、ご家族様にもご心配をおかけしませんよう、精一杯、頑張ります。では、本日は皆様の貴重な時間をありがとうございました。失礼いたします」

「あら、もう帰られるんですか? 何もありませんが、お昼でも食べられませんか」

「いいえ、それは結構です」

「どうせ、もうすぐお昼ですので、何処かで食べられるでしょ? 明日花、あなたからも勧めたら」

 家族全員で、勧めると真貴も断りきれなくなって、この辺の店に、みんなで行って食べる提案をした。しかし、店が少なく、年末で、混んでいるだろうから、それはやめた。それなら、スーパーからお寿司やオードブルを買って来ようとなって、明日花は、真貴と車に乗った。

「ありがとうございました」

「私に言うんじゃなくて、お姉さんに言って。良い人だね」

「意外でした。まさか、お姉ちゃんが、私を援護してくれるなんて。松橋さんが、いろんなところで、活躍しておられるからですね」

 スーパーで、買い物を済ませて、それをみんなで食べた。真貴は、片づけを手伝うと帰っていった。


 年末年始休暇を終え、明日花は日常の生活に戻っていた。そこへ、真貴からLINEが来た。

「今週の金曜日、飲みに行かない? 」

「私だけですか? 」

「ほかの人にも送っている」

「私は、大丈夫です」

 そして、場所と時間が、送られてきた。年末から、仕事が暇だったので、もう少し真貴とのLINEを楽しみたかったが、それ以降、明日花が送ったメッセージは、既読にならなくなった。気分転換に、トイレに行き出たところで西原と会った。

「今週の金曜日、どうされますか? 」

「もちろん、行くよ。呉山さんも」

「西原さん、こんな時間に、社内におられるなんて、めずらしくないですか? 」

「営業部、年末から、暇だよ。今、外に出ている人なんて、ほとんどいない。その人達も、どこに行っているかわからない」

「うちの部と、一緒ですね。私も、することないから、行きたいわけじゃないけど、トイレに何回も通ってます」

「この会社、こんな状態なのに、なんの方針も出さない。どうするつもりなんだろ? 」

「本当ですよね」

 そんな会話をして、それぞれの部に戻った。


 金曜日、指定された店に、3人で行くと真貴は、すでに座っていた。

「真貴ちゃん、いつこっちに、出てきたの? 」

「今週の日曜日には、こっちにいました」

「ボランティアは? 」

「雪が積もったりして、中止になることが多いし、こっちでやることがあって」

「新しい会社の関係ですか? 」

「そう。実は、今の社長さんに会って、引継ぎのようなことをしてもらってた。それで、大まかな予算を立てたいので、言いにくいと思いますが、今の給料を教えてもらえませんか? 」

 真貴は、紙とペンを3人に渡した。それぞれ、それに書いて返すと、

「ありがとうございます。次に会う時には、給料と予算を示します。じゃあ、飲みましょう」

 それぞれ、飲み物や食べ物を注文した。

「いよいよ、動き始めているんだ」

「もう、待ちきれないよ。うちの会社じゃ、毎日やることないし」

「潰れる間近って感じですよね。松橋さんの1つの目標は、すぐ達成できますね」

「油断は、しないでね。案外、何か秘策を思いつかれるかもしれない」

「それは、ないと思う」

「もはや俺たちは、真貴ちゃんにしか、期待できない」

「それと、なかなか現社長、立派な考え方で、社員教育されてたので、切磋琢磨して会社のために頑張ってください」

「そうか。私、経験が少ないし、人見知りだから、うまくやっていけるか、急に不安になってきました」

「私は、私も含めて、みんなが、自分ができる少しのことでもやる。1つの物を売るにも、全員が関わってほしいの。決して、皆さんの会社のように、1日中何をやっているかわからないような人は、作らない。まあ、そんなに人数的に、余裕はないけど」

「人数は、どのくらいいるんですか? 」

「今の会社の方が、全員残ってくれて、20人かな。まだ、意向を聞いてないので、なんとも言えないけど」

「えっ、そんなに少ないの? 」

「少ないですか? 私には、十分だと思っていたんですけど。だから、みんなでとことん話し合って、少しでも多く関わってほしいんです」

 4人は、新しい会社の理想などを話しながら、気づいたら遅くまで飲んでいた。


 2月の始めの金曜日、この日も真貴から招集があった。今夜は、いつもと違いホテルの宴会場が、待ち合わせ場所だった。3人で、歩いて、向かう。

「今日って、給料も示してもらえるんですよね」

「たしか、そんなはずだな」

「うちの会社、1月の給料も減らされてましたね? 私は、まだほとんど戦力になってないから仕方ないと思っていたんですが、やっぱりモチベーションが、下がってしまいます」

「そうだよな。俺たちみたいに結婚していると、悲惨だ」

 ホテルに着いて、自動ドアが開くと会場の前では、真貴が、受付をしていた。

「皆さん、こっちです」

 そう言って、手を振っていた。それぞれ、名前が書かれた封筒を渡されて、中に入るよう言われた。会場は、結婚式を思わせるような、丸いテーブルに、名前が書かれていた。明日花は、自分の場所を見つけ、そこに座った。

開始時間まで、することもないので、封筒の中身を出してみた。すると、普通郵便のサイズの封筒が、あった。おそらく、給料が書いてあると思い、恐る恐る開けてみる。予感的中だった。そして、明日花は驚いた。自分の給料が上がっていた。そして、その下に、真貴の給料も書かれていた。どうして、私と真貴が、同じ給料なんだ。社長と多分、一番若いであろう明日花が、同じ給料になるんだ。桁を間違えたのかもしれない。

 疑問を抱えたまま、時間になったので、司会者役の社員、小原美帆が社長の挨拶を求めた。

「今日は、年度末に向けて、忙しい時期に集まってもらって、ありがとう。私も、以前から話していたように高齢になったため、引退する準備をしていた。そこで、皆さんも知っているとは思いますが、鈴井徹弥さんに相談したところ、直接の傘下ではなく、社長を派遣させてもらえないか、との話をいただきました。そして、後ほど紹介しますが、松橋真貴さんを4月から、社長に就任していただきます。まだ、若いですが鈴井さんが、信頼して送り込んでいただいただけあって、素晴らしい才能を持った方です。皆さんに配られた資料も、松橋さんが、作られました。彼女を中心にして、鈴井グループになるということは、会社にとって、明るい未来しかありません。皆さんも希望を持って、これからも、励んでください」

 続いて、真貴だ。

「先程、ご紹介いただきました、松橋真貴です。よろしくお願いします。私は、鈴井から推され、4月から社長という大役をおおせつかることになりました。私は、経営者という立場は初めてですので、皆さんからのご指導や助言が、必要不可欠です。どうか、皆さん方と共に、私と会社が成長できるよう、ご協力をお願いします」

 社長の乾杯で、宴会が始まった。5人ずつ4つの円卓があるが、真貴を除いては、年齢順で割り当てられているようだった。明日花は、勇気を出して、年齢がほぼ変わらないと思われる、隣に座っている女性に声をかけた。

「はじめまして。連沼明日花です。よろしくお願いします」

「本平沙織です。よろしくお願いします。連沼さんは、何歳ですか? 」

「23です」

「私もです。よかった。私、この会社に久しぶりに採用された、新入社員だったから、話が合う人もいなくて、つまらないから、転職も考えてた」

 同じ年齢ということで、いろいろな話で、盛り上がっていた。そして、1時間経った頃、給料の話になった。

「聞き辛いけど、給料って、今と比べてどうだった? 」

「えっ、何のこと? 知らないよ」

「この大きい封筒の中に、もう1つ封筒が入っていて」

「心配しなくても、3人同じだよ。全員、同じように上げてあるよ」

 明日花の背後から、真貴の声がした。そして、

「本平さんだね。松橋です。よろしくお願いします」

 と笑顔で、握手を求めた。沙織は、緊張したように、右手を差し出して、

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 と言った。明日花は、そんなやりとりは、どうだっていいと言うように割って入った。

「松橋さん。どうして、私たちの給料が社長と同じなんですか? おかしいです」

「今までも同じだったんだから、いいじゃない。明日花は、不満なの? それに、明日花に限らず、給料にプラス出来高払いと入れてるから、私より多くもらえるチャンスがあるよ」

「私の給料には、満足しています。松橋さんが、少なすぎるんです」

「全員が、私にそういう評価をしてくれたら、ありがたくいただくよ。私は、みんなの評価で、みんなの給料を決めるようにしたいの。明日花は、この会社では、知り合いも少ないし、沙織よりも、上司から教わったことが、少ないから、不利になると思うので、頑張ってね」

「私も、そんなに上司から教わったりしてないです。だから、私もみんなの評価なんて期待できないです。営業もしたことないですし」

「私は、営業だけを評価するつもりはない。1つの物が、売れた時、営業だけが、頑張ったなんて有り得ない。例えば、そこにたどり着くまでに、誰かのアイデアがあったかもしれないし、雑用とかをやってくれる人がいなければ、その結果は、なかったはず。それでも、やっぱり営業が有利だと思えば、やってみたらいい。1人じゃ、不安なら、私を誘ってくれてもいい。みんなが、積極的にいろんなことにチャレンジしてほしい」

 そう言ったところで、真貴は、ほかの席から呼ばれて、離れていった。沙織は、

「なんか、松橋さんって、凄いですね。考え方が。私、4月が楽しみになってきた。2人で、一緒に頑張ろう」

 沙織の笑顔に隠れた、やる気を感じ、明日花は表情を引き締めた。それからまもなく、真貴が、この場を締めてお開きとなった。


 外に出ると、全員が、その場にいた。真貴が、締めで時間がある人は、少しだけ残ってほしいと言ったからだ。明日花は、2次会に行くと思い込んでいた。

「本平さん、どうする? 」

「こんな寒い中、どこに行くつもりだろう。何か、聞いてる? 」

「聞いてないけど、盛り上がっていたから2次会でしょ」

「私、お酒強くないから、どうしようかな」

「みんな行きそうだから、とりあえず顔だけ出しておかない」

「じゃあ、ちょっとだけ」

 2人は、少し遅れてついていく。すると、繁華街から離れていった。一体、どこに行くつもりかと思っていると一際大きなビルが、見えた。それは、鈴井グループのものだった。

「えっ、まさかここのグループ企業になるの? 」

「そうみたい。大きい会社なのは、知っていたけど、ここまでとは思ってなかった」

「私、鈴井さんって、よく知らなかったけど、こんなビルが建てられるなんて、すごいね」

 それを横目に歩いていると、立ち止まっていた人に、ぶつかりそうになった。みんなが、隣の小さいビルに入っていく。入口で、真貴が立っていた。促されて、中に入ると、広い空間に、机や椅子が、並んでいた。そして、奥の方に、鈴井がいた。真貴は、その横に行って、

「紹介します。鈴井グループの鈴井徹弥社長です。そして、ここが4月からの皆さんのオフィスです。まだ、届いてない物が、たくさんありますが、鈴井グループを参考にしています」

 みんなが、ざわついてる。鈴井のことだったり、オフィスのことで。鈴井が、

「いい感じに仕上がっているな。俺も、息抜きにちょくちょく来ようかな」

「やめてください」

「いいじゃないか。俺が建てたビルだし、このオフィスの物も買ってやったんだから」

「税金対策に、ちょうどいいって、言ったじゃないですか? 」

「そうだよ。でも、出禁はないだろ」

「そこまでは、言ってないです」


 鈴井の誘いで、全員が、鈴井ビルの最上階にあるラウンジに場所を移した。ほかの客は、入ってこないビップルームに通された。20人ほどで、使うにはもったいないくらいの広さだ。窓から見える夜景は、今までに見た中で一番綺麗だった。鈴井の堅苦しくしたくないとの意向で、誰がどこに座ろうが、何をやっても自由というスタイルだった。明日花と沙織は、カクテルを注文して窓際の席に座った。

「鈴井グループって、すごいね。さっきのオフィスも、このラウンジも、夢の中みたい」

「そうだね。この夜景を眺めながら飲むカクテルは、美味しい。でも、本平さん2次会は、乗り気じゃなかったでしょ? 」

「だって、こんな素敵なところにくるなんて、想像してないよ。鈴井グループ最高」

「あれ? 沙織が、2次会に来るなんて珍しい。飲みすぎて、連沼さんに迷惑かけるなよ」

「大丈夫ですよ。今夜は、いくら飲んでも酔わない気がします」

 明日花は、沙織に話しかけてきた人の名前を必死で、思い出そうとしていた。

「そんなこと言って、いつも酔い潰れてしまうだろ」

「たとえそうなっても、志藤さんの世話にはならないから、安心してください」

 志藤さん。思い出した。志藤敬和さんだ。当初から思っていたが、うちの会社と違い、みんなが親しそうに沙織に話しかけてくる。2人の話が、長そうなので、カクテルのおかわりをしようと、カウンターに行く。そこには、鈴井と真貴が、店員を交えて、楽しそうに話していた。

「すみません。おかわりをお願いします」

「かしこまりました」

「明日花。楽しんでる? ここの夜景、いいよね」

「はい。満足しています」

「オフィスは、どうだった? 何か、希望があれば早めに言って」

「広くて、開放感があって、素敵でした」

「まだ、ソファや棚とか大きい物が、入るけどね」

「お待たせしました」

 明日花の飲み物を、店員が差し出すと、

「楽しんでね」

 と言って、真貴が手を振った。明日花は、沙織の隣に戻った。すると、

「あっ、私も飲み物もらってくる」

 と立ち上がった。話をして、飲み物を頼んでを、何回か繰り返していると、沙織が、倒れた。持っていたグラスが割れ、破片が飛び散った。明日花が、駆け寄って、呼ぶが反応がない。真貴も、心配そうに沙織を起こした。

「大丈夫? 」

 しばらく、反応がなかったため、どうしようかと思っていると、

「大丈夫です」

 と弱々しい声で、沙織が言った。


 明日花と真貴に抱えられ、沙織が通された部屋は、お客さん用の寝室と言うことだったが、リゾートホテルを思わせるような大きい部屋に、大きいベッドが4つ置いてあった。その1つに沙織を寝かせると、真貴から部屋の説明を受けた。

まるで、テレビ番組で、ホテルの1泊の料金を当てるのがあるが、それに出てきそうな部屋だ。

「明日花も、今夜は泊まっていって。沙織が、起きた時に困るだろうから」

「かまいませんが、すごい部屋ですね? 」

「明日花は、ラッキーだったね。私でも、ここには泊まったことないのに。それから、何か必要な物があれば、受話器を取って話せば、持って来てもらえる。でも、下着はあきらめて。男の人が、対応するかもしれないから。あと、明日は目覚めたら、電話して。じゃあ、ごゆっくり。おやすみなさい」

 明日花は、とりあえず、入浴しようと、湯船にお湯を張る。それを待つ間、小部屋のベッドに横になって、テレビをつけた。ニュースを見ながら、いつのまにか、うとうとしていた。ふと気づいて、慌ててバスルームに行くとちょうどいい、湯量になっていた。用意されている、寝巻きを持って、脱衣場に置いた。風呂に入って、全身を洗うと、眠気も覚めて、すっきりした。上がってから、明日花は迷っていた。お風呂に入るまで、身に着けていた下着を、どうしようかと。

「まあいいか」

 そう呟いて、下着は付けずに寝巻きを着た。寝室で、スマホを眺めていると喉の渇きを覚えた。申し訳ないと思いながら、冷蔵庫を開け、お茶を取り出して、飲んだ。しばらくして、ベッドに横になった。


「連沼さん」

 気持ちよい眠りは、沙織の声で終わった。重い瞼を開けると、

「ここって、どこ? トイレ行きたい」

 明日花は、トイレの場所を教えた。寝室の照明をつけて、沙織が戻るのを待つ。まだ、頭は眠っている。ドアが閉まる音がして、沙織が、

「ここって、すごいホテルじゃない? 何、この広さ。私のアパートより、何倍も大きいよ」

「ここ、ホテルじゃないよ。鈴井さんが、お客さんのために使っている、寝室だって」

「へー。すごい」

 沙織は、キョロキョロ見回して、

「私、こんなベッドで、寝てたんだ。どおりで、気持ちよく寝れるわけだ」

「そうだね。こんなに大きくて、しかも、硬すぎず、柔らかすぎずちょうどいい」

 明日花が、お茶を一口飲むと、

「私も、喉が渇いた」

 明日花が、冷蔵庫の場所を教えると、沙織は、水を取り出して、一気に半分くらい飲んだ。

「私、昨夜、どうなった? 」

「突然、倒れたから、私と松橋さんで、ここまで運んできた」

「松橋さん。次の社長。やばい。私、最初から迷惑かけてしまった」

「大丈夫だよ。松橋さんが、そんなことで、どうこう言ったりしない」

「ところで、松橋さんは、鈴井さんと、どういう関係? 」

「師弟だって」

「ほんとうに? 2人で、あんなに楽しそうに話していたのに」

「鈴井さんは、普段は優しいけど、ビジネスのことになると怒られてばかりだって。でも、2人とも独身だからそれ以上の関係でも、問題ないんじゃない」

「鈴井さんって、独身なの? 」

「離婚してるんだって」

「あんなに金持ちで、シブい人と、別れるなんてもったいない。松橋さんに、その気がないなら私が、取ってしまおうかな」

「本平さんは、鈴井さんみたいな人が、タイプなの? 」

「そりゃ、理想通りか聞かれたら、かなり外れるけど、こんな優雅な生活ができるなら我慢する」

 時計を見ると、8時前だった。そろそろ、真貴に電話すると言ったら、沙樹は風呂に入ると言った。

「もしもし。松橋さんですか? 連沼です」

「明日花、おはよう。起きた? 本平さんは」

「2人とも起きてます。本平さんは、今お風呂です」

「そう。じゃあ、朝食を運んでもらうから。帰る前に、また連絡して。あっ、ゆっくりしてていいよ」

「朝食は、いりません」

「残しても、構わないから、頼ませて。朝食も出さずに、帰したら師匠に叱られる」

「じゃあ、遠慮なく、いただきます」


 電話を切って、15分も待っただろうか。朝食が、運ばれた。ちょうど、沙織は風呂を済ませたところだった。

「うわ、美味しそう。実は、起きてからずっと、空腹を感じてたんだ」

「私も。それで、どこかで、モーニングでも食べようと、ここを出るつもりで、松橋さんに電話した」

「モーニングより、ずっと豪華だ」

 2人は、あっという間に完食した。

「美味しかった」

「ところで、後で、お金とか、請求されないよね? 」

「昨夜、松橋さんから、全て無料だと、説明されたけどね」

「じゃあ、大丈夫だね。ここ、最高。帰りたくない」

「松橋さんは、ゆっくりしてていいと言っていたけど」

「連沼さん、今日は、なんか予定ある? 」

「特に」

「じゃあ、もう少しだけいようよ」

 沙織は、ベッドにダイブしてテレビをつけた。特に、見るわけではなかったようで、明日花の方をみて、話しかけてくる。いろんな話をしたので、お互いに親しみも湧き、LINE交換もした。出身地など、共通点も多かった。

「4月からが、より楽しみになった。明日花、もううちの会社に、来たら? 」

 この頃には、名前を呼び捨てにするようになった。

「それが、松橋さんから、3月いっぱいは今の会社で、全力で働くよう言われてる。でも、ボーナスを下げられたあたりから、全然モチベーションが、上がらなくて。私の責任でもあるから、仕方ないけど」

「そうなんだ。でも、新人がやったことを、松橋さんのような、明日花より少しだけ先輩の人になすりつけて、なんの処分も受けない、部長なんて最悪。そんな最低な会社、ほんとうに潰れた方が良い。松橋さんに、期待だね」

「でも、それについては、少し寂しい気持ちもある」

「情けは、無用だよ。って、どうせそうなるし。鈴井グループの社員だよ。明日花は、どうか知らないけど、私なんかの学力では、まずなれなかった」

「私だって、そう。だから、少し怖さもある。日本中の、ほとんどが、知っているグループの社員だから下手なことできない」

「松橋さんを信じていれば、大丈夫な気がする。まだ、私は、よくわからないけど鈴井さんが、気にいるような人だから、相当凄い人なんだと思う」

「それは、間違いないよ。さて、そろそろ、ここを出てランチしに行こう」

「そうだね。名残惜しいけど」

 明日花は、真貴に電話して帰ることを告げた。すると、まもなく真貴が部屋に来た。セキュリティの関係で、誰でも自由に出入りは、できないそうだ。真貴について行き、ロールプレイングゲームを思わせるほど、幾つものドアを開け、エレベーターに乗ると、外に出ることができた。2人は、真貴にお礼を言って別れた。


 外に出た明日花と沙織は、今日の天気を初めて知った。晴れてはいるものの、冷たい風が強く吹いていた。

「寒い。さっきまでが、快適すぎた」

「まだ、2月だからこれが、当たり前か」

 4月以降のために、この辺を散策する予定だったが、駅を見つけ逃げるように駆け込んだ。とりあえず、全ての店に入って、隅々まで、眺めるが2人とも何も買おうとは、しなかった。明日花は、節約したい思いもあるが、沙織と、いろいろみて歩くだけで、楽しくて満足だった。しばらくして、スマホを見ると、昼を回っていた。2人とも、それほど、お腹が空いていなかったが、パスタ屋に入ろうとした。

「結構、このあたり、高級な店が多いね? 」

「そうだね。だから、あまり来ることがなかったんだ」

「明日花って、どこに住んでいるの? 」

「ここの隣が、最寄り駅」

「うちの会社と同じってこと? 」

「そういうことだね」

「ということは、私の住んでいるところと同じだね」

「そうなんだ。それなら、電車に乗って戻ろう。その方が、物価も安いし」

「おいしい店もわかる」

 電車に乗って、見慣れた駅ビルに着くと、2人は迷わずパスタ屋に入った。

「やっぱり、この街の方が、落ち着く」

「ほんとうに」

「なんで、明日花は、ここに住んでいるの? 」

「大学の頃から、ここに住んでいるから、あまり変わる気が、なかった」

「私も。だから、就活もここの周辺で探して、今の会社」

「そうだったんだ」

「そうしたら、人気なかったみたいで、私しか受けてなかった。どこだったかな? かなり人気だったところと、同じ日程だったこともあるけど。こうなってみると、何もかもラッキーだったな」

 食べ終えると、お互いのアパートに帰るが、ずっと同じ方向で、沙織が先に着いた。

「私、ここに住んでいる」

「私は、もう少し先の黒い建物」

「それ、知っている。じゃあ、また遊びに行く」

「私も、アパートに着くまでに、疲れたら沙織のとこに行く」

 そんなことを言って、その日は、別れた。そして、翌日も昼間は、2人で過ごした。その後も、お互いに、東京には、それほど親しい友人が、少なかったため、休日には、一緒にいる時間が、増えた。


 3月になって、初めての週末に、再び全員が招集された。今日の集合場所は、新しい事務所だ。明日花は、前回から、ソファや棚、カウンターも備えられ、より事務所らしくなったことに、感動していた。しかし、先に着いていた、沙織たちは、皆疲れたような表情だった。

「今日って、何があったの? 」

「引越しの準備。この棚とかを設置してた」

「お疲れ様」

 明日花は、少し声のトーンを落として、

「松橋さんは、何もしてなかった? いつもどおり、元気そうだけど」

「とんでもない。一番働いておられた。あの人、化け物なんじゃない? 『適当に休憩しながらやりましょう』なんて言って、そこのテーブルに、お菓子や飲み物を置いて、自分はほとんど、動きっぱなし」

「やっぱり、そうだよね。化け物かもしれない」

「化け物って、誰のこと言っているか、知らないけど、明日花たちのために更衣室のロッカーは、動かしてないから、よろしく」

 いつのまにか、真貴がいて、聞かれていたようだ。気づくと、呉山と西原もロッカーを運んでいた。

「私だけで、こんなの運べませんよ」

「私と一緒に運ぶんだよ。だから、反対側を持って」

 明日花は、真貴の反対側を持ち上げるが、ほとんど、上がっていない。

「高さを合わせないと、運べない。もう少し、あげて」

「上がりません」

「じゃあ、一旦下ろすよ」

 下ろして、一息ついた。

「もう少し、下の方を持って」

「無理です。上がりません」

「沙織。悪いけど、明日花を手伝って」

 沙織が、明日花と一緒に持ち上げると、なんとか真貴の持つ高さまで、上がった。そして、女子更衣室へ設置した。

「きつかった」

「明日花、もう一つあるよ」

「えー。大丈夫かな」

「大丈夫だから。もう少し頑張ろう」

 なんとか、もう一つも設置することができたが、腕が、プルプルしていた。


 とりあえず、打ち上げで、鈴井ビルの中にある居酒屋に移動した。居酒屋とは言え、おしゃれな雰囲気で、料理も手が込んでいて、見た目も綺麗。しかし、ほとんどの人は疲れた表情で、そんなことは、どうでも良さそうだった。その中で、一番元気だったのは、間違いなく、真貴だった。

「ほんとうに、どれだけ体力あるんだろう。私たちと、そんなに体格も、違わないのに」

「昨年、松橋さんが、仕事をクビになった時、鈴井さんから、地元で災害ボランティアをやっているって聞いて、手伝いも兼ねて、会いに行ったら、その時もそうだった。みんなが、バテてるのに1人だけ元気だった」

「私、大丈夫かな? 松橋さんに、ついていけるかな」

「大丈夫だよ。たとえ、できないことがあっても、見捨てたりはしないよ」

「それなら、良かった。安心した」

「でも、松橋さんって、クビになるまで、毎朝社内の掃除をやっておられた。途中から、私も手伝うようになったけど、4月以降も、やられるのかな? 」

「そんなことを、毎朝? さすが、化け物」

「そう。化け物」

 この会話を、また真貴に聞かれていたようだ。

「また、化け物の話? 明日花、毎朝掃除していると思うけど、4月からはしなくていいよ」

「まさか、松橋さんが、されるんですか? 」

「それが、残念だけどグループ企業に、清掃会社があって、そこを頼まないといけなくなった。だから、3月までは、しっかり頑張って」

「はい。しかし、さすが、鈴井グループですね? どんな、会社もあるんですね」

「そうだね。だから、失敗は、できない。2人にも、期待しているから、よろしくね」

「なんか、プレッシャーを感じました」

「プレッシャーなんて、感じなくていい。自分だけで、なんとかしようとは、考えないで、みんなでやる。失敗したら、全て私の責任なんだし。ところで、今夜も2人は、泊まっていく? 」

「帰るつもりですが」

 そう言って、沙織を見ると、

「私も、そのつもりですが、帰れなくなったら、お願いします」

「たとえ、帰れる状態でも遠慮しなくていいよ。それとも、この前、何か不満でもあった? 」

「全くありません。ものすごく、快適でずっと住んでいたいくらいでした」

「じゃあ、ずっと住んでみる? 2人の給料、なくなってしまうけど」

「あそこって、マンションなんですか? 」

「2人が、泊まった部屋は、お客さん用だけど、違う階にマンションもある。実は、私も1つ狭いところを持たされているけど、そこにいると、しょっちゅう鈴井さんから呼び出されたり、やって来たりするから、落ち着かなくて、滅多にいない」

「もったいない」

 2人で、声が揃った。

「どこが? ほんとうに、寝させてくれないんだよ。だから、全然寛げない」

「でも、食事とかも、運んでもらえるんですよね? 」

「たしかに、そうだけど。でも、食事は1人なら買って帰ってもいいし、食べに行ってもいいからくつろげる方を選ぶな」

「まあ、自由な時間は、欲しいですよね」

「それで、今夜はどうするの? 」

 明日花と沙織は、泊まることに決めた。そして、真貴は時間を確認して、その場を締めた。


 今夜も、2次会の流れになったが、疲れている人が、多かったようで参加者は、少なかった。店は、前回とは違い、6階にあった。そこは、とても庶民的なスナックだった。ママと思われる少し年配の女性は、真貴を見つけると、嬉しそうに、

「真貴ちゃん、いつもありがとう」

「いつも、突然で、すみません。8人ですが、大丈夫ですか? 」

「見ればわかるでしょ? いつも、空いてると思って、ここに来ているでしょ」

「いいえ。私、このビルでは、一番好きなスナックなんです」

「このビルの住民や、働く人が、もう少し真貴ちゃんみたいな感覚だといいんだけど」

 全員が、案内された、ボックス席に座った。と、言ってもボックスは、3つしかない狭い店だ。案内されなくても、だいたい、どこに座ったらいいかは、わかった。店員2人が、全員の飲み物を聞いて、手際よく作った。乾杯が、終わると真貴が、明日花と沙織を店の外に、連れ出した。そして、ランジェリーショップに行き、2人の下着を買ってくれた。

「これで、今夜は、安心でしょ? 」

「そうですが、私には、こんなに高い下着は」

「そうですよ。こんなの、請求されても払えません」

「払わなくて、いいよ。このビルでは、私は最強だから」

「カードを使われましたよね? 」

「当たり前でしょ。流石に、無料には、ならない。普通に、捕まっちゃう」

 2人は、嬉しそうに、それをしまった。そして、スナックに戻ると待っていたように、店員が、

「真貴さん、おかえりなさい。すみません、待ってました」

 そう言って、真貴の前に空のグラスを、真貴の前で、振った。もう1人の店員も、話を途中でやめて、

「ずるい。真貴さん、私にもお願いします」

「2人とも、私が戻ってくるのを、待っていたの? 勝手に飲めば、よかったのに」

「そんなことしたら、ママにまた、説教されちゃいます。怖いですよ、うちのママ。この前なんて、2人一緒に明け方までだった」

「一体、何したの? 」

「それが、2人とも酔っ払っていて、何でそこまで怒られたか覚えてません。だから、ママが帰ってから、片付けや掃除をしたんですが、ただ単に機嫌が、悪かったんだとの結論に至りました」

 ママに聞かれないよう、小声で話しているようだったが、真貴の隣に座っていた、明日花とその隣にいた沙織の耳にも届き、笑っている。

「もっと、小声で話さないから、ママにも聞こえて、怖そうな顔で、沙子のことみてるよ」

「嘘でしょ」

 沙子は、恐る恐る、カウンターの方を見て、ママを確認した。すると、カウンターにいた2人の客と、楽しそうに話していた。

「真貴さん、意地悪」

 と言って、不満そうに真貴を見た。笑っている真貴に、

「真貴さんが、ほかの人と一緒に来られるのは、珍しいですが、同僚の方ですか? 」

「私、今は無職だって、言ってなかった? 」

「そういえば、そうでしたね。だったら、何の集まりですか? 」

「次の仕事の同僚になる人たち」

「同僚じゃなく、全員部下じゃないですか? 」

「えっ、真貴さん、社長になるんですか? もちろん、鈴井グループですよね。それなら、私を雇ってください。お願いします」

「まだ、どうなるか、わからないような会社で働くより、ここで頑張った方がいいと思う。案外、私がこの店で、働くようになるかもしれないし。それに、このビルに居れば、そのうち、チャンスがあるよ」

「こんな、あまり人気がないスナックの店員なんて、このビルの中でも最底辺じゃないですか? そりゃ、今までの私が、なんの努力もしなかったので、仕方ないですが、チャンスなんて、ないと思います」

「このビルに入る店は、鈴井さんからお墨付きをもらっている。ママは、厳しい審査を耐えた人だから、間違いない。辛いこともあるとは思うけど、ママの言うことはきちんと聞いて」

 真貴が、話している間に誰かがこっちに、近づいてきた。

「その通りだ。私は、頑張っている人にはチャンスを与える。真貴のように。君だって、ここで働いているということは、このビル以外の店では、レベルが上のはずだ」

 突然、現れた鈴井にみんながそれぞれお礼を言った。

「それにしても、真貴はこの店が好きだな。もっと、おしゃれな店が、いっぱいあるのに」

「私は、ここが一番、落ち着くんです」

「相変わらず、庶民的だな。まあ、それも真貴らしくて、いいんだが。とりあえず、カウンターに移ろう」

 鈴井と真貴は、カウンターに移って、2人で飲み始めた。沙子は、それからは、笑顔で、明日花と沙織とくだらない話をしていた。


 しばらくして、また、沙織の様子が、おかしくなってきた。前回のこともあったので、明日花も気をつけて観察していた。ここが、限界だと判断して、真貴に、

「そろそろ、出ます」

 と言って、沙織を立たせて、店の出口に向かう。明日花とは、反対側の腕を自分の肩に回して、真貴も沙織が歩くのを支えた。

「沙織、大丈夫? 」

 2人が、何度も問いかけるが、時々、

「大丈夫です」

 と、返事がある。明日花は、この階から先日の部屋に向かうのは、初めてなので、真貴が歩く方向に必死で沙織を導く。広いビルを、クネクネ曲がり、ようやくエレベーターにたどり着いた。それに乗っている間は、一息できると思っていたが、とても高速で、一瞬でついた。降りて、少し歩けばこの前の部屋だった。沙織をベッドに寝かせると、真貴は、

「私は、また戻るけど、明日花は、どうする? 」

「私は、もうここにいます」

「じゃあ、お疲れ様」

「お疲れ様でした。ありがとうございました」

 それを聞いたかどうかのタイミングで、真貴は、出て行った。明日花は、それを見届けると冷蔵庫からお茶を取り出して、一口飲んだ。しばらく、ベッドに腰掛けて、ボーっとしていると、視線を感じた。沙織を見ると、目を開けて、こっちをじっと見ていた。

「どうしたの? 」

「水が、欲しい」

「ちょっと待って」

 真貴は、冷蔵庫から、水を取り出して、沙織に渡した。沙織は、受け取って、顔に当てた。

「冷たくて、気持ちいい」

 そう言って、体を起こして、キャップを開けて、一口飲んだ。

「また、松橋さんに、迷惑かけてしまった。もちろん、明日花にも」

「私は、気にしてないよ。多分、松橋さんも」

「だといいけど。でも、ここに運んでもらっている間に、何回か正気に戻った時があって、松橋さんの顔を見た。そうしたら、一瞬たりとも、嫌そうな顔を見せなかった。神だね。さっきのスナックの沙子だって、どう見てもギャルなのに、そんな子にまで、優しく相手する」

「そうだね。沙子なんて、多分、松橋さんとは真逆だと思うのに。ちょっと、嫉妬してしまった」

「ママに、しょっちゅう、叱られてるって、言っていたけど当たり前だと思った。もっともっと、きつくお願いしますって、感じだった」

「でも、沙織は、楽しそうに話していたじゃない」

「実際、話自体は、面白かった」

「あの服って、ママが、準備したのかな? 」

「そうじゃない。2人とも同じだったし。おまけに、地味すぎて似合ってないし、スカートが、超短くて下着が丸見え。あの子たちには、ちょうどいい」

「私は、ちょっとかわいそうだと思った」

 沙織は、何か言いかけたが突然横になって、布団をかけて、

「おやすみ」

 と言って、寝てしまった。


 翌朝、明日花が、目覚めると、沙織はすでに起きていた。風呂上がりのようで、ドライヤーで、髪を乾かしていた。残り少なくなっていた、お茶を飲み干して、テレビのスイッチを押した。

「おはよう」

 元気そうに、沙織が言った。

「まだ、早いのに、元気そうだね」

「昨夜、明日花が止めたタイミングが、よかったみたい。すごい、さわやかな目覚めだった」

「じゃあ、今度からもあれくらいで止めるね」

「明日花、昨夜の下着付けてる? これ、いいね」

「うん。とてもいい」

「明日花は、今日予定ある? 」

「私、予定が入っている日って、ほとんどない」

「昨夜、この下着を買いに行く時に、行きたい服屋を、見つけたんだ。付き合って」

「昨夜、よればよかったのに」

「もう閉まってた」

「このビルの店って、高いんじゃないの? 」

「そうかもしれないけど、高かったら買わなきゃいい。見るだけなら、ただでしょ」

 朝食を食べて、開店する時間まで、テレビを見ながら喋っていた。そして、開店の少し前に、真貴に電話した。

「ごめんなさい。今日は、鈴井さんの講演会なので、もういないの。管理人さんに、行ってもらうから、少し待ってて」

 電話を切って、まもなく管理人がきた。目的の店がある、5階でエレベーターを降りた。その店は、開店したばかりのようで、店員が、入口の掃除を終えたところだった。彼女は、明日花と沙織を見ると、近くに来て、

「明日花さんと沙織さん。昨夜は、ありがとうございました。沙織さん、具合悪くないですか? 」

 2人とも、この店員が誰か、わからない。名札を見ると『須田春羅』と書いてあった。聞いたことない名前だ。

一瞬のうちに脳を回転させた。考えるのを諦めた時、

「すみません。沙子です。源氏名なんです。そんなに、わかりませんか? 」

 昨夜と違い、落ち着いた化粧で、大人びた感じだったので、全くわからなかった。春羅は、話し続ける。

「私、こっちが、本業なんです。お2人が、来ていただき嬉しいです」

「明日花。私、入る店を間違えた。ここじゃなかった」

「沙織さん、そうおっしゃらず、ご覧になってください。お願いします。私、引っ込みますので」

「沙織、ちょっとだけでも、見ていこうよ」

「私は、向こうに行ってます」

 そう言って、春羅は店の奥に入って行った。沙織は、近くにあった服を見て、

「ここ、割と安いよ。あいつがいるのは、気に食わないけど、いい店だな」

「昨夜と、雰囲気も全く違うし、別人だと思ってあげようよ」

「うん。本気で、買いたいからそう思うことにする」

 そして、沙織は、いろいろ見て回る。明日花も、ついて歩くと、本当に安いと思った。これなら、買ってもいいと、カゴに入れた。レジに2人で行くと、春羅とは違う店員が、対応した。会計を済ませて、店を出ようとした時に、春羅が現れた。

「お2人とも、買っていただいたんですか? ありがとうございます。また、よろしくお願いします」

 何か、言葉を返そうと思ったが、それが浮かばなかったので、無言で、立ち去った。


 その1週間後、真貴から飲みの誘いが、あった。集合場所は、新事務所だった。呉山と西原は、誘われてないと言って帰って行った。電車に乗って、急いで行くと、真貴が、パソコンに向かっていた。明日花に気づくと、

「まだ、沙織が来てないから、適当に座ってて」

「今日って、沙織もなんですか? 」

「あれ、言ってなかったっけ? ごめん」

「松橋さん、何をやっておられるんですか? 」

「ん、4月に、みんなが仕事がなかったら不安でしょ? だから、私だけで少しずつ商談とかしてるんだ」

「松橋さんのことだから、4月まで何もしておられないわけないと、思ってました」

「私だって、不安がないわけじゃない。それも、日に日に大きくなる」

「調子は、どうですか? 」

「思ったより好調だよ。とりあえず、半年は潰れない」

「よかったです。ところで、この前より、事務所らしくなったのも、松橋さんがひとりでやられたんですか? 」

「少しずつね。みんな、案外、体力ないし」

 そこへ、沙織が、やって来た。

「すみません。遅くなりました。なんか、だいぶ事務所らしくなりましたね。あれ、明日花」

「沙織も、明日花がいること、知らなかったっけ? じゃあ、行こうか」

 3人で、鈴井ビルのしゃぶしゃぶ店に行った。真貴は、お互いの仕事の状況を、細かく聞いた。そして、十分に食べた頃、

「そろそろ、次に行こうか? こっちが、今日のメインだから」

 そう言って、会計を済ませて、店を出た。


 2次会は、沙子のいるスナックだった。

「どうして、ここがメインなんですか? 」

「私も、あまり気が進みません」

「あなたたち、沙子と何かあった? 」

「いいえ」

「別に、何も」

 真貴が、扉を開けると、沙子が、

「いらっしゃいませ。真貴さん、ありがとうございます」

 と言って、3人を迎えた。ボックスに通され、飲み物を作る。今日は、アパレル店員のメイクだ。3人で、乾杯すると、真貴が、沙子に飲み物を勧めるが、突然、土下座して、

「明日花さん、沙織さん、大変申し訳ありませんでした。私のせいで、気分を害しました。どんなお叱りでも構いません。どこが、いけなかったのか、お教えください」

 という。下着が、丸見えなのも全然、気にしていないようだ。2人は、呆気に取られて何も言えない。すると、何度も、

「お願いします」

 と、頭を下げる。そのうち、沙子の頬に涙が流れた。真貴が、

「沙子、もういいよ。ここに座って」

 と、言って、ソファを差し出した。沙子が、それに座ると真貴は、おしぼりで、涙を拭いてやった。

「あなたたち、沙子がこんなにお願いしているでしょ? いつまで、黙っているのよ」

 明日花は、振り絞るように、

「初めて、ここで会って、ギャルは、苦手だと思いました」

 沙織も、

「私も、です。特に、接客で、悪い点は、ありませんでした」

「あなたたちは、アパレルショップでも、会ったでしょ? ギャルメイクじゃなかったでしょ」

「はい」

「沙子と、あっちにいるりらは、アパレルショップをやりたくて、それも、ギャル向けのを。その夢に向かって、大学を卒業して、2人で、オープン前のあの店に採用されたの。最高の接客を学びたいと、給料は少なくても、鈴井ビルの入っている店を選んで。でも、あの店のご主人は、とても厳しくて、ギャルメイクは、禁止された。さらに、奥さんが営むスナックが、店員に辞められてしまって、半ば強引にこの2人に、ダブルワークをさせたの。ギャルメイクは、許されたものの、こんな制服を着せられ、それでも夢のために、一流の接客が、できるようになりたいと、もう3年も、頑張っている。だから、私は応援している」

「すみませんでした。私、見た目だけで、判断していました」

「私も、すみませんでした。あまりにも、下手なので、年下だと思って、失礼な言動をしてしまいました」

「ごめんなさい。明日花については、私の教育が、悪かった」

「いいえ。仕方ないんです。やっぱり、ギャルなんて、敬遠されるし、店員なんて、お2人のような立派な仕事じゃないですから」

「いつか、2人に、夢を持って、一生懸命頑張れば、どうなっているか見せてやって」

「まだ、どうなるか、わかりませんよ。このまま、終わるかもしれません」

「どっちの店も、2人しかいないから、なかなか辞められないね」

「そうなんです。入っても、すぐ辞めてしまって、定着してくれません」

「真貴さん。私も、そっちに行かせてもらって、いいですか? 」

「いいに決まってる。早くおいで」

 りらが、沙子の横に座った。

「あっ、レジを打っておられた店員さんだったんですね? 」

「そうです。りらって言います。よろしくお願いします」

「りらさんも、今日は、ギャルメイクじゃないんですね? 」

「沙子に合わせたんです」

「ところで、今日はママは? 」

「わかりません。よくあることです。理由を聞くと怒られるし、帰ってくると売り上げが少ないと怒られる。閉店まで、来られないのが、私たちにとっては、一番いいです」

「本当に、よく似た夫婦なんです。いっそ、どっちの店も乗っ取ってしまおうって、話してます」

「そうしたら? 」

「でも、やっぱり私たちは、あの夫婦からたくさん学んだことを感謝しています。きっと、店を持った時、より感じると思います」

 明日花は、沙子とりらを、見る目が尊敬に変わっていた。と、同時に反省もした。お互いに、この前より口数は減ったような気がしたが、充実した時間を過ごすことができた。


 翌日、また鈴井の客室で、目覚めた明日花と沙織は、開店を待って、春羅の店に行った。

「いらっしゃいませ。また、ご来店いただきありがとうございます」

「昨夜は、ありがとうございました。私たち、須田さんみたいな夢はないけど、4月から負けないように頑張ろうと誓い合いました」

「お陰で、昨夜は、結構飲んだのに、潰れなかったし、朝もスッキリしています」

「よかったです。お互いに、頑張りましょう」

 春羅は、手を差し出して、握手を求めた。

「ところで、今日は、何をお探しでしょうか? もちろん、ご覧になられるだけでも構いません」

「とりあえず、見させてもらいます」

 そう言って、2人で、店内を見回す。明日花は、欲しいものはあったが、金銭的に買うつもりは、なかった。しかし、春羅が、

「お2人に、似合いそうな服を選んでみました。いかがですか? こっちが、明日花さんで、こっちは、沙織さんのです」

 春羅は、そう言って、それを試着室のドアに掛けた。たしかに、沙織に似合いそう。しかし、私に選んでくれたのは、どうだろう。普段、着ることがない色とデザイン。値段も気になる。

「明日花、それ似合いそうじゃない? 綺麗な色だし、清楚でありながらかわいい」

「そうかな」

「試着してみては、いかがですか? 」

「えっ、買うかどうか、わかりませんよ」

「構いません。どうぞ」

 春羅は、試着室のドアを開ける。どうしようか、迷っていると、沙織が、

「私も、これ、着てみるから。で、お互いに見せよう」

 そう言って、沙織は、試着室のドアを閉めた。明日花も、仕方なく試着室のドアを閉めた。そして、値段を確認した。思ったより、安かった。でも、今の私がこれを買ったらとか、そもそも似合うのかとか思いながら、着替えていた。そして、恐る恐るドアを開けると、すでに試着室を出ていた沙織が、目を見開いて言った。

「かわいい。すごく似合ってる」

「沙織のも、いいよ」

「お2人とも、よくお似合いですよ。私、職業病なのか、この人は、どんな服が似合うだろうとすぐ思ってしまいます。実は、昨夜も、お2人に似合う服は、考えていました」

 結局、2人とも、それを買うことにした。レジには、濱邊遥希と名札をした、りらがいた。

「ありがとうございます。お2人とも、よく似合ってらっしゃいます」

 そう言って、タグを切ってくれた。春羅と遥希は、2人で並んで見送ってくれた。


 良い週末を過ごして、出勤した明日花は、朝礼で部長から、衝撃的な発言を聞くことになった。

「社長から、各部で最低1人は、希望退職者を出して欲しい。もし、いなければリストラ候補を挙げてくれ。とのことでした。誰か、希望者いますか? 」

 みんなが、俯いて、黙っていた。明日花は、手を上げたいところだったが、真貴が認めてくれるか不安だった。3月末まで、全力で働く約束だったから。

「それは、今すぐ、答えなければいけませんか? 」

 部長は、それを聞いて、明日花に退職の意思があると、決めつけて言った。

「少しは、待ってもらえるかもしれないけど、連沼さん以外には、誰もその気はないみたい。だから、もう決まったような感じね。ありがとう」

「私は、私に限らず、時間が必要ではないかと思って、聞いたんです」

「私を含めて、みんな、時間をかけても考えは変わらないと思う。連沼さん、誰かに相談したいならその時間は、待ってあげる。早く、電話して」

 明日花は、無言で、立ち上がって、部屋を出た。そして、真貴に電話して、状況を説明すると、

「すでに、呉山さんと、西原さんから、電話があった。いつからでもいいよ。落ち着いたら、新事務所に来て」

 明日花は、部長に退職することを告げ、机を片付け始めた。明奈が、

「本気で、やめちゃうんだ。どっか、仕事のあては、あるの? 」

「ありません」

 明奈みたいに、信用できない人に本当のことを言うわけない。

「私にとっては、明日花が立候補してくれてありがたいけど、後悔するよ」

「すでに、この会社に入社したのを、後悔しています」

「明日花って、嘘つきね。たいして、仕事しなくても給料は、割といい。最近は、そうでもないけど、こんないい会社なかなかないよ」

 少なくとも、みんなが、あなた以上に仕事していると最後だから言ってやろうと思ったが、やめた。明奈の相手をするより、今は、この会社から、早く出て行きたい。そして、1時間ちょっとで荷物をまとめた。

「みなさん、短い間でしたが、ありがとうございました」

 そう言って、営業総務部を後にした。廊下に出ると、呉山と出会った。

「明日花ちゃんは、荷物それだけ? 俺なんて、長くいた分、簡単に運べる量じゃない。それで、西原にレンタカー借りてくるように、お願いしたから、一緒に乗ったらいい」

「ありがとうございます。私も、この重い荷物を持って歩くのは、ちょっと嫌だと思ってました」

 階段を降りると、西原が、車から降りたところだった。

「明日花ちゃんも一緒になったんだ。じゃあ、ここに載せて」

 西原は、ワンボックスの荷台を開けた。明日花は、そこに荷物を入れた。

「まさか、それだけ? 」

「そうです」

「いいな。俺は、なん往復すればいいんだ」

「手伝いますよ」

「明日花ちゃんに、手伝わせるわけにはいかない。と言いたいところだけど、お願い」

 快く引き受けたが、呉山と西原の荷物はとても多く、重かった。明日の筋肉痛になることは、間違いなかった。


 新事務所と言うか、明日からの私たちの職場になるのだが、そこには、真貴が1人でパソコンに向かっていた。

この前より、ソファや棚が増え、事務所らしくなっていた。

「もう、やってきたんですか? 本当に、信じられない会社ですね。まあ、あっちに決まりそうな取り引きを取ってしまいましたが」

「えっ、そうだったんですか? 」

「ちょっと、情報を仕入れて、私としては、試しに高い金額を提示したら安かったみたいです。みなさんが、関わっていたなら、ごめんなさい」

「あっ。多分、俺が、行ったところだ。久しぶりの大口だったので、部長とかも喜んでいた。それなのに、後日、珍しく部長自ら、そこに行ったはず。たしかに、割引きなんてほとんどないから、高いはずだ」

「それで、上手くいかなかったから、リストラ。それも、どうせなら部長クラスをすればいいのに。私は、みなさんに、そんな失礼なことはしませんので、安心してください」

「ありがとうございます」

「でも、問題は、少しでも早く、契約を取ろうと思ったら予想外に取れてしまいました。人数少ないのに、大丈夫かなと。工事業者も、あまり知らないです」

「前の会社が、頼んでいたところは? 」

「聞いて、少しずつお願いしています。あと、現社長から紹介されたところと、グループ企業。どこも、フル稼働しても、7月頃まで、かかりそうです」

「一体、どれだけの契約をとったの? 」

「前の会社の月間最高売り上げの2カ月分くらいです。あと、師匠の会社と師匠と親しい会社は、待ってもらっている状態です」

「1人で、そんなに契約とって、事務所の物を運んだり、頑張りすぎでしょ」

「そんなに、頑張ってないです。師匠の講演会で、チラシや名刺を配って、あとは、グループ内の情報で掴んだところを廻っただけです」

「実際、言ってなかったけど、前の会社で、営業に歩いてて、真貴ちゃんを知っている会社の社長は、だいたい契約取れた。営業部って、真貴ちゃんさえいたら、いらないんじゃないかと何回も思った。もちろん、契約をとった時には、そんなことは、全く話に出さずに自分の営業力だと信じてたけど」

「その通りです。私みたいな、小娘を相手にする社長なんてほとんどいません。今回は、奇跡的に契約をもらいましたが、失敗もしましたし、心無い言葉もずいぶん浴びました」

「でも、その営業成績ならその人達を見返せる」

「私は、そんなことよりとりあえず工事をなんとかしたいんです。出来なかったら仕方ないんですが、4人で、学んで、やれるだけのことをやりたいです。協力していただけませんか? 」

「工事。俺は、やったことも見たこともない」

「私も、不安です」

「俺、不器用だから」

「私だって、見たことないです。だから、できるようになってくれとは、言いません。ただ、少しでも手伝える事があって、それによって、少しでも、工期が、早くなれば良いな。という程度です。まだ、4月まで、半月近く残っていますし」

 3人は、顔を見合わせて、渋々承諾した。


 翌朝、出勤すると、春羅が、大きい段ボール箱を抱えていた。

「おはよう御座います。多分、明日花さんは、このサイズだと思います」

 そう言って、作業着を手渡された。

「早く、更衣室で、着替えて来て」

 そういった真貴は、すでに作業着姿だった。本当に、工事をしに行くのかと、少し憂鬱になった。着替えると、呉山と西原が、出社したところで、明日花の姿を見ると、

「本当に、みんなで、工事に行くのか? 」

「そうですよ。早く着替えてください」

 春羅が、段ボールを再び開けた。呉山と西原は、自分に合ったサイズのものを取り出し更衣室に向かった。そして、着替えが終わると、

「サイズは、いかがですか? 」

 そう、春羅が聞くと、2人ともちょうどいいとのことだったので、

「ありがとう、春羅。朝早くに、ごめんなさい」

「いいえ。こちらこそ、ありがとうございました。また、お願いします」

 そう言って、会社を出て行った。それを、待っていたかのように、3人で、真貴に不満を言うが、

「まだ、見たことないことだから、見学に行くんです。出来そうなことが有ればやってみたら、きっと、いい経験になると思います」

 そう言われて、3人が、黙ったタイミングで、会社のドアが開いて、2人の男が、元気よく、

「おはようございます」

 と入ってきた。真貴が、

「おはようございます。今日は、ありがとうございます。よろしくお願いします」

 と、笑顔で迎えた。そして、ソファに座るように促すと、

「今日、お世話になる、グループ企業の藤井さんと上木さんです」

「よろしくお願いします」

 元気な2人とは対照的に、3人の声は、小さくて、バラバラだった。

「私も含めて、工事を見るのは、初めてなので、緊張しています。何か、お手伝いできることでもあれば、遠慮なくおっしゃってください」

「難しいことは、ほとんどないです。少しの体力と根性が有れば」

 藤井の言葉を聞いて、少しだけ安心した。そして、いよいよ現場に移動することになった。真貴と藤井は、商品を積み込んだトラックに乗り、明日花は、呉山、西原、上木と同じ車に乗った。上木は、よく喋るようで、運転しながら、

「真貴ちゃん、見るのも初めてなんて言ってましたが、あれは、嘘です。大学生の時に、鈴井社長から研修ということで、うちの会社にも来て、工事も経験しています。俺は、その時、2年目の時でしたけど、自分があんなの受けていたら、とっくに辞めてました」

「どんな研修だったんですか? 」

 つい、質問してしまった。

「当時のうちの社長は、鈴井社長からのお願いだから、快諾したんですが、部長は、今の社長なんですが……は『この忙しい時に、いかにも足手まといな女なんかを』と言って、初日で辞めさせようと、厳しくしてました。いくら、鈴井社長が『殴っても蹴っても構わない』と言ったとしても、女子大生ですよ。あの商品、男でも重いのに1人で運ばせて、遅いと言って何発もビンタ。そんなに遅くもなかったんですよ。みんなが、絶対にもう来ないと思っていたのに、翌日も頬を腫らして笑顔で来ていたんです。その日なんて、脳震盪を起こして、救急車で運ばれたのに、翌日も来ました。結局、研修で仕事を完璧にやったんです。その根性を、誰もが認めました。そして、鈴井社長の秘書か、会社のトップクラスの役職を与えられると思われていたのに、他所の会社に入っていたとは、驚きました」

「私は、そんなに重いものを持てないですが、邪魔になりませんか? 」

「おそらく、真貴ちゃんは、連沼さんにそれをしてほしいとは、思ってないです。実際、それから先が、面倒くさいことが、たくさんあります。『自分が、できることを精一杯やってくれ』って、鈴井社長が、よく言われます。

真貴ちゃんも、その考え方じゃないですか? 」

「たしかに、そんなニュアンスを聞くことは、あります」

「ただ、鈴井社長は、そう言いながらも自分にできることが、なぜできないという裏の考えを持っている。真貴ちゃんに関しては、その考えは、ないと思います。みなさんが、羨ましいです。グループ企業の中にも独立思考とかないなら、鈴井社長より、真貴ちゃんの下で働きたいと思っている人は、多いです。実際、直接交渉した人もいます。みなさんのあとを、狙っている人は、たくさんいるということは、覚えておいてください」

 その言葉が、終わった時、現場に到着した。真貴と藤井は、すでにトラックから商品を降ろして、運んでいた。

「みなさんは、どうされますか? もし、運ばれるなら、2人でもいいかと思います。俺は、連沼さんとしましょう」

 車に乗っている時の話のせいか、上木に従って、2人1組で運ぶ。明日花は、上木のおかげで、ほとんど力を入れていなかった。全部を運び、次は、取り付けだ。効率よく進めるため、明日花と真貴は、藤井に教わる。力仕事以外は、明日花も手伝った。そして、設定するが、これが手間はかかるが、説明書を見て、本体やリモコンに表示されたことを正確に入力するだけだった。

「明日花、こういうの得意なんだね? じゃあ、これを任せる」

「これで、設置完了だよ。俺は、次のをやるから、2人で、別のをやってみて」

「私たちにできますか? 」

「できるに決まってる。真貴ちゃん、やっぱりちゃんと覚えてるじゃない。さすが、あれだけ厳しい研修に耐えただけあるよ」

「やめてください。もう何年も前のことで、忘れています。それに、私、簡単なことばかり教わっているのに全然出来なくて、どこに行っても怒られてばかりだったんですから」

「そんなことは、なかったはず。まあ、俺は次のに取り掛かろう」

 そう言って、その場を離れた。その後、明日花は真貴と2人で1つを取り付けた。すると、昼を過ぎていたので休憩になった。


 近くのラーメン屋に入った6人は、座敷に陣取った。藤井が、

「俺、今日は、持ち合わせが。社長、どうしましょう」

「私、まだ社長ではありませんし、こんな時だけ、そんな呼び方されても、誰のことかわかりません」

 真貴が、そう返すと、みんなが、

「社長」

 と言い出した。明日花も、流れで言った。すると、このままでは、収集がつかないと思ったのか、真貴は、

「半年も無職の私が、奢るんですか? ひどくないですか。じゃあ、4月から私をしっかり支えてくださいね」

「ありがとうございます」

 みんなが、それぞれお礼を言ってから、注文した。真貴は、ちょっとだけ拗ねた表情をしていたが、急に笑顔で藤井に聞いた。

「私たち、戦力になってますか? 手伝えば、どのくらい工期が、縮まりますか」

「まだ、半日だけなので、なんとも言えないけど、かなり助かっている。さすが、真貴ちゃんが、引っ張ってきた人たちだ」

「俺は、この仕事を毎日したら、腰が壊れそうだ」

「慣れてないからです。すぐになんともなくなりますよ」

「それは、真貴ちゃんだけかも」

「そうですか? それなら、みなさんは、リタイアしない程度に頑張ってください」

 上木の声を久しぶりに聞いた。

「これだよ。真貴ちゃんの人気は。自分が、できるからと言って、他人もできるとは、思わないところ。どうせなら、うちの会社の社長も、やってよ」

「私、そんなになんでもできないです。きっと、社長になってもみんなに迷惑かけるだろうと不安です。実際、工事部門の会社も持ちたかったんですが、そっちは、伊勢社長のような立派な方がいらっしゃるので、諦めました」

「真貴ちゃん、本気でそう思っているの? あんなに暴力振るわれたのに」

「また、あの時の話ですか? それは、私が、仕事できないから仕方ないです。今でも、感謝してます。今日のことを話しに行った時も、快諾していただきました」

「社長、そんなこと言わなかった」

「伊勢社長って、怖い方なんですか? 」

 どうしても、聞いてみたかった。

「怖くはない。暴力を振るったのも、真貴ちゃん以外には、知らない。むしろ、頼りない。やる気にさせるような言動もないし、何もしない」

「部長の時は、しっかりしてらっしゃったじゃないですか」

「社長になるまでに、頑張り過ぎて息切れしたんじゃない」

「へー。さあ、仕事に戻ろう」

 真貴は、そう言って、さっと伝票を持って、レジに向かった。それに続いて、みんなが立ち上がった。午後の作業は、慣れてきたこともあり、予定より早く終わった。


 事務所に戻っても、まだ終業時間になっていなかった。そこで、真貴は、3人を鈴井ビルにあるマッサージ店に連れて行った。

「4人ですが、空いてますか? 」

 真貴が、そう言うと、店員は慌てて、

「少々、お待ちください」

 と言って、奥に入って行った。とりあえず、入口に置いてある椅子に座ると、さっきの店員が、誰かを連れて戻ってきた。その人は、名札によると店長だった。

「なんだ、真貴ちゃんか。いらっしゃいませ」

 それだけ言って、さっきの店員の方を見た。すると、店員は、

「VIPです」

「それで、私を呼んだの? 」

「私は、VIPじゃないです。普通に接していただいて、構いません。4人ですが、空いてますか? 」

「大丈夫よ。じゃあ、どうしようかな」

 そう言って、店長は、それぞれにセラピストをつけた。明日花は、店長が、マッサージをしてくれるようだ。言われたように、うつ伏せで、ベッドに寝ていると、準備ができたようで、

「店長をしております、香野亜生です。よろしくお願いします。全身ということで、よろしいでしょうか? 」

「蓮沼明日花です。全身で、お願いします」

「明日花ちゃんですね。まだ、若いのに、ここに来るなんて、何か力仕事でもされたんですか? 」

「はい。まあ」

 ほかの人に聞こえるといけないし、小声で曖昧な返事をしたことで、亜生は察したようだ。

「そんなに防音が、しっかりしているわけではないですが、個室で、BGMも流しているので、ほかの人には、聞こえません。それに、例え真貴ちゃんの悪口を言っても私は、誰にも言いませんので、安心してください」

「いいえ。私、松橋さんの悪口を言おうと思っても、何も浮かびません。ただ、今日、契約を取りすぎて、工事が間に合わないからと、手伝いに4人で行ってきました」

「そうでしたか。それは、大変でしたね」

「私は、力仕事は、やっていないので、体は、大丈夫です。でも、これから先、松橋さんの行動力についていけるか、不安になっています。社長の松橋さんに、力仕事を任せてばかりいられないですし」

「そうですね。真貴ちゃん、小さくて華奢なのに、よく動くしパワフルですよね。側から見ても凄いと思います」

「私は、体力も根性も頭も、何も持ってないです。松橋さんに、そのうち見捨てられるんじゃないかと、改めて思いました」

「真貴ちゃんは、見捨てたりしないですよ。むしろ、ついていけなくなった人に手を差し伸べると思います。これは、ここだけの話にしてください。鈴井社長と真貴ちゃんは、2人でこの店に来ていただいてますが、私は、鈴井社長につくんです。すると、よく『真貴は、汚い。あいつは、俺を師匠と呼ぶのに完コピは、しない。自分なりにアレンジして、より良い方に持っていくんだ。俺の講演会も、優秀な秘書を3人連れて行くより、真貴だけの時が全てにおいて順調だ。最近では、真貴に会いたくて、来るやつもいる。このビルの店に2人で入っても、真貴の方が、人気になった。俺は、こうなったら、さっさと引退して、真貴に任せて、上納させようかな』なんて、おっしゃってました。たしかに、以前はこのビルのほとんどの人が、鈴井社長の会社に引き抜いてもらいたいと思っていたのに、真貴ちゃんが、会社をやることが決まってからは、そっちの方が、人気なんですよ」

「そうなんですか? そもそも、松橋さんは、そんなに有名なんですか」

「このビルの店は、よく2人で、行かれるんです。私も、最初にあった時は、若くて可愛いから鈴井社長が、連れて歩いているだけだと思っていたのに、よく気がつくんです。それに、若い子に対しても、偉そうにしたことなんて、見たことないです。そういえば、明日花ちゃんたちが、来た時、受付にいた子を、真貴ちゃんにつけたけど、最近、うちで働き出したので、初めてのお客さんになります。おそらく、彼女上手くなっていますよ。真貴ちゃんは、どの辺をどの位の力で、というのを的確に教えるんです。この店では、2人が真貴ちゃんにデビューさせてもらったし、ほかの店の若い子も、彼女に自信をつけさせてもらって、成長したと思います。明日花ちゃんは、毎日見てもらえるから、その子たちに、負けないように頑張ってください。じゃあ、時間です」

 明日花は、着替えて、お礼を言って、施術室を出た。3人は、まだ出ていなかったので、受付近くの椅子に座って、待っていると、真貴が、ドアを開けて、出てきた。何を喋っているかは、わからないが、真貴についていた子は、何度もお辞儀して、握手を求めた。真貴は、それに応じると、その子の肩をぽんぽんと叩いた。その子は、満面の笑みで、レジにやってきた。そして、明日花に気づいて、

「もう、終わってらっしゃいましたか。いかがでしたか? 」

「気持ちよかったです。体が、軽くなったような感じです」

「よかったです」

 そんな会話の最中に、真貴は、明日花の隣に座った。そこへ、亜生が来て、

「あの、男性2人は、延長されたみたいです。どうされますか? 」

「じゃあ、どこかで時間を潰してきます」


 明日花は、真貴の後ろをついて歩く。すると、春羅の店に着いた。

「いらっしゃいませ」

 元気な春羅の声が響く。

「今朝は、ありがとう。朝早くて、ごめんなさい」

「気にしないでください。真貴さんのお願いなら、喜んでします。明日花さん、あの作業着は、いかがでしたか? 動きやすさとか」

「私は、ほとんど作業着のありがたみを感じる仕事をしてないです。でも、着心地は、よかったです」

「気に入ってもらえて、よかったです」

「ここには、下着はないよね? 」

「真貴さんは、鈴井社長からもらった下着しか、つけられないんでしたよね? 」

「私のじゃなくて、明日花の」

「種類もサイズも少ないですが、あります。私たちや、友人のために仕入れています」

 春羅は、店の奥に入って行った。そして、遥希も追いかけるように入ると、そこからガタゴト音が、聞こえた。しばらくして、3つの箱を持って出た。

「こんなの、仕入れたのが、店長にバレたら、怒られてしまいます」

「それどころか、取り上げられてしまいます」

 2人は、箱を開けた。すると、やたら煌びやかなのが、多い。

「すごい。いいんじゃない、明日花」

「ちょっと、私には」

「じゃあ、こんなのは? 」

 真貴が、青いシンプルなデザインのブラジャーを、取り出した。

「そうですね。これなら、いいかな」

 明日花は、サイズを言うと、春羅が、そのサイズを探し出した。

「ありました。じゃあ、これでいいですか? 」

 はい、と言おうとした時に、見えた。

「Tバック」

「そうです。いけませんか? 」

「私、その……」

「明日花って、Tバックはいたことないの? いいじゃない。1枚ぐらい持ってても」

「明日、それを履くんですよ」

「そうなるね。そのうち、彼ができて、履いてって言われた時のために慣れておいた方がいいよ。ということで、それにしておく」

「ありがとうございます」

 春羅と遥希が、声を揃えた。その時、真貴の電話が鳴った。呉山からだったようで、店を慌てて出た。

「次の店で、待っています」

 春羅たちの声が、聞こえた。


 真貴は、マッサージ店の方へ急いで向かった。明日花も、置いていかれないように小走りする。真貴が、入ったのは、マッサージ店の近くの寿司屋だった。呉山と西原は、すでに寿司を頼んでビールを飲んでいた。

「どうして、こんなところにいるんですか? マッサージが、終わったら連絡してくれたらいいじゃないですか」

「ごめん。お腹空いて、つい」

「まあ、2人も、座って、飲んだら」

 呉山は、チャイムを押した。すぐに、店員が来て、

「お呼びでしょうか? 」

 真貴は、諦めたように座った。そして、明日花も座った。

「生ビール。明日花は? 」

 その時、店員は、

「真貴さんじゃないですか。鈴井社長以外とも、来ていただけるんですね。ありがとうございます」

 真貴は、それには応えず明日花を突いた。

「私も、生ビールをお願いします」

「はい。かしこまりました。真貴さん、寂しくなったらお呼びください」

 真貴は、完全に無視していた。店員は、何か言いたそうに下がった。

「どうして、よりによってこの店に入ったんですか? もっといい店、たくさんありますよ」

「そんなに、悪い店だと思わないよ。寿司も美味しい」

「そうですよね。真貴さんは、何が気に入らないですか? 」

 そう言って、生ビールを2つ置いた。

「ちょっと待って。1つは、合格だけど、もう1つは、泡だらけじゃない。こっちは、交換して」

「はい」

 そう言って、ペンを持って、伝票を取る。

「何を書くつもりなの? もういい」

 真貴は、湯呑みにお茶を入れた。

「俺が、愛情を込めて、注いだ生ビールを飲んでください」

「愛情を込めると、泡だらけになるの? 」

「たまたまですよ。じゃあ、寿司を握らせてください」

「あなたが、握るなら、いらない。ここで、1年も働いて、全く進歩してないじゃない」

「進歩したかどうか、確かめるためにも、握らせてくださいよ」

「生ビールも、まともに注げないのを見れば、わかる。もう、あっちに行って」

「照れちゃって」

 そんなことを言って、店員は、下がった。真貴は、相当機嫌が悪そうだ。

「あの店員さんと、何かあったらんですか? 」

「初めて会った時から、来るたびに告白してくる。しかも、話は下ネタばかり。その上、仕事もできない」

「鈴井社長が、いてもですか? 」

「そう。ものすごい自信家で、師匠にも、何一つ負けてないんだって」

「鈴井社長は、何も言わないんですか? 」

「笑っているわ。そうかもしれないなとか言いながら。まあ、私と師匠は、師弟という関係しかないからお互いに恋人には、干渉しないし」

「そうなんですか。俺は、てっきりあのおじさんと真貴さんを奪い合わないといけないかと思った」

「私の師匠を、おじさんなんていうな。それより、その手に持っているのは何? 」

「俺が、真貴のために握ってやった」

「あんたなんかに、呼び捨てにされたくない。それに、何よこの寿司は。形は、崩れているし食べ物に見えない」

「多少、形が悪いのもあるけど、味は変わらないよ」

 そう言って、伝票に何か書き込んだ。

「あっ、最悪。何で、こんな失敗作にお金払わなきゃいけないの。もう、帰る」

 真貴は、伝票を持って、レジに向かった。明日花たちも、急いで追いかけた。


 真貴は、沙子とりらのスナックに急ぎ足で、向かった。そこには、カウンターに客が、1人いた。

「師匠。どうして、ここにいるんですか? 」

「弟子を待っていたら、いけないか? 1件目にしようかと思ったが、恋人との邪魔したら悪いと思って、気をきかせてやったんだ」

「あんな奴、恋人になんて、ならないです。それより、いくら師匠でも私をGPSで、監視するのは、やめてください。プライバシーの侵害です」

「GPSのおかげで、恋人との時間が、できたんだ。それに、プライバシーを守るためにマンションだって、2つも契約しているだろう」

「このビルのマンションにいると、必ず来られるから守られていません。しかも、合鍵を使って、チャイムも鳴らさず、勝手に入られるじゃないですか」

 明日花たちは、店の入口で佇んでいた。沙子が、慌てて駆け寄って、

「お待たせして、申し訳ありません。奥のボックスへどうぞ」

 そう言われて、案内されたところへ移動すると、りらが飲み物の準備をしていた。それに気づいた真貴は、こっちに来て、

「私は、生ビールをちょうだい。それから、お腹空いているから、何か頼んで」

「真貴は、寿司屋に行ったのにお腹空いているのか? 彼氏が、握ってくれなかったのか」

「だから、彼氏じゃないです。何か、握っていたけど、食欲が失せるような見た目でした」

「ひどい言われようだな。じゃあ、俺が、食べ物を頼んでやろう」

 鈴井が、電話をかけると、真貴は、座った。そして、鈴井もその隣に座って言った。

「みなさん、いつも真貴を支えていただき、ありがとうございます」

 3人は、鈴井に頭を下げた。真貴は、3人に対して、1人ずつ丁寧に、

「ありがとうございます」

 と、頭を下げた。

「みなさんが、前の会社の事情もあったとは言え、早い段階で、真貴の会社に出ていただいたおかげで、いいスタートが、切れそうな状況になりました」

「それについては、私たちは特に何もしていません。全部、松橋さんの頑張りの賜物です」

「真貴だけじゃ、何もできない。今日から、みなさんは、工事の手伝いだって? 俺は、ずっと言っているんだ。伊勢が、やっている工事会社も買い取ってしまえと。それなのに、何を躊躇っているのか」

「私には、まだ1つ目の会社が始まってないんです。そんな段階で、企業買収する余裕なんて、ありません。それに、伊勢社長の会社も、グループですよ」

「だから、俺が俺のグループ企業を買い取ることはできない。でも、真貴ならできる。お前も、感じていると思うが、グループ内の社長で、そのポジションにふさわしくない者がいる。伊勢も、社長になるまでは、やり手だと思っていたのに。そういう会社は、従業員がかわいそうだ。お前が、救ってやれ。この店の2人も」

「真貴さん、よろしくお願いします」

 2人が、元気よく言った。

「いきなり、そんなにできるわけないですよ」

「だから、3人の仲間がいるじゃないか」

 明日花は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたと思う。なぜなら、呉山と西原が、そうだったから。そこへ店のドアが開いて、鈴井が頼んだ料理が運ばれてきた。その店員は、元気よく、

「鈴井社長に真貴さん、いつも有難う御座います」

 そう言って、持ってきた物をテーブルに並べ、お金を受け取ると帰って行った。たくさんの料理で、一気に狭くなった。沙子が、取り皿を用意して、

「鈴井社長。私やりらも、いただいてもよろしいでしょうか? 」

「ああ。どうせ、君たちも、お腹空かせているだろう。じゃあ、真貴、カウンターに移ろう」

「私も、食べます」

「どれか、カウンターに持っていけばいいだろう」

「私が、運びますので、先に座っていてください」

 りらは、そう言って適当な1皿を運び、そのままカウンターについた。沙子は、手際よくみんなの取り皿に料理を取り分け、

「明日花さん、食べましょう。美味しそうですよ」

「ありがとうございます」

「さっきの、鈴井社長がおっしゃった、買収の話、良くないですか? 是非、真貴さんにこの店をやるように勧めてください。私たちの夢を叶えるには、それが一番です」

「そんなこと、私が頼んでも松橋さんの考えは、変わらないですよ」

「鈴井社長の考えには、真貴さんは応えようとされます。あとは、誰かからの押しが、必要なんです。それが、明日花さんなら、心強いと思います。お願いします。私たちを、助けてください」

「助けるなんて、少し大袈裟じゃないですか? 」

「残念ながら、大袈裟でもありません。この数ヶ月、みなさんのおかげで、売り上げは伸びているんですが、少ないと怒られて、閉店も1時間遅くなって、休みもなくされました。店員も、増やすと言いながら求人をしていないし、時給も全然上げてくれないです」

「気の毒だと思いますが、私にお願いされても」

「明日花さん、この店を買ってください。かわいいですから、人気出そうですよ」

「私が、そんなお金が、あるわけないです。やっぱり、松橋さんに、直接お願いされた方が、いいと思います」

「多分、りらもお願いしているはずです」

 ふとカウンターに目を向けると、3人が、難しそうな顔で、話していた。りらも、沙子と同じ内容の話をしていたか、わからない。ただ、言えることは、明日花には、どうすることもできないということだった。


 いよいよ、今日から4月。新会社が、スタートした。真貴は、部長と課長をそれぞれ1名決めたが、特に部や課は、決めなかった。そして、仕事自体も、とりあえず忙しい総務と、工事に絞って立候補を優先した。とにかく、少ない人数なので、なるべくみんなが、いろんな仕事をして、忙しいところをいつでもサポートできる態勢にしたいそうだ。そして、一区切りついたところでは、全員で、頑張った人の投票をして、MVPを決め褒賞をする。さらに、給料やボーナスにも反映すると。私には、関係ない話かもしれないけど、やっぱり頑張ってみようという気になった。沙織は、真貴の話で俄然やる気をみせ、工事へ行く人に真っ先に手を挙げた。明日花の腕を持って。

「若い子2人、いいねー。じゃあ、ここに私もつこう」

 こんな感じで、4か所の工事と、総務にそれぞれ分かれた。

「沙織、私たちが、売っている商品、すごく重いよ。大丈夫? 」

「そんなの、わからないけど、今までみたいに、雑用ぐらいしかやらせてもらえないよりずっとマシ。この、作業着も、仕事する人っぽくて、とても気に入った」

 そして、また力仕事が待っていた。沙織と2人で、商品を運ぶが、なかなか進まない。

「明日花、ちゃんと持ってる? 」

「持っているよ」

「ちょっと、腕が、限界。一旦、下ろすよ」

 商品を下ろすと、沙織は、腕をぶらぶらさせる。そして、今度は、1人で、持ち上げた。すると、明日花を睨んで、

「やっぱり、明日花は、ほとんど力を入れてなかったんだ」

「そんなことない。ちゃんと、持っていたよ」

「2人とも、喧嘩しないで。あなたたちが、仲良くがんばってくれないと、この会社は、うまくいかないの」

 真貴が、そういったので、まだ何か言いたそうだった沙織は、黙った。

「あっ、こんなのがあった。これ借りよう」

 真貴は、倉庫の奥からキャリーカートを取り出した。これで、沙織が、それに載せて、明日花が、車まで運ぶと真貴が、積み込むという流れができた。そして、現場では、明日花と真貴が、沙織に教えながらやっていると、予定より早く、今日の仕事を終えた。


 事務所に戻ると、鈴井が、ソファに座っていた。その向かいにも、もう1人いるが、明日花には、誰なのかわからなかった。とりあえず、沙織と一緒にあいさつした。

「君たちは、真貴と一緒だったのか? 」

「はい。社長は、もうすぐ戻ってきます」

「そうか」

 明日花と沙織は、自分の席に座った。すると、総務で残っていた人が、

「お疲れ様でした」

 と言って、お茶を持ってきた。早速、口にすると、真貴が戻って来て、

「師匠、どうして、ここにいるんですか? それに、伊勢社長まで」

 あれは、伊勢社長だったんだ。研修中の真貴を、いじめた人だ。ちょっと、ニュアンスは、違うかもしれないけど。そんな人が、何で、ここにいるんだろう。明日花の耳は、ソファの方の声に集中する。

「お願いだ。俺は、まだ仕事を続けないと、生活できないんだ。松橋社長、俺を雇ってくれ」

「なんのことですか? 急に、そんなこと言われても、意味がわかりません」

「お前、伊勢の会社を欲しがっていたよな? この会社の通帳を見たら、今日だけでもすごい額の入金があった。これは、買い取るしかないだろうと思って、手続きをしておいた」

「どうして、勝手にそんなことするんですか? この会社、今日スタートしたばかりなんですよ。ここの従業員さんの生活を、守らないといけないんですよ」

「大丈夫だ。そんな心配は、無用だ。それより、今夜は、公演があるんだ。行くぞ」

「秘書さんたちが、いるじゃないですか? 」

「このビルに、真貴がいるんだから、秘書の仕事ではなくなった。さあ、行くぞ」

「その前に、俺は、どうすればいいですか? 」

「明日から、ここの事務所へ来てください。私も、不安なので、伊勢さんがいてくださったら心強いです」

「良かったな。ほら、行くぞ」

 真貴は、鈴井に押されて、連れて行かれる。事務所を出る間際に、

「みなさん、お疲れ様でした。遅くならないように、帰ってください」

 そう、言い残した。


 翌日は、真貴が買い取った会社に、あいさつに行くということで、代わりに伊勢が、明日花と沙織のグループに入った。明日花は、伊勢にいい印象を持っていないため、緊張していたが、意外にも優しく、暴力を振るったり乱暴なことを言うことはなかった。しかし、真貴からどう思われているか、気にしているようで、昼食休憩の時、

「真貴じゃなくて、松橋社長から、俺のことを何か、聞いたことがあるか? 」

 沙織は、首を振りながら、

「いいえ」

 と、答えたので、伊勢は、明日花を見た。

「立派な社長さんと、言っておられたのは、聞いたことがあります」

「本当か? 」

 伊勢は、明らかに、疑うように明日花を見た。

「本当です。松橋社長も、嘘を言っているようには、思えなかったです」

 伊勢の疑いの目は、ほとんど変わらなかった。そのことで、明日花の伊勢に対しての評価は、折角上がりかけていたのに、元に戻った。沙織のように、何も知らない方が、良かった。そう思っていると、

「松橋社長は、素晴らしい人だ。俺なんかより、ずっと社長に向いてる。昨日までの部下も、きっとこれで良かったんだ」

 2人とも、返す言葉を見つけられず黙っていた。伊勢は、沈黙に耐えられなかったようで、

「少し早いけど、仕事に戻るか」

 と言って、伝票を持って、立ち上がった。午後の仕事は、時間と共に伊勢の体力もキツくなったようで、商品を運ぶスピードは、明らかに落ちた。しかし、なんとか終業時間までに終えて、事務所に帰ることができた。


 事務所には、今日も鈴井がいた。どうやら、また公演があるようだ。

「どうして、こんなにたくさんある公演に、いつも私が、同行しないといけないんですか? これじゃ、私の仕事する時間が、ありません」

「お前なんか、いない方が、みんなの仕事が、捗る。な、そうだろ」

 鈴井が、事務所にいる人を見回すと、何人かは、軽く頷いた。明日花は、そうしなかったが、たまたま机の引き出しを開けて、中を見るため首が下を向いていたため、その1人になったかもしれない。

「ほら。やっぱり、そうだ」

「師匠が、そんなこと聞いたら、否定する人が、少ないに決まってます。お願いですから、せめて平日の昼間は、秘書さんに同行してもらってください」

「秘書は、忙しいんだよ。お前と違って」

「私だって、忙しいです。秘書さんも、1人だけに絞るとか、すればいいんです」

「お前な。1人だけじゃあ、大変なんだぞ」

「私は、いつも1人です」

「お前は、弟子なんだから、仕方ない」

「そんなの、納得できません」

「じゃあ、とりあえず、明日だけ頼む。仕事が、忙しかったらその後にすればいいだろう」

「明日は、朝から晩まで、入っているじゃないですか」

「この、新年度の時期は、そんなものだ。お前も、2つの会社を持ったんだから、秘書でも雇えばいい」

「私なんかが、秘書を募集しても、応募する人なんていません」

「私たち、やります」

 急に、沙織が、手を挙げた。そして、左手で、明日花を指差す。それを見て、鈴井は、

「良かったじゃないか。採用しなくても、秘書ができた」

「良くないです。2人には、中でも外でも、活躍してもらわないと」

「いずれにせよ、人数も足りないんだから求人を出せばいい。俺が、手配してやる。よし、じゃあみんなで、飯でも食べに行こうか」

 全員が、歓声を上げる。真貴は、ぶつぶつ言いながら片付けや戸締りをしてから行くと言って、みんなに先に行かせる。明日花も、行こうとすると、沙織から、

「秘書が、社長を置いていくなんて、ダメ」

 と、肩をつかまれた。本当に、秘書になったかどうかわからないが、真貴だけにやらせてはいけないと思って、手伝った。


 会社の業績は、好調で、鈴井の少々強引な手法もあり工事業者も次々と買収した。ついでに、春羅と遥希が、働いていたアパレルショップも買い取って、2人に店を任せた。最近では、真貴は、敏腕起業家として、メディアにしょっちゅう、取り上げられるようになった。すると、日本一可愛い社長と呼ばれ、その人気は全国区になった。テレビ局からの出演依頼も増えた。真貴は、断り続けていたが、どうしても諦められなかったようで、鈴井と一緒にというオファーがあった。鈴井は、

「真貴、出るぞ」

 と、ノリノリだが、真貴は、

「どうして、私がそんなの出ないといけないんですか? 師匠だけで、出ればいいじゃないですか」

「テレビ局が、2人でっていうから真貴も出ないといけない。それに、仕事も増えるぞ」

「ようやく、工事の見通しが、立ってきたところだから結構です。断りましょう」

「じゃあ、俺だけ出る。でも、お前は、弟子として同行しないといけない」

 真貴は、結局テレビ局に行くことになり、番組にも出演した。すると、商品の売り上げも、さらに伸びて、会社にはメールや手紙が、毎日たくさん届いた。それに、目を通すだけでもかなりの時間を費やすようになったため、従業員を募集するとものすごい人数の応募があった。それに伴い、鈴井の公演も増え、チケットも毎回、即日完売だった。

 一方、明日花たちの前の会社は、倒産のニュースが、流れた。真貴は、

「あんなに、大きかった会社でも油断すると、一瞬で潰れてしまう。私も、しっかりしなきゃ」

 と、自分に言い聞かせるように、言った。流石に、この会社と従業員には、一切の救いの手を差し伸べようとはしなかった。真貴と、同期入社だった者も、藁に縋る思いで、接触してきたが、相手にしなかった。明日花も、知っている人だったので、直接会えるように取り計らったが、

「私が、信用して話したことを、告げ口したりして自分の評価を上げるような人を雇ったりすれば、今の会社の雰囲気まで、壊してしまう」

 と、門前払い。たしかに、真貴が採用するのは、一貫して人間性重視だ。有名大学を卒業していても関係ない。そのため、本当に会社は、アットホームな感じだった。誰かが、忙しそうにしていると、ほかの人が助けミスをしても励まして、また頑張る。おそらく、働く人全員が理想とする会社だと思う。ただ、真貴は、気の毒に思う。最近では、テレビ局が、鈴井を通して、出演依頼するため、ほとんど断れなくなった。鈴井が、芸能プロダクションを作り、真貴に屈強なマネージャーをつけて、収録時間に合わせ、有無をいわせず連れ去って行く。それでも、毎日どこかの会社には、空いた時間に必ず顔を出している。疲労も見せず。

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