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ざまぁが苦手な私がすべてを許すムーブをとっていたら、聖女扱いされて、もっと幸せになっていた話

作者: 村沢黒音

「ざまぁ・もう遅い・追放・胸糞妹」系が流行っているので、書いてみました。




「セリーヌ。君との婚約を解消したい」




 突然のことで、セリーヌは何を言われたのかわからなかった。


 授業終わりのことだ。セリーヌは校舎裏に呼び出された。彼から声をかけてもらうのは久々のことだったので、セリーヌは嬉しかった。化粧室で髪や服に乱れがないかを入念にチェックして、指定された場所へとやって来たのだ。


 そこで待っていたのは、ケヴィン・クルタリア――セリーヌの婚約者である少年だった。

 彼を前にして、セリーヌは顔を輝かせた。「ケヴィン様! 何か御用でしょうか」すべてを言い終える前に、ケヴィンは口早に先ほどの言葉を告げた。


 婚約? 解消……?


 セリーヌは彼に駆け寄ろうとした姿勢のまま固まった。


「え……?」


 何かの冗談だろうか、と彼の顔を見る。

 だが、それは冗談などではないと一目でわかった。ケヴィンは心苦しそうな顔で、セリーヌから視線を外した。


「なぜですか……。ケヴィン様。何か私に至らぬところがありましたか……?」

「ちがう。君に何か落ち度があったわけではないんだ。ただ、私は……気付いたんだ」


 ケヴィンはセリーヌの方を見ようともしない。まるでセリーヌという存在から逃げたいとでも言わんばかりに。


「君との婚約は親同士がとり決めたものだ。そこに私たちの意志は存在しない。だが、それが真実の愛と言えるだろうか。もう私は自分の気持ちに嘘はつけない。私は愛してしまったんだ……彼女のことを」


 ケヴィンが視線を送った先。やって来た人影が、するりとケヴィンの腕に絡みついた。


「ごめんなさいね、セリーヌ様」


 浮ついた声で告げたのは、1人の少女だった。

 セリーヌの同級生で、今日も一緒にお昼をとって、セリーヌが今の今まで一番の親友であると信じて疑わなかった――リンダ・ビアンだ。

 つい数日前、彼女はセリーヌに言ってくれた。「ケヴィン様とセリーヌ様は本当にお似合いですね」と。

 その時とまったく同じ笑顔で、彼女はケヴィンの腕に抱き着いている。


「でも、彼が……ケヴィン・・・・は、私じゃないとダメだって、言うから」

「ああ、そうなんだ」


 ケヴィンはセリーヌの方を見ようとしないのに、リンダとは向き合って、彼女の両手を握る。

 そして、彼女に向かって極上のほほ笑みを浮かべた。


「恋とはするものではなく、落ちるもの。それを彼女が気付かせてくれた。私は落ちてしまったんだよ。本当の恋というものに」


 だから、君との婚約は破棄したいんだ。


 ――君ならわかってくれるよね? セリーヌ。


 彼の優しげな声は、セリーヌにとってどこまでも残酷だった。




「あはははは! 今、流行りの婚約破棄ってやつだ」


 からからと笑い飛ばされて、セリーヌは目尻に涙を浮かべた。

 ケヴィンに婚約破棄を告げられた後。どうやって家に帰ってきたのか、記憶が朧気だ。

 気付いたら制服姿のままベッドに転がり、シーツに顔を押し付けていた。くすん、と小さく鼻を鳴らしてから、セリーヌは顔を上げた。

 白い頬には涙の痕が光っている。


「流行っているって、どういうことですか……?」


 かすれた声で、セリーヌは尋ねた。

 そして、窓辺の生き物に目を向ける。そこで呑気に顔を洗っているのは、1匹の黒猫だった。

 どことなく上品な出で立ちをしている猫だ。毛艶がよく、頭からしっぽの先まで綺麗に毛並みが整えられている。セリーヌの言葉を受けて、黒猫は楽しげにしっぽを振った。


「そのまんまの意味だよ。聞いたことない? 婚約破棄もの」


 婚約破棄が流行とは何事だろう、とセリーヌは目を瞬かせた。そんなにしょっちゅうどこかしらで、婚約が破棄されている世の中なのだろうか。それはそれで奥様方のいい噂話のネタになっていそうだが……。セリーヌの耳にはそのような噂話は入ってきたことはない。


 そもそも、「婚約」を結ぶのは上流階級の家に限られる。クルタリア国での婚約は様々なしきたりがあり、面倒な書状をいくつも作って結ぶものだ。だから、「婚約」をするのは格式のある家同士に限られる。その上、一度結んだ契約を反故にするのは当人だけでなく、家の名を汚すことになるので、普通であればしない。


 ――その普通じゃないことを今日、セリーヌはされたばかりではあるのだが。


 ケヴィン・クルタリアはこの国の第三王子だった。

 セリーヌとケヴィンの婚約は8歳の時に結ばれた。セリーヌの母と王妃は学園時代の同級生で仲が良く、その縁から結ばれた婚姻だった。

 王族と侯爵家となると家柄は少し劣るのだが、母同士が懇意にしていたことは各所でも知られていたので、この婚約は祝福されていた。


 ケヴィンのことを思い出し、セリーヌはまた悲しくなってしまった。静かに涙を流す少女に、黒猫は告げる。


「流行っているって言っても、現実の話じゃないよ。市井の小娘たちが読みあさっている娯楽小説。婚約破棄からの逆転劇。聞いたことはない?」

「ええと……わかりません……」


 セリーヌはびしょ濡れになったハンカチを手にとる。それで頬を抑えながら、黒猫へと視線をやった。


「ロジェ。私はそういった小説をあまり読まないので詳しくないのですが……。小説の中では、婚約破棄の後には何が起こるのですか?」

「ふふ、そうか。君は知らないんだね。でも、きっとおもしろいことになるよ。これからケヴィンも、リンダもね」


 黒猫――ロジェの目は、満月のような金色をしている。

 その目を三日月形に細めながら、ロジェは楽しそうに呟いた。


「だってさ。侯爵家の令嬢を捨てて、平民の娘をとるとか。頭がわいてるとしか思えないよね。これからどんな展開になるのか、僕、楽しみだな」




 セリーヌがロジェの言葉を理解したのは、それから1週間後のことだった。

 ケヴィンに婚約破棄をされてから数日。始めこそセリーヌは悲しみに暮れていたのだが、学園生活は思ったよりもひどいものにはならなかった。


 ケヴィンがセリーヌに婚約破棄をした話は学園中に広まっていた。そして、多くの者はセリーヌ側についたのだった。セリーヌは多くの令嬢から慰めの言葉をもらった。

 一方、ケヴィンとリンダは四方から非難されることとなった。特に「友人の婚約者を奪った」リンダに対する風当たりは過激だった。


「あなた、調子に乗っているんじゃありませんこと?」


 昼休みの校舎裏にて。

 リンダは複数人の令嬢に詰め寄られていた。


 この学園に通うのは、多くが名の知れた貴族の令嬢や子息だ。その中において、何の爵位も持たないリンダのような少女は希少だった。彼女は平民の生まれだが、その身に魔力を宿す稀有な存在で、この学園への入学が認められたのだ。

 だが、その境遇故に彼女は他の令嬢たちから目の敵にされていた。入学当初、リンダは数多くの嫌がらせを受けた。


 それを救ったのはセリーヌだった。

 セリーヌがリンダをかばったことで、令嬢たちはリンダに表立って嫌がらせをすることができなくなった。


 だが、数日前の出来事で、その関係性は一転した。リンダはセリーヌを裏切り、彼女の婚約者を奪った。その行為が令嬢たちに、格好の言い分を与えてしまったのだ。

 こうして、リンダは元の状態よりもひどい境遇に陥っていた。


「よりによって、セリーヌ様を裏切るだなんて! これだから平民の娘は、品性が劣っていて嫌なのよ」

「どうやってケヴィン様に付け入ったのかしら? その貧相な体で迫ったの?」

「いやだわ! なんて、はしたない!」


 くすくすと意地の悪い笑い声を振りまきながら、令嬢たちはリンダを突き飛ばす。

 リンダの出で立ちは散々な有様になっていた。制服は汚れ、スカートの端は破れている。その様を見て、令嬢たちは「まぁ、小汚い!」とせせら笑った。


「あなたみたいな愚かしい女は、『月夜の赤き魔法使い』にさらわれて、切り刻まれてしまえばいいのよ」


 その発言に、周りは嘲笑を浮かべた。

 『月夜の赤き魔法使い』とはクルタリア国で、最近話題になっている怪談話の1種だ。月夜の晩に現れ、女子供をさらい、魔法の儀式のために切り刻むのだと言われている。その容貌は返り血を浴びて常に赤い。


「その通りですわね。けど、いくら狂人の魔法使いといえど……こんな薄汚れた女の血を欲しがるものかしら?」


 令嬢の1人が指を振る。すると、空中に濁った水が現れた。球体のように固まって、宙に浮かんでいる。


 魔法だ。クルタリア国では、貴族の血筋には魔力が宿る。ここ王立魔法学園は、貴族の子が魔力の制御を学ぶための施設だった。


 彼女が指をリンダへと向ける。すると、その泥水がぷかぷかと宙を移動して、リンダの方へと向かった。リンダは言葉もなく唇を噛みしめている。くすくす笑いの声量が大きくなる。

 リンダの真上で泥水の塊が弾けた――その瞬間。


「やめてください!」


 横から人影が飛びついて、リンダと共に地面を転がった。泥水が飛散して、その者のスカートにかかる。

 令嬢たちは顔を青ざめた。


 リンダをかばった人物――それはセリーヌだったのだ。


 セリーヌは立ち上がり、令嬢たちと向き直る。綺麗に整えられた金髪の先が泥にまみれてしまっていた。それをものともせずに、侯爵令嬢は堂々とした立ち姿で、リンダを守るようにして佇んでいた。


「よってたかって1人に詰め寄るなんて……。こんなのは、あんまりです……!」


 対する令嬢たちは、愕然とした面持ちを浮かべている。なぜセリーヌがリンダをかばうのか……理解ができないという顔をしていた。

 それからハッとして、彼女たちはセリーヌにおもねった。


「セリーヌ様……! わたくしたちは、あなたのためを思って……!」

「そうですわ! セリーヌ様のためにしたことですのよ!」

「この女があなたに何をしたのか、忘れてしまったの、セリーヌ様!」


 セリーヌは口を引き結ぶ。そして、強い視線で彼女たちを見渡した。


「わかっています。でも、私……こんなことは望んでません。リンダさんを傷つけるのはやめてください」


 令嬢の1人が、不快そうに眉を顰める。だが、何も言わずに背を向けた。彼女にならって、他の者たちもその場を去る。

 集団がいなくなると、セリーヌは膝をついて、リンダと向き直った。


「リンダさん……大丈夫ですか?」

「やめて!」


 その手は、ぱしりと叩き落される。リンダは据えた眼差しでセリーヌを睨み付けた。


「ふざけないで! 偽善者ぶって、気持ち悪い!」


 そして、憤然と立ち上がると、セリーヌの方を振り返りもせずにその場を去るのだった。

 



「は? 馬鹿じゃないの、君。何で助けたの?」


 屋敷に帰ると、使用人たちは真っ青になって、セリーヌの身を案じた。彼らに心配をかけたくなくて、セリーヌは笑顔で「転んでしまっただけです」と告げたのだった。

 風呂に入って汚れを落とし、自室に戻る。

 そして、今日は何があったのか――本当のことを話せる唯一の相手に、報告していたのだった。

 セリーヌの話を聞いて、黒猫のロジェは鼻を鳴らした。そして、セリーヌの行いを真っ向から否定したのだった。


「ええと……でも、複数人での嫌がらせというのは、見ていて気持ちのいいものではありませんでしたので……」

「ふーん……。偽善者ってやつ? そういうのって一番、くだらないよね」


 「偽善者」はリンダにも言われた言葉だ。その時のことを思い出して、セリーヌは顔を伏せた。


「そうですね……そうかもしれません。でも、私には見て見ぬふりをするなんて、できませんでした」

「君、嫌われるよ。わかる? だって、令嬢たちは君の味方を気取っていたわけだ。それを君は裏切った。そういうのって、一番、恨まれるんだよ」


 ロジェの言う通りだった。

 その日以降、学園でセリーヌは仲の良かった令嬢たちから距離を置かれるようになった。話しかければ反応があるし、挨拶もしてくれる。しかし、前のように気軽に話しかけてくれたり、昼食に誘ってくれたり、セリーヌを慰めようとしてくれたりする者がいなくなったのだ。

 学園でセリーヌは孤立状態となった。


「ほらね。余計なことをするからだ」


 と、ロジェは呆れたように言う。

 だけど、そんな状況でもセリーヌにとっては1つだけ、嬉しいことがあった。


「いいんです。だって、リンダさんへの嫌がらせもなくなったみたいだし」


 リンダもセリーヌと同じように孤立状態にある。だが、令嬢たちから嫌がらせを受けることはなくなったのだった。

 セリーヌがそのことに心から安堵して、ほほ笑みを浮かべると。


「…………本当に、馬鹿じゃないの」


 ロジェはますます呆れたように告げるのだった。




 ロジェは不思議な猫だった。実はロジェはセリーヌの飼い猫ではない。首輪をしているので、野良猫でないことだけは知っている。

 だが、誰が飼い主なのか、普段はどこで暮らしているのか。


 ――そもそも、なぜ猫が人間の言葉を話せるのか。


 ロジェはいっさい教えてくれなかった。

 いつからか、セリーヌの部屋の窓辺にやって来て、セリーヌと話をするようになった。ロジェは自分のことはほとんど教えてくれないくせに、セリーヌのことばかり聞きたがる。

 そうして、セリーヌは不思議な黒猫とおしゃべりをするようになったのだ。


 ロジェはセリーヌの話を聞いても、味方をしてくれるわけでも、励ましてくれるわけでもない。彼――声が低いので、セリーヌはそう思っている――は、そうとうひねくれた思考をしているということが、会話を重ねていく中で判明していた。ロジェはセリーヌの話を聞くと、彼女の行動を責めたり、馬鹿にしたりしてくるのだ。だが、いくらロジェに責められても、セリーヌは不思議と嫌な気持ちがしなかった。


(だって、言葉は悪いけれど、ロジェは本当は私のことを心配して、言ってくれてるんじゃないかって……そう思えるんです)


 一度だけ、「私のことを心配してくれてるのですか?」と、聞いてみたことがある。すると、ロジェは嫌そうな様子で、「は? そんなわけないでしょ」と冷たく答えたのだった。




「お願いです、セリーヌ様に会わせてください!」


 その声は、庭園の方にまで響いてきた。

 聞き覚えのある声に、セリーヌは手をぎゅっと握った。

 その日、セリーヌは庭園を散歩しながら、ロジェといつものようにお話をしていたのだ。


「今の声は……」


 セリーヌは顔を上げて、声がした方を見やる。

 その足元でロジェは苦い顔をして、しっぽをゆるゆると振った。「不満だ」と訴えるかのように。

 セリーヌとロジェは連れだって、屋敷の門へと向かう。

 そこで押し問答をしているのは、執事と1人の少女だった。


「お約束のない方を中にお通しすることはできません。お引き取りください」

「でも、中にセリーヌ様がいるのでしょう! お願いします、少しだけでいいから……!」


 と、執事に食い下がっているのはリンダだった。


「……リンダさん」

「セリーヌ……」


 リンダもセリーヌに気付いて、ハッとした顔をする。執事が苦い口調でセリーヌに告げた。


「申し訳ございません。セリーヌ様。この方がセリーヌ様にどうしてもお会いしたいのだと言ってきかず……」


 と、執事はきつい視線をリンダに送る。礼儀作法を叩きこまれたノエル家の使用人とは思えないほどに、無作法な視線だった。彼が不快そうな顔をするのも当然だ。彼だけでなく、そばに仕えていた侍女たちも苦い表情でリンダを見やっている。彼らは皆、リンダがセリーヌに何をしたのかを知っているのだ。


「構いません。中にお通しください。リンダさん……私もあなたとお話がしたいです」


 セリーヌが告げると、執事はリンダを門の中へと入れた。使用人たちは皆、警戒した眼差しをリンダへと向ける。

 セリーヌの足元ではロジェが、しっぽをだんだんと石畳に叩きつけていた。


「お話とはいったい何でしょうか」


 セリーヌが静かに尋ねる。

 すると、リンダは小さな声で答えた。


「……どうして助けたの」

「え……?」

「こないだのことよ。あなた、私をかばったじゃない。でも、私はあなたの婚約者を奪ったのよ」

「そうですね……。ひどいと思いました」

「何それ! 馬鹿にしてるの?」


 顔を真っ赤にして、リンダは憤慨する。


「あんた、私のことを見下しているんでしょう! 私を助けたのもそうよ! みじめな私を救って、優越感にひたりたかっただけでしょう! 気持ちよかった!? あなたを裏切った私を助けるのは、気持ちがよかった!?」


 セリーヌはその怒りを静かに受け止めた。

 リンダの瞳を見つめる。

 そして、そっと呟いた。


「リンダさん。あなたは私の一番のお友達でした」


 リンダがハッとして、唇を噛みしめる。セリーヌの視線から逃れるように顔を伏せた。


「だからこそ、裏切られたと知った時、とても悲しかった。あなたのしたことで私が傷ついたことは事実です。でも、あなたと一緒に過ごした日々は楽しかった……それも事実なんです。一緒にお昼を食べたことも、一緒にお出かけしたことも。原っぱで寝っ転がって空を見上げるなんてこと、私、初めてしました。あなたが教えてくれたんですよ」


 その時のことを思い出して、セリーヌはうつむいた。

 リンダと過ごした日々はとても楽しかった。それだけは嘘偽りのない真実だ。


「その時の思い出が、全部、なくなるわけじゃないんです。だから、あなたが傷つくところは見たくなかった……。それだけです」


 苦しくない、つらくないと言えば嘘になる。

 確かに親同士が決めた婚約だった。でも、セリーヌはケヴィンを愛していたのだ。彼の金色で穏やかな眼差しがセリーヌに向けられると、何とも言えない安心感を覚えた。彼のそばは居心地がよかった。

 その居場所を理不尽に奪いとっていったのは、今、目の前にいる女だ。


 婚約破棄を告げられた日。セリーヌはたくさん泣いた。悔しかったし、傷ついた。

 でも、だからといって――

 リンダが自分と同じだけ傷つけばいいだなんて。

 そんな風にセリーヌは思うことができなかった。


 セリーヌが真っすぐにリンダの目を見つめていると。

 その瞳がくしゃりと歪んでいく。


「う……なんで……あんたはいつも、そうなの……!」


 耐えきれなくなったように、リンダは叫んだ。


「私、羨ましかったの! あなたのことが、羨ましかったの……! だから、ケヴィン様に迫られて、嬉しくなって……調子に乗ってあんなことを……。ごめんなさい……ごめんなさい、セリーヌ様……! 私……わたし……っ」


 リンダは顔をくしゃくしゃにして、膝を折る。

 セリーヌはその肩に手を置いた。リンダの潤んだ視線と目が合うと、ふわりとほほ笑んだ。

 その瞬間、わっ、と堰を切ったようにリンダは泣き始める。セリーヌは彼女の肩を抱き寄せる。


 その光景を見守っていた使用人たちの目尻にも、涙が浮かんでいた。


「う、う……セリーヌお嬢様……っ!」

「セリーヌ様は何と心がお優しい……!」

「まるで聖女……! 聖女様のようだ……!」


 そして、


「何この展開。馬鹿じゃないの……?」


 セリーヌの脇でロジェが、呆れたように呟くのだった。




 + + +



 ケヴィンとの婚約破棄が決まってから、2年の歳月が経った。

 セリーヌは18歳となっていた。


 ケヴィンはあの後、リンダとも別れたようだった。噂ではリンダの方から別れを突き付けたらしい。それがリンダなりのケジメの付け方だったのかもしれない。それ以降、リンダはどこか憑き物が落ちたようにすっきりとした顔で、学園内を過ごしていた。


 一方、ケヴィンの方は「やはりセリーヌとの愛が真実だった」などと言い出し、セリーヌとよりを戻したそうにしていたが、一度、婚約を破棄するともう二度と結び直すことはできない。

 セリーヌが学園を卒業すれば、ケヴィンとのつながりはなくなる。ケヴィンは何度かノエル家を訪れたが、使用人たちがすべて追い返していたので、セリーヌが彼と会うことはなかった。


 クルタリア国では、貴族の令嬢は学園の卒業と共に嫁ぐのが一般的だ。だが、セリーヌにはその宛てがない。婚約破棄された女という噂が広がり、セリーヌとの結婚を望む者は現れなかった。


 そのため、学園を卒業したのち、セリーヌは実家で父の仕事の手伝いを行うことになった。

 だが……そこで問題が起こった。

 セリーヌは優秀すぎたのだ。もちろん、父も長年、侯爵家の当主として領地を運営してきた男だ。かなりのやり手である。だが、能力のある男とはプライドが高いものだった。


 セリーヌが領地経営に携わるようになって半年が経った頃。事件は起こった。父が事故に遭い、数週間の休養をとることになったのだ。

 セリーヌはその間、父が抜けた穴をカバーしようと必死にがんばった。父がいない間に経営が傾くことがあってはならないと、寝る間も惜しんで駆けずり回った。


 その結果、つつがなく領地の経営が回った。

 そして、そのことが一番の問題だった。


 自分がいなくても何とかなった――それは父のプライドを著しく傷つけたのだ。

 その結果。


「私は……余計なことをしてしまったのでしょうか」


 のどかな馬蹄音が辺りに響く。馬車の中で揺られながら、セリーヌはため息を吐いた。

 セリーヌの膝の上には、ロジェの姿がある。呑気な様子であくびをくり返していた。


「今度は追放ものかあ。これもまた、お約束だよね」


 セリーヌは眉を下げて、馬車の外に視線をやった。

 どこまで行っても、畑、畑、畑。その奥には森や山といった光景が広がっている。

 セリーヌが今まで暮らしていた都市部とは、真逆の風景だ。

 リマス地方。それはノエル家の領地の中でも、もっとも在方に位置している。セリーヌはその地方の視察を父から命じられ、訪れていた。


 ロジェが言った「追放」の言葉に、セリーヌは目元を歪めた。

 そんなことを言われたら、本当に自分が家を追い出されたのだという実感が湧いて、悲しくなってしまう。


「追放もの……? また流行りの小説か何かですか?」

「うん。不当な評価からの追放、そして、失ったものの大きさに気づいて後悔する展開」

「はあ……」


 ピンと来なくて、セリーヌは首を傾げた。


「それにしても、ロジェはどうして着いてきてくれたのですか?」


 セリーヌが尋ねると、ロジェの耳がぴくりと跳ねた。


「あなたのおうちや飼い主さんからも、離れてしまうのではないですか……?」

「そんなこと、気にしなくてもいい」


 途端に声のトーンが低くなる。素っ気なく言い捨てられた。


「たまには喧騒から離れて、のんびり暮らしてみるのも悪くないって。そう思っただけだよ」


 ロジェは自分の腕に顎を乗せる。それ以上は何も言わずに、目を閉じて、寝てしまうのだった。




 こうして、セリーヌのリマス地方での暮らしが始まった。


 セリーヌに宛がわれた別邸は、地方の中でも更に端っこにあった。見事なまでの田舎村だ。家から家までの距離が徒歩で10分以上は離れているし、どこを見渡しても畑ばかりだ。

 数人の使用人が名乗り出て、セリーヌについてきてくれたので、生活面に不足はない。それよりもセリーヌが参ったのは、とにかく退屈であることだった。


 セリーヌは毎日のように村を散歩し、住人達とあいさつを交わすようになった。何か手伝えることはないかと聞いて回り、農作業に携わるようになる。セリーヌはドレスを脱ぎ捨て、作業着に袖を通した。そして、土を耕した。よく手入れされていた金髪や白肌が土で汚れ、日焼けをするようになっても、嫌な顔1つせずに農具を手にとった。

 そんな彼女の姿に村人たちも心を開くようになる。


 数週間が経つ頃には、セリーヌは村の一員としてすっかりなじんでいた。

 そして――


「見てください、ロジェ! こんなに大きなトマレタスが実りました」

「……君、適応力、高すぎない?」


 今日のセリーヌは麦わら帽子にタオルを巻いて、作業着姿の、農家のおばちゃんスタイルである。侯爵家の令嬢とは思えない格好だが、目も顔も生き生きとしているので、それが健康的な魅力に昇華されている。


 そんな彼女の姿にロジェは呆れて、しっぽをパタパタと振るのだった。


 リマス地方に移り住んでから、ロジェはセリーヌの屋敷で暮らすようになっていた。

 この不思議な黒猫は、言葉を話す以外は普通の猫とまったく変わらない習性を持っているらしい、ということをセリーヌは知った。好物は鶏肉(特にささみ)を刻んだものだし、暇なときはひなたぼっこばかりしている。セリーヌの農作業の傍ら、呑気に蝶々を追いかけていることもあった。


 ロジェはすっかり使用人たちにも気に入られ、毎日のように抱っこされたりつつかれたりしているが、人間に触られるのは嫌いらしく、逃げ回る光景もよく見れた。

 ロジェは使用人の前では言葉を話さない。普通の猫と何ら変わらない様子で過ごしている。「なぜロジェは私とだけ会話をするのだろう」とセリーヌはしきりに首を傾げるのだった。


 夕暮れ時になり、セリーヌは今日の農作業を終えることにした。汗をぬぐいながら屋敷へと帰ろうとした、その時だった。


「セリーヌ様! 旦那様からこのような書状が届いております」


 執事の1人が駆け寄ってくる。手紙を預かると、そこには確かにノエル家の印章が押されていた。

 その場で開いて、中身を確認する。そこには長々と現在のノエル家の状況が綴られていた。

 ぐだぐだと回りくどい言い方をされているが、要約すれば、『お前がいなくなって大変なことになっている! 今すぐ戻って来てくれ!』である。


「これは……どういうことでしょうか?」

「うん。お約束展開ってやつだよ」


 呆れたようにロジェは吐き捨てるのだった。




 本宅がある街に戻ると、以前と雰囲気が変わっていた。住人たちの様子がどこかピリピリとしているのだ。

 壁や地面がひび割れている箇所もあって、争いの爪痕を残しているような有様だった。セリーヌが暮らしていた時は、平和そのものの街だったはずなのだが……。


 不思議に思いながらセリーヌは屋敷に到着した。

 父と顔を合わせて、セリーヌは愕然とした。


 以前のジェームズ・ノエルは、厳粛で近寄りがたい雰囲気の男だった。だが、今の父からは覇気や凄みが失われていた。すっかりと憔悴しきった様子だ。

 セリーヌはその様に不安を覚えた。事故に遭ったことによって体を悪くしてしまったのかもしれないと思ったのだ。


「お父様……! お体は大丈夫ですか?」


 セリーヌはジェームズの元にすぐさま駆け寄った。ジェームズはバツが悪そうな顔でセリーヌから視線を逸らす。

 悔しげに唇を引き結び、ジェームズは何も答えない。

 代わりに横手から声がかかった。


「セリーヌ様! よく戻って来てくれました」


 そこにたたずんでいるのは、中年の男が2人。どちらも見覚えのある顔だ。セリーヌが領主の仕事を代行している際に、何度かやりとりをしたことがある。

 商人ギルドの長エリック・ガーディノと、農業組合の長ジェフ・ネーバーだった。


「エリックさんとジェフさん……。どうされたのですか?」


 セリーヌが尋ねると、2人は深刻な表情で口を開いた。

 滔々と語られたのは、セリーヌがいなくなってからのノエル家と領地の惨状だった。


 父であるジェームズは為政者としては有能だった。だが、彼は人を人と思わない節がある。彼にとって部下は駒であり、領民は家畜である。

 それゆえにジェームズは平気で弱者を切り捨てる方策を選択するのだ。一部の者から不満を持たれることもあったが、それで領地の運営はうまくいっていたのだから、誰も反発できずにいた。


 父という絶対者によって、ぎちぎちに締め上げられた窮屈な日々――だが、そこに新たな風が吹きこんだ。それがセリーヌの存在である。

 父が怪我によって休養している間、セリーヌは彼の代わりを務めた。領民同士のもめごとがあれば親身に相談に乗り、領内で問題が起これば一方を切り捨てるのではなく、両者が納得できる方法を模索した。


 領民の意識はその経験を経て、少しずつ変化していったのだ。


『セリーヌ様はジェームズ様とちがってお優しい。我々のことを真に考えてくれている。それでうまくいっているのだから、ずっとこのままでいいじゃないか!』

 と。


 更にジェームズにとって都合の悪いことが起こる。

 セリーヌを僻地に追放したことが、領民に知られてしまったのだ。当然、民たちは憤った。

 今までジェームズの独裁によって抑えこまれていた不満が、一気に爆発した。


 そして、


「もはや私たちでは、皆の不満を抑えこむことはできません。このままでは領内紛争にまで発展しかねないところまで来ているのです。そこでお願いがあります。セリーヌ様。今後はあなたがジェームズ様の代わりに、領地の管理を行ってはいただけないでしょうか?」


 突然の申し出に、セリーヌは目を見開いた。


「私が……お父様の代わりにですか……?」


 父に視線を移す。すると、ジェームズは渋い顔で頷いた。


「私からも頼む。今はそれしか道がない。お前を追いやっておいて、こんなことを頼める義理ではないのは承知しているが、それでも頼む。戻って来てくれ……セリーヌ」


 セリーヌは覇気が失われた父の双眸をじっと見る。

 そして、きっぱりと言い切った。


「お断りします。そういうことでしたら、私は戻りません」

「そんな……! だが、このままではノエル家の存続が……」


 ジェームズは愕然としてうなだれる。傍らのギルド長たちもがっかりとした様子を見せる。

 セリーヌは父の方へ歩み寄った。

 その手をとると、ジェームズはハッとしたように顔を上げる。セリーヌは優しくほほ笑んで、


「ノエル家の当主は、お父様の他に務まりません」


 すっかり温度をなくした手に熱を注ぎこむように、ぎゅっと握りしめた。

 それから、ギルド長たちの顔を見やる。


「エリックさん、ジェフさん。確かにお父様が怪我で伏せっている間、私が領主の代わりを務めさせていただきました。そして、それで何も問題が起こらなかったから、私のことを評価してくださったことと思います。でも、そのすべてが私の手腕によるものだとは、私は思えません。

 それは今までのお父様の成果があったからこそです。お父様が心血を注いで働き、この地を住みやすい土地にしようと頑張ってくださったおかげなのです。私はお父様のおかげでうまく回っているところに、ちょっぴり乗っからせてもらっただけですよ」


 ジェームズが目を見開く。唇をわななかせ、何かを言おうとした。しかし、それは言葉にならない。

 娘の顔を一心に見つめ続ける。セリーヌはそんなジェームズにもう一度、ふわりとほほ笑んだ。


「お父様。お父様のお仕事をお手伝いして、私は今までお父様がどれだけ大変な思いをしてこられたのか、初めて理解することができました。今は怪我のせいでほんの少し、弱気になられているのかもしれません。でも、しっかりしてください! ノエル家の当主は、お父様以外には務まりません!

 私をお父様の代わりとして、ということでしたら私はここには戻りません。ですが……今まで通り、お父様の元でお手伝いをさせていただけるのでしたら、喜んでお力添えをさせていただきます」

「ああ……ああ、セリーヌ……!」


 父の冷たかった手に、ぽっと熱が灯った。その温もりを閉じこめるように、ジェームズはセリーヌの手を握りしめる。


「私は……実の娘に嫉妬して、お前の存在を遠くに追いやろうとした。それなのに、お前は私をこうして立ててくれようというのか……」


 ジェームズの表情が泣きそうなほどに歪んだ。それはセリーヌが初めて見る、父の人間らしい脆さだった。


「お前は母さんそっくりに育ったな……。今まで仕事ばかりでろくに構ってやれなかったというのに……! すまない……すまなかった……!」


 後はもう言葉にならない。

 ジェームズはセリーヌの手にすがりつくようにして、涙を流す。

 そして、その涙は周囲にも伝播していった。ギルド長はもちろん、事の成り行きを見守っていた使用人たちも目に涙を浮かべている。


「う、う……セリーヌ様の優しさは、旦那様の御心までも動かした……!」

「本当に亡き奥様によく似ておられる!」

「まるで天使! 天使のようだ!」


 それを呆れた様子で眺めていたのは、セリーヌの足元の黒猫だ。


「え? ここは『今さらすがってきても、もう遅い!』ってするところじゃないの?」


 ロジェは不可解そうに首を傾げるのだった。




 + + +



 それから父の態度は変わった。厳しいのは相変わらずだが、何でもかんでも弱者を切り捨てる方策をとらなくなった。

 セリーヌにも優しい言葉をかけてくれることが増えた。すさんでいた領民たちはセリーヌが戻ったことで、落ち着きをとり戻したらしい。元の平和な領地へと戻っていった。


 そうして、また領地の経営がうまく回るようになり――

 セリーヌが本邸に戻ってから、半年が過ぎた頃。


「私、嫌よ! あんな男のところに嫁入りだなんて! お姉さま! あなたが代わりに行ってくださらない!?」


 彼女の発言に、セリーヌは唖然とした。

 セリーヌに向かってそんな言葉を吐き出したのは、2つ年下の妹だった。


 サシャ・ノエル。

 セリーヌとは対照的に、華やかな見目をしている少女だ。セリーヌはストレートの金髪に大人しそうな碧眼という容貌をしている。柔らかな雰囲気も相まって地味な印象を与えるのだ。一方、サシャは金の巻き毛にくっきりとした目元。セリーヌの隣に立つと両者のちがいが際立って、サシャはより派手に見える。


 そのため一緒に社交の場に出ると、サシャの方が目立っていて、よく男性陣からも声をかけられた。それが彼女の勝気な態度を増長させていったのだ。


 そんなサシャに縁談の話が舞いこんだ。

 公爵家からの申し出で、ノエル家は拒否ができない立場にある。男の名は、ダストン・グレゴリー。社交の場でサシャを気に入り、婚姻したいと息巻いているのだという。


 身分も家柄も、ノエル家からしてみれば恐れ多い申し出だった。

 問題は相手の男の能力スペックである。


 グレゴリー家のダストンといえば、並みの男の3倍ほどはある巨漢だ。それも体のほとんどがだらしのない贅肉で形成されている。顔は吹き出物だらけで、はっきりと言って不潔だ。


 彼は幼い頃より持病があり、とことん甘やかされて育ったのだという。性格面においてもあまりいい噂は聞かない。幼少期より甘やかされ続けてきた彼は、二十になった今でも癇癪持ちの子供のような気質をしているという。そんな彼のもとに喜んで嫁入りしたい女など、いるはずもなかった。


 だが……ノエル家は断れない。

 それをわかって、サシャは駄々をこねているのだ。「あんな男と結婚したくない!」と。そして、自分ではなくて、セリーヌがあの男の元に嫁げばいいと言い出したのだった。


「……そうですね」


 セリーヌは熟考した後で、こくりと頷いた。


 セリーヌはダストンにいい印象を抱いていなかった。以前、会った時にはねっとりとした笑みを浮かべ、セリーヌの体をじろじろと観察していた。正直、あの視線はぞっとするものがあった。

 だが、それ以上にあの視線がサシャに注がれることは我慢できない。

 自分が身代わりになることでサシャを守ることができるのならば、それでいいと思った。


「わかりました。私がダストン様にお会いいたします」


 セリーヌは頷いた。それに異を唱えたのは父のジェームズだった。


「ダメだ。セリーヌもサシャも、あんな男の元に嫁がせたりはしない。この話は断ろう。すべての責任は私がとる」


 と、険しい顔つきをしている。

 その表情は以前と比べるとだいぶ丸くなり、父親としての貫禄が出るようになっていた。

 セリーヌは父に向ってほほ笑むと、首を振った。


「いいのですよ、お父様。この縁談をお断りすれば、ノエル家の立場が悪くなります。

 それに、私にはもうまともな縁談が舞いこんでこないことはわかっています。サシャなら引く手あまたですもの。サシャはもっといいお方と結婚するべきですよ」

「しかし……」

「何を悩むことがあるのですか。公爵家と結びつきができるなんて、またとないチャンスではないですか。それに公爵夫人ともなれば、そんなにひどい暮らしになるわけがありませんもの。喜んでこのお話をお受けするべきです」


 セリーヌの顔を見て、サシャは信じられないという顔をする。何か思うところがあるのか、ふてくされたように唇を引き結んだ。

 それからそっぽを向く。


 誰にも聞こえない声で、サシャは呟いた。


「ふん……。馬鹿じゃないの。お姉さまっていつもそう。綺麗ごとばっかりで気持ち悪いわ」




 それから数日後。

 ノエル家にて、ダストンを招いての茶会が開かれていた。


 妹のサシャは体が弱いので、という体で、セリーヌが代わりに彼と顔を合わせることになった。セリーヌが挨拶をすると、ダストンはすぐにセリーヌのことを気に入ったらしい。

 にへら、とした笑みを顔に貼り付けて、挨拶も返さずにしばらくセリーヌのことを見つめていた。


 庭園のあずまやに、2人は向かい合って座る。メイドが並べたお茶にダストンは興味を示さず、ひたすら焼き菓子を口につめこんでいた。


「ダストン様。お菓子はお口に合いましたでしょうか?」


 セリーヌが声をかけると、ダストンはようやくこちらの顔を見た。その拍子に、菓子の欠片がぽろぽろと口から零れ落ちる。

 そして、笑う。

 ねっとりとした笑顔だった。


「……あし……」

「はい……?」


 意味のわからない返答にセリーヌは首を傾げる。

 彼は薄気味悪い笑顔のまま、ぼそぼそと告げた。


「肌が白いのはいい……。脚もきっと白いんだろうね……セリーヌは」

「え? えっと……」


 これはいったい何の話をされているのだろう。褒められているはずなのに、背筋がぞわぞわとする。

 社交の場はそれなりに慣れているはずなのだが、こういう時にどう反応したらいいのかセリーヌはわからなかった。

 固まったまま、目をぱちぱちとさせる。


 すると、ダストンは更に口の端をつり上げた。黄色くて歪な歯が三日月形に姿を現す。


「君でいいよ……セリーヌ……。子供、たくさん作ろうね……」


 セリーヌは喉の奥をひきつらせた。ひ、という声が口から漏れそうになるのを抑えるのに必死だった。




 一方その頃。

 サシャは自室の窓から庭園を見下ろしていた。


 あずまやで話をしている姉と男の姿を見やる。そして、サシャは思い切り顔をしかめた。ダストンの笑顔は薄気味悪く、遠目から見ていても背筋がぞっとする。


「ふう、助かったわ。何なのかしら、あの不摂生の塊のような見た目は。あんなのが夫になるなんて、ぞっとするわね」


 サシャはあの男と姉をこれ以上視界に入れたくないとカーテンを閉めた。

 そして、窓から離れようとして――なぜか、足が動かなかった。


 ふう、と息を吐く。サシャは体の力を抜いて、窓辺に寄りかかった。


「……お姉さまは、あの男が嫌ではないのかしら……」


 ぽつりとつぶやいた言葉。

 それを侍女の1人が拾い上げた。


「サシャ様。僭越ながら申し上げさせていただきます。セリーヌ様はこの婚約についてひどく悩まれているご様子でした。その証拠に、ここ1週間ほどまともに食事もとられておりません」

「何よ……。そんなわけないでしょう。それならあんなに笑っていられるはずがないじゃない」


 サシャは自分の手を握りしめた。

 ここ数日の姉の様子は普段と変わらない。


『おはよう、サシャ。今日はいいお天気ですね』


 サシャと目が合うと、いつも通りの笑顔をへにゃりと浮かべて。

 そんな呑気な話題を振ってくるのだ。


 その顔を見る度に、サシャは内心で「馬鹿みたい」だと思っていた。


 ――お姉さまがそんなだから、今までもひどい目に遭ってきたんじゃないの?


 婚約者に捨てられて、父にまで捨てられそうになって。


 ――そうよ。嫌なら嫌ときちんと言わないから。いつだって貧乏くじを引かされる。お姉さまの態度にも問題があるのよ。私のせいじゃないわ。


 サシャはふんとそっぽを向く。しかし、なぜか足が動かない。窓に背中をくっつけたまま動けなくなっていた。

 この向こう側では今も――セリーヌはあの男と顔を合わせている。自分が吐き気がするほど嫌だと思う男と、お茶を飲み交わしている。それを考えると、なぜだか背中がカッと熱くなった。


 侍女が更に言いつのる。


「セリーヌ様はサシャ様を気遣っておられるのです。サシャ様の前で悩む様子を見せれば、サシャ様が気に病むだろうと」

「は……? そんなこと、私は頼んでないわ! お姉さまは馬鹿なのよ!」


 その言葉にサシャは顔をしかめるのだった。




 セリーヌとダストンの婚約話は、それからとんとん拍子に決まった。

 ダストンはすっかりセリーヌに執心しているようで、公爵家もこれでようやく肩の荷が下りるとばかりに、2人の婚姻を強引に推し進めてきたのだ。


 婚姻の書状を正式に交わすことになった、その朝のこと。

 妹のサシャはセリーヌと顔を合わせると、ほほ笑んだ。にっこり、というよりも、にんまりといった類の笑みだった。


「ご婚約おめでとう、お姉さま。よかったですわね。公爵家の方に見染めてもらえるなんて」

「サシャ、おはようございます」


 セリーヌはいつもと変わりのない、のほほんとした笑顔を見せる。

 そして、サシャへと語りかけた。


「サシャは自分が本当に好きになった方と結ばれてくださいね」

「は? 何それ。嫌味?」

「いいえ」


 と、セリーヌはふわりと笑う。

 それは後ろ暗いものがまるで感じられない、温かみのある笑顔だった。


「サシャが幸せになってくれることが、私の幸せですから」

「ふん……何よ、それ。……そんなの……」


 サシャは顔を歪めて、何かを言おうとした。しかし、唇がわずかに震えるだけで、その言葉は外には出てこなかった。


 婚姻の書状は、公爵家で交わされることになっていた。

 父のジェームズとセリーヌは馬車に乗りこむ。それをサシャはふてくされた視線で見送っていた。

 その背後では使用人たちが泣きそうになるのを堪えていた。


「う、う……セリーヌお嬢様……」

「い、行って、らっしゃいませ……セリーヌ様……っ」

「う……めがみ……女神……っ!」


 馬車が屋敷の前から走り去っていく。その姿が見えなくなると、使用人たちは一斉に泣き崩れた。「いやだあ、セリーヌお嬢様……っ!」と、嗚咽をあげている者までいた。


 サシャは、ふん、とそっぽを向く。そして、屋敷へと足を向けた。

 だが……その一歩を踏み出すことができない。サシャはそのままの姿勢で固まった。

 冷たい秋風が吹きつける。その風が舞い上がり、数粒の水滴を辺りに散らす。


 サシャは弾かれたように顔を上げる。

 そして、走り出した。


「サシャお嬢様……!?」


 使用人たちの制止を振り切って、駆けた。

 少女の目からあふれ出る涙が、風によって後方へと舞い上がる。


「お姉さま……! 馬鹿お姉さま……!」


 嗚咽に喉をひきつらせながら、サシャは声を張り上げた。


「嫌よ……嫌! どうしてお姉さまはいつもそうなの! そんな損ばっかりの生き方、馬鹿よ! そんなことをして何になるの!?」


 痛む心臓をかきむしるかのように、サシャは胸を抑える。そして、そのままその場に泣き崩れた。

 溢れでる涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、天へと向かって叫んだ。


「誰でもいい、助けてよ! お姉さまを助けて……!」


 その時だった。

 しゃらん、と鈴の音が響いた。サシャの隣を黒猫が通り過ぎる。すました顔で歩いていくのだった。


 サシャはハッとして、その猫に視線をやる。

 猫は進み続ける。サシャを追いこし、その先へ――。そこにはいつの間にか、人影があった。


 猫が地面を蹴り上げ、その人物へと飛びつく。


「……同意。あの娘は、愚かすぎる」


 静かな声は、まるで独り言のように呟いた。

 サシャは目を丸くして、その人物を見上げる。


「あなたは…………?」


 涙ににじんだ視界のせいで、サシャは気付かなかった。

 その人物が空から現れたということに。重力を感じさせない動きで、ふわりとその場に降り立ったということに。




 公爵家へと向かう馬車の中で。

 ジェームズは深くうなだれていた。


「セリーヌ……すまない……」


 一方、セリーヌはふわりとした笑みを返す。


「お父様、ここで謝るのはおかしいですよ。公爵家と縁談を結べるのですから。もっと晴れやかな顔をしてくださらないと」

「……セリーヌ…………」


 ジェームズはくしゃりと目元を歪めた。そして、片手で目頭を押さえて、窓の外を向く。後は言葉にならないようだった。

 セリーヌも窓の外へと視線を向けながら、考えていた。


(ロジェ……。どうしているのでしょうか。せめて行く前にもう一度、姿を見たかった……)


 ダストンとの婚姻が決まった日から、あの不思議な黒猫はセリーヌの前に姿を見せなくなっていた。

 そのことが寂しくて、セリーヌは胸を抑える。

 もし今回のことを知ったら、あの黒猫は何と言うのだろう、と思った。


(…………ロジェには、きっと……また怒られちゃいますよね……)


 セリーヌはその光景を想像して、ふふっ、と小さく笑う。

 これからのことを考えると、泣きたい気持ちに襲われる。でもこれでよかったのだ、とセリーヌは自分に言い聞かせた。


(これで、いいんですよね? お母さま……)


 亡き母の顔を思い出しながら、セリーヌは窓の外を見ていた。


 セリーヌの母は心の優しい人だった。見ず知らずの人にでも、自然と手を差し伸べる人だった。そして、セリーヌはそんな母に幼い頃より憧れを抱いていた。


 セリーヌにとって忘れられない出来事がある。それは母と2人で街を歩いていた時のことだった。

 道の端で老婆が倒れていた。薄汚い身なりをしていたが、母は見て見ぬふりをしなかった。当然のように駆け寄って、介抱したのだ。

 その時、物陰から男が現れ、母の鞄をひったくった。護衛がすぐに男を捉えて、事なきを得たのだが――。


 その後、老婆と盗人がグルだということを知った。老婆の存在で油断を誘い、持ち物をひったくるという手口だったのだ。

 帰り道、馬車の中でセリーヌは母の手をぎゅっと握りしめた。


『あんなことになるのなら……彼女を助けない方がよかったのではないですか?』


 すると、母はふわりと笑った。


『そんなこと、ないのよ。だって、見て見ぬふりする方が私は耐えられなかった。自分が人を見捨てる人間である、と思うことが嫌だから。自分に落胆してしまうことが怖いから。だから、目の前でまた同じことが起こったら――私は私のために、手を差し伸べるわ」


 その言葉は幼いセリーヌにとって、衝撃的だった。

 親切は人のためにやるものと思っていた。しかし、母は誰かを助けることは自分のためにしてもいいと教えてくれたのだ。


(“優しい”って……誰かのためじゃない。自分のためにしてもいいことなんだ……)


 母とそんな話をした数日後のことだった。

 セリーヌは“あの人”と出会ったのだった。




 馬車は公爵家の屋敷へと到着した。

 ダストンはセリーヌと顔を合わせると、正式な挨拶もせずにずかずかと近づいてくる。そして、セリーヌの手をとった。


「家を……案内してあげるよ。セリーヌ……」


 これはあまりに無作法だ。父が険しい顔で口を挟もうとする。しかし、セリーヌは父に目配せをして、そっと首を振った。


 ダストンはセリーヌの手を乱暴に引っ張って歩き出す。歩幅をセリーヌに合わせるわけでもなく、ずかずかと廊下を突き進んでいった。

 ダストンは歩く間、ずっと家の自慢話をしていた。やれ、その家具は高名なブランドのものだとか、あの絵画は有名な画家から買い付けたものだ、などと。セリーヌの返事はまったく聞いていなかった。

 自分の話したいことだけを一方的に喋り続けていた。恐らくセリーヌが一言も発さなかったとしても、彼はその調子で話し続けたことだろう。


 2人がたどり着いたのは、書物庫だった。

 扉を開けて、セリーヌは感嘆の声を漏らした。そこは小さな図書館と言えるほどに、棚の端から端まで本が収められていた。


「ほら、ここが書庫だよ……ね? ね? すごいでしょう」


 と、自分の功績のようにダストンは語る。

 確かにこの書物の量は圧巻だ。セリーヌは素直に頷いて、書物庫の中に足を踏み入れた。


 その瞬間だった。

 ばたんと扉が閉まる音が響く。

 セリーヌは手首を乱暴につかまれ、体を本棚に押し付けられていた。


 ダストンの視線がセリーヌの体を上から下まで這い回る。そして、にんまりと笑った。


「セリーヌは……いい匂いがするね……」

「あの、ダストン様……。何をなさっているのですか……?」

「約束、したでしょう……? 子供、作ろうね……って……」


 ダストンが1歩、セリーヌへと近付いてくる。セリーヌは喉を引きつらせた。


「あの…………! これは……ダメです……。私、困ります……」

「どうして? 僕たちはもうすぐ夫婦になるんだよ……?」


 また1歩、ダストンが歩み寄ってくる。

 そのにやけた顔が徐々に視界の中で大きくなることが耐えられず、セリーヌは顔をそむけた。


「い……嫌……っ!」


 セリーヌは思わず、ダストンの胸を思い切り突き飛ばしていた。

 ダストンはよろけて、後ろの本棚に背をぶつける。そして、呆気にとられた顔でセリーヌを見つめた。それは信じていたのに裏切られたという表情だった。


「どうして……?」


 ダストンは呟く。


「なぜ僕を拒絶するの? セリーヌ、君のことはいろいろと聞いているよ。みんな君のことを聖女みたいに優しい人だと言った。何をしても許してくれるんだって。それなのに何で!」


 急激に声のトーンが変わった。癇癪を起すように叫ぶと、ダストンは両腕で本棚を乱暴に叩いた。本がばさばさと崩れ落ちていく。


「何で僕のことは許してくれないの!? 僕はかわいそうなんだよ? ずっと病気で外に出ることができなかった。優しいセリーヌなら、僕を見捨てたりしないよね? 僕のことも受け止めてよ、聖女のようなセリーヌ!」


 セリーヌは胸元をぎゅっと抱えた。

 怖い。どうしたらいいのかわからない。


 ただ1つ、彼は勘違いをしている。それを訂正したくて、セリーヌは必死で声を張り上げる。


「私は……優しい人間でも、聖女でもありません! 私は……、ただ……っ!」

「うるさいうるさいうるさい!」


 ダストンはヒステリックに叫んで、本をあちこちに投げた。


「君はもう僕のものだ! 僕には逆らえないんだ! 僕が跪けと言ったら跪いて、僕が体を差し出せといったら、大人しく服を脱げ!」


 獣のように荒い息を吐きながら、ダストンがセリーヌへと近づいてくる。セリーヌは小さな悲鳴を上げて、その場にうずくまった。


 ダストンがその手をセリーヌに伸ばした――その時。

 ばん、と突然の衝撃が彼を襲った。ダストンは後方へと吹き飛び、本棚を倒して、一緒に床へと崩れ落ちる。


 ばらばらと本が崩れていく音を聞きながら、セリーヌはハッと顔を上げた。


 視界に映ったのは、白。

 白いマントがゆるやかにたなびいて、漂っている。セリーヌは目を瞬かせる。やがてそれが、細身の体をまとう一部だと気付いた。


 いつの間に……? いや、それ以前にいったいどこから……?


 宙を浮遊して、その人物はふわりとセリーヌの眼前に降り立った。


「勘違いするなよ。彼女は君のものじゃない」


 底冷えするほどの冷徹な声が発せられる。

 その人物が指をダストンへと向ける。すると、不思議な波動が彼の体を包みこみ、長い銀髪をゆらりと揺らした。

 どん、と更に衝撃が走る。ダストンに四方から本が降り注ぎ、その巨体を埋め尽くした。


 これは魔法だ。しかし、セリーヌが今まで見たどんな魔法よりも、冷たい気配を発している。


 何かふわふわとしたものがセリーヌの足元にまとわりつく。ハッとして視線を落とすと、そこには見慣れた黒猫の姿があった。みゃあ、と可愛らしく鳴いて、セリーヌの顔を見上げている。


「ロジェ……!」


 見慣れた姿を視界に入れて、セリーヌは緊張の糸が切れた。すがるようにロジェを抱き上げる。

 猫は甘えたようにゴロゴロと鳴きながら、セリーヌの手に頬をすりよせた。


「君ってさ。どれだけお人好しなの?」


 唐突に、冷たい声が降ってきた。聞き覚えのある声だった。

 セリーヌにゴロゴロと懐いている猫からじゃない。セリーヌの前に立っている青年が、その声を発したのだ。

 セリーヌは目を瞬かせながら、ロジェと青年の姿を交互に見やった。


「え……? ロジェ……? 今まで私と話していたのは……」

「は? 猫が人の言葉を話すわけないでしょ」


 青年が「おいで」と手を差し伸べる。と、ロジェがセリーヌの腕の中から飛び出した。ととと、と青年の腕を駆け上がり、肩に乗る。


「これは僕の使い魔」

「あなたは……いったい……?」


 セリーヌの問いかけに、青年は憮然とした様子で応える。


「…………リオ」


 短く返された言葉が、どうやら彼の名前であるらしいと理解する。

 セリーヌはようやく、じっくりと彼の容貌を視界に収めた。


 そこにいるのは不思議で、そして、息を呑むほどに綺麗な青年だった。

 足裏が床から浮いている。ふわふわと宙に漂うせいで、彼が身に着ける白いローブの裾がゆるやかになびいていた。

 星屑を集めて束ねたような銀髪は長く、1つに結ばれていた。金色の双眸がどこかすねたようで、周りを拒絶する雰囲気を宿している。


 ものすごく綺麗だけど、どことなく寂しそうな人だな、とセリーヌは思った。彼の体躯が長身で細身なせいかもしれなかった。


 彼と目を合わせて、セリーヌは息を呑んだ。

 その輝きには……覚えたあったのだ。


「リオ様……。あなたは……あの時の…………」


 幼い頃の記憶が弾ける。

 あれはまだセリーヌの母が存命だった時のこと。セリーヌは屋敷の庭で、不思議な体験をしたのだ。


 庭園の植えこみに、1人の少年がよりかかっていた。

 その姿を認めて、セリーヌは驚いた。彼は全身が血にまみれ、息も絶え絶えの様子だったのだ。

 恐怖を感じるより先に、セリーヌは寂しさを覚えた。少年の金の双眸は宙に向けられ、まるで置き去りにされた迷子のように切なげで――セリーヌは胸を突かれたのだった。


 冷静になって考えてみれば、敷地内に現れた血まみれの不審者でしかなかったのだが……セリーヌはためらわず、少年の元に近づいた。


 『大丈夫ですか?』と、声をかけると、少年はハッとしてセリーヌを向いた。瞬間、どこか虚ろだった瞳が、刃のような鋭利さをまとう。


『……近づくなよ』


 拒絶の声だった。

 セリーヌは構わずに彼へと歩み寄る。


 と、途端に辺りの空気がざわめいた。少年の体から不穏な波動があふれ、セリーヌの体を襲う。

 びりっ、とした鋭い痛みが全身を襲った。痛い! セリーヌは小さく悲鳴を上げて、立ちすくむ。


 少年は瞬間、傷ついたような表情を浮かべるが、それを隠すように冷たく笑った。


『はは……馬鹿じゃない? こんな怪しい男に、無防備に近寄ったりするからだよ』


 その間もびりびりとした痛みがセリーヌの体を駆け巡る。痛みに悶えながら、セリーヌは思った。

 何て冷たい魔法だろう、と。そして、何て寂しそうな魔法だろうとも。


 少年は笑っている。でもそれは物悲しげな笑顔だった。

 だから、セリーヌは痛みを我慢して、足を踏み出した。近寄っていくと、少年は驚いたように目を丸くする。


『何で来るの……? 痛くないの?』

『いたい、です……』


 少年のそばに寄っていくと、痛みは更に鋭くなる。

 でも、セリーヌは手を伸ばす。そして、少年の手をとった。


『でも、あなたは……こんなに傷だらけじゃないですか……』


 その瞬間――

 少年の張り付いたような笑顔が崩壊する。泣きそうに歪められた顔を見て、セリーヌはこの手をとってよかったと思ったのだ。


 あの時の少年は、すぐにセリーヌの前から姿を消してしまった。そして、それ以降、会うことはなかった。

 でも、その時のことは心に残っていた。また会えたらいいのに、とセリーヌはずっと思っていたのだ。


 その少年が今――青年の姿になって、セリーヌの前にいる。セリーヌは言葉を失って、その顔を見つめた。


 一方、青年・リオは、目をとがらせてセリーヌへと詰め寄ってくる。


「君ってさ。本当に……馬っ鹿じゃないの!?」


 その言葉をセリーヌはぽかーんと聞いていた。


「本当に、馬鹿なんだよ! 馬鹿みたいに、お人好しで……! 自分が損をするっていうのに、他人のことばっかり気にして……! そんなのもう、見てられないんだよ」


 まくしたてられる文句に、セリーヌは「え?」と目を瞬いてから、「あの……?」とか「えっと、」などと、あたふたした。

 一通り文句を言うと、リオは憮然とした表情で黙りこむ。そして、つん、とそっぽを向いてしまった。


 セリーヌはゆっくりとその言葉を咀嚼する。そして、小さく笑ってしまった。やっぱり怒られた……と、予想していた通りの展開になってしまったことに。

 そして、彼はいつでも自分のことを心配して、怒ってくれているのではないか、という想像があながち間違っていなかったのかもしれないということに気付いたからだ。


「あの……リオ様。それはちがいますよ?」


 セリーヌは小さく声を上げる。


「私は優しい人間でも、聖女でもありません。私の優しさはいつだって自分のためで、不平等です」


 セリーヌが誰かを許す度に、誰かに手を差し伸べる度に、ロジェ――いや、その向こう側にいたリオは「馬鹿みたいだ」と言った。

 それはセリーヌが他者のために、自分を犠牲にしているように見えるからだろう。

 でも、それはちがう。


 ――私はいつだって、自分のためにしか動いていない。


 リンダが傷つくところを見たくなくて。

 お父様が悲しそうにするところを見たくなくて。

 そして、サシャを不幸にはしたくなくて。


 それは確かにセリーヌの心からの願いだったのだ。

 何も自ら進んで、自分を傷つけたわけではない。それはあの時だって同じだった。


「あの時、私があなたを助けたいと思ったのは……」


 初めてリオの姿を見た時。

 血にまみれていて不気味なのに、宗教画のように美しくて。

 凛とした雰囲気をまといつつも、漂う瞳は寂しげで。


 その存在すべてに、一目で惹かれた。


 元婚約者のケヴィンに――金色の双眸を持つ彼に、リオの面影を感じて、焦がれてしまったくらいには。

 あの頃からずっと、セリーヌは忘れられなかった。


 綺麗で、寂し気で、不思議な雰囲気をまとうあの少年にもう一度、会いたかった。


 だから……。


「好きな人を、助けたいと思う気持ちは、そんなにおかしなものでしょうか……?」


 彼の金色の目を見つめて、セリーヌはふわりとほほ笑む。

 すると、


「え? …………へっ…………?」


 ぼふん、と音が立ちそうなくらいに勢いよく。

 リオの頬は一瞬で赤色に染まった。




 + + +



 それから、クルタリア国ではこんな噂話が駆け巡った。

 侯爵家の令嬢が、『月夜の赤き魔法使い』にさらわれてしまったというものだ。


 その話を公に語っているのは、グレゴリー家の人間だった。特にその家の長男は「本当に見たんだ! あの恐ろしい魔法使いが現れて、僕のセリーヌを目の前でさらっていった!」と怯えながら語っていた。


 そのせいで公爵家とノエル家の縁談話は立ち消えた。公爵家の長男はそれ以降、すっかり委縮して、家に閉じこもりがちになっている。


 クルタリア国第三王子のケヴィンは、「彼女を悪の魔法使いの手から助け出さなくては!」と息巻いて、軍を編成しようとしては周りから止められているのだという。彼は「彼女は僕の婚約者だ!」と言い張り、その度に「元・婚約者だろう」と呆れられているらしかった。


 と、そんな話を、セリーヌはある人からもらった手紙で知ったのだった。


「ふふ……」


 世間ではそんな話になっているとは。

 おもしろくて、セリーヌは小さく笑った。


 そして、その手紙に返事を書くために、ペンを手にとった。


『親愛なるリンダ・ビアン様

 お手紙をありがとうございます。私は元気です。ここでの暮らしにも慣れてきました。噂の悪い魔法使いさんは、私にとてもよくしてくれています。それに、毎日のように来客があるので飽きません。リンダさんは私に合わせる顔がないとおっしゃっていましたが、あなたもいずれ――』


 と、そこまで書いたところで、ノック音が聞こえてくる。

 セリーヌが返事をすると、扉が開く。

 その向こう側には、世間で噂になり恐れられている魔法使いの姿があるのだった。


「リオ様!」


 セリーヌはパッと顔を輝かせると、リオに駆けよった。

 すると、リオは戸惑った様子で、身を引く。セリーヌの笑顔から視線をそらして言った。


「彼ら……また来てるけど」

「はい、今、行きます!」


 リオとは対照的に、足元に黒猫がすり寄ってくる。ロジェの体を抱っこして、セリーヌは自室から廊下へ出た。窓の外に広がるのは、森や湖という光景だった。

 ここは都会から離れた山奥にある古城。リオの住居だった。建物自体は数百年の年季が入った古いものだが、リオがいろいろと魔法をかけているらしく、中は住みやすく綺麗だった。


 こんなに広い城なのに、リオは使用人も雇わずに今まで1人で暮らしていたらしい。

 その理由は、彼の魔力の強さが原因だった。


 セリーヌは廊下を先に行くリオの背を見る。そして、足早に近づいて彼の隣に並ぼうとした。が、リオはハッとした顔でセリーヌの姿を見ると、たん、と軽やかに床を蹴り上げる。そのまま宙に浮遊して、ふわりとセリーヌから距離をとった。


 残念、また逃げられてしまいました……と、セリーヌはその姿を見やる。

 リオは魔力が強すぎるあまり、その魔法が無意識のうちに暴れることがあり、そのせいで他者を傷つけてしまうことがあるのだという。そのせいで人を近づかせないようになり、こんなところで1人寂しく暮らすようになったらしい。

 でも、無差別に魔法が暴発していたのは子供時代の話であり、今はだいぶ制御できるようになっているようだった。その証拠に公爵家でセリーヌを助けてくれた時は、触れられそうなくらい近くに寄ることができていたのだ。


 セリーヌを近づけさせないようにしているのは、魔力の問題以外にも別の理由があるようだと、セリーヌは思っていた。そっぽを向いた彼の頬がほんのり赤くなっているのがその証拠だ。


 負けません……! と、セリーヌは胸中で決意した。昔のようにまた彼の手を握る。それがセリーヌの当面の目標である。

 一緒に住んでいるのだから、この先、その機会はいくらでもあるはずだ。


 あの日、ダストンに襲われたところをリオに救われてから、セリーヌはこの城へと“さらわれた”。それからは2人で暮らしている。

 こんなに広い城内にセリーヌたちしかいないなんて、始めは寂しそうだと思ったけれど、今では慣れてしまった。

 城には毎日のように来客があって、常に賑やかだったからだ。


 セリーヌが1階の広場へと降りると、すぐに「セリーヌ様!」と周囲から声をかけられた。

 そこに佇んでいたのは、ノエル家の使用人たちだった。


「皆さま、こんにちは。またいらしてくださったのですね。嬉しいです」


 セリーヌの笑顔を浴びて、使用人たちは一斉に崩れ落ちた。


「セリーヌ様はやはり聖女……!」

「女神だ……!」

「……天使派」


 などとのたまいながら、感激に打ち震えている。

 その様を見て、リオは呆れた顔で首を傾げる。


「彼ら新興教団か何か……?」


 その次に、


「セリーヌ」


 と、厳かな声がかけられる。セリーヌに歩み寄ったのは父のジェームズだった。

 愛想のないところは相変わらずで、険しい表情でセリーヌに語りかける。が、その内容は要約すると、「元気にやっているか」「不便はないか」「そこの男におかしな真似はされていないか」と、すべてセリーヌの身を案じるものだった。


 一通りセリーヌの無事を確かめると、ジェームズは次にリオへと向き直る。


「リオ。公爵家との諍いを避けるために、仕方なくセリーヌをここに置いているが……わかっているのだろうな」


 ぎろりと剣呑な視線で、彼を射抜いた。


「うちのセリーヌに指一本でも触れてみろ……! この私が許さないからな!」

「待って、おじさん。キャラ変わってる」


 これまた呆れたように顔をそむけるリオ。


 更にセリーヌに声をかけたのは、


「もう、お姉さまったら! 本当に馬鹿! 馬鹿なんだから!」


 妹のサシャだ。

 自慢の金の巻き毛を指でくるくるといじり、不遜な態度のまま、セリーヌへと詰め寄ってくる。


「まったく! お人好しの馬鹿お姉さま! これ以上、私に心配かけないでよね!!」

「は? 妹も、最近、流行りの属性ついた?」


 リオは呆れたように息を吐いてから、彼らを見渡した。


「何なの、こいつら。みんな追い出していい?」


 と、怜悧な顔に青筋を立てている。

 セリーヌはくすくすと笑ってしまった。リオは不愉快そうな顔をしているが、セリーヌは知っているのだ。


 この古城には様々な結界魔法がかけられているので、リオが彼らを招き入れようとしなければ足を踏み入れることはできない。

 それどころか、このひねくれた魔法使いは自ら転移の魔法陣を作り上げ、この古城とノエル家をつなげてくれたのだった。そのおかげで毎日のようにノエル家の人々がここを訪れてくれる。


 そこまでしてくれたのに、現状に文句をつけるとは。

 彼らしいな、とセリーヌは思った。にっこりと笑いながら問いかける。


「リオ様は、賑やかなのはお嫌いなのですか?」

「君は、馬鹿で、お人好しな上に、とんでもなく鈍感なの?」


 頭を押さえてから、リオは文句を言う。


「僕は、君と、2人きりがよかったんだよ!」


 その発言に、使用人たちは盛り上がり、父は激怒し、妹は「あんた、もっと優しく言えないの!?」と文句を言い――


 そして、当のセリーヌはというと。

 ぼふんと音を立てそうなくらいに勢いよく、顔を赤らめるのだった。





 その後、リオの本名はレナード・クルタリアであり、実はこの国の第一王子であり――魔力が強すぎる故に周囲を傷つけるため、存在を抹消されたという過去が判明して、一騒動あるのだが――それはまた、別のお話。



<終わり>


最後まで目を通していただき、ありがとうございます。

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