飛んで火に入る
最終話です
探偵事務所で飲んだコーヒーのせいか、結果のせいか、胸焼けと冷や汗が止まらない。
「奥様は、浮気をなさっている、というのが我々の結論です」という言葉が頭の中をリフレインした。陽炎と相まって、地面がゆらいでいる気がした。
最近の妻は、珍しく私が家にいるときも、構わず出かけていた。溌剌とした笑顔と弾んだ声で行ってきますと言い残して。寂しくはあったが、何も言えなかった。普段尽くしてくれている妻の息抜きならば、友達とのお茶であろうとなんであろうと楽しんできて欲しいと思っていた。
妻は、私の昇進を応援してくれていた。大学の部活動からマネージャーのように私を支えてくれた。ピアノは私より上手く、仕事の昇進も早かったが、私のためにキャリアを諦めてくれた。国会議員の秘書として昇進し、これから忙しくなること、家庭に入って欲しいことを告げると、戸惑った後、笑顔でおめでとうと言ってくれた。
仕事でどんなに辛いことがあっても、辞めずに済んでいるのは、妻が耐え忍んで尽くしてくれているからだった。その分、家にいる時はできるかぎり尽くしたいと思っていた。
まさか浮気されていたとは思わなかった。
最近は、一緒に食卓に付いても、画家の絵の話、絵の着想の話ばかりだった。
「私、あの人の絵に、惚れ込んでいるんだよ」と言われたことを思い出し、頭の中で、何かが切れる音がした。眼球の奥が焼けるように熱かった。
妻は、家庭の外で遊ぶことを覚えてしまった。もう、元通りにはならないだろう。私の妻を虜にした絵とやらが、描けなくなればいい、と思った。
足がふらふらと画家の家に向く。調べてもらった住所はそう遠くない。
噛み締めた奥歯は血の味がした。
○○
果物を持って画家の病室を訪ねた。
カーテン越しのぼんやりした光が風に合わせて揺れる。遠くで金木犀が咲いているようだ。
画家はベッドで半身を起こして、それを眺めていた。病室に入ると弱々しく笑いかけてくる。
「本当に、ごめんなさい」
長い沈黙だった。画家の瞳は遠くを見ていた。
もう動かない利き手に触れる。
「あなたの大切な手が……。リハビリでもなんでも、手伝えることがあれば言ってください」
「じゃあ、一緒に暮らしませんか」
「よろしければ」
そう言いつつ、私はかつて、画家が誰かと一緒に住むことはできない、絵を描く時間が減ってしまうから、と言っていたことを思い出した。
画家はまた遠くを見る目をしたあと、意志を持った声で呟いた。
「もう、創り出すことにのめり込んで、人を傷つけるのはいやなんです」
「どういう、意味ですか」息が詰まって苦しい。
「左手で描けるとしても、描きたくないんです。もう描けないです。心から汲んだものを描くのが絵です。ぼくは絵しか見てなかったから、人を傷つけてしまいました。初めて大事に思ったあなたもです。初めて、今まで傷つけてしまった人たちのことを思いました。誰かにとって大事な誰かを傷つけるかもしれないなら。もう、創り出すのはたくさんです」
そんな、が頭を埋め尽くし、やがて全部が大きな熱に飲み込まれた。
画家は私の変化に気付かずに、もう動かない利き手を差し伸べた。
「一緒に、暮らしませんか。静かなところで」
確かに、私の周りは週刊誌やテレビの報道陣で騒がしかった。でもそんなことはどうでもよかった。私は、創り出したくても、作れないからこそ、あなたを見ているのが好きだったのに。私を飲み込んだ熱は、暴れ回り、噴火した。
「絵を捨てて、私のようなつまらない女と暮らすのですか。あなたの絵に、惚れていたのに」強く唇を噛んだ。
はっと息を飲んで「ごめんなさい、私が悪いんです」目をそらして、病室を足早に出た。
○○
8年の歳月が経った。長かった。
いずれは地盤を継いで議員に、とまで言われた立場は、画家の手を潰し、逮捕されたことで一変した。地位も、妻も、居場所も、何もかもを失った8年だった。
出所をすると、世間は夏だった。浴衣を纏い、人々は花火をしていた。近くの公園では祭りがあるという。えも言えず心を弾ませた。
久しぶりに本屋に立ち寄ると、美術書だろうか、大胆な表紙の大判本と、月刊紙が店頭に平積みされていた。月刊紙の写真は、派手な年増が男女問わず若者を侍らせた集合写真だった。
見たことがある。こんな派手な女、知り合いにはいないんだが。デジャヴを感じ、それを買って祭りが始まる時間まで公園の電灯の下のベンチで読んだ。
ページをめくる。
そこには、旧姓の元妻の名前が大きく記されていた。動悸が、止まらない。
でかでかとタイトルが踊る。『悪女から芸術の女神へ‼︎才能の開拓者の過去と今』。
気鋭の若手芸術家たちの名前とともに、彼らの発掘の立役者として、元妻の実績と噂が事細かに書いてあった。
噂によれば、芸術家は片手がもう使えないため、枯れるように暮らしているという。『訪ねたスタッフは、窓から漏れ聞こえた声を聞き逃さなかった。彼の女神の名前をずっとか細く呟いていたのだ』と下品にも堂々と書いてある。
申し訳ないとも、良い気味だとも思えず、あわれだった。彼と自分は何が違うのだ。どちらも同じ女に滅ぼされた身だ。
読み進めると、週刊誌はこう締めくくっていた。『あらゆるものを糧にして、未だに成長と革新を続ける彼女をこれからも見逃せない』。ふと、谷崎の『刺青』の台詞が頭をよぎる。私の肥やしになったんだねえ。
私は、雑誌を閉じた。呆然とただ、表紙に写る変わってしまった妻を見つめていた。
いつまでそうしていただろうか。目の前を羽虫が通り、少しびっくりして顔を上げた。
いつのまにかあたりはほの暗くなっていた。目の前には祭りの準備だろう篝火が焚かれていた。夕方が終わったばかりの淡い青色に、オレンジ色がパッと映えた。
先ほどの羽虫は、篝火の周りを旋回したあと、中に飛び込んでいき、出てこなかった。
淡い闇は暗さを増していき、祭りの装いの人々の影が篝火に合わせて揺れる。
燃え尽きた私はどこへ行くのだろう。
あてもないまま、祭りの雑踏へ彷徨い出した。
終わらせました。これでかよ〜〜!!!
改稿のチャンスがあればもっと膨らませたいです。エロ以外が書けるように!なりたい!