琵琶精〜胡蝶編〜
そのもの、琵琶の名手なり。
音色を聴きし者達、皆悉く滂沱のごとく涙したと記される。
まさに人智を越えた音といえよう。
今宵語りまするは、琵琶精「胡蝶」の物語なり。
雨のそぼ降る暗い夜に、鮮やかな服を着た女が石畳に座りこみ、空を見上げていた。
その顔は大層整い、乱れ頰につく白い髪も、色黒の柔肌に流れる雨粒さえもその美貌の一助になっているようであった。
女は「胡蝶」と呼ばれた。
知る人がいれば、いや、人相を知らなくとも、名を聞けば「千指妙手の胡蝶」と噂される名の知られる琵琶の名手であると識れたであろう。
女の爪弾く琵琶の音は、非道の限りを尽くした山賊や法の下に揺るぎなく情け容赦ない領主、業突く張りの金貸しの爺、あらゆる世情の欲にまみれた人々の目に涙を滲ませ、今までの行いを悔いるように号泣するほど美しく切ないと噂されていた。
女は西方の少数民族の長の娘であるとか、神降ろしの姫巫女の血を引くとか、どちらともだと様々な憶測を呼び、女の琵琶を聴きたいと人々は集まり、その音色に魅了され、またその噂を聞き、人々が集まった。
しかし、快く思わない人も多少なりともいた。それは女と同じ琵琶弾き達だった。女にばかり依頼がいくことに我慢ならなかったのだ。
「命を取ろうとは思わない。しかし楽器が無ければ演奏出来まい。」
彼らは、女の琵琶を壊そうと幾夜も部屋に忍びこんだがそこには琵琶も女も居らず、やきもきとした日々が続いた。
ある日、琵琶弾きの一人が通りすがりの老人に声をかけられた。
「あなた様から微かではありますが妖気を感じまする。よければ事情をお聞かせください。」
琵琶弾きは渋々ながら、内密にと約束をつけて、胡蝶の琵琶について話した。
それを聞き、老人は、
「それは琵琶の精に違いない。器物の妖は新月には力を弱めると聞きまする。新月である今宵は好機、琵琶の弦を全て断ち切れば、正体を現すでしょう。」
琵琶弾きの一人は、仲間にこのことを知らせ、皆半信半疑ながらも今宵も女の部屋に行くことにした。
そして雨のそぼ降る暗い夜に、琵琶弾き達は女の部屋にまた忍びこんだ。
そして女はいないが、琵琶が寝台に寝かされていた。
琵琶弾きの一人が、震える手で小刀を弦に当てると、一気に全ての弦を断ち切った。
同時に上がる甲高い悲鳴に琵琶弾き達は驚き、中空に浮かび、窓より飛び出した琵琶に腰を抜かした。
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胡蝶は主を失い、弾き手を求め、長い年月が経ち、自らに力が満ちてきたことに気がついた。
これならば自らを爪弾き、我が想いを紡げると喜んだ。
人間は存外に感情豊かで、我が音に耳傾けてくれた。
月の光を根源とする我は夜には月を浴びる。
しかし、いつからか月光浴より部屋へ戻ると人の気配が残り、また荒されているという不快な夜が続いた。
そして新月の夜がきた。
新月は月光がなく、思うように動けないのだ。
まんまと忍びこんだ奴らにも何も出来ないまま、弦を切られてしまった。
またこのまま打ち捨てられ、想いを紡ぐことが叶わないのか・・・。
なんと口惜しいことだなぁ。
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昨夜の雨が嘘のような朝焼けの石畳に艶やかな布と木目の美しい弦の切れた琵琶が転がっていた。
老人が、その布で弦の切れた琵琶を包み、脇に抱えると颯爽と立ち去っていった。
琵琶「胡蝶」は知っている。
まだ終わりではないと、まだ語らねばならぬことがあるのだ。
されど今宵は読み終わり、またの機会を、お粗末様でありました。