惚れ薬プラスシボ
「紗江君、できたぞ! できた!」
「はぁ博士……何ができたっていうんですか?」
ここは我妻研究所。
私の目の前で、できたできたとはしゃいでるのが、御歳七十五歳になるご老体、我妻悟博士。
このボケ知らずで後期高齢者に足を突っ込んだ博士のもと、我妻研究所は稼働している。
ちなみに研究員は、博士の他に、時給六百円という県基準の最低賃金を余裕でくぐり抜けられる低賃金で雇われた私、我妻紗江しかいない。
名前で察せられる通り、博士――お祖父ちゃんと私は血縁関係にある。
ようは、お祖父ちゃんにお小遣いを貰って、その代わりに発明趣味に付き合ってるのだ。お祖父ちゃんのことを博士と呼んでいるのもそのため。
博士は昔から学者であった。
第一線から退いた今でも、孫娘を引き連れて日夜発明に没頭している。素敵な老後ですこと。
だが、残念なことに出来る発明品は、耄碌したかクソジジイ、と思わず叫びたくなるような、なんの役に立つのか分からないものばかり。というか、発明が成功することじたい少ない。有り体に言ってしまえばゴミを量産しているのだ。
「今回の発明はすごいぞ! 歴史に残る世紀の発明じゃあ!!」
「ははっ、前回もおんなじこと言った……」
思わず乾いた笑いが漏れてしまう。
前の全自動雑巾絞り機には、大変お世話になった。
なにせ、絞ってる途中で発明品が爆発。私はびしょ濡れ。半分に千切れたボロボロの雑巾は、びたーんとドロップキックのご挨拶を顔面へと。おまけに、バイト終わりに読もうと一ページも手をつけていなかった小説も巻き込まれ、見事にぐちょぐちょの紙束に。その後の後始末のことも含めて思い出すと、今でも頭が痛くなる。
雑巾だけではない。他にも色々やらかしているせいで、何が来ても素直にすごいとは言えない。
簡単には喜ばないんだからねっ、てやつ。
「惚れ薬! 惚れ薬を作ったんじゃ!!」
「なにそれ、すっげぇ――!!」
瞬間、私は立ち上がって発明品のもとに駆け寄った。なんだったら拍手もつけた。
何だかんだ言って、私とお祖父ちゃんは仲がいい。
×
翌日、私は一人、てくてく歩いて登校中。
私の手の中には、目薬のような瓶が一つ握られている。
これが、例のあれ。
惚れ薬。
どうしても使いたい相手がいた私は、渋るお祖父ちゃんに無理を言って、なんとか貸して貰ったのだ。
そう、私が今回の発明に喜んだのは、お祖父ちゃんのご機嫌とりもあったが、惚れさせて言いなりにしたいやつがいるからだ。
「どう使おっかなー」
薬のことを考えると自然、頬が弛んでしまう。
いけない。気を引き締めるように、ぎゅっ、と瓶を握り直した。
借りた際に、いくつか注意事項も一緒に頂いた。
一つ目は、惚れ薬を飲んだ後、一番最初に目を合わせた人に惚れること。
口に入れて大丈夫なのか、体に悪いものは入っていないのか、と思ったが、そこは問題ないとお墨付きを貰った。植物由来の成分を使用しているため、むしろ健康にいいそうだ。
二つ目は、効果がどれくらい続くか分からないこと。
こればかりはしょうがない……真実は君の目で確かめろ! ってやつだ。
三つ目。これがこの薬を使う上で一番の肝になる。
既に好意がある場合でないと、効果がでない。
聞いたときには何を馬鹿な、既に好きになっているなら薬を使う意味ないだろ、虚仮にするのもいい加減にしろハゲジジイ、と憤慨もひとしおだったが、よく聞いてみると違った。
好意というのは友情だった。
一緒にいて気を使わない、けど体の関係を結ぶには抵抗がある。親愛ではあるが親密ではない、そんな関係でなければこの惚れ薬は効果を発揮しない。言うなれば、友達以上恋人未満の関係でのみ作用する、ということらしい。
ライクをラブにする薬。
友情に思慕の上乗せ。
そこからこの惚れ薬は、プラスシボ、と名付けられた。
「くふふっ……これで、あの女たらしのアンチクショーを自由にしてやる……!」
私の中にあるのはある種の闘志。
メラメラと燃え上がり、頭の中に浮かんだアイツの顔を焼く。
アイツというのは、榎並千佐。私の幼馴染みだ。
小学校はおろか、幼稚園に入る前からの付き合いだ。
家も隣同士、親の仲も良い。そんな事情も合間って私と千佐も当然のように仲が良かった。高校に上がるまでは一番の親友であると自他共に認められていた。
変わったのは、高校に入ってから。
違う高校に進学した訳ではない。二人で同じ高校――清華女学院に進学した。名前の通り女子校だ。
千佐は顔がいい。加えて小動物みたいに愛くるしいものだから、今まで寄ってくる男は星の数ほどいた。中学時代、千佐に近寄ってくる悪い虫を完璧に駆除することに四苦八苦の悪戦苦闘、七転八倒の大立ち回りを繰り広げていたが、その甲斐虚しく何度か千佐の連絡先が男子へと流れてしまった。千佐に恋愛感情がなかったからいいものの、もしもその気があれば一瞬で彼氏を作れる環境にいた、というのが純然たる事実としてあった。
だから、千佐と私、二人で同じ高校、しかも女子校に進学が決定したときは小躍りして喜んだものだ。
これで、男に千佐を取られないですむぞ、と。
だが、事はそう簡単ではなかった。
千佐は顔がいい。同性の私でさえもドキッとしてしまうほどに。
それが問題だった。
高校に上がると、千佐は陸上部に入部した。
私はその頃からお祖父ちゃんの所でアルバイトをしていた関係で、同じ部活には入れなかった。それが問題を加速させるとも知らずに。
陸上部に入った千佐は、その才覚を惜しげもなく発揮。実力をメキメキと表し、すぐに一目おかれる存在になった。
変わったのはそれからだ。
まず分かりやすい変化として、髪を切ったことが挙げられる。
走るのに邪魔だからという理由で、これまで肩口まであったセミロングを、バッサリもバッサリ、お前ビアンかよと突っ込みたくなるようなベリーショートへ。
その姿は……なんか……王子様みたいだった。
幼馴染みがカッコよくなった、話はそう簡単じゃない。
王子様、そう思ったのが、私だけじゃないことが問題だった。
ベリショにしてすぐ、千佐にファンクラブみたいなものができた。
カッコいい見た目に、運動部で大活躍。当たり前のように見た者の心を奪った結果だった。
始めは同じ学年に数人しかいなかったファンクラブも、半年経った今では、先輩すらも巻き込んでかなりの大所帯へと変貌していた。
そして、変わったことの二つ目。
前は引っ込み思案で己の考えを外に出さない性格故か、周りに気を配ることは少なかったが、今では小さな変化に気づき、あろうことか歯の浮くような甘い台詞で誉めるようになった。
この前なんて、取り巻きの女(私の知らない)の髪がほんの数センチ短くなっているのに気づいて、前髪スッキリとしたね君のかわいい顔がよく見えるよ、なんて言っていた。バカじゃねぇの、よくそんな台詞恥ずかしげもなく言えるよな。
私と千佐の距離が遠くなったのは、ファンクラブの設立に伴って。
千佐がどこか知らないところへ行ってしまったようで、どう接していいか分からなかった。
千佐も千佐で、私に話しかけることは激減。
気づけば今ではまったく話さない程、疎遠になってしまっていた。
このままじゃいけない。
そんな悶々とした日々に、降って湧いた惚れ薬。
「ん――!」
惚れ薬を握り直す。
このチャンスは物にしなくてはいけない。
いそいそとスマホを取りだしメッセージアプリを起動。
最後にやりとりしたのは四月の終わり。私は意を決して、当たり障りない文言で止まっている千佐とのトーク画面を開いた。
――今日の放課後、時間ある?
×
そして放課後。私は千佐と空き教室で向き合っていた。
「久しぶりだね、二人きりなんて」
「う……うん、ごめん千佐、急に呼び出して」
「いいよ、そんなこと気にしないで。部活にはちょっと遅れればいいだけだしね」
千佐はそう言って、はにかんだ。
窓から射し込んだ西日に照らされたその笑顔は、一言で言って美しく、どきりとしてしまう。
「最近話してなかったからさ……こうやって紗江と話せて嬉しいよ」
「……どうも」
前までの千佐なら、こんな歯に浮くようなキザったらしい台詞は言わなかった。こそばゆさに、頬を掻く。
王子様化したせいだと考えると、少しムッとしてしまう。けど、少し照れてしまう自分がいた。
「……せっかく紗江が話しかけてくれたから、今日は部活休もうかな」
「そんなゆるいの、部活?」
「ぜんぜんだよ……だけど、最近めっきり話さなくなったじゃん私たち。中学のころは話してない日がないんじゃないかってくらいだったのに」
「そう、だね。話さなくなったね……」
誰のせいだと……。
「だから、もっと紗江と話したいなって」
「また、あんたはそういう……」
そうやって泣かせた女が何人いるか分からん。
それだけにむやみに喜んではいけない。……いけないのだが、ニヤニヤしてしまいそうになるのはいかんともしがたい。
「ねぇ紗江はさ……最近楽しい?」
「どうだろ……お祖父ちゃんといることが多いから、なんとも言えん」
「お小遣いもらえるし?」
「そうそう」
何て言って二人して笑った。
笑いながら、私は懐かしさを感じていた。そうだそうだ、中学まではこんな風に、なんでもないこと言いあっては、笑っていたんだ。
今一緒に笑えていることが、なんだか嬉しい。
「そういう千佐は? ……って聞くまでもないか。あんなにチヤホヤされてたらねぇ」
だから、本音を隠した嫉妬混じりの皮肉も、冗談と取られるだろうと、笑われてそれでおわりだと……そう思っていた。
「ぜんぜん楽しくないね」
「え?」
千佐は空笑いの似合う虚しそうな顔して私を見つめていた。
まさか否定されるとは。
予想外の反応に思わず間抜けな声が洩れてしまう。
女の子を侍らせて悦に浸るだけならまだしも、さんざっぱら私を放置しておいて、よくもまあ……。
「……あんなにチヤホヤされてて楽しくないって……贅沢なんじゃないの?」
「へぇ、紗江はチヤホヤされたいんだ」
「……チヤホヤされたいわけじゃない」
ムカつく。
ノリノリで王子様をやって、いっぱい女の子を夢中にさせておいて、それでも楽しくない?
なんで楽しくないのかも、のらりくらりとしてて煙みたいだし。
この調子だと、踏み込んで聞いたところで……。
「……じゃあさ千佐はさ、何をしてるときが楽しいの」
「紗江と話している時かな」
これだ。王子様発言だ。
飄々として尻尾が掴めない。
本音が分からない。
自慢じゃないが、王子様になる前までの千佐のことなら、頭の先から足の先、果てはおはようからおやすみ、揺りかごからこっち、彼女の全てを理解しているといっても過言ではなかった。
だけど、今は違う。
距離が近かっただけに、近づきすぎていつのまにかすれ違ってしまった。
千佐のことが――王子様のことが、理解できなかった。
すっかり変わってしまった幼馴染みへと、困惑呆れ入り交じり、もういいやと関係を断ってしまってもいいかなんて思うこともあった。
私の千佐は、王子様なんかじゃない。本音を話してくれない王子様の考えなんて分からない。
それでも逃げ出さず、面と向かって話しているのは、最高のカードが手札にあるから。
惚れ薬。
これで、私のことを惚れさせて、なんで王子様なんかを、しかも楽しくもないのにやっているのか聞いてやる。
昔の千佐は甘えん坊だった。いつも私のすぐ後ろについてきて、常に私の影に隠れる程人見知りで、悩みがあると誰よりも先に私に相談する、そんな子だった。
王子様となった今じゃ考えられないほど、昔の千佐は私にズブズブのベタベタ。そんな千佐を見ては、私が守ってあげなくては! と思ったものだ。
あの頃のような関係に戻りたい。
もし戻れたら千佐の悩みを聞いてあげて、それを見事解決。そして、千佐は王子様なんか止めて私だけの千佐になるのだ。
そのためにも、惚れ薬をなんとしなくても飲ませなくてはいけない。
惚れ薬だけが、私と千佐の関係における希望。
クラスどころか学校の人気者と、録に目立つところのない日陰者が繋がれる可能性。
そんな期待を籠めて手元のものを千佐へとつきだした。
「これ、あげる」
それはペットボトル。
しっかり千佐の好きな甘い紅茶にした。
もちろん中には惚れ薬を混ぜてある。
「ん、ありがと」
それを千佐はなんの疑いも持たず受け取った。
「あ、ゴーゴーティーだ。私が好きなの覚えていてくれたんだ……うれしいな」
「部活、頑張ってるみたいだから、差し入れ」
「あはは、ありがと。……差し入れてもらえるような結果、まだなんも残してないけどね」
「……大会とか出ないの?」
「一年生のうちはね」
会話してはいるが私の意識は、彼女の握っているペットボトルに集中。
いつキャップに手をつけるか、今か今かと待っていた。
それでもなかなか口にしようとはしなかった。
逆さになった砂時計のように落ちるのは確定しているのに、なかなか先に進まず焦れったくなってしまう。あまりに焦れったくて頭の裏がチリチリと焼けるんじゃないかと思うほど。
「……紗江……私さ、一人で立ててるかな」
「なに言ってんの、藪から棒に」
こっちはこんなにも惚れ薬を飲むか飲まないかでやきもきしているのに、千佐ときたらよく分からんことをほざきおる。意味分からん。その足で陸上部の次期エース候補になってんじゃん。
「友達……増えたんだよ、私」
「だから、何言って――!」
イライラする。のらりくらりと要領の得ない言葉。なんでそんなこと言うんだよ。
私が、今、一番、興味があるのはそんな今の千佐の話じゃない。惚れ薬で惚れさせて……昔みたいな関係に戻ること。それしかいらない。
だけど千佐の口から出た言葉はその逆。
「変わりたかった――」
「……なに言ってんの…………」
変わってほしくなかった。
私がいないと何もできなくて、臆病で私の影にいつも隠れて、私がついてないとダメな千佐。
「紗江には、迷惑かけてばかりだったから」
「――迷惑なんかじゃない」
「迷惑だよ……」
そう言って伏せた千佐の顔は、葉を散らせた枯木を見るような憂いを帯びていた。その顔に、私は何も言えず……。
「知ってたんだ私……中学の頃、私のこと過保護なくらい面倒見てくれたり、過剰に男子から守ってくれたせいで、紗江がクラスから浮いてたの……」
「それは……」
言い淀む。言ってることは本当のことだ。私に千佐以外の友達はいなかった。
けど、それがなんだ。私には千佐がいる。集団からつま弾きにされても、私は千佐を守れれば、それで千佐が私へと笑ってくれたら、他に何もいらない。
「私は、千佐が大切だから……千佐がいれば何もいらないよ……だから……だからさ、お願い……私の千佐に戻ってよ……王子様なんかじゃなくて、私のものに……」
「……それじゃダメなんだ」
強く言い切られた言葉。
千佐はこんなに強く自分の意思を言葉にする娘じゃなかった。やはり彼女は変わってしまった。こんなんじゃ前みたいな関係に戻れない。
残った希望は、惚れ薬だけ。
プラスシボと名付けられたそれにすがるしか道はない。
「あっ――」
そこではたと気づいた。
プラスシボを使う際の注意点。
友情――好意がなければ効果は現れない。
――ひょっとしたら、私への好意がなくなってるかもしれない。
そんなこと考えもしなかった。だって千佐にとって私はいなくてはならない存在で。私がいなかったら何も……。
執着。依存。独占。
千佐にとって私はそんな対象でなくてはならないのに――。
「私は、一人でも大丈夫だから。紗江に頼らなくても、やってけるから……だから大丈夫。――紗江、私ね迷惑かけずに一人で立てるよ……私はずっとそうなりたかったの」
――私の願いは叶わない。
「…………なんで……なんでそんなこと言うの……」
離れてく。
「千佐は私が必要でしょ」
いかないで。
「千佐は私がいないと何もできないじゃん!」
嫌だ。嫌だ嫌だ――。
「王子様なんかヤダ! 私だけの千佐でいて!」
気づけば掴みかかるような勢いで千佐の肩を抱いていた。
すがり付くように、引き留めるように。
執着。依存。独占。
それらは全部千佐から私へと向けなければいけないのに。これじゃあ……。
「……紗江。それはよくないよ」
止めてよ、言わないで。
「紗江……それは依存だよ……」
はっとして、肩を掴んでいた力が緩まった。
わなわなと自分の手を見る。次いで震える瞳を千佐へと向けた。
見てしまった。哀れむような顔を。
思わず叫び出しそうになるのを、すんでで堪える。なけなしのプライドが無様に叫ぶのを許さなかった。
だが、そのせいで現実がよく見える。
執着も、依存も、独占も。
全部私がしていること……。
「……ねぇ、千佐はさ……」
声が震える。やっとのことで絞り出した問い。
「私のこと……嫌い?」
「嫌いじゃないよ! だから――」
「だったら、そのペットボトルの紅茶、全部飲んで」
「……紅茶?」
「いいから飲んでよ」
訝しげにペットボトルを除き見る千佐。
それでも彼女は分かった、とだけ言うと、私の言葉通りにキャップへと手をかけた。
私は内心ほくそ笑む。
これでいい。
こんな千佐いらない。
これで千佐も私たちの関係も、何もかも元通り。王子様は死んで、私だけの人形に生まれ変わる。私と千佐だけの世界に戻れる。
だけど、効かなかったらしょうがない。私の千佐は死んだ。王子様になってしまった。もう戻れない。
悲しいが、私が欲しいのは私の千佐だ。
王子様の千佐なんかいらない。
それに千佐は私のことが嫌いじゃないと言った。だったら私に惚れてくれるはずだ。
「ああ……そっか」
ポツリと呟くと共に千佐の手が止まった。
なんで止めるのか。私の胸中に渦巻いたのは、怪しさを伴った疑問。
それを指摘する前に……。
「惚れ薬、混ぜたんでしょ」
「――! なんで知って――」
いけないと思い口をふさいだ。だがもう遅い。失言は取り戻せない。
「ああ……やっぱり入ってたんだね」
悲しそうに眉を下げる千佐がいた。
彼女は惚れ薬の混じったペットボトルを机の上に置くと、ため息混じりに私と向き合った。
「昨日、おばさんから聞いたよ。あの子お祖父ちゃんから惚れ薬もらってウキウキしてたから、なにか悪用するんじゃないかって。ペットボトルの封が切れてるからひょっとしてって思ったんだけど……本当に入ってたんだ」
家が隣で家族ぐるみの付き合いがあったことが災いした。顔を合わせたら世間話くらいする。そのネタに惚れ薬を使われたのだ。
「なんで、これ飲ませようとしたの」
「……いいでしょ別に」
飲まないんなら用はない。
逃げるように惚れ薬ペットボトルをふんだくろうとしたが叶わなかった。
「待ってよ」
がしっと、その手を掴まれたから。
「答えて」
鋭くまっすぐな眼差しに射竦められ体が固まってしまう。
「……さっきから言ってるじゃん……私だけの千佐になってほしいって……」
「だからって惚れ薬? 馬鹿じゃん」
千佐は盛大にため息をつくと、手の力を緩めた。
次いで気の抜けたように顔を歪めた。
「私が変わったのは、紗江のためなのに」
「何言って……」
「迷惑かけないよう、負担にならないように、私はね……努力したんだ。紗江の力がなくても私はやれるって見せたかった。堂々と胸を張って紗江といたかったから」
「そんなこと私は望んで……」
「私が嫌だったの。私のせいで紗江に迷惑がかかるなんて……我慢できない」
「でも、私から離れていって」
「だって近くにいたら頼っちゃいそうになるから……実際に何度も何度も挫けかけたよ。そのたびに紗江に立派になった私を見てもらうんだって自分を慰めて……やっと、胸を張って自分を見せれるところまでこれた」
「……もしかして、さっき楽しくないって言ったのってさ……私と話すことが楽しいから、それができなくて」
「そう言ってんじゃん。……正確には、紗江といれば何をしていても楽しい、だけどね」
腰から力が抜けそうになった。
近づきすぎてすれ違ったとはよく言ったものだ。だって、彼女が言う通りに受け取ると、千佐は私のことを……。
「……なんでそんなに頑張れたの?」
「そりゃ対等でいたかったからだよ。後ろについてくんじゃなくて、隣あって一緒に歩きたかった」
恥ずかしそうに笑う千佐を見て、ああ……自分の愚かさに気がついた。そして、今まで気づかなかった千佐の不器用さに笑みが漏れる。
「ねぇ千佐……」
「なに? 紗江……」
今度は私が手をとった。今まで離れていた分を埋めるように、指と指とを絡ませて。
「好きだよ」
「うん……私も、好き」
ぎゅっと握り返される。
私は馬鹿だった。
自分を変えてまで千佐は私のことを想っていてくれた。それなのに私は自分のことしか考えないで……。
決意した、この手は決して離さないと。
そして確信した。握り返される力に、伝わる熱に、千佐は決して手を離してくれないと。
私と千佐。確かに私たちは繋がっている。
「千佐――」
「ぁ……紗江――」
その繋がりをもっともっと確かなものにするように、私たちは吐息がかかるくらい顔を寄せた。
まつげが相手の頬を撫でるバタフライキッス。鼻で鼻を擽り、じゃれあいの内に目を閉じた。
唇に甘く、柔らかな感触。
鼓動が跳ねて、フワフワと足が安定しない。もっともっとと真っ赤に燃える唇を押し付ける。千佐も私に応えるように、情熱的に仕返してきた。
息がまともにできず、腰砕けになりながらも熱心に互いを求めた。
熱心に励んだせいだろう。足に力が入らず私が覆い被さる格好で床に崩れ落ちた。
「っはぁ――!」
「んん……はあはあ……紗江……」
見つめあい、呼吸を乱す。お互い犬みたいにはあはあとしながら顔を付き合わせていると、なんだかおかしくなって吹き出してしまった。
くすくすと笑いあいながら、立ち上がろうとすると、押し倒されてる格好の千佐が私の首へと手を回してそれを妨げた。
「ねぇ、紗江……せっかくだから惚れ薬飲んでみない?」
「惚れ薬を?」
「うん……一緒に飲も?」
千佐は私の耳元に顔を寄せると小悪魔を思わせるように囁いた。
「今の私を……もっと好きになって」
私は引ったくるように置かれていたペットボトルを取ると、ごくごくごく、勢いよく口に含んだ。
そして、惚れ薬入り紅茶を口に含んだまま千佐の唇を塞ぎ、口腔内にそれを注ぎ込んだ。
キスは紅茶の上品な味。私たちはここが学校だということも忘れて紅茶の味がするキスに夢中になった。
一心不乱に千佐を貪る。千佐を求める本能に従って、舌を挿し込み、歯を、舌を、歯茎を、ほっぺの内側を、彼女の全てを蹂躙した。時には唾液をすすり、時には逆に私の唾液を注ぎ込み、互いの体液を交換しあった。
息が切れ切れになり、頭がボーッとしだした辺りで媚薬紅茶はなくなり、どちらともなく透明な糸を引きながら唇を離した。名残惜しげに舌を蠢かして……。
「千佐……好きだよ……」
「うん、うん――私も大好きぃ……」
ドキドキドキドキ。
心臓が物凄く荒ぶって、落ち着かない。
動悸に揺れる視界で千佐を認めると、より一層心が高鳴った。それは千佐も同じようだったようで、彼女は顔をリンゴ以上に紅くし、熱びてうるっとした目で私を見つめる姿は、とても妖しくいやらしかった。
二人の荒い呼吸が重なる。
好き、が収まりそうにない。
ここはめったに人の来ない空き教室。
窓の外からは部活動に励む賑やか盛んな声が。
西日は妖しく私たちを嘗めている。
「千佐……ごめん、私、もう……我慢できない」
「うん、紗江っ紗江っ――大好きっ!!」
互いを求めた私たちはしとどに濡れて繋がった。
×
私たちが身も心も繋がった日から、引っ付いて離れていた関係が、またくっついた。
「千佐、次の小テスト範囲どこだっけ」
「ワークブックの三十五ページから五ページ分……あ、その唐揚げもらい」
「あ、ちょっと!」
「いいじゃんいいじゃん……ん、おいし」
「もう……ただでさえ朝練のおかげでお腹減ってるのに……」
「しょうがないなぁ……じゃあウィンナーをあげよう」
「わぁ嬉し」
なんて、仲睦まじく一緒にランチができるようになった。
そこには以前のような一方的な依存関係などない。千佐の望んだような互いに尊重しあえるような関係になれた……と思う。今まで近すぎた分、距離の計り方は気を付けなくちゃいけないね。
それに私と千佐は繋がっている。それを理解できたから今の関係でも不安にはならない。むしろ心地いい。
幸せな気持ちになりながらお弁当をつついている私たちに近づく影がひとつ。
「いやはや、王子様とお姫様コンビは絵になるね」
「お姫様って言わないでよ」
「できれば私も王子様って呼ばれたくないなあ」
「無理。美しい者にはそれなりの言葉が贈られるものよ。それも二人セットならなおさらね。諦めなさい」
腰まで伸びたストレートの紫がかった黒髪、かっちりとしてしかしやぼったく見えない黒縁眼鏡、長身で、しかもまるでグラドルのような肉付きの良いグラマラス、妖艶な雰囲気を纏ったクールヴューティー。
私たちの友達、茶香月薫子だ。
もともとは千佐の友達で、私と千佐の仲直りに伴い私とも仲良くなった。
そんな彼女に軽口をひとつ。
「じゃあ、茶香月さんはさしずめ社長秘書ね」
「あっ分かる、茶香月ってやれる女って感じがする」
「……そこはできる女って言ってほしかったわね」
苦い顔して茶香月さんは私たちの近くの席についた。
そんな彼女へ千佐は冗談と笑いかけた。
目の前で繰り広げられる光景を私は微笑ましく見つめていた。
私にも千佐以外の友達ができた。
それもこれも千佐が、私たちが仲直りした翌日に、クラスの人たちの前に私を引っ張って、「紗江は私の彼女だから」と宣言、それだけじゃ留まらず、オーディエンスに見せつけるようにキスしてきたせい……おかげ。
最初はおいおいこれじゃ王子様信者に反感買うだろと肝を冷やしたが、案外すんなりと受け入れられた。むしろ私も巻き込んで王子様信仰に拍車がかかった。
何故かって? そりゃ私が王子様の対、お姫様だと認定されたからだ。
今じゃすっかりクラスどころか、学校全体公認の仲。
ぶっちゃけ気恥ずかしい。裏で千佐×紗江派と紗江×千佐派で論争が起こっていると知った時は恥ずかし過ぎて倒れるかと思った。
なんでこんなに受け入れて貰えたのかと思っていたら、茶香月さんがあることを教えてくれた。「もともとあなた――お姫様はクラスで密かに話題になっていたのよ。憂いを帯びた表情、物憂げな瞳、悩ましげなため息……アンニュイな雰囲気に惹き付けられている人が多かったの。そのくせ誰とも関わりがなかったから、裏じゃミステリアスな美人さんって呼ばれてたり……それに王子がチラチラと貴方を見ることが多かったから余計にね」
つまりは千佐のせい……千佐のおかげだ。私にクラスで居場所ができたのは。感謝しないとね。
「なに、どうしたの紗江? そんなにニヤニヤして」
「別に、ただ千佐のこと好きだなぁって思って」
そう言った瞬間、背景がガタンと音をたてた。――きゃー紗江様が千佐様のこと好きって! きゃーきゃー好きって言いましたわ!! ――ああ、尊い! とうと過ぎてもはや私は虫! ――これはやはり紗江×千佐でしょ!? ――いえ、これだけでは早計もいいとこ、姫の誘い受けの可能性も……。
一気に騒がしくなった。
「……あはー」
「……うわぁ」
私たちは顔を見合わせて苦笑を見せ合う。
「あ、そうだ……紗江、次の土曜日部活休みだから、一緒に遊ばない?」
「……土曜日は……午前中はお祖父ちゃんのところいくから、午後からならいいよ」
「……ねぇお爺さんのところ、私も一緒に行ってもいい?」
「良いと思うけど……なんで? 言っちゃなんだけど、面白いところじゃないよ」
「良いよ……紗江の家族に挨拶したいだけだし」
また背景がざわついた。
それを見て千佐は人好きのする笑みを浮かべた。
……千佐、なんだかんだ言ってこの状況楽しんでるなぁ……。
淑女の妄想の種にされて一人恥ずかしい私でした。
約束の土曜日になった。
「おはよハニー」
「おはようハニー」
ハニー同士の蜜月。
家の前で顔を合わせた私たちは挨拶とキスをひとつ。もちろん誰も見ていないのを確認してから。
「じゃあ千佐行こうか」
いちゃつきもそこそこに我妻研究所へと足を向ける。
「そうそう、千佐……なんで今さらお祖父ちゃんに挨拶なんかしようと思ったの?」
「迷惑だった? 過程はどうあれ惚れ薬のおかげで紗江と結ばれたからね。お礼言いたくて……」
「迷惑じゃないよ……お祖父ちゃんも千佐と会うとたぶん喜ぶし」
でも、そっか……
「一応お祖父ちゃんが私たちの間を取り持ってくれたことになるのか……」
「……それに、その……あの薬のおかげでさ……紗江とエッチなこともできたわけだし……」
「――! ちょっと! 恥ずかしいから止めてよ!」
ばしばしと背中を叩く。
今思うと、空き教室で……その……致したのは良くなかった。学校で、エロいことするなんて頭のネジがイってたとしか言いようがない。しかも二人とも初体験。……初体験は大切にしたかった。それもこれも惚れ薬のせいで、あんな発情した犬みたいに……。
「あれじゃ惚れ薬じゃなくて媚薬じゃん」
「はは……言えてる――おっ、ついた」
千佐がから笑いしながら同意したところで、目的地に到着。
我妻研究所は私の家から徒歩五分とかからない。近所のコンビニ感覚で来れる、それが私にとっての我妻研究所だ。
「博士ーきたよー」
「お邪魔します、お爺さん」
勝手知ったるなんとやら。ノックもチャイムもなしに引き戸をガラガラ言わせてお邪魔します。
「いらっしゃい、紗江君と……千佐君か、久しぶりじゃな、随分明るくなったようじゃの……」
スリッパに履き替えたところで奥からお祖父ちゃん……博士が現れた。
……ん? 心なしか元気がない。肩も落ちてしょんぼりしているように見える。
「どうしたんですか博士?」
「それがのぉ紗江君……プラスシボがなぁ」
「プラスシボ?」
プラスシボが何か分かんなかった千佐がオウム返す。そういえば千佐は知らなかったな。
「惚れ薬の名前……で、プラスシボがどうしたの?」
「そのな……プラスシボなんじゃがな……」
「プラスシボが……?」
何やら深刻そうな声音。
雰囲気に当てられ、ごくりと千佐が生唾を飲み込んだ。
「プラスシボがじゃな……」
「うん……」
「…………――なかったのじゃ」
「はい? なんて?」
「だ、だからじゃな……なかったのじゃよ……」
「お爺さん、なにがなかったんですか?」
「……効果」
「は?」
「だからな……効果が、なかったのじゃよ……ただの栄養材じゃった……」
「はあっ?!」
「ごめんのぅ、紗江君……惚れ薬にあんなに喜んでくれたのに」
しょげたお祖父ちゃんは、更に肩を落とした。
「い……いいんだよ、博士……そういうこともあるって」
慰めつつも、嫌な汗が背中にダクダクと流れ始めた。と、いうことはだ……。
あの日、空き教室で致したことは……。
ぎぎきっと首を軋ませ千佐を見る。
彼女も彼女で顔を真っ赤にして私を見ていた。
「あ、はは……」
「うふふ、ふ……」
薄ら笑いが口から漏れる。あの日あんなに乱れたのは惚れ薬のせいだ。そう思ってたのに……。
固まっていると、千佐がおずおずと口を開いた。
「プラスシボじゃなくて、プラシーボだった訳だ」
「誰がうまいこと言えと!」
照れ隠しの叫びが研究所にこだました。
その後、落ち込んだお祖父ちゃんをなんとか宥めすかして、その日の研究所での活動は終了。
午後のデートは最初気まずかったが、途中から開き直った私が積極的に千佐のことを攻めていちゃついたこと、私の猛攻にたじたじになっていた千佐が可愛かったこと、その様子を街に遊びに来ていたクラスメイトに見られて紗江×千佐派が勢いづいたこと……あとはまぁ、吹っ切れた私が千佐の家に泊まり、家族にばれないように夜一晩、ねっとりねっぷりと千佐を愛して快楽に溺れさせたこと、などなど盛り沢山だったが……それはまた別の話。