第六話 考察と筋肉痛と一方その頃
読み返してて矛盾しそうな点を発見したので加筆しました。
おそらくこれで大丈夫……だと思います。
これ幸いともぎ取ったささやかな休日。
エレンは自室にて軽くダンベルプレス――前世の記憶中にあったトレーニング法だ――をやりながら、昨日のロベルトの大剣について――正確には、鞘に施されていた彫刻と柄の装飾についてだが――考えていた。
「なーんか、どこかで見たことがある気がするんだよねぇ……」
荘厳な竜が細かい彫刻によって立体的に施され、銀箔を全面に貼っていた鞘、そして柄は、鞘にも彫られていた竜が見事な銀と鉄の細工で表現されていた。そしてその竜には翼が六枚あるという特徴があった。
現在、翼が六枚もある竜は確認されていない。大昔、それこそ神話の時代には存在したらしいが、現在ではほぼ架空の生き物の扱いだ。エレンは学院生時代に、神学の授業で使う教科書で、この竜の絵を見ていたのだ。そこにはこの竜の説明と名前も記されていた。
「ええと、確か……ディアノラス……だったっけ?」
ディアノラスは神々の言葉で『風の竜』を意味するという。その六枚の翼で世界中に行き渡るほどの風を起こす天空の覇者。この竜はある日、ルクレストのある大陸から何処かへと飛び去り、伝説の中へと消えていったのだという。
このディアノラスであるが、異国の王室の紋章にもなっていたはずだとエレンは必死に学院時代の知識を捻り出す。ダンベルプレスの三セット目がゆっくりと終了したところで、ふっ、とその国の名を思い出した。
「そうだ、ディアーノだ! なんで思い出せないのかと思ったら、あの国って……」
エレンはそう呟くと、少々暗い表情を浮かべた。それも仕方のないことだろう、何せその国、ディアーノは、かつて『魔の大陸』と呼ばれた大陸に存在していた、十年前に一夜にして滅んだ大国なのである。ディアーノとルクレストは別々の大陸の国ということもあり、それほど深い親交がなく、今では『魔の大陸』という呼び名の方が世に浸透してしまったため、この国のほとんどの住人はディアーノの名を咄嗟には思い出せないだろう。エレンがそうだったように。
「ということは、ロベルトさんが持ってきたあれって、ひょっとしてディアーノに伝わる大剣の複製品ってこと? ある国に伝わる大剣としか言ってはいないけど……」
そんなことを一人で悶々と考えるエレンだったが、ダンベルプレスをする腕は止まらない。むしろ、考え込むことによっていつもより回数が増えている。これは翌日、確実に筋肉痛になるだろう。
「でもどうしてロベルトさんがそんなものを持ってきたんだろう……て、危なっ!」
一人で考えたところで答えの出ることのない問題に直面したエレンの腕がようやく止まった。どうやら限界を迎えたらしい。危うく腹の上にダンベルを落とすところだった。
どす、という音を立てて木の床に落ちるダンベル。床に穴が開いても不思議ではない勢いだったが、床は無傷、無事そのものだった。なぜならばこういうことを予見して、エレンが床や壁に付加魔法を掛けているからである。この事実をロベルトが知ればこう言うだろう。国一番の技術の付加魔法の無駄遣いだ、と。
***
翌日、見事な筋肉痛になったエレンは、まるで錆びきった歯車のような動きを時折見せながらも、通常通り給仕としてきびきびと働いていた。
「お待たせいたしました、豚の串焼きセット二つと麦酒二つです!」
「おお、きたきた!」
金獅子亭、夜の営業。この時間は昼間よりも、冒険者の他に仕事帰りであろう平民の数も多い。そして利益率の高い酒の注文が目が回るほどに入る時間でもある。今エレンが対応している客も仕事帰りの平民のようで、酒とそのつまみを先ほどから何度も頼んでくれている上客だった。
「そういやぁお前、一昨日の号外見たか?」
「おお、見た見た!」
「王太子様がようやっと新しい婚約者を迎えたんだよな? キャ……なんちゃら侯爵? のところのお嬢さんだったか?」
エレンが厨房に戻ろうとしたとき、客がその話題を出したものだから彼女の足が止まりそうになった。しかしもはや己には関係のない話だと気を取り直し、そのまま厨房へと足早に向かった。
「なんで例の『勇者』様の妹が婚約者になれなかったのかねぇ」
「そりゃあれだろ、一口に貴族って言っても、序列ってえのがあるんだろう? だから、身分差ってのがどうしようもなかったんだろうさ」
「身分ねぇ……それを考えたら、貴族様も大変だわな。ま、例の悪女よりもマシな娘なら問題ないだろうさ」
「だな。そういや、あの悪女の名前ってなんだったか?」
「ん? えーと……確か、エレンじゃなかった?」
「エレン? エレンっつーと、この店の給仕の姉ちゃんと同じ名前じゃねえか」
「そういやそうだな。でも、ここの姉ちゃんはあの悪女と違って性格いいじゃねえの。この間なんか……あれ? 丸太の束を両肩に抱えて歩いていたような……」
「……奇遇だな。俺もそれ見たことあるぜ。他にもでっかい小麦粉の袋を何袋も運んでいるところを見たことあるぞ」
「…………」
「…………」
「……うん、絶対に噂の悪女とは違うな、これは」
「……だな」
エレンのあずかり知らぬところで、そんな会話が交わされていたとかいなかったとか。
「……っと、例の悪女の話はこの辺で終わりだ! 『勇者』様だけどよ、とうとう結婚が決まりそうだって噂だぜ!」
「マジか!」
「ああ! これは、ファーティマにいる俺の親戚から聞いた話なんだけどよ……」
***
「あいたたた……はぁー、ようやく今日の仕事終わったー」
「まったく、どうしたのかと思って心配してたら、ただの筋肉痛だって? いったい何をしていたのさ?」
「無心で……ダンベルプレスを……」
「……はぁ、なんだろう、この脱力感。エレンだから仕方ないって言えばいいのかな? これは……」
夜の業務終了後、忙しく働いていたフリンがエレンに声を掛けた。エレンが一日中辛そうにしていたのが気になっていたのだ。しかしエレンの口から出てきたのは、ダンベルプレスという筋力トレーニングの名称。フリンが呆れるのも無理もないことだろう。
「今日はゆっくりお風呂で温まって筋肉をほぐしてもう寝なよ? 明日もそんな様子じゃ、こっちの調子が狂ってしまうからね」
「あはは……ごめんごめん。それじゃお言葉に甘えて、一番風呂いただきまーす」
「はいはい、いってらっしゃい」
フリンに促されたエレンは、一旦自室に戻り入浴道具を持ってから風呂に入るために脱衣所へと向かった。脱衣所は板張りで、風呂場から漏れ出ている湯気を吸っているのか若干しっとりとしている。古くなってきているのか、ぎしぎしと音が鳴る床をそろそろと歩いて脱衣所の籠の中に着替えを置くと、おもむろに服を脱ぎ始めた。そうして現れたのは、実に均整のとれた女性の身体だった。
豊満な胸は張りがありながらも柔らかそうでもあり、鍛えられた背中は筋肉が付いていながらも美しい肩甲骨の形が浮かんでいる。しっかりと中央が窪んでいる背中の中央から視線を下にずらせば、高い位置にある腰が見えた。その腰は貴族の令嬢たちのようにほっそりとはしてはいなかったが、コルセットを着用する必要がないほどのくっきりとしたくびれが存在していた。安産型で大きめのお尻もしっかり鍛えているのかつんと上向いている。
実はエレンの肉体は、女性として完成されたものなのである。これで鎧を着込み剣でも持てば、立派な女騎士の完成だ。顔立ちも悪くはないのだが、貴族女性にしてはごく普通の容姿だった。顔まわりで秀でている部分といえば、美しい金の長い髪と紺碧の瞳だろうか。しかしそれ以外はこれといって褒める部分が無いと言えば無い顔立ちだった。
エレンは洗身用と体を拭う用のタオルを持って、住み込みで働く者たちのために作られた風呂場のドアを開けた。むわりと湯気が脱衣所まで広がったので、浴室に急ぎ足を踏み入れドアを閉める。そこには平民が持つにはなかなかに大きい浴槽と、シャワーが完備された洗い場があった。
エレンは先に頭と体を洗ってからゆっくりと湯船に浸かる。どうやら前世のエレンはとても風呂好きだったらしく、入浴の時間は彼女にとってまさしく至福の時だった。
「はぁ~……気持ちいいー」
エレンは凝り固まった肩や腕の筋肉をゆっくりと揉みほぐして思い切り伸びをする。このまま眠ってしまいそうなほどに気持ち良くなってきたエレンは、いつの間にか本当に眠ってしまっていた。
***
湯船で寝こけてしまっているエレンをエマが起こしに行った丁度その頃、ルクレストの王城では、カイと隣国ファーティマの王女であるクローディアがルクレスト国王であるリチャードと謁見していた。
クローディアは美しいカーテシーで、そしてその後方でカイが跪き頭を垂れていた。
荘厳な空気の中、玉座に座していたリチャードがおもむろに立ち上がり朗々とこう述べた。
「遠路遥々、ようこそルクレストへ。ファーティマ国王女、クローディアよ。そして此度の王女の護衛、まことご苦労であった、『勇者』カイよ。さあ二人とも、面を上げよ」
「はい」
「はっ」
リチャードの言葉にまずはクローディアが、そしてそれに続くようにしてカイも返事をして顔を上げた。リチャードは二人をじっと見つめると、まずはクローディアに話し掛けた。
「確認をさせてもらいたいことがある。クローディア王女よ、そなたはその『勇者』カイと婚約をしていると聞く。それはまことか」
「はい、間違いございません」
クローディアはまっすぐとした瞳をリチャードへと向けてはっきりと答えた。
「ふむ、間違いないか」
クローディアの答えにリチャードは一つ頷くと、更にこう続ける。
「だがクローディア王女よ、カイは地方の男爵家の、しかも爵位の相続権を持たぬ者だ。いくら『勇者』……『ヒエロ』の称号を持っていたとしても、身分の違いを埋めることはできぬ。まず間違いなく今までのような暮らしはできなくなろう。それでも良いのか?」
「はい。それも覚悟の上ですわ」
「そうか、覚悟の上か……」
覚悟の上と語る強い意志の宿るクローディアの瞳は、誰もを惹きつけるだろうと思えるほどに美しかった。リチャードはそんなクローディアの視線をまっすぐに受け取ると、ふっ、と表情を緩めた。そしてゆっくりとクローディアの元へと歩み寄ると、彼女の小さな身体をそっと抱きしめた。それを見てカイがわずかに目を丸くする。それも仕方のないことだろう、いくらリチャードが国王とはいえ、己の婚約者を抱きしめたのだから。そんなカイの様子を見て、リチャードはいたずらっぽく笑いながらこう言った。
「すまぬな、カイよ。今しばらくはただのクローディアの叔父でいさせてくれ」
リチャードのその発言を受け、カイは驚き目を見開いた。クローディアがファーティマの王女であるというのは周知の事実だが、まさかルクレスト王であるリチャードの姪だとまでは知らなかったのだ。そういえばリチャードには姉がいたと聞いている。カイが生まれる前にはどこか異国に嫁いでいたため、名前もよく知らなかったのだ。更には十年前の邪竜誕生の際に世界中で蔓延した流行病で、五十近くの年齢だったファーティマの王妃はその時に亡くなってしまっていた。だから、カイが知らないのも無理もなかったのだ。
カイが思わずクローディアへと視線を投げると、なんと彼女もいたずらっぽく笑っていた。どうやら彼女もわざと黙っていたらしい。カイは若干ばつが悪そうに二人から視線を外すと、小さく咳払いしてこう呟いた。
「クローディアまで、ひどいじゃないか」
「うふふ、ごめんなさい。ちょっと驚かせたかったのよ。でも、そのせいであなたの妹……ミスティ様にご迷惑を掛けてしまったわ」
「え? ミスティに迷惑?」
カイにはクローディアがミスティに掛けたという迷惑にまったく思い当たらなかった。そもそもクローディアとミスティは会ったこともない。迷惑を掛けようもないはずなのだが、それでもクローディアは「ごめんなさい」と謝っていた。
「わしから説明しよう。クローディアがお主の妹に掛けてしまった迷惑というものを」
リチャードはそう言うとクローディアを己の腕から解放し、婚約者であるカイへと返す。そしてミスティがクローディアによって被ったらしい『迷惑』というものの説明を始めた。
「お主が今し方知ったように、わしとクローディアは親戚関係にある。いくらクローディアがファーティマ王家から降嫁しお主と一緒になろうとも、その事実は変わらぬ。ここまでは良いな?」
「はい」
リチャードの説明を受けて、カイも少しずつミスティの被った迷惑というものに思い至り始めた。
「そして我が息子フリードリヒと、お主の妹であるミスティも互いに好き合っているようだ。それは良いのだ。だが……」
「……なるほど、分かりました。お……私がクローディアを妻とすることにより、オブサダン男爵家はファーティマ王家とだけでなく、ルクレスト王家とも繋がりが生まれてしまう。そこで更に妹のミスティまでもが王太子妃になろうものなら、ただの地方男爵家の身分に釣り合わぬ権力が生まれてしまうのですね」
「そういうことだ。オブサダン男爵の人の良さは聞き及んでいる。そんな男爵に取り入ろうとする者どもが湧いて出てくるだろう。要らぬ争いを生まぬためにも、フリードリヒとミスティの婚約だけは許せなかったのだ。実に申し訳ないことなのだが……」
そういう理由ならば仕方がないだろう。カイは頭ではそう理解している。だが、心はそういうわけにもいかなかった。自分は愛する者と結ばれるというのに、妹にはそれが許されない。そしてそれは、己の相棒であるロベルトとエレンにも言えることだった。
カイだけが知っているロベルトの秘密。ロベルトは今年三十三になるが初婚もまだの身だ。そんな彼が想いを寄せているであろう女性がエレンなのだが、そのエレンは二十歳になったばかりで、ロベルトとは十三も歳が離れている。それだけでも秘めたる想いを諦めるのに十分な理由だというのに、もっと厄介な秘密が彼の結婚を絶望的なものにしていた。
自分一人だけが幸せになるなんて、そんなの不公平だろう。
カイは意を決してリチャードにあることを伝えた。
「陛下、一つだけ、伝えたいことがあります」
「分かった。なんなりと申してみよ」
「我が妹、ミスティをいじめていたとされる犯人についてです」
「……続けよ」
「私はアレスで犯人とされている女性……エレンと交流を持っています。彼女の人柄を直接この目で見た私には、とてもですが彼女が妹をいじめるような人間には思えないのです。何せ、困ったことがあればなんでも腕力で解決しようとしますからね、彼女」
「……は? 腕力?」
思ってもいなかった言葉を聞いて、リチャードから王の威厳が消える。それを見たカイは慌てて話をミスティのいじめの事件に戻した。
「あ! い、いえ、それはまぁ、今はいいです! それで、彼女自身が貴族社会から解放されて自由になりたかったから、王太子殿下の婚約破棄を抵抗することなく受け入れたと聞きます」
「そうだな、そう聞いている」
「だから、彼女が犯人と決まったわけではないと思います。それこそ、彼女を追い落とすことで益を得ることができる者もいたことでしょう」
「ああ、もちろんいた。その益を得ることできる者こそがキャティシエル侯爵だからな」
予測していなかった言葉を聞いて、カイの思考が停止する。まさかそれを理解していながら、先日の王太子の婚約発表をしたのだろうか? そんな言葉がカイの表情にありありと浮かんでいた。
「わしとて考えなしにこの話を通しておらぬよ。レオニードの奴もこの二年、ずっと準備しておったからな」
「レオニード?」
突然知らない人物の名前を挙げられてカイはぽかんとなる。それを見てリチャードはくつくつと笑うと、意地の悪い表情を浮かべながらこう言った。
「レオニード・シャルマー公爵。エレン・シャルマーの父親じゃよ」
話が勝手に転がっていく……。
もう私には制御できない。
【2018年1月10日】
誤字脱字他修正しました。