第二十七話 二人の覚悟に祝福を
三つ並ぶ、ただ石を積み上げただけの簡素な墓の前に片膝をつき、エレンとロベルトは黙祷を捧げていた。
ここに来るまでの間にエレンがロベルトから聞かされた話は、まさに信じられないようなものばかりだった。しかしこうしてエレンの目の前に、ディアーノ国王であるテオドール、王妃のグレウス、そして邪竜へと変貌した第二王子リカルディアスの名が刻まれた三つの墓が存在する以上、ロベルトの話に嘘偽りは無いのだろう。
そう、邪竜が誕生したあの日、唯一生き残ったロベルトがディアーノの王族・ウォーディアスであるということも……嘘ではないのだ。
ロベルトの話が本当ならば本来ここは相当に広い場所だったのだろうに、瓦礫に埋もれ今ではその影も形もない。せいぜい二十人程度が入れるか入れないかという広さだ。三つ並んだ墓の他には、急ごしらえだというのが一目で分かる剣を収めるための台座しかなく、なんとも物寂しい空間となっていた。
「……今まで黙っていてすまなかった」
いつの間にか顔を上げていたロベルトが静かに呟くと、自然な動作でエレンに左手を差し出した。エレンはその手に己の右手を重ねてはっとなる。ロベルトの手がわずかに震えていることに気が付いたからだ。
ロベルトさんは今、いったい何を思っているのだろう。
エレンはロベルトの震える指先を見つめそう思い、彼の内心を慮った。そして深く考えれば考えるほどに、彼の背負っているものの重みを感じ取ってしまい胸が張り裂けそうになる。そして同時に、ロベルトが己の正体についてエレンに告げることをどれほど恐れていたのか、それも痛いほどに伝わってきた。
不意に、エレンは己の人生を振り返る。ルクレスト王国でも格式高いシャルマー公爵家に生を受け、厳しいながらも確かに愛情を注ぎ育ててくれた両親と一つ歳上の仲の良い兄を家族に持ち、幼少の頃より王太子の婚約者となった自分。その後紆余曲折を経て十八歳の時に婚約破棄をされて市井に放り出されたものの、父親の手回しによりダヴィッドに声を掛けられて金獅子亭で働くこととなった。それからはエマやフリンといった心優しい金獅子亭の面々に囲まれ、平民としての暮らしを謳歌していた。貴族として生きていた頃の息苦しさの無い平民の生活は、自由を愛するエレンには本当に楽しいものだったのだ。
そう、自由。
しかしそれは言い換えれば、貴族としての責務を放棄し逃げ出したということに他ならない。その考えに思い至ったエレンは、ここにきて心の中に不安が生まれた。貴族の責務を投げ出した己には、ロベルトの隣に立つ資格は無いのではないかと。
ディアーノ王国の再興を願い行動を続けているロベルト。片や貴族であることを放棄し自由であることを選んだエレン。この事実だけを見れば、エレンは確かにロベルトに……ディアーノ最後の王族の伴侶には相応しくないだろう。なぜなら、エレンには圧倒的に上に立つ者としての覚悟が足りていないからだ。
しかしそんな対照的な二人がこうして並んでいる。あの冒険者の街アレスにある食事処で、一人は身分を隠し、一人は身分を失くした状態で出会い、互いに惹かれあって今こうして手を繋いでいる。
今、ロベルトの隣にいるのは間違いなくエレンなのだ。
エレンはロベルトの隣に自分以外の誰かが立っているのを想像しようとして、できなかった。何度想像を膨らませてみてもロベルトの隣にはエレン自身が立っているのだ。ロベルトの隣に自分以外の誰かを立たせたくない、そんなものを想像したくないという深層心理ももちろん働いているのだろう。しかしそれでもロベルトの隣に立ち、彼を支え、あるいは迷う彼の手を引き共に歩くのは自分なのだと……エレン自身が心の底から強く望んでいるのだと、この時彼女は気が付いた。
今こそ、私も覚悟を決める時だ。
エレンは心の中で力強く頷くとロベルトの手を気持ち強く握り、二人揃ってゆっくりと立ち上がった。そして改めてロベルトに向き直ると、彼の黒曜石のような美しい黒い瞳をまっすぐに見つめる。その瞳が不安げに揺れているのがエレンには分かり、だからこそ彼女は短く息を吐くと、自分にできる精一杯の「いたずらが成功した子供」のような笑顔を浮かべ、ロベルトにこう言ってみせた。
「こう見えても私、王妃教育を長年受けてきたんだよ?」
ロベルトは一瞬、何を言われたのか分からず目を丸くする。しかしエレンの言葉の裏に込められた真意を理解したその瞬間には、彼はエレンを抱き締めていた。
「……本当に、いいのか? きっと、辛い思いばかりさせてしまうぞ」
苦しげに紡ぎ出されるその言葉を受け止めるかのように、エレンはロベルトの背中に己の両腕を回す。そして彼の胸に額を押し当て大きく頷き、ゆっくりと顔を上げる。エレンは胸の奥底から溢れ出る想いを言葉に乗せ、はっきりとした声でロベルトに告げた。
「それでもいいよ。それに、辛いことも二人でならどうってことないよ」
「……ああ、そうだな。エレンと二人なら、どんな壁でも乗り越えられる」
「うん? 壁ならわざわざ登らなくたって殴り壊してもいいんだよ?」
「壁を壊す役目は俺が引き受けるから、エレンはその握り拳を下ろしてくれないか」
二人しておどけたように言って、小さく笑いあう。
「ふふ……壁を乗り越えて、時々壊して、そうしてその分だけ幸せになるの。もちろん私たち二人だけが幸せになるんじゃなくて、このディアーノという国も幸せにしていくんだよ」
エレンの言葉にロベルト小さく頷くと、ゆっくりと彼女を己の腕の中から解放する。そして改めて彼女を見つめ、柔らかな微笑みを浮かべた。
「エレン……ありがとう」
ロベルトはエレンに感謝の言葉を伝えると、おもむろに彼女の左手を取ってその薬指の付け根に口付ける。そしてたった今口付けたエレンの働き者の手を愛おしげに撫でて顔を上げた。
「本当なら指輪の一つでも贈らないといけないんだろうが……まだ準備できていないんだ、すまない」
謝罪の言葉を述べるロベルトに、エレンはぶんぶんと勢いよく頭を左右に振って応えた。
エレンは頰をほんのりと赤く染め、視線を自身の左手に向ける。ロベルトが親指の腹でエレンの左手の薬指を撫でるたびに、彼女はなんとも言えないむず痒さを覚えた。そのむず痒さはやがて全身にじわじわと広がっていき、このどうしようもない感覚をどうにかしたくてエレンはそわそわと視線をあちらこちらへと動かす。それを見たロベルトが何を思ったのかああ、と声を上げると、エレンから手を離し姿勢を正してから右手を胸に当てる。そしてエレンの目をまっすぐに見つめ、真剣な表情でこう言った。
「さっきも言ったが、きっと辛い思いばかりさせてしまうだろう。だがそれでも俺の隣にいて欲しい。エレン、どうか俺と……このウォーディアス・ロベルト・ディアーノと結婚してくれないか」
ロベルトの瞳にはもう、迷いや恐れ、不安といったものは一切浮かんでいない。ただただ強い輝きを宿して、ひたすらにエレンの姿だけを映していた。
ロベルトの黒い瞳に射抜かれたエレンは、己の中で彼の言葉を反芻し噛みしめる。ばくばくと大きく脈打つ心臓の音をひどくうるさく感じながらも、それすらも心地良いと思っているのもまた事実だった。
エレンは目を閉じ一度だけ大きく息を吐く。そしてゆっくりと目を開け、その紺碧の瞳にロベルトの姿を映した。
金獅子亭で初めて出会った頃から着用している、使い込まれた皮と金属の軽鎧。綺麗に後ろに撫でつけ、一つに結わえられた黒い長髪。背負っている大剣こそ出会った頃のものではなくなっているが、それでもロベルトの見た目はいつも通りと言えた。それなのに、エレンの目には彼の姿がいつもと違って見えるのだ。それはきっと、ロベルトが真の意味で己の名を取り戻したからなのだろう。もう彼はただの冒険者ロベルトではない。たった今、誇り高きディアーノ最後の王族・ウォーディアスとしての姿を取り戻したのだ。
エレンはロベルトから視線を逸らさず、彼の言葉に応えるべく声を発した。その声は一切の迷いの無い、凛としたものだった。
「はい」
あまりにも短いその言葉。しかし、彼らにはもうそれ以上の言葉は必要ないのだ。
ロベルトはエレンの言葉に破顔し彼女を抱き寄せる。そして万感の想いを込めて、彼女の赤く熟れた唇に口付けを落とすのだった。
***
ロベルトが剣を収める台座の前に立ち、砕け散ってしまったディアーノの国宝であった宝剣のレプリカを突き立てようとしている様子を、エレンは少しだけ彼の後方に立って見守っていた。ロベルトは大きく深呼吸をすると、寸分の狂いもなく大剣を一気に台座に収める。その瞬間、崩れた地下洞窟だというのにどこからともなく柔らかな風が吹いた。その風は迷いなく大剣の元に集まると、刀身に吸い込まれるようにして消えていく。エレンはその不思議な光景に目を瞬かせると、思わずといった様子で声を漏らした。
「今のは……」
その声にロベルトは答えた。
「この国の守り神の魂が戻ってきたんだ。ようやく……ディアノラスとの約束も果たせた」
「ディアノラスとの約束……?」
「ああ。邪竜を討伐した時に……声が聞こえたんだ」
そう言って、ロベルトは語り始めた。
ロベルトがカイと協力し邪竜を討伐したあの日。人間の姿を取り戻した弟が己の腕の中で息を引き取ったその時、ロベルトの頭の中に声が響いた。その声は人間の言葉を発していなかったにも関わらず、不思議と意味は理解できた。そしてその声が、ディアーノの守り神であるディアノラスのものだということもロベルトには分かったのだ。ディアノラスは、強烈な悪意と宝剣の守り人である王族の血で穢されてしまった魂を癒すために、新たな器を欲していた。その器こそが、ロベルトが鍛治職人に依頼し作らせた宝剣のレプリカなのだ。
「ディアノラスはこの新たな器に満足しているみたいだ。エレンの付加魔法がよほどお気に召したらしい」
「私の付加魔法を?」
いったいどういうことなのか、いまいちピンとこないエレンは小さく首を傾げる。ロベルトはそのエレンの仕草を見て微笑みながら頷くと、ディアノラスが彼女の付加魔法についてどう思っているのかを説明した。
「ああ。以前の宝剣は丈夫に作られてはいたが普通の剣で、内側からの衝撃には弱かったらしくてな、ディアノラス自身が繊細な魔力制御をして壊れるのを防いでいたんだそうだ。だが、今回のこの剣には『不壊』の付加魔法が施してある。そのおかげかディアノラスも今までよりも楽ができると喜んでいるんだ。そして『風』の属性も付加されているから魂との馴染みがいいと言っている」
ロベルトのその言葉にエレンが驚いて目を丸くしていると、彼女の頭の中にチリン、と鈴のような音が響いた。
「え、何……?」
突然頭の中で響き始めたチリンチリンと控えめに鳴る鈴の音。しかしエレンはその音を不気味に感じたり不快感を覚えたりなどは一切なかった。むしろどこか安心感さえあり、エレンはゆっくりと目を閉じるとその鈴の音に意識を集中させた。すると不思議なことに、鈴の音が少しずつ言葉として聞こえるようになってきたのだ。そのことを理解したのだろう鈴の音の持ち主が、エレンに語りかけてきた。
チリン、チリン。
――お前が我が依り代にこの術を施した者か。
チリン、チリン、チリン。
――なるほど、良き魂だ。お前もまた我が依り代の守り人になるに相応しい。
チリン、チリン、チリン、チリン。
――そこの人の子と同様に、お前も我に連なることを許そう。受け取るがよい、我が力のひとかけらを。我が名は『 』。お前たちにはディアノラスと呼ばれているモノだ。
エレンの体を光を伴った風が包み込んだかと思うと、あっという間に弾け飛ぶ。きらきらと輝く光の粒子がエレンとロベルトに雪のように降り注ぐさまは、まるで二人の行く末を祝福しているかのようだった。
「この光は……そうか、エレンもディアノラスに認められたんだな」
「うん……そう、みたい」
幻想的な光景に二人は見入る。やがて光の最後の一粒がエレンの目の前で弾けて消えると、一瞬だけ静寂が訪れる。
「……エレン」
その静寂を破ったのは、ロベルトの小さな声だった。
「ディアーノ王族は婚姻する際、互いに贈り合う特別なものがあるんだ」
「互いに贈り合う特別なもの?」
「ああ。それは……秘密の名前だ。夫となる者が妻に、妻となる者が夫にそれぞれ名前を付けるんだ」
「名前を……」
エレンが小さく呟いたのを聞いて、ロベルトは穏やかに微笑んだ。
「何も今すぐ名付けろなんて言わないさ。ただ……考えていて欲しいんだ」
「うん……ロベルトさんは、もう考えているの?」
「ああ」
ロベルトはエレンの問いに答えるとからりと笑う。そんな彼の笑顔を見て、ずるいなぁ、とエレンは内心で呟いた。
そんなやり取りの後、二人は改めて墓前で祈りを捧げてから宝剣の間を出て行った。そうして後に残されたのは、ディアノラスの魂が宿った新たなる宝剣。その宝剣の刀身が淡く発光し、一粒の光のかけらがふわりと舞い上がる。その光の粒が一つの墓の前で弾けて消えた時、チリン、と小さく音が鳴った。
――おめでとう、ウォード。
ディアノラスのものとは違う囁き声が、誰もいない宝剣の間に響き渡ったのだった。




