第二十六話 邪竜誕生の日
「リカ……ルド……?」
目の前に広がる光景に脳の処理が追い付かないウォーディアス。そしてそれが致命的な隙となった。
リカルディアスはウォーディアスを真っ直ぐ見据えるように体を動かすと、大剣を両手で上段に構え一気に振り下ろした。太刀筋が魔力をはらんだ風の刃となって、ウォーディアスを真っ二つにしようと襲い掛かる。
ピリピリとした肌を刺す殺気にウォーディアスは反射的にその場から飛び退くと、彼の真横を風の刃が走り抜ける。その風の刃は地面を浅く削りながらウォーディアスの後方の壁にぶつかると、まるで初めから存在していなかったかのように霧散した。
この宝剣の間は天然の地下洞窟に作られている。国宝の大剣を安置するためだけの部屋でありながら、百名以上の兵士が自由に動き回れるほどに広く、天井も王城の半分の高さほどもある。
ここは初代ディアーノ国王の命で人の手が入り、壁や床は美しく整えられている。更には補強のために付加魔法師が定期的にやって来ては、物質強化と魔力抵抗の付加魔法を施していた。今回はそれが功を奏したようで、風の刃に込められた魔力量に対しての被害は少ないといえた。
それを確認したウォーディアスは、少々暴れたところでこの場が崩落する心配はないと胸をなでおろす。しかし宝剣の魔力を解き放てば城だけでなく街もすべて吹き飛ぶほどだと、さきほどグレウスから聞かされたばかりだ。
ウォーディアスは気持ちを切り替え慎重に体勢を整えると、今だ宝剣を振り下ろした状態のリカルディアスに向かって叫んだ。
「リカルド! お前はいったい何をしているんだ!」
ウォーディアスのその言葉に、リカルディアスは宝剣を振り上げて再び風の刃を生み出すことで答える。ウォーディアスはその攻撃を避けるのではなく風の障壁を生み出し受け流しつつ、明らかに様子のおかしいリカルディアスを観察する。よくよく見ればリカルディアスの目は虚ろで、何か魔法を掛けられているのか薄っすらと赤い光を帯びていることにウォーディアスは気が付いた。
「リカルドが抵抗できないだと?」
王族であるリカルディアスは、ディアーノでもテオドールに次ぐ魔力を保有している。そんな彼はもちろん、暗示や魅了などの精神支配系の魔法にも高い抵抗力を持っている。それだというのに、今のリカルディアスは明らかに何者かに操られている様子であった。
リカルディアスを操っているのはブラック侯爵か?
ウォーディアスはそう考え周囲の魔力を探ってみるが、リカルディアスが持つ宝剣の魔力が部屋に充満しているせいか感じ取ることができない。
ウォーディアスはチッ、と小さく舌打ちをすると、風の防御壁を展開しながらリカルディアスに向かって駆け出した。
「まずはお前を正気に戻す!」
そう言いながら、ウォーディアスはリカルディアスの動きを注視しつつ少しずつ距離を詰める。リカルディアスは虚ろな目をウォーディアスに向けると、緩慢な動作で宝剣を中段に構えた。ウォーディアスは今にも剣を水平に振り抜こうとしているリカルディアスを見て、彼の死角に入るように風を圧縮した魔力球を放つ。リカルディアスはその魔力球に気付くと咄嗟に剣の軌道を変え、風の魔力球を切り裂いた。その瞬間、魔力球に込められていた風がリカルディアスに叩き付けられる。普段の彼ならば耐え切れただろう衝撃だったが、今は操られているせいか足に力が入っていなかったようで、簡単に吹き飛ばされた。
ウォーディアスはその隙を逃さず一気に駆ける。その途中、テオドールが持ち出していた剣が落ちていることに気付いた彼は、咄嗟にそれを拾い上げた。その剣は刀身の中ほどからぽっきりと折れている。この状況から考えて、操られたリカルディアスと打ち合った時に折れてしまったのだろう。しかし素手で大剣を持つリカルディアスに相対するよりはましだと、ウォーディアスは剣の柄を右手でしっかりと握り込んだ。
リカルディアスが体勢を整える前にウォーディアスは彼の元にたどり着く。そしてリカルディアスに掛けられた魔法を解除するために、ウォーディアスは剣を握っていない方の手を振り上げた。
実のところ、リカルディアスに掛けられた魔法を解除しようにも、ウォーディアスはあいにくとその手の魔法を不得手としている。しかし、魔法以外にリカルディアスを正気に戻す方法が無いわけではないのだ。
その方法とは、至極単純。
「悪いが少しの間眠っていてもらうぞ!」
物理で殴る。
正確には、操られている者を気絶させることだった。
ウォーディアスがリカルディアスに拳を振り下ろそうとしたその瞬間。
「……っ!」
己の背後から強烈な悪意を感じ取ったウォーディアスは、無理やり上半身を捻り半分の長さになってしまっている剣を振るう。金属同士がぶつかり合う鈍い音がウォーディアスの耳に届くのと同時に、彼の右手に強烈な衝撃が襲い掛かった。辛うじて剣を取り落すことはなかったが右手は完全に痺れてしまっており、しばらくは使い物にならないだろう。
操られているリカルディアスと背後からの襲撃者から一旦離れるため、ウォーディアスは転移魔法よりも更に簡易的な魔法を行使する。襲撃者の背後、二十歩ほど離れた位置に現れたウォーディアスが目にしたのは、無骨な長剣を手にしたブラック侯爵の姿だった。
「ふむ、ウォーディアス殿下は陛下と同じく武に秀でていらっしゃるようだ」
なんともつまらなそうにブラック侯爵は言うと、視線をリカルディアスへと移す。その視線を受けたリカルディアスは、のろのろと起き上がると再び宝剣を構えてウォーディアスを見据えた。
「さあ、リカルディアス殿下。その宝剣に更なる王家の血を」
ブラック侯爵がリカルディアスの後ろに下がりながら放ったその言葉に、ウォーディアスが激昂した。
「貴様! やはりリカルドに父上を斬らせたのか!」
「ええ。私では警戒されていて傷一つ負わせることもできないでしょうから 」
何を当たり前のことをと言わんばかりのブラック侯爵の態度に、ウォーディアスは犬歯をむき出しにして怒りを露わにする。ブラック侯爵はそんなウォーディアスの表情を一瞥することもなく、リカルディアスへ視線を投げた。
「しかし、双子の王族というのも哀れなものだ。迷いがあるからこそ、こうして簡単に操ることができる」
「何……?」
ブラック侯爵の言葉にウォーディアスは思わず反応する。リカルディアスに迷いがあるとは、いったいどういうことなのかと。
「お二人は幼い頃から実に仲の良いご兄弟でした。だからこそ、リカルディアス殿下は次期国王とその補佐という関係に納得はしていても、心の奥底では受け入れられなかったのですよ」
何を考えているのか分からない表情を浮かべながらブラック侯爵は語る。その言葉を聞いたリカルディアスの肩が、ピクリと小さく動いた。
「……そう、だ……私には……迷いがある。だから……だからこそ……!」
リカルディアスは言いながら、宝剣を大きく振りかぶる。そして勢いよく振り下ろし、慟哭した。
「私は……操られることを受け入れてしまったんだ!」
宝剣が地面に叩き付けられる。多量の魔力が込められていた宝剣が地面にぶつかった瞬間、暴れ狂う暴風がリカルディアスを中心に吹き荒れた。
リカルディアスたちから少しだけ離れた位置に立っていたウォーディアスは、咄嗟に転移魔法を唱え二人から更に距離を取った。しかしリカルディアスのすぐ後ろに立っていたブラック侯爵は逃げることができず、その風に体を巻き上げられると天井に全身をしたたかに打ち付けそのまま落下する。ブラック侯爵は死亡してもおかしくないほどの怪我を負いながらも、鋼の意思で魔法を発動し落下の衝撃を和らげていた。
口から血を吐きながら浅い呼吸を繰り返すブラック侯爵の元へ、宝剣を片手で引きずりながらリカルディアスは歩く。その歩みは非常にゆっくりで、剣が地面に擦れることで発せられる不快な音と相まって得も言われぬ恐怖を演出していた。
「私は……父上を殺してしまった。ブラック侯爵に操られていたとはいえ、それを受け入れたのは私自身だ。だから、半分は……私自身の意思で、殺したんだ」
殺してしまったんだ、そう何度も呟くリカルディアスは幽鬼のごとき形相であった。
「リカルド……」
このままではリカルディアスがブラック侯爵を手に掛けるということが分かりきっているにも関わらず、ウォーディアスはその場から動けなかった。どうにかしなければ、リカルディアスの元に行かなければ、気ばかりが焦り体はいっこうに前に進まない。そんなふうにウォーディアスが動けないうちに、リカルディアスはブラック侯爵の元へ到着していた。
リカルディアスがブラック侯爵にとどめを刺そうと音も無く宝剣を振り上げる。リカルディアスの姿を見上げる形となっているブラック侯爵が、血にまみれた顔に歪んだ笑みを浮かべるとひどくしゃがれた声でこう言った。
「わだ……じ、の、が……ぢ、だ」
その瞬間、宝剣の刀身からまばゆい光が溢れ出し、それと同時に耳障りな甲高い音が宝剣の間に響き渡った。ウォーディアスは思わず両手で耳を塞ぎ眩しさに目を細める。そんな状態に陥りながらもウォーディアスが必死にリカルディアスの姿を光の中に探していた時、宝剣の間の扉が勢いよく開いた。
宝剣の間に現れたのは、護衛を引き連れたグレウスだった。彼女たちは目の前に広がる光の奔流に一瞬二の足を踏むが、一国の王妃と訓練された護衛たちはすぐさま気を持ち直すと、光に害が無いことを確認して宝剣の間に乗り込んだ。
彼らがウォーディアスたちの姿を探している間に、宝剣の間を満たしていた光が一つに収束する。そうして巨大な光球が宝剣の間の中央にできあがると、今まで見えていなかった光景がグレウスたちの目の前に広がる。そして彼女たちは息を飲んだ。
大量の血を流し絶命しているテオドール、折れた長剣を握り呆然と立ち尽くすウォーディアス、狂ったように潰れた笑い声を上げるブラック侯爵、そして……光球の真下に立つ、血まみれの宝剣を手に持つリカルディアス。
「陛下……? リカルディアス、その血は……ウォーディアス、これはいったい……?」
ようやく声を上げることのできたグレウスの疑問は、解消されることはなかった。
誰かがその声に答える前に、光球がリカルディアスの体の中に吸い込まれるように消えたからだ。
「ああ……ああ……! 兄上、私を……止めて……殺してください……!」
ただ一人、これから何が起こるのか理解したリカルディアスが悲痛な叫び声を上げる。
そしてそれが、リカルディアスが人間の声を発した最後の瞬間だった。
ひときわ大きな甲高い音が鳴り響く。その次の瞬間、リカルディアスが手にしていた宝剣が粉々に砕け散った。痛みを堪えるかのようにリカルディアスが吼えるが、その声はもはや人間のものではなかった。そう、それはまるで……竜のごとき咆哮だった。
リカルディアスの内側から光が溢れ出す。それと同時に、彼の体の膨張が始まった。
王族のために作られた衣服が窮屈だと言わんばかりに簡単に弾け飛ぶ。その破れた衣服の下から覗くのは黒い鱗に覆われた手足。みるみるうちに太くなっていくその手足には鋭い爪があり、付加魔法の施されている宝剣の間の床を簡単にえぐり取っていた。手足と同じくらいに太い尻尾が伸びたかと思えば、背中にはこの場では広げることができないほどの大きな翼が生える。リカルディアスの顔も膨張し鱗が覆い顎が伸びて鋭い牙をのぞかせており、すでにそこに人間の面影は存在していなかった。
膨張が終わる頃には、目の前のリカルディアスだったものは宝剣の間の二分の一以上を占める巨体となっていた。窮屈そうに体を丸め、低い唸り声を上げている。
「な、リカルディアス殿下が、竜に……」
護衛の一人がそう呟いた次の瞬間、竜がその目を見開いた。
怪しく光る金色の双眸が、己の目の前に立つ矮小な存在を映す。そしてリカルディアスだった竜はゆっくりと顔を持ち上げると己の頭上に向かって咆哮し、その口から黒い炎を吐き出した。
黒い炎が宝剣の間の天井を溶かす。それによって地盤が緩んだのか、大きな地響きと揺れが宝剣の間を襲った。天井が崩れ始めるのも時間の問題だろうと思われた矢先、なんとグレウスが一人ウォーディアスの目の前に躍り出た。
「母上!?」
「ここは母が食い止めます。ウォーディアス、あなただけでも逃げるのです」
「っ、しかし!」
「もはや一刻の猶予もありません。近衛、邪悪な竜が誕生してしまったと各地に伝令を。そしてこの国から……この大陸から逃げるように、民たちに伝えるのです!」
グレウスに命令された護衛の一人が弾かれたように顔を上げると、短く返事をしてから地上に出るための簡易転移魔法を唱えようとした。しかしその魔法は竜が放つ強大な魔力に飲み込まれ発動を阻害されてしまう。護衛は小さく歯噛みすると、急いで宝剣の間の出入り口へと向かい地上へ駆け出した。
その様子を見ていた他の護衛たちは魔法が使えないことにおののく。しかし彼らもディアーノの精鋭だ。たとえ魔法が使えなくとも、己の主人たるグレウスとウォーディアスを守り通すことを改めて己の胸に誓う。グレウスも魔法が使えない様子の護衛を見て若干の不安を覚えたが、魔力を練り上げる段階で今から発動させる魔法ならば大きく阻害されることはないと結論付け、改めてウォーディアスに向き直った。
「ウォーディアス、あなたは宝剣の間にある王族専用の脱出口から逃げなさい。この場から離れれば転移魔法も使えるようになるかもしれませんが、あれには繊細な魔力操作が必要です。竜が誕生したばかりでこの地に魔力が満ちている今、どこに出てしまうか分からない転移魔法は使ってはなりません」
「はは、うえ」
「……ウォーディアス。あなたは、このディアーノ最後の王族。必ず……生き延びるのです」
グレウスは静かに告げると、己の魔力すべてを使用して強力な結界魔法を発動させる。その魔法は竜の全身を包み込むとその場に固定させた。結界の内側で竜が激しく暴れまわり、そのたびにグレウスは苦しそうに眉を寄せるが、顔を上げしっかりと前を見据える。彼女の両目にはかつて己の息子だったものが映っており、その表情には国母としての責務を果たすという強い意思と、母親としてのほんの少しの悲哀が浮かんでいた。
その後、ウォーディアスは母親より与えられた最後の命令を忠実に守り宝剣の間より脱出すると、離れた場所から崩れゆく王城を一人見つめた。唇から血が流れるほどに歯を食いしばり、手のひらに爪が食い込むほどに両手を握りしめ……しかし涙は流すことなく、黒い炎に包まれる城をただただ静かに見つめていた。
これが、邪竜誕生からディアーノ滅亡までの物語である。




