第二十二話 『高貴なる風』の隠し部屋
就寝前の兄弟だけの秘密の時間。その日はウォーディアスが弟であるリカルディアスの部屋に遊びに来ていた。
「なあ、リカルド。そんなに蜂蜜を入れて甘くないのか?」
二人が就寝前に飲んでいるホットミルク。そのホットミルクに、スプーン三杯分の蜂蜜を追加しているリカルディアスを見ながらウォーディアスは尋ねた。
「僕は甘いものが好きだから、もっと入れたいくらいだよ!」
リカルディアスはくるくるとミルクを混ぜながらウォーディアスの問いに答える。ミルクと蜂蜜が混ざる際に立ち上る甘い香りに、リカルディアスは幸せそうに頬を緩めた。
「ふーん……」
そんな弟の様子を眺めながら、ウォーディアスはホットミルクを一口飲む。彼の口の中に、ミルクのほのかな甘みが広がった。その時、ウォーディアスは城の料理人に聞いた話を思い出し、そうだ、と声を上げた。
「リカルド、今度このミルクが取れる牧場に行ってみないか?」
「牧場に?」
ウォーディアスの言葉に、リカルディアスは首を傾げた。そんな弟を見て、ウォーディアスは少しだけ興奮した様子で話を続ける。
「そうだ。なんでも搾りたてのミルクはすごく甘いらしいぞ!」
この言葉に、リカルディアスの目がきらきらと輝いた。
「本当!? 蜂蜜を入れなくても甘いのかな!?」
「俺も話を聞いただけだから分からないけど、俺たちが普段飲んでいるものよりもずっと甘いって!」
「うわぁ、うわぁ! 行きたい! ウォード、絶対に行こう!」
「ああ、絶対に行こう! そうだ、他にもさ……」
時間を忘れて語り合い、無邪気に笑う双子の兄弟。
それは、二度と戻ることが叶わない幸せな時間だった。
***
五階建ての宿屋『高貴なる風』の立派な外装を見た時から、エレンは己の場違い感に若干気後れしていた。そしてその気持ちは、宿屋の入り口に立っていたドアマンが扉を開け二人を中に招き入れた辺りで更に大きくなる。
ロベルトに連れられてやって来た宿屋は、一階から四階までの吹き抜けとなっており、四階の天井から吊るされた絢爛豪華なシャンデリアが辺りを煌びやかでありながらも暖かい光で照らしていた。扉を入って真っ直ぐ進んだ先にある受付の左右には、美しい弧を描く階段がある。この宿屋は建物が左右対称で、受付を中心にして左右と奥に広がる作りをしていた。磨かれた大理石の床には移動する際の道を分かりやすくするために、品の良い柄の毛足の長い絨毯が敷かれている。受付ホールには簡易的な社交場としてのサロンが設けられており、そこではこの宿に滞在しているのであろう身なりの良い商人たちが、人に聞かれても問題ない範囲の世間話に興じていた。そんな彼らを横目に、エレンはこの宿屋の素晴らしさに感嘆の溜息を漏らしていた。
エレンは元公爵令嬢だ。両親と共に領地の視察に行った際、公爵家が地方に所有する邸宅だけでなく、シャルマー領内で一番とされる宿屋にも泊まったことがある。そこはルクレスト王都の最高級の宿屋にも引けを取らないと言われるほどの宿屋だったのだが、エレンが今いるこの宿屋もそれに勝るとも劣らない。建物の大きさもさることながら、外装も内装も一流の職人の手によって装飾されたのだということが一目で分かる素晴らしい出来だ。調度品も美しい装飾が施されており、それ一つとっても芸術品といえる。そんなものが宿屋内のあちこちに溢れているというのに、ごてごてとした印象は微塵も感じさせない、すっきりとした品のある空間に仕上がっていた。
「あの……ロベルトさん、私、場違いじゃありません?」
エレンは隣に立つロベルトに尋ねた。何せエレンの今の服装は優雅な公爵令嬢のものではなく、一般的な平民女性の旅装束だからだ。そわそわと落ち着かない様子のエレンを見て、ロベルトは小さく笑うとこう言った。
「それを言ったら俺の方が場違いだ。服装は冒険者のそれだし武器まで背負ってる」
ロベルトの言葉にそれもそうか、とエレンは無理矢理納得することにした。そんなやり取りをしている間にも荷物運搬人が無駄のない洗練された動きでロベルトとエレンの荷物を受け取り、案内人が二人を客室まで案内するために恭しく礼をする。
「さて、彼らを待たせるのも悪い。まずは部屋へ行こう」
ロベルトのその言葉を合図として、案内人が二人を先導するように前を歩き出した。それに続くのはロベルトとエレンで、最後尾は二人の荷物を持った運搬人だった。
受付横の階段を上り、そのまま二階の客室へと案内されるのかと思っていたエレンだったが、案内人が迷いなく次の階段を上り始めたので内心で首をひねる。宿屋というのは基本的に上階に行けば行くほど部屋の等級が上がるものだ。特にこういった高級宿ではその傾向が顕著なので余計に疑問が募る。旅先で快適に過ごすためとはいえ、冒険者のロベルトがこんな高級宿を予約するだろうか?
エレンがそんなふうに考えている間にも案内人は迷いなく上階へと足を進める。階を上がるに従って、内装と調度品の質も上がっていく。一例として、三階を通り過ぎた辺りで、絨毯が羊毛から絹に変化していたことが挙げられた。そんな変化に気を取られながら四階に到着したエレンはおや、と首を傾げた。この宿屋は五階建てのはずだが、上階に向かう階段が見当たらないのだ。正面奥には大扉が、左右には正面にあるものよりも小さな扉が見えた。エレンが左右にあるのが四階の客室で、奥にあるのがサロンだろうと当たりをつけていると、案内人が懐から真っ白な布の包みを取り出しロベルトに恭しく差し出した。
「こちらが五階の鍵となっております、ロベルト様」
「ああ、ありがとう」
「我々は一足先にお荷物をお部屋の方へ運び入れます」
「何かありましたらいつものように受付へお申し付けください。それでは、御前を失礼いたします」
案内人と荷物運搬人が深くお辞儀をし、そのまま階段を下りていった。それを見てエレンは目を丸くする。五階への鍵をロベルトに渡し、自分たちは荷物を部屋に運び込むと言ったというのに、彼らはなぜか階下に降りたからだ。
エレンが首を傾げていると、彼女の隣に立つロベルトが小さく笑い声を上げた。その声に反応してエレンはロベルトを見る。ロベルトの表情は、まるでいたずらが成功したと喜んでいる子供のようだった。
「ロベルトさん?」
笑われたことで少しだけ機嫌を損ね頰を膨らませるエレン。そんな彼女も可愛らしいと思いつつ、ロベルトはエレンに詫びを入れた。
「くくっ……いや、すまない」
「もうっ……でも、その……私たちの宿泊する部屋は五階にあるんだよね? あの人たちはどうして三階に下りたの?」
「ああ、それはだな……エレン、まずはこれを身に付けてもらえないか?」
エレンの疑問に答えるため、ロベルトは先ほど案内人から受け取った包みの中からブレスレットを取り出した。そのブレスレットの台座には水晶のような透明の丸い石が一つはまっている。エレンはロベルトからそのブレスレットを受け取ると早速身に付けた。
エレンはそのブレスレットをまじまじと眺める。これが五階の鍵らしいが、どう見ても普通のブレスレットだ。これがどうして鍵になるのだろう? エレンがそんな疑問を抱いている間に、ロベルトもブレスレットを身に付けていた。
「さっき案内人が言っていたように、これが五階の鍵だ」
「どう見てもブレスレットだけど、これが鍵なの?」
「ああ。これを身に付けていれば五階に行けるようになるんだ」
「ふうん……?」
ロベルトの説明を聞いて分かったのか分かっていないのか、エレンは微妙な反応を示す。ロベルトはそれを見て苦笑してから、ブレスレットについて説明を始めた。
「このブレスレットにはまっている石があるだろう? この石は身に付けている者の魔力を吸収して蓄える性質を持っているんだ。ほら、石の色が変わってきているのが分かるか?」
「あ、本当だ。少しずつ赤くなってきてる」
ロベルトの説明の通り、石の色が透明から濃い赤に変化していくのを見て興味津々と言った様子のエレン。ロベルトの方の石はエレンよりも濃く鮮やかな真紅に変化していた。
「こうやって色が変わるのが魔力を吸収している証拠なんだ。そして、この魔力のこもった石が五階へ移動するのに必要なんだ」
ロベルトはそういう言うと、エレンの手を取った。そして少し躊躇いがちに目を伏せる。エレンはどうしたのだろうかと思いながらロベルトの顔を覗き込んだ。
「ロベルトさん、どうしたの?」
「ああ、いや……エレンに言っていなかったことがあってな」
「言ってないこと?」
エレンはこてんと首を傾げる。ロベルトはそんなエレンを見て、彼女の仕草はいちいち可愛らしいなと破顔する。エレンもエレンで、ロベルトのにこやかな笑みを見て思わず見惚れてしまった。
しばらく二人してまごまごしていたが、ロベルトの方がわずかに復活が早かった。彼はエレンに言っていなかったことを告げるために口を開いた。
「エレン、その、実は……この宿屋に会ってもらいたい人がいるんだ」
「会ってもらいたい人?」
「ああ。先に伝えるべきだったのに、結局今になるまで言えなかった。すまない」
「それはいいんだけど……」
しかし、会ってもらいたい人とはいったいどのような人物なのだろう? エレンのそんな内心の疑問の声が聞こえたのだろうか。ロベルトがこれから会う人物について簡潔に説明する。
「会ってもらいたい人というのは、昔から俺に仕えてくれているポールという人物だ」
仕えてくれている、その言葉にエレンは驚く暇もなくロベルトに手を引かれ、先ほど上ってきたばかりの階段を降りることになった。
「ロ、ロベルトさん? さっきも疑問に思ってたけど、なんで階段を下りるの?」
「この宿屋には面白い仕掛けがあるんだ」
ロベルトはそう言っていたずらっぽく笑う。
「ロベルトさん、仕掛けって……!?」
エレンは尋ねようとして、驚きで言葉を飲み込んだ。今まさに階段を下りていたというのに、いつの間にか上っていたからだ。
「え、え!?」
「ははは、驚いたか?」
「え、え、どういうこと!?」
驚きのあまり、エレンはロベルトの腕にしがみ付いた。彼女の豊かな胸部がロベルトの腕に押し付けられる形となり、彼も思わず声を上げそうになるがなんとか我慢する。ロベルトは小さく咳払いをすると、エレンの手を取っている方とは逆の手にはめているブレスレットを彼女に見せながらこう言った。
「秘密はこのブレスレットにあるんだ。ほら、石が光っているだろう?」
「本当だ」
「この石に魔力を吸収させた状態で四階の階段を下りると、五階への階段があるフロアに転移させる魔道具が作動するんだ」
「転移って……まさか転移魔法?」
「転移魔法よりもずっと簡易的な魔法だ」
ロベルトは簡潔に説明する。それだけでエレンは一応理解できたらしく、彼女は大きく頷いていた。しかし一つ分からないことがあったのでロベルトに質問をする。
「転移できるなら、どうして一階から直接しないの?」
「ああ、この魔道具なんだが、本当に簡易的な魔法と発動条件しか設定できなくてな。転移といっても上下一階分くらいの距離しかできないし、発動条件も入口と出口、どちらとも同じに設定しなければならないんだ」
「ああ、だから階段を下りることを条件にしたんだ」
「そういうことだ」
この説明でエレンの疑問はある程度解消されたようで、彼女は自然とロベルトから体を離していた。ロベルトは腕に感じていた柔らかさが離れていったのを少々名残惜しく思う。しかしこれ以上階段の途中で話し込むのもどうかと考え、改めてエレンの手を引き五階へと足を進める。階段を上り終えた二人を、広々とした玄関ホールが出迎えた。正面にはひときわ大きな扉が静かに佇んでおり、その扉の左右、少し離れた位置に使用人用の出入り口らしき扉がある。その扉は壁と同化するようなデザインになっており、玄関ホールの優美さを損なわないものになっている。
そんな玄関ホールの大扉の前に、一人の老齢の男性がピシリと背筋を伸ばして立っていた。
「お帰りなさいませ、ロベルト様」
見た目の年齢のわりには張りのある声をしたその男性は深々と一礼する。その男性が頭を上げたのを見計らい、ロベルトは返事をした。
「ああ、ただいま、ポール」
ロベルトの柔らかな声を聞き、エレンは男性……ポールがロベルトにとって大切な人なのだと理解した。
ポールはロベルトの返事を聞いてから視線をエレンに移すと柔和な笑みを浮かべ、二人を招き入れるように大扉を開ける。
「さあ、ロベルト様も、お連れのお嬢様もお疲れでございましょう。まずは中で旅の疲れを癒して、それからお話をお聞かせください」
そう促されたロベルトとエレンは互いに見つめ合い頷くと、大扉の中へと入って行った。
これが、エレンがディアーノにやって来て一日目の話。




