第十八話 ガーネットの意味と二人の告白
エレンとロベルト、二人は別に運命的な出会いをしたわけではない。ただ、エレンが働くことになった金獅子亭の常連の一人がロベルトというだけだった。
二人の出会いは二年と九ヶ月前。エレンが金獅子亭で初めてホールの仕事を任された時のことだった。
まだまだ店の仕事に慣れず緊張していたエレンが初めて対応した客が、ロベルトとカイの二人だった。金獅子亭の常連であったカイは硬い表情をしたエレンが新人だということにすぐに気付くと、彼女に柔らかな笑顔を浮かべ緊張しなくていいと伝えた。しかしカイのそんな気遣いも虚しく、エレンの目はロベルトに釘付けだった。エレンはロベルトを一目見た瞬間、身体中に電流が走ったのだ。それほどの衝撃だった。
黒曜石のような髪と瞳に褐色の肌を持つ彼は、エレンが今まで生きてきた中で初めて見る色彩を持つ人物だった。冒険者として常に戦いの中に身を置いている者の覇気をひしひしと感じる風貌なのだが、不思議とどこか気品が漂っている。しかしそれ以上にエレンの目を引いたのが、貴族社会では見ることが叶わないであろう鍛え抜かれた肉体だった。ロベルトは身長も高く、女性にしては背の高いエレンとも頭一つ分は違う。そのためエレンは、ここのところ久しくなかった男性を見上げるという行為をすることになった。それがひどく新鮮で、エレンはしばらくロベルトをじっと見上げていた。
そんな風にエレンに見つめられて戸惑うのはロベルトだった。
ロベルトは自他共に認める愛想の無さと仏頂面だ。更に大柄で威圧感があるため女性に恐怖感を与えることもしばしばだ。それだというのに、目の前の新人給仕はロベルトを恐れるどころか興味津々といった様子で見つめている。そんな反応をされるのは生まれて初めてのことだったので、ロベルトは相棒であるカイに内心で助けを求めていた。
ロベルトの思いが届いたのか、カイがエレンに声を掛けた。そこでようやくエレンはお客を案内するという本来の仕事を思い出し、慌てて彼らを空いている席へと案内したのだった。
それからというもの、エレンは気が付けばロベルトのことばかり考えていた。
初めてロベルトに出会った日、彼に対して随分と失礼な態度を取ってしまったことを後悔したり、その後普通に会話をしてくれることを嬉しく思ったり、会えない日は少しだけ気分が沈んだり。他にもロベルトのことを考えていると急に胸が高鳴ったり、かと思えば締め付けられたり、溜息が増えたり、食事が喉を通らなかったりと、エレンは生まれて初めて起こった身体の異常に日々頭を悩ませていた。しかし結局最後にはロベルトの顔が浮かぶのだから、これはいよいよもって何かの病気なのではないのかと心配になったエレンは、金獅子亭で働くようになってから特に世話になっているエマに何か病気なのではないかと自分の身体の異変を相談した。するとエマは一瞬だけ鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべたかと思うと、すぐにころころと笑い出したのだ。エレンはなぜ笑われるのか理解しておらず、そんなにおかしなことを言っただろうかと首を傾げていた。エマはそんなエレンの耳元でそっと囁いた。
それは病は病でも『恋の病』というんだと。
***
ロベルトの視界には、いつからかいつも嬉しそうに揺れる金の髪が写っていた。
その金の髪の持ち主の名はエレンといい、彼女はロベルトが今まで出会った女性とは違い、己と対面した時いつも嬉しそうな、楽しそうな笑みを浮かべる人だった。
成人を迎えたばかりのエレンは少女のような無邪気さをまだまだ残しながらも、確実に大人への階段を登っている女性で、無邪気な笑みを浮かべたかと思えば次の瞬間にはどこか憂いを帯びた表情を浮かべたり、豪快な行動を起こしたかと思えば品のある所作をしたり。そんな不思議な女性であるエレンのことがいつからかロベルトは妙に気になるようになり、いつの間にかその姿を目で追うようになっていた。
エレンのことを目で追うようになってからロベルトはあることに気が付いた。それはエレンに対する店に通う男たちの視線だ。エレンは肌の露出の少ない給仕の制服を着ていても主張の激しい胸元をしていた。そんな胸元を、店に通う男たちの中に邪な視線で眺める者がいたのだ。それがロベルトは妙に腹立たしかった。時にはエレンの胸や尻を触ろうとする猛者が現れたりもしたのだが、ロベルトが無言の圧力を掛ける前にエレンが己の腕力で不届き者をねじ伏せてしまう。それがロベルトには愉快でもあり、同時に複雑な思いも抱かせた。どうしてそんな思いを抱くのかよく分からないまま、ロベルトは不届き者をねじ伏せてすっきりとした表情をしているエレンに尋ねるのだ。大丈夫か、と。そんなロベルトの心配をよそにエレンはこう答えるのだ。大丈夫です、手加減はしました! と。見事に噛み合わない二人の会話を聞いて笑うのはロベルトの相棒であるカイだった。そんなカイをロベルトは恨めしそうに睨みつける。しかしカイはロベルトに睨まれてもなんのその。ただただにやにやとロベルトの目から見たら気味の悪い笑みを浮かべていた。
カイに気味の悪い笑みを向けられるようになってからというもの、気が付けばロベルトはエレンのことを気に掛けるようになっていた。懲りずにエレンに不逞を働こうとする輩に無言の圧力を掛けたり、常連だけの特別メニューだと付加魔法を施してもらえば彼女の身を心配してその異常性を説き伏せ――効果は無かったようであるが――たり。
そんなことが続いていたある日のこと、カイがロベルトにこう言った。
お前、エレンと話している時はすごく表情が柔らかいな、と。
***
エレンは再び兄から贈られた薄青のドレスを身にまとっていた。前回と違う点といえば、ロベルトから贈られた赤いガーネットのイヤリングが耳元で揺れていることだった。
先ほどまでエレンの部屋できゃいきゃいはしゃいでいた女性同僚たちは退室し、今残っているのはエレンとエマの二人だけだった。エマはエレンを全身鏡の前に立たせると、うんうんと満足げに頷いた。
「ふふ、こうして見るとそのイヤリング、本当にエレンに良く似合ってるわねぇ」
エマにそう言われたエレンは顔を真っ赤にすると、恥ずかしそうに目を伏せた。
貴族時代は使用人たちに何を褒められようといつも堂々と振舞っていたエレンであるが、平民の生活が長くなり褒められる頻度が減った今、素直な賞賛の声は慣れないものになっていた。そんなエレンを見たエマは微笑むとエレンの肩にそっと手を添えてこう言った。
「恥ずかしそうにしているエレンも可愛いけどね、せっかくだからもっとちゃんと鏡を見て」
エレンはエマの言葉に促され顔を上げる。そこには薄青のドレスに身を包みほんのりと頬を赤く染めた自分自身が映る鏡があった。エレンの視線は自然と己の耳元のイヤリングへと向かう。ティアドロップにカットされた赤いガーネットが楚々とした輝きを放ち揺れている。それはエレンの紺碧の瞳と対になっているようにも見えた。
「ね、綺麗でしょう? やっぱりいいところのお嬢さんは良い物を身に付けるべきなんだねぇ。せっかくだから、贈り主に身に付けてるところを見せてあげるために、そのイヤリング、明日からも付けておきなさいな」
「え、でも……」
「うちは食事処だけど、イヤリングは禁止にした覚えはないわよ? 指輪は仕事内容的にだめだけどね」
エマはそう言うとからからと笑った。それにつられてエレンも小さく笑う。それを見てエマはますます笑みを深くした。
「そうそう、そうやって笑っておきなさい。そっちの方がロベルトさんも喜んでくれるわよ」
「え、エマさん……!」
ロベルトの名を出されてエレンは慌てた。エマにはロベルトへの恋心を知られているとはいえ、こうして話に出されるとやはり恥ずかしい。エレンはまた顔を伏せそうになったのだが、エマが両頬をがっちりと固定したことでそれは叶わなかった。エマはエレンの顔を無理やり前に向かせると、鏡ごしに彼女と目を合わせる。鏡に映るエマはエレンよりも背が低いはずなのに、エレンの目にはなぜだか大きく見えた。
「ほらほら、しっかり前を向いて。ロベルトさんの隣に立ちたいんでしょう? それならしゃんと背筋を伸ばして」
エマは丸くなっていたエレンの背中を軽く叩く。それに対し条件反射のようにエレンは背筋を伸ばした。
「そうそう。そっちの方がいつものエレンらしいわ。知ってる? ガーネットには『生命力』や『活力』っていう意味があるのよ」
「へぇ……」
「それとね……ふふ、こっちの方がもっと有名なんだけどね」
エマは少しだけ背伸びをしてエレンの耳元でそっと囁いた。
「『秘めた情熱』とか『真実の愛』っていう意味があるの」
ガーネットは、愛する人へ贈る宝石なのよ。
エマのその言葉は、エレンの耳に強く残った。
ドレスを脱ぎ寝巻きに着替えたエレンは結局その日、眠れぬ夜を過ごした。目を閉じればガーネットのイヤリングとロベルトの顔が浮かび、目を開ければエマの言葉が延々と頭の中でリフレインする。そのせいで一晩中ベッドの上で悶々とした時間を過ごすことになるのだった。
翌日、エレンはエマに言われた通りイヤリングを身に付けて仕事に臨んでいた。
耳元できらりと輝くガーネットは溌剌としたエレンに良く似合っていた。女性たちの羨望の眼差しを集めるのは、そのイヤリングがとても美しいからだろう。貴族女性としては平均的な顔立ちのエレンだが、イヤリングが彼女の秘められた美しさを引き出しているのだろうか、昨日より美しくなっているように見えた。そんなエレンを常連客たちは口々に褒めちぎる。中にはいったいそのイヤリングはどうしたのかと詮索する者もいたのだが、エレンは笑って誤魔化した。
朝、昼、夜と先日の寝不足を感じさせない働きぶりを見せたエレンだったが、イヤリングを身に付けている姿を一番見せたい相手が来店しないことを寂しく感じていた。結局その人物が姿を見せないまま本日の営業が終了し、エレンは気分が落ち込んだまま店内の後片付けをしていた。
そんな時だった。金獅子亭のドアのベルが控えめに鳴ったのは。
エレンは慌てて顔を上げたのだが、店のドアは別に開いてはいなかった。不思議に思ったエレンは片付けの手を一旦止めてドアへと向かう。そしてゆっくりと開けると、そこには金獅子亭から漏れ出る明かりのせいで闇に溶けきれない大柄な男性が立っていた。
まさかドアが開くとは思っていなかったのか、その男性……ロベルトは目を丸くしてこう言った。
「こんな時間にすまない」
ロベルトは少しだけ視線を泳がせる。その視線がエレンの耳元のイヤリングで止まると、ロベルトはふわりと顔を綻ばせた。初めて見たロベルトのその表情に、エレンは熟れたトマトのように顔を真っ赤にすると思わず俯きそうになった。しかし昨日のエマの言葉を思い出し、顔を上げて背筋をぴんと伸ばすとまっすぐにロベルトを見た。それは奇しくも二人が初めて出会ったあの時と同じような体勢だった。
エレンの心臓がどくどくと激しく動く。呼吸をしているはずなのになぜか息苦しさを感じ、いつの間にか周りの音が聞こえなくなっていた。ただただ目の前のロベルトに目が釘付けで、彼がそこにいるだけで心が満たされる思いだった。
どれほどの時間二人で見つめ合っていただろうか。秋も終わり冬が近付く季節、夜はもちろん冷える。エレンの体が震えたのかしゃらりとイヤリングが揺れた。それに気付いたのか、ロベルトがおもむろにエレンの耳の横に手を添えた。
「良かった、身に付けてくれて……」
「はい……」
エレンは頷くと、寒さに負けたのか小さくくしゃみをする。それを見てロベルトが慌てた様子でこう言った。
「あ、その、すまない、冷えるな、もう中に……ああ、いや」
ロベルトは何やら言い淀む。そして大きく呼吸をして口を開こうとするのだが、何かを迷っているのか声を出せないでいた。それを何度か繰り返し、ようやく決心がついたのか一つ頷く。エレンはそんなロベルトの姿を見て、己も姿勢を正した。
「エレン」
ロベルトの口から己の名が紡がれる。何度も呼ばれたことがあるというのに、エレンはまるで好きな人に初めて名前を呼んでもらえたかのような幸福感に包まれていた。名前を呼ばれたことが幸せでどうしようもなくて、エレンも思わずロベルトの名を呼んでいた。
「ロベルトさん」
好きな人の名前を口にするだけでもこんなに幸せなのか。エレンは口元だけで微笑み、一つゆっくりとまばたきをした。目を開けた時、夜だというのに世界が明るくなったような気がした。その瞬間、エレンの口からするりとある言葉が漏れ出たのだ。
「好きです」
「好きだ」
ほとんど同時だった。ロベルトの口からも同じ意味の言葉が紡がれたのは。
エレンとロベルトは二人して目を丸くすると、顔を真っ赤にして困ったようにはにかむ。想いを伝えたものの、ここから先どうしたらいいのか分からなかったからだ。
「好きだ」
「好きです」
そしてもう一度、確認するように二人は先ほどと同じ言葉を紡いだ。エレンはじわじわと言葉の意味を実感し始めたのか、さっきまで寒かったというのに今は身体中が熱くて仕方がなかった。心臓も破裂するのではないのかと心配になるほどばくばくと暴れている。エレンはもしかしたら、このまま幸せで死んでしまうのではないかと思わずにはいられなかった。
ただただ好きだと言葉に出すだけで、口付けどころか手を握ることすらできないでいる初々しい二人を、金獅子亭の面々が物陰に隠れて見守っていた。その表情は、実に微笑ましいもの――|彼らにとっては実際に微笑ましい――を見ているかのように緩んでいた。
「うふふ。二人とも成人してるとは思えないくらいに初々しいわぁ」
「ロベルトさんも、もっとこう、ガッといけばいいのに!」
「でもそれが見た目に反してできないから、そこがまた意外でいいんじゃないの」
「本当、可愛いわよねぇ」
「私たちにもあんな時代があったのよねぇ」
小声で言い合うのは金獅子亭の女性たち。そんな女性たちを男連中は生ぬるい目で見ていた。
「フリン、お前大丈夫か?」
「大丈夫ですよ、デイヴさん。さすがに気持ちの整理はついてます」
ダヴィッドの声掛けにフリンは苦笑して答える。それを聞いてダヴィッドは頷いた。
「ならいいんだ。さて、と……俺も仕事だからなぁ、このことも報告せにゃならんよなぁ」
ダヴィッドがぽりぽりと頬を掻きながら呟いた。彼の頭には冷静な表情をしているように見せかけて動揺を隠せない、己の主人でありこの国の王の姿が浮かんでいた。
お待たせいたしました!
今回はまるっと書き直したりと難産で筆が進みませんでした……。




