第8話 陽炎の館
「で、結局アリドは消えたと」
ラムールはそう言った。
誰も返事ができなかった。
今は陽炎の館のリビングである。 カーペットの上に全員正座させられて、ラムールが仁王立ちになってみんなを見下ろしていた。
「仕方ありませんね……」
ラムールはそう言って紙とペンを取り出すとさらさらと何かを書きつづった。
「アリドの事は私が処理をします。 あなた方はもう構いませんから足を崩して台所で朝食になさい」
そう言われて羽織達はのそのそと立ち上がる。
「弓とリトは先にお風呂になさい。 昨晩は眠っちゃったから入っていないでしょう?」
ラムールに呼び止められてリトと弓は台所とは反対側にある浴室へと向かった。
リトは脱衣場で服を脱ぐ。 弓が脱衣場の鍵をかける。
「ごめんね。 リト。 変なことになっちゃって……」
そう言って弓も服を脱ぎ始める。
「ううん。 怪我しなかったし、別に平気よ?」
そして二人で浴室へと入る。 さすが孤児院。 白の館の大浴場のように広くはないが、軽く5.6人は入れる位の大きなお風呂だった。
柔らかな湯が浴槽いっぱいにたまり、ほわほわと暖かい湯気で包まれている。
かかり湯をして二人は湯につかった。
「うー、キモチイイ……」
「う〜、だなんて、リトったら」
弓がくすくすと笑う。
「朝風呂ってゼイタクな感じがしていいね」
「思う思う」
夜と違って不思議な爽快感がある。
リトはゆっくりと体を伸ばした。
すこしそのままでいたら弓は一度上がって髪を洗い出した。
「……アリドは……」
弓が先にアリドの話を始めた。
「アリドは、リトの事、好きなんだと思う」
「ん゛っ」
リトは返答に困る。
「だから許してあげて?」
弓はそう言った。
弓が髪の毛を洗い流す。 リトも隣に行って体を洗い始める。
「私、怒ってないから……」
リトはそう答えるのが精一杯だった。
どうしてアリドはリトに向かって岩を投げたのだろう。
怪我はなかったけど。 でも、死んでいたかもしれない。
リトはそう思った。
でも何故だろう。 きっと無事だと信じていた。
「あれ?」
リトはふと我に返った。
「どうしたの? リト」
弓が不思議そうにリトを見る。
「弓って意外とスタイルいい!」
かあっ、と弓の頬が赤く染まり両手で体を隠す。
「エッチッ! そんな事言われると恥ずかしいでしょ〜?」
「いーじゃん女同士なんだし」
「そうかなあ……?」
弓がもじもじする。 リトは女同士なのに恥じらう弓がとても清らかで美しい感じがした。
男達と一緒に住んでいるのだもの、何をしているか分からない――
そんなことだけは、無いと思った。
風呂から上がるとなかなか面白い光景が見れた。
デイを押さえる男が三人。 羽織、世尊、来意である。
「おう、上がった?」
羽織が言うとやっと三人はデイを放す。
「……また?」
困ったように弓が言う。 義軍が無邪気に報告する。
「デイにーちゃんね、弓ちゃんのは見ないからっていったんだけどね、ダメって羽織にいちゃんたちに捕まったの」
「義軍ー。 言うなよぉー」
確認しないまでもない。 デイが何をしたがっていたかなんて。
こんな奴が王子だなんて……
リトも頭を抱えたくなった。 羽織が言う。
「まっ、という訳で、弓。 今回も平気だったから」
巳白が新聞をめくりながら言う。
「ま、なんだかんだ言って一度も成功していないんだから、デイも物好きというか恒例行事というか……。」
清流も呆れたように呟く。
「ぼくとしては女性にそんなに興味があるのが分からないんだけどね」
そういえば。
「ラムール様はどうしたの?」
リトは尋ねた。 と、同時に玄関が開く音がした。
「ただいま。 ……おや、弓。 リト。 上がりましたか」
噂をすれば何とやら。 ラムールである。
「食事を済ませたら弓はリトを案内してあげなさい。 私とデイは夕方には城に帰ります。 リトは……自分で帰れますか?」
子供の使いではない。 一人で大丈夫だ。
弓とリトは台所でピザを食べ、陽炎の館の中を案内してもらうことになった。
二階は弓達のそれぞれの部屋があるそうだ。 3階の部屋の一つはラムールの部屋ということだった。 そして4階。
「ここが、ラムールさんが案内しなさいって言った部屋」
そう弓が言って、二人は中へ入る。
そこはカントリー調で、壁にはドライフラワーや草木が飾ってある部屋だった。
北側の壁には沢山の写真が飾られている。 殆どが若い一組のカップルの写真だ。 その一組の男女の写真はどれもとても幸せそうに写っていた。 男は栗色のくせ毛で逞しくて優しい顔立ちをしていた。 女は長い金髪を一つの三つ編みにしてほとんどの写真が茶色いストールのようなものを肩にかけていた。 女は背中に巳白と同じような真っ白な翼を持っている。 耳の形が普通の人間と同じものと、妖精のように耳の先が長く尖って笹の葉のようになっている写真とがあった。 しかしとても美しく聖母のような笑顔の女性だった。
「この方たちが、育ててくれた人?」
リトは写真立ての一つを手に取り尋ねた。
手に取った写真はみんなでの記念撮影写真のようだった。 一番後ろにその男女がおり、前には幼い……今の義軍くらいの年だろうか、清流や来意達が並んでいた。 最前列の義軍そっくりの世尊と羽織がつかみあいの喧嘩をしようとしている。 羽織の後ろで弓が泣きそうな顔をしており、それを後方で巳白とアリドが呆れて見ている。 みんな幼いが面影がある。
「そう。 男の人が一夢って人でね、女の人が新世って名前なの。 あ〜、懐かしいなぁ」
弓はリトが手にした写真を覗き込んで言う。
「あ、ほら、この写真の下に出ている手がデイよ。 思い出した。 誰が真ん中で写真を撮るかっていうので喧嘩になって、デイは二人に押しつぶされたんだった」
指さした先には確かに手が一つ宙を掴んでいた。
「王子はいつから友達なの? やっぱりラムール様が連れてきたの?」
素朴な疑問だった。
「えと、いつからだったかしら…。 だいぶん前。 でもラムールさんとは別だったよ。 でも遊びに来るようになってからは、あんまりお城を抜けて入り浸るものだからラムールさんがよく迎えに来てたわ。 今でも暇さえあれば遊びに来てるし、みんなで釣りしたりしてるみたい」
とすれば、弓も相当長いつきあいになるのだろう。 白の館では全くそんなそぶりも見せなかったが。
「それじゃあ、デイの申し出を断ったのはデイが本気じゃないって分かっていたからなんだ……」
リトはイラクサ布事件の事を思いだして言った。
「え? 何の話?」
「ううん、何でもない」
「リト。 こっちも来てみて? きっと驚くと思う」
弓はそう言うと南側のガラス戸から外へ出た。 リトも後を追う。
「うわぁ……」
そしてリトは言葉を失った。
鮮やかな緑が眩しい木々。 良い香りのする花。
屋上庭園である。
いや、庭園というよりも森の中の楽園という感じだった。
4階の半分のフロアはすべて美しい森の庭になっていた。
「ニャー」
聞いたことのある鳴き声がした。
木の上を見ると猫鳥が木に止まっている。 ラムールの部屋にいた、あれだ。 そして庭園の中を二つ折りしした絨毯のようなモモンガ犬が優雅に歩き回る。 その毛がほわんほわんと風に揺れている。
「一応この二匹もここの住人。 こっちに来たら宮殿も見えるよ?」
リトと弓は屋上の一番南側まで来る。 スイルビ村の崖のむこうには大きな宮殿が見える。 来るときの道からは屋根しか見えなかったが、ここからだと宮殿がよく見えた。 それは、気の遠くなりそうな大きさと規模だった。
「すごいね。 近い」
「うん。 崖が無かったらすぐ行ける距離よ。 巳白ならひとっ飛び」
確かに切り立った崖が宮殿とこの村を遠く切り離していた。
「もともとこの村は宮殿の後ろに続く森からの異生物や魔物の進入を防ぐために、宮殿の背後を守ろうとする人達が集まって作った村なんだって。 長老なんかも昔は結構すごい戦士だったって。 長老と話したらきっと一度はその話題が出るわ」
「そっか……テノス国って北部だけが他の国と繋がっているもんね。 異生物や魔物は森に住処があるからここで守らなきゃいけないんだ」
「そう。 ……でも私、異生物はあんまり見たことないなあ。 魔獣なんかは時々村にやってくるけどね」
「私なんか異生物も魔物も見たことなかったよ? だからかな、区別もつかないよ。 ねぇ、弓は知ってる?」
リトが尋ねた。 しかしその問いに答えたのは別の声だった。
「簡単に言えば魔獣は知能が低い。 異生物は知能が高い」
振り向くと片目の清流がそこにいた。
「ごめんね。 話を聞くつもりはなかったんだけど」
清流はそう謝りながら側に来る。
「ついでに、異生物は人間や魔物には支配できない世界を持っていてね。 二つの世界を行き来できる点から言っても、人間より優秀。 次元の高い所に居る者を神とするならば異生物は人間よりも神に近いといえる。 と、ぼくは思っている」
「異生物の世界があるの?」
リトは尋ねた。
「そうだよ。 自然豊かで美しい所。 そして異生物の長が翼族。 他にも影族や人魚族などいるけど、翼族の力と知恵に勝る者はいないのさ。 たいてい異生物は彼らの世界で生活していて、物好きや堕ちた者だけが楽園の世界から愚かな人間界に足を踏み入れるのさ」
なんだか少し嫌な感じがした。
「清流は、彼らの世界に行けるの?」
リトの質問は清流には聞いてはいけなかったか、彼の美しい顔が少しゆがんだ。
「ぼくは翼を無くしたからね……兄さんは人間の血が濃いんだろう、だから行ったという話は聞いたことがないね。 ぼくは翼さえあったら……」
清流は呟くように答えた。
「清流……?」
弓の声で清流は我に返る。
「あ、ゴメンゴメン。 今のは忘れて」
その名の通り爽やかなせせらぎのような表情へ戻る。
それが逆に顔の左半分の大きな傷とのギャップがあった。
「ま、つまり弓ちゃんやリトちゃんが異生物と遭遇したことなくても当然なのさ。 彼らは滅多にこっちの世界に来ないしね。 逆に、こっちの世界に来た異生物っていうのは人間に危害を加えるのが目的だったりするのが多いから、人間にとっては怖い存在だったりするんだね」
「清流。 でも新世さんたちみたいに異生物にもいい人はいっぱいいるわ」
弓が口を挟む。 清流が何か反論しようとする。
しかし彼は言葉を飲み込んでしまっていた。
「この話は止めよう。 弓ちゃん」
清流はそう言って柵の側まで来ると、持ってきた袋の中から何かの粒を取り出し柵のへりに置いた。 そしてヒュウ、と口笛を吹く。
するとなんということか! 森から、空から小鳥が沢山飛んでくる。 そして餌をついばみはじめた。 清流は手にも餌を置いて直接食べさせていた。 鳥の種類は実にさまざまだった。 雀などはもちろん、セキレイ、ツグミ、エナガ……色とりどりの野鳥がまるで飼われているかのように何の警戒心もなく餌をついばんでいる。
「リトちゃんと弓ちゃんもどうぞ?」
清流は二人の側にやってきて手に餌を渡す。 鳥達はリトたちにも同じように警戒することなく寄ってきて餌をついばむ。
「うわぁ……」
とても可愛い小鳥がやってきてリトの手のひらにのる。
「すごい。 初めてよ。 かわいい」
夢見たことはあったがこんなに近くで見知らぬ鳥達にエサをあげることができるなんて思ってもみなかった。
これが翼族のハーフである清流の力なのだろう
「喜んでくれて嬉しいよ」
清流が微笑んだ。 そこでやっと二人は、清流がリトをもてなしに来たのだということに気が付いた。
どうやら清流は人間にあまり良い印象は持っていないらしかったが、弓の友達であるリトに受け入れてもらおうと気を遣ったのだろう。
「ありがとう」
リトはお礼を言った。 清流はちょっとためらった。
「あ、いや……うん、どういたしまして」
「清流、照れてる?」
弓がちゃかした。
「慣れてないから、そうかも」
清流は頬をかきながら答えた。 あはは、とみんなで笑う。
ムササビ犬がやってきて、リトに頭をなでられる。
「リトちゃんはこいつらにも驚いたりしないんだね。 初めて見て怖かったりしなかったの?」
清流が嬉しそうに言う。
「怖い……? びっくりはしたけど、怖い感じはしなかったなぁ……。 なんでだろう」
リトはしゃがんでムササビ犬の体を撫でた。
弓と清流が驚いたように顔を見合わせた。
「そっか、怖くなかったんだ。 ありがとう」
清流にお礼を言われる。 リトは気づかずに何か良い事を言ったらしかった。 その証拠に清流の雰囲気がさっきまでとは少し違ってどこか柔らかくなっていた。
その後リト達は村を見て回った。 弓達が小さい頃よく遊んだという広場にも連れて行ってもらった。 広場には手作りのブランコやジャングルジム、砂場、すべり台などがあった。 サイズは義軍サイズで今の弓たちには小さすぎたが、とても暖かい感じのする公園だった。
村に一件しかない美容室にも行った。 昨日の祭でリトも既に顔なじみである。 婦人は喜んでお茶を振る舞い、ついでにリトの髪の毛も揃えてカットしてくれた。 買い物は隣村までいかないといけないらしい。
それから弓の部屋に行った。 弓の部屋は白の館の一部屋くらいの広さで、弓らしくきちんと整理整頓されていた。 ベットと机、クローゼット。 ベットカバーは弓がパッチワークで作っていた。 ベットの側には編み棒と毛糸、編みかけのセーターが置かれていた。
「運動するよりこういうチマチマしたのをするの、好きなの」
弓らしいと思った。 羽織達の服も作ってみたりするそうだ。
「新世さんが好きだったの。 織物したり、縫い物したり。女の子って私だけでしょう? だからよく作ってるの見ていたら私も好きになってたって訳」
どちらかというとリトは苦手分野だった。
そしてその後は二人でクッキーを焼いたり、それをみんなで食べたりしてゆっくりと時間を過ごした。 あっという間に時間が過ぎていく。
夕方になってもう帰る時間になった。 日があるうちに帰った方が良いとラムールが言うので夕食まで御馳走になることはできなかった。
リトが陽炎の館を後にしてから、ラムールはデイと義軍に少し席を外させるとみんなを集めて告げた。
「アリドの事ですが……」
ラムールがそう口を開くと全員が息をのんだ。
「この村の名簿から除籍しました。 理由は素行不良です。 よって」
ラムールは少し間をおいて続けた。
「今後、アリドはこの孤児院と関係はありません。 私のいるときにアリドを招き入れることは許しません」
全員が何も言えなかった。
そしてラムールは思った。
ついに、時が動いたと。