創世記
「――なに?」
私は暗い部屋で目を覚ましていた。目を擦りながら身を起こし辺りを見回す。小さな窓。その奥には暗い夜空が見える。
――なんだっけ?
まだよく頭が回らない。そして目はなんだか霞む。
カタン。部屋の隅で音が聞こえたような気がした。
「アザレア?」
ぼんやりと呟いて見れば返答はない。確認しようとノロノロした動作で首を回してみれば、どことなく見覚えのある女が立っていた。
チリチリとした淡い蝋燭の炎に照らされた女は無表情で私の前に大きなバックを私の足元に置き、ベッドの脇に座った。
「?」
「まだ――薬は効いているようね。覚えてる?」
額に当てられる手が何だか心地いい。心配げな黒い双眸は私を映し出している。
「……何――が?」
ええと。私は……ぼんやりした頭を必死に動かしながら記憶を辿っていく。確か街にいて――買い物の途中店長が……。
「あ」
突然視界が開けたようだった。私は顔を上げると目の前の女を見る。確か、リゼの後ろに控えていた女だ。黒い髪と黒い双眸。麻色の肌に白い神官服が良く映えていた。
「思い出した?」
「あのっ――アザレアは?」
慌てた様に言うと落ち着きなさい。そう諭される。静かで落ち着いた雰囲気のする女だった。
「大変なことにはなりませんよ。大変なことになるのはあなたです」
「ふぇ?」
「何を思ってのこのこ、ここまで来たのかは知りませんが。私はマキナ様の命を受けここに居ます。早く貴方がここから去ることがお望みです――エリカレス様に見つからないうちに」
そう言いながらカバンを指し示す。よく見たら私のカバンだ。早く帰れと言う事なのだろう。こんな夜中に。悪魔だろうか。
でも――。
私は顔を上げていた。
「あたしはアザレアと帰るためにここにいる――そう決めたんだ、だから」
次の言葉は言わせてもらえなかった。ただ剣呑とした視線が私に突き刺さる。それはどう考えても批難をしているようであった。
ごくりと息を飲みこむ。
「帰らないですか? 貴方、死にますよ? そしてその身体は永遠にマキナ――アザレア様を苦しめることになる。それでよいのですか?」
「まって、何を言っているのか分からない」
本当に話が見えなかった。大体初めから私は話に取り残されている気がする。神殿の人間がアザレアを連れて行くまで。
意味が分からないことだらけだ。
何が起こっていて、何が起ころうとしているのだろう。疑問は沢山あるけれど、たくさんあり過ぎて何から聞けばいいのかすら分からない。
私は小さく口許を結んでからまっすぐに女を見返した。
「分からないのに納得なんてできるはずない」
一拍の沈黙。彼女は静かにため息を漏らした。
「……何も知らないのですね、本当に――何も知らせるなと言われているんですけれど、それはきっとあなたの為にはならないでしょう。きっとマキナ様の為でしょうね」
「マキナって――アザレアだよね?」
何故そんなふうに呼ばれているのかも気にはなっていた。私の問いにどこか虚ろな目で展示用を見ていた女は視線を戻す。
「ええ。あなたは創世記を読んだことはありますか?」
「あ? 昔。少しだけ」
確か勇者がどうのこうので――よくは覚えていない。子供の頃、『あの日』に読んだきりで……最近になって読む機会は何度もあった気がするけれどついに読むことは出来なかった。
がどうしてそんな質問をするのだろう。私は首を傾げて見せる。
「そう。それなら勇者の名前を言ってみてください」
「――え?」
テストか何かだろうか。学校には行ったことがないけど、よくアザレアに質問形式でテストを受けさせられた気が……よく考えたら私の読み書きの基本はアザレアが教えてくれた気がする。
まぁ、この質問の答えは分からないのだが。無意味に汗が滲むのは何故だろう。
「……いや、あの」
呆れた様にため息をこぼされてしまった。なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だけれど、その気持ちも次に紡がれる言葉で消え去ってしまうのだけれど。
「マキナです。マリアさん。『マキナ=ベリファス』――今のアザレア様そのものです」
「――は?」
何を言っているんだ突然。
創世記。と言う言葉が私の中でこだまする。それは無いだろう。創世記と言えは気が遠くなるほどの時間をさかのぼらなければならない。もはやそれがいつかすら分からなかった。
その気持ちを汲み取ったように彼女は苦笑を浮かべて見せる。
「ついでに『根源』の名前はエリカレス――まぁ、信じれるはずも無いですから信じないのは仕方ないです。……大体私達神官でさえ疑心暗鬼なのに――そう言われているに留めておいてください。けれど、実際私達よりマキナ様の方が長寿で何倍もの歳を重ねているのは確かなんですけどね。あの容姿で」
「……はぁ」
最後の方はどこか皮肉が混じっているような気がしたが私は曖昧に返していた。
「ま、人ではないんです。短く言うと」
短すぎる気もする。内心突っ込みを入れたが『それで』と続けた彼女の手に私は驚きを隠せなかった。
指が私を差したのだ。まっすぐな目で見つめ口許は紡ぐ。
「あなたも」
その言葉と共に現れたのは波の様に押し寄せる記憶だった。