大きな手の中で踊る
さびれた繁華街にある、とあるビルの一室。
そこに、唯坂探偵事務所はあった。
所長と助手一人だけの、小さな事務所だ。
室内にうるさく鳴り響く電話を、何かを感じ取った所長が取る。
「はい。こちら唯坂探偵事務所。ご用件は?」
「あ、タダサカさん?こちら、○×金融の……」
ガチャン。
黒スーツの男が、今時珍しい黒電話の受話器を置いた。
「所長?どうしました?」
二十歳前後の若い男が、電話を切った黒スーツの男に尋ねた。唯坂探偵事務所唯一の助手、佐田だ。
「……この電話は盗聴されている」
自分の机の後ろにあるブラインドを意味あり気に覗きながら、唯坂は平然とデタラメを言う。
「ええ?マジっすか?」
あっさり騙されるのは探偵助手としては失格なのだが、唯坂を慕う男は佐田一人だけなので、仕方がない。それもここでは都合もいい。
「ああ。だから今日はいくら掛かって来ても電話に出るなよ」
言っている最中にも、電話は鳴り出していた。
無視。
「これで、今月十回目ですか。やっぱり、所長を恐れている組織ですかね?」
忌々しそうに、電話を睨み付ける佐田。そこには、強大な悪の組織があった。
外套を身に着けながら、唯坂は助手の質問に返す。
「そうだろうな。まあ、私の能力を、正当に評価しているという事だ」
ちなみに今は五月。暑くて上着なんか着ていられない気温だ。
しかしそれも、佐田にとっては尊敬に値する行為だった。
「あ、何処に行くんですか?」
佐田は、自分も連れて行って欲しいと、言外でアピールする。
しかし唯坂は冷たく、
「機密だ。助手とはいえ、君にも言えん」
ハットと杖を持ち、扉を開ける。
傾いたビルの二階にある、小さな部屋。
そこが、唯坂探偵事務所の事務所だ。
そして今日も、所長は何処かに出掛けて行く。
五月も下旬の日差しの中、唯坂は午前の街を歩く。
そのコートに帽子姿は見るからに異様で暑苦しかったが、商店街ではちょっとした有名人なので、誰も指摘はしなかった。
「やあ唯坂さん。今日もお仕事かい?」
八百屋の主人が唯坂に馴々しく話しかける。
髪の短い、体格のいい男だ。
唯坂がこの道を通る度、話しかけてくる。
「いつもご苦労だねえ。疲れないかい?」
普段は愛想のいい顔が、いやらしく歪んでいる。いつものことだ。
唯坂は八百屋の主人を一瞥しただけで、またすたすたと歩いて行く。
「がんばれよお、探偵さん!」
「もう、やめなって」
八百屋の主人の大きな声とそれを諌める小さな声も聞こえたが、そんな声は無視し、唯坂は歩く。
自分と関わりを持つと、不幸になる。
一般人とはあまり関わりを持ちたくなかった。
今、商店街に用はない。
唯坂はさっさと商店街を抜けようと、帽子を目深に被り、足早に進んでいった。
商店街を抜け、裏道に入ったあと、さらに奥に進んで行く。
昼なお暗い、小さな小路の中に、唯坂の目指す店はあった。
ただでさえ人も来なさそうなさびれた店構えなのに、こんな所にあっては、客など来ないだろう。
唯坂は、鈴の鳴るドアを開け、店に入った。
そこは、ガラクタにしか見えない怪しげな物を売る、雑貨屋だった。
薄暗い店内を唯坂は、カウンターに向かい歩いて行く。
「博士。唯坂です」
カウンターの奥に呼び掛けると、中から痩身の老人が出て来た。
「おや、探偵さん。今日は何の用だい?」
汚らしい服、浮浪者にも見えるその小さな老人が、この雑貨屋の店主、通称博士だった。
「調査に使う道具が欲しいのだが」
「何の調査だい?」
老人は、目を細めて問う。
「浮気調査だ」
唯坂は店内を見渡しながら言った。
民族衣装の様な物が、目に止まる。
ちなみに、事務所の黒電話も、この店で買った物だった。
「なるほどなるほど。チョット待ってな」
店の奥に引き返した翁は、まるで用意していたかの様に、すぐに何かを持って来た。
「これはどうだ?煙草型の小型カメラと、近くのホテルの地図だ。浮気調査なら、これで充分だろ」
博士はビニール袋に入れたそれを、唯坂に手渡した。
「すまない。金は、」
「ああ。分かってる。後でいいよ」
店主は聞くまでもないと、唯坂の言葉を遮った。
「ありがとう」
言って唯坂は、店を後にした。
金を払う為には、また借金をしなくてはいけない。
歩きながら唯坂は溜め息を吐くが、背に腹は代えられない。
まあ、借金取り達は一日何度か電話してくるだけでぱったり途絶えるので、唯坂は借金を怖くは考えていなかった。
今日の仕事は浮気調査だ。
昨日、依頼人の女性から話は聞いていた。
定時には帰り、同僚と飲んでくる時にも、必ずといっていいほど連絡をしてきていた夫が、最近は毎日のように、連絡もなく遅く帰ってくるとの事だった。
ごくごく普通の浮気調査だ。
唯坂は夫の勤める会社を見上げた。
会社の入口が見える所に偶然あった喫茶店に入り、コーヒーを飲み、クラシックを聞きながら、新聞を広げて張り込みを開始した。
時刻は一時。
早すぎるとは思わない。張り込みも立派な仕事だからだ。
定時少し前にこようとは考えもしない。
張り込み開始から五時間、日が暮れかけた頃、ようやくターゲットが出てきた。
すばやく支払いを済ませ、ターゲットの後を追う。
しばらくするとやはり、若い女性が近付いてきた。
男女は親しげに会話を交し、くっついて歩いて行く。
こっそりと写真を取る。
だがまだこれだけでは浮気の証拠にはならない。
言い逃れのできない決定的な現場を押さえなければ。
すると、男女はそのままとある方向に歩いていった。
これで終わりだ。
唯坂は地図を頭に思い浮かべながら思った。
深夜、唯坂は事務所に帰った。
事務所は暗く、佐田は帰ってしまった様だ。
電気を点け、上着と帽子を壁に架ける。
机の上に現像した写真を置く。
依頼人には、明日渡そう。
これで、任務完了だ。
唯坂は充実感と共に、大きく伸びをした。
椅子に大きく腰掛けると、待っていたかの様に、電話が鳴った。
唯坂は、電話をとった。
「はい。こちら唯坂探偵事務所。ご用件は?」
暗くなった繁華街の小さなビルの小さな部屋。
その部屋の明かりを外で眺めている者がいるなど、唯坂は気付きもしない。
「おはよう。佐田君」
朝、佐田が事務所に入ると、唯坂の元気な声が出迎えた。
「お、おはようございます、所長」
困惑しながら、返す佐田。
いままで、こんな唯坂は見た事がなかったのだ。
いつもより不敵に、笑っていた。
「何かあったんですか?」
「ふふ、仕事だよ、仕事。私の力を認めたね」
上機嫌な唯坂に、しかし、佐田はひどく驚いていた。
「え?仕事?今日っすか?」
不自然なほどの驚き様にも、唯坂は気付かない。
「だって今日の予定は……」
「ん?」
ぼそりと呟く佐田に、唯坂は顔を向ける。
「いや、なんでも!それで、どんな依頼っすか?」
普段なら機密だ、で返すのだが、機嫌のいい唯坂は、説明してやる。
「密輸組織を見たという奴が、私に依頼をしてきたのだ。事務所創設以来一番の依頼だ。私は出かける。後は頼んだぞ」
唯坂はいそいそと身なりを整えると、そのまま出ていってしまった。
残された佐田は、不審に思いながらも、所長の背中を見送った。
「博士、いますか?」
路地裏の雑貨屋に、唯坂は来ていた。
奥から出てきた店主は、唯坂の二日連続の来訪に、ひどく驚いた。
が、それを顔には出さず、平静に、
「今日は、何の用だ?」
「大きな依頼だ。詳しくは言えない。武器と、映像機器をくれ」
その言葉に店主はさらに驚くが、なにも言わず店の奥に引っ込み、少し後、唯坂の言う通りの物を用意した。
「ありがとう。代金はすぐに払えると思う」
「……そうかい」
唯坂の言葉に嫌な予感がしながらも、店主は聞く事ができず、ビニール袋を渡しながら頷いた。
唯坂がでていった後、店主は何処かに電話をかけた。
唯坂事務所と同じ黒電話だった。
「……あ、社長をお願いします。ええ、そうですね……、静丸、いえ、博士から、と、お伝えすれば、分かります」
電話の向こうは訝しげだったが、すぐに取り次げた。
「あ、社長。どうもどうも。あの、探偵さんの事なんですが……、依頼は……、やはり。でも今……。ええ、発信機は……。分かりました。佐田君は……、そうですね。それでは。はい。はい。失礼します」
電話をきると、店主は大きく溜め息を吐いた。
「いったい誰が……」
こんな事を。
あるハズのない出来事に、店主は困惑しきっていた。
そのころ唯坂は、港へ向かっていた。
依頼人との待ち合わせ場所だからだ。
港の倉庫街。
そこに、密輸の証拠があるという。
唯坂は、興奮していた。
いままで浮気や迷子など下らない調査ばかりだったが、初めて、大きな、ドラマの様な依頼を受けたのだ。
もしかしたら、撃ち合いになるかもしれない。
懐に入れた銃に触る。
見ると、遠く港が見えてきた。
あそこに……。
気を引き締める唯坂だった。
いまの時刻は十二時。
腕時計を見て、辺りを見回し依頼人を探す。
待ち合わせは昼。
そろそろ来るハズだ。
来た。
あれだろう。こちらを見ながらゆっくりと歩いて来る。
短い髪に大きな体。
「よう、探偵さん。この暑いのに、今日もコートか」
見覚えのあるにやにや笑い。
なんと、そこにいたのは八百屋の主人だった。
思わぬ人物に、唯坂は驚いた。
しかし、気を持ち直す。依頼人が誰であろうと関係ない。
「そうか。あなたが……。まあいい。それで、どこに?」
「はあ?何言ってるの?探偵さん?」
からかう様に言う八百屋の主人。
「密輸組織の件だ」
真面目に、唯坂は返す。
そこで、堪え切れなくなったのか、八百屋の主人は大笑いし始めた。
「くはははははは!何?まさか、本気で信じてたの?くく。聞いたか?ほら。な?信じてたろ?」
主人が、後ろに向けて言う。そこから、ぞろぞろと目付きの悪い男達が出て来た。
みな、主人と同じくにやにやと笑っていた。
「マジで馬鹿なんだな」店主は、冷たい目で唯坂に言った。
唯坂には、何がなんだか分からなかった。
「一体……」
「まだわからねーの?」八百屋の主人は楽しそうに言った。
「嘘に決まってるだろ。一八百屋に、そんなものを見る機会なんかねーよ」
なにがなんだかわからない。
「なぜ、こんな事を?」唯坂は、疑問をぶつける。帰って来たのは悪意だった。
「俺さ、オマエみたいの嫌いなんだよ。ボンボンの道楽が。一生懸命働く俺らを馬鹿にしてるようでよ」
「そんなことは」
「いいや。あるね」
ない。と続けようとした唯坂の言葉を遮る。
「親父が大企業の社長、息子が探偵?馬鹿らしいにも程がある」
唯坂は沈黙した。
「この中には、お前に金を貸したサラ金の奴もいてな。聞いたよ。お前の借金は、親父が肩代わりしてるって。ああ、つまらねえ、つまらなすぎるよお前。そこで一つ考えた。お前をボコボコにして、親父殿に言えば、幾らでも金をくれるんじゃないかってね。ストレスも解消できるし、金も手に入る。一石二鳥だよ」
そこで唯坂は、やっと理解した。こいつらは、誘拐犯だ。自分の父が社長だとなにかで知って、それでこんな事を。
「そうか。遠回しなやり方を。俺を誘拐して、身代金の要求か」
「は?」
「やり方が甘かったな。べらべら喋る前に、俺を縛るべきだった」
「なんだお前、縛られたいのか?」
下品な笑いが響いた。
唯坂は続ける。
「お前らにやられはしない」
言って懐から銃を取り出す唯坂。
男達はひるんだ。
しかし、
「なんだ?撃つのか?やってみろよ。撃った瞬間、お前らは終わりだ。一一0番してやるよ」
八百屋の主人はひるまなかった。
それどころか唯坂をけしかける。
それでも無言でかまえる唯坂に、
「そこまでだ」
突然の声が掛かった。
皆が、声のした方へ振り向く。
いつの間にかそこには、精力的な目をした五十ほどの男、痩せた老人、屈強なスーツの男達がいた。
誰も、気付かなかった。
「あんたは……」
唯坂は、驚き目を見開く。
男達もそうだった。突然の事に明らかに動揺していた。
「父さん……」
そう。そこにいたのは唯坂の父親だったのだ。
「けっ、子供の喧嘩に親父の登場か。ますますくだらねえ」
唾を吐き、悪態を吐くが、八百屋の主人は明らかに戸惑っていた。
目に見える権力に。
「静丸」
「はい」
男に言われた老人、静丸が、アタッシュケースを持って男達に近付く。
警戒する男達。
「帰れ。二度と唯坂に近よるな」
暗く重い声。
八百屋と男達は何ごとか話し合った後、カバンを受けとり振り向きもせず帰っていった。
あっさりと、本当にあっさりとした物だった。
残された唯坂は父親と向き合う。
「なぜここが?」
「静丸と佐田君のおかげだ」
「……」
どういうことなのか?唯坂にはわからない。
「それに、仕事もあってね。そろそろ探偵ゴッコはやめて、会社を継ぐ気にはならないか?」
唯坂社長は疲れた瞳で息子を見た。
「そんな気はないと何度もいったハズだ。気は変わらない。それに、探偵ゴッコではない」
毅然と言い切る。
「あいつらに聞いただろう。お前は一人で仕事をしているつもりだろうが、すべて私の庇護化の茶番だ」
「なにを……」
急に何を言うのか。言ってる意味がわからない。
「いい機会だろう。教えておく」
社長は一瞬間を開け、言い放った。
「依頼人も助手も静丸も借金も。すべて私が用意し、解決したものだ。お前の力など何処にも掛かっていない」
「……」
「佐田君は優秀な我が社の社員だ。逐一連絡をくれたよ。そうそう、お前が盗聴に気が付いたのには驚いたよ。おかげで、今回の件に気付くのが遅れた」
今日はおかしい。皆がでたらめを言う。目の前の男を呆然と見つめる唯坂。
わからない。
「すみません。坊ちゃん。すべてお父様に……」
唯坂の様子にたまりかねたのか、静丸が一歩前に出て言った。
そう、そうだ……。
唯坂は、小さく小さく呟いた。
「そんなに、事務所を潰したいか……」
「……坊ちゃま」
「なにもいうな。そうか、私の事務所を潰そうというのか。そうはいかない。そんなでたらめ、誰が信じるか」
そう。この男は自分に会社を継がせたいだけだ。それで、適当な事を。
唯坂は背を向けた。
社長はその背中に現実をぶつける。
「いつまでも逃げられると思うな。いつか、分かる時が来る」
父親の言葉に耳を傾けず、唯坂は足早に去っていった。
「社長……」
「帰るぞ、静丸」
二人は、唯坂とは反対に、ゆっくりと歩き出した。
「……所長」
唯坂は、事務所に帰ってきた。
中では佐田が、落ち着かない様子で待っていた。
「ただいま、佐田君」
疲れた様子で、唯坂は椅子に着いた。
「その……、ど、どうでした、仕事は?」
佐田が、心配そうにたずねる。
自分がどうなるのか、不安なのだろう。
「機密だ」
唯坂はいつもどおりに返す。
佐田は今回の件をどう聞くべきか、悩んでいるようだった。
「君は、私の助手だ」
唯坂は、突然佐田に言った。いつもどおり無表情で。
「は?そうっすけど……」
急になんだ、と不思議そうに佐田は返した。
「いや、なんでもない」
唯坂は机の引き出しから煙管を取り出して火を付けた。
ブラインドを人差し指で広げる。
いつもの風景。
何も変わらない。変えたくない。
敵は強大だ。しかし負けはしない。
ふぅ、と長く長く、唯坂は煙を吐き出した。
後味の悪い話を目指しました。 そんなの見たくなかった、という人はごめんなさい。